ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

先月の総括 そして6月の期待

早くも今年も後半期に入りました。ようやく、爽やかな初夏の始まりです。
先月は、筆まめな(?)私にしては珍しくも、12日分しかブログを書きませんでした。病気だったのではなく、単純に原稿書きに熱中していたからです。頑張った割には、でき上がってみると、毎度のことながら、全然たいしたことのない内容で、これだけのために、どうしてこんなにエネルギーを費やさなければならなかったのか、いったい、この作業に何の意味があるのか、などと考えて、ぐったりしました。私よりもかなり若い編集者の方は、分野違いのこともあって、さすがにそこのところを上手に対処してくださいました。もっとも、当初の予定よりも大幅に遅れてしまったので、編集する側にとっては、とにかく何でもいいからページが埋まることが第一、という心境でもいらしたのではないかと思いますが...。
主人いわく、「考え過ぎだよ。とにかく、資料とこれまでの経験を基にした考えをまとめて、何でもいいから書いていけば、そのうち周囲にもおもしろがってくれる人が増えてくるよ。口頭発表だけしているから、変なことを勝手に言ってくる人がいるんだよ。だけど、きっと、みんな不思議に思っているはずだよ。こんなに本も読んで勉強を続けてきて、文章だって書くの好きなのに、なんで研究に関してだけは書かないのかって」「それに、マレーシアって、アジアの中でも裕福な国でしょう?資源も持っているし、政治的にもそこそこ安定しているし...そこまで卑下することないよ。日本から近い国なんだから、何でも研究しておく必要って、絶対あるよ。先進国の研究している人が必ずしも皆優秀とは限らないよ。途上国の方が、苦労も多い分、本当にしっかりしていないとできないんじゃないか?理系はまた別だけどさ」
そうですねぇ。なぜぐずぐずしているかと言うと、理由の一つは、マレーシアおよびマレーシア研究の環境が、必ずしも私の気質に合っていないということが、年を経る毎にだんだんはっきりしてきたので、やめるなら今かなあ、とここ10年ぐらい事あるごとに感じてきたこと、他にも勉強したいものがいろいろあるのに、この労多くして益少なしのリサーチでは、本当に一生が台無しになりそうなこと、その一方で、矛盾するようですが、ここまで集めてきた資料を何とかしてまとめないと、私費でやってきた以上はさすがにもったいないなあと思っていること、そして、マレーシアで出会った、少数派ながらも、深いところで話の通じ合う、とても頑張っている人々を何とかきちんとした形で紹介したいなあ、と願っていたこと、それ以上に、自分のテーマに関しては、それほど頭を使わなくても直感的にわかることが多いので(その代わり、それを客観的に実証するためのデータ探しには、膨大な時間がかかった)、誰かがやらなければいけないんじゃないかと思っていたこと...。逆に言えば、このような葛藤をバネにして、前進せざるを得ないということなのでしょう。葛藤があるから考え続けるわけですし...。人間、居心地よく満足していたら、決して問題意識を抱くチャンスもありません。例えば、マレーシアが好きで研究しているタイプと、私のように、たまたま地域が重なるだけで、問題意識を感じて、結果的にそれを追っかけ続けることになってしまったタイプとがありますが、瞥見の限りでは、善し悪しではなく、明らかに質の上でカラーが違います。
私の場合は、まったく自由に好きなようにやらせていただいているので、こんなにフラフラしているのかもしれません。男の人達は、社会的に何が何でも仕事を続けていかなければならないので、そうも