ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレー語社会での呼称について

今日の午後は、更新パスポートを取りに大阪へ出向く予定です。どんな風に出来上がっているか、楽しみです?!

スシロ先生から再びメールが届きました。カイロでの会合を無事に終えて、今はブリズベンで、ほっと一息ついていっらしゃるところのようです。お疲れさまでした!こういう話を主人にすると「僕だって、こんな体にならなかったら、同じぐらいバリバリやりたかったのにな」と悔しがるので控えていますけれど、私の想像では、スシロ先生の奥様も、どこかで万一のことを心配しながら、ご主人のお帰りを待っていらっしゃるのではないかとも思います。9.11事件が発生した頃、ちょうど主人の体調が、アメリカ出張に耐えられるような状態ではなくなったので、私としては、矛盾するようですが、内心ホッとしていました。一方で、おとといの晩、アダ先生からのメールに刺激されて「イスラエルにまた行きたいな」と言ったら、主人に「えぇぇぇ!」と露骨に拒絶反応の顔をされてしまいました。まぁ、お互い様ですよね。

ところで、このブログ日記では、ずっと「スシロ先生」と書いていますが、先生を知る日本人の聖書翻訳関係者は、「ダウッド」などと呼んでいらっしゃるため(参考:7月15日の「ユーリの部屋」)、去年から私自身、いささか混乱していました。というのは、マレーシアやシンガポールの関係者は皆、「スシロ博士」か「ダウド・スシロ博士」あるいは単に「スシロ」(最後の呼び捨ては、一部の華人のみ)と呼んでいるので、リサーチャーとして中間地点に位置する私としては、どうお呼びすればいいのか、わからなくなったのです。特に、聖書の翻訳に関わる方達であれば、ことばの使い方には敏感なはずですから。(それでも、去年の国際聖書フォーラムのプログラムでは、「ダウッド・ソシロー」と表記されたままでした。こちらからすぐにメールで問い合わせたところ、「ご指摘の通りではございますが、現段階では印刷などに混乱を招く時期ですので、現表記を印刷していくしかありません。(中略)まことに申し訳ございません」というお詫びをいただきました。ただ、後に出版された『国際聖書フォーラム2006 講義録』でもそのままでしたので…。)

国文学科の学生時代、日本古来の文化では、相手に名前を尋ねるのは求婚を意味することでもあり、特に異性間では気をつけなければならないと習いました。(参考:萬葉集』巻第一雑歌」「泊瀬朝倉宮天皇代 大泊瀬稚武天皇 天皇御製歌」より「籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根……我許背歯 告目 家呼毛名雄母」(鶴久・森山隆(編) 桜風社 1972/84年 p.45))
マレーシアなど東南アジアでも、どこかにそういう考え方が残っているかもしれないと思うのですが、この際、そうとばかりも言っていられません。(英語で話しているなら、外国人同士だし、通じている以上はどれでもいいんじゃない?)というお気楽意見もあるかもしれませんが、私は妙なところで俄然格式張る癖があるためか、やはり気になります。そこで先日、カイロに向かう途上のスシロ先生に、失礼を承知で、思い切ってメールで尋ねてみました。そのお返事が今日届いたのです。

結論から言えば、お尋ねして正解でした。お返事は次の通りです。

「正式な呼称は‘スシロ博士’(Dr. Soesilo)であるけれども、例えばマレーシアのようなアジアの一部では、‘ダウド博士’(Dr. Daud)も全く普通に用いられます。インドネシアの文脈では、‘ダウドおじさん’(Pak Daud)(私注:略体敬称に近く、年長の男性に対して親愛と敬意をこめて使う。‘Pak’は‘Bapak’(父)の省略形)と呼ばれています。アメリカやオーストラリアのような、よりインフォーマルな文脈では、単に‘ダウド’(Daud) だけで呼ばれています。いずれでも私は構いません。」

