ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

国際聖書フォーラム2007 

国際聖書フォーラム2007のプログラムは、次のサイトもご覧ください。

http://www.bible.or.jp/forum2007/program.html

最後に総評をしてくださった筑波大学名誉教授の池田裕先生が、こうおっしゃっていました。

芭蕉の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」や、70年代に流行したポール・サイモンの‘Sound of Silence’を引用されながら、「いつも自分が主流である、と思うのは、短い人生の中でもったいない、と私は考える」「今回、女性にスポットライトを当てた聖書の読みをご講義いただいたことは、とても重要である。聖書の中で、女性に関する記述の割合は少ない。しかしそれを、考古学や人類学の観点から語ってくださったことは、非常に大切である」と。さらに、発見された古代キリスト教文書には、破損や欠損などで断片しか残っていないものが珍しくないのですが、「文書の中で、穴のあいているところが大切。すべてがわかっている、と思わないこと」と強調されていました。「聖書にもいろんな声、リズムがある。イエスの見方にはいろいろある」とのことです。

まともな大学の教育を受けた人なら、何を今さら、それは当たり前のこと、と言うかもしれません。ユダヤ教から見たナザレのイエスイスラームにおける預言者イーサを持ち出すまでもなく、同一人物がさまざまな称号や見方で語られるのは、当然のことなのです。真の学者は、「わかっていることとわからないことを正直に語る人、しかもそれを絶対視しないこと」が基準です。そんな話が出るようでは、一般向けの教養講座だったのでは、と思われるかもしれません。(実際には、去年ほどではありませんでしたが、神学校の先生や現役牧師や大学の先生や院生も出席されていました。)でも、昨今の成果主義と競争原理の風潮を見ていると、このことは強調してもし過ぎることはない、と思います。

初日のレセプションでは、古屋安雄先生が「今回、このようなテーマでフォーラムを設けたのは、外典から見た正典の位置づけや正典化への過程を知らずしてキリスト教を判断してほしくない、日本のキリスト者にはそういう視野の狭い人になってほしくない、という考えからである」という意味のことをおっしゃっていました。古屋先生は、その昔、プリンストン神学校で教鞭をとられていた頃、仏教などの日本思想の講義にアメリカの神学生がほとんど出席しなかった経験をお持ちだそうです。他宗教を学ぼうとするのは、元海外派遣宣教師だけだったとのことでした。つまり、古屋先生は、「正統キリスト教の絶対性と拝外主義」の危険性を、当時からアメリカで身を持って感じられたのでした。

しかし、20世紀の聖書学研究によって、発見された古代の周辺文書から初代キリスト教や初代教会の多様性が判明されたからといって、現在に伝わる正典が、教会の権威づけのため政治的に「異端」や「非主流派」を排除して成立した、と主張するのもまた一方的な見方かと思います。キリスト教が嫌いな人や批判的にとらえたい人には受ける説かもしれませんし、日本ではその種の書籍が結構、書店で並べられているものです。他方、このことは、教会に連なる人々を孤立させ、キリスト教に関心をもっている教会外の人々を混乱させてしまいかねませんし、安易な相対主義にも陥りかねません。極端なところでは、「その種の本は読むな」と牧師が禁じている教会もあるそうです。

今回の『聖書は語る:正典の成り立ちと外典・偽典』という企画は、その意味で、教会と聖書学の内外に橋をかけるよい機会だったと思います。教会が伝統的に読み継いできた正典を単純に否定したり非難したりするのではなく、かといって、護教的に正統派キリスト教を押し出すのではなく、非常にバランスのとれた人選と講義内容だったと思われます。このブログ日記の6月24日にも書きましたが、どうも私の周辺では、これまで適切な助言をしてくださる専門家に欠けていたようです!!

具体的な講義内容については、また続きを書きます。