日本の事例を避けていらっしゃるところが、さすがはジャワ風ですね。では、私はどれを選択すればよいのでしょうか。本当はインドネシア式に倣いたいところですが、あまり土着化し過ぎると、外国人リサーチャーとしての‘客観性’‘中立性’‘建設的批判’がやりにくくなるので、それは「研究が終了してから」ということになるでしょう。アジア人同士なのに英語で話すというのも、やむを得ない措置ではあるのですが、だからといって、アメリカやオーストラリア式に、目上の男性を名前だけで呼ぶのは、どうしても心理的に抵抗があります。結局のところ、慣れ親しんだマレーシア式が、やはりもっとも適合するかと思います。よかった…。日本語で書く以上、このブログ日記では、これからも「スシロ先生」と呼ばせていただきますね。

マレーシアとインドネシアは、戦後、それぞれに独立した別の国であるにもかかわらず、90年代の初頭までは、両国を安易に比較研究したり、インドネシア研究のついでにマレーシアも覗いてみるというような日本の大学の先生や、同じ言葉(マレー語)が使われていると言い切ったりする日本人キリスト教宣教師に、しばしば遭遇したものです。さすがに最近では、そういうことを大まじめに語る人は、もはや本当の専門家とみなされなくなりましたが、大変結構なことだと思います。

90年11月に、初めての休暇で、マレーシアから東部ジャワのスラバヤを訪れた時のことは、今でも鮮やかに覚えています。国費留学生として私の母校で学んでいた二人の友人と再会するのが目的でしたが、一人は華人カトリック女性で、もう一人はジャワ系のムスリム青年でした。現在、二人ともそれぞれに結婚して、二人ずつ子どもがいる家庭を築いていますけれども、当時、二人は互いに、ジャワ語で会話を交わしていました。

二人が私の到着を心待ちにしていたのには、それなりの理由があり、「いかにマレー半島のマレー語が、ジャワ島のインドネシア語より遅れをとっているか」を私にとくと認識させることだったのです。空港で出迎えてくれた二人が、車の中で私に早速、いたずらっぽく尋ねたのは、「こんにちは」をマレー半島では何と言うか、でした。‘Selamat tengah hari’とクアラルンプールの会話教室で習った通りを答えると、二人はお腹を抱えて遠慮なく大笑い。「なんだそれ、変な言い方!」と笑いが止まらないのです。インドネシア語で‘Selamat siang’と言うのは、マレーシア赴任前に入手したインドネシア会話の本で知っていましたし、マレー半島でも使うことがあるようですが、少なくとも私がマレー人の先生から教わったのは、‘Selamat tengah hari’でした。その他にも、いろいろ尋ねられては、真面目に答える度毎に大笑いされて、私のスラバヤ体験は、すっかりインドネシア語ナショナリズムを肌で感じることから始まりました。

いえ、二人とも実は知っているのですよ、それぐらいのことは。単に私をからかっていただけです。名古屋に留学していた時に、特にムスリム青年の方は、毎週金曜日にマレー人学生とも交流していたようですし…。

マレーシアでも、インドネシアとの衛星中継番組で、お国言葉をそれぞれ自慢しあいながらも、同一単語の意味の相違をお互いに紹介したりして、楽しく進行していく歌番組などが時々放映されているのを見たことがあります。

スシロ先生と知り合った当初、自己紹介の傍ら、そのエピソードをお伝えしました。どう思われたかはわかりませんが、少なくとも、マレー語社会における初心者日本人としては「まずまずの経験をしたね」というところだったかもしれません。

インドネシア社会に浸かっている日本人の中には、とかく初対面の私にまで、インドネシア語でコミュニケーションをとりたがったりする方もいます。お気持ちはよくわかりますが、私からすれば、「え!そんな表現、使いませんよ」となるわけです。例えば、私に対して‘Ibu’と呼びかけたメールをいただいたことがありますが、マレー半島では‘Puan’を用いるのではないかと思います。しかし、サバ州サラワク州ではどうなのかは、呼びかけられたことがないのでわかりません。こういう時、マレーシアの言語政策がもっと充実していればなあ、と思うのです。私の不勉強かつ不徳の致すところ、と言ってしまえばそれまでなのですが…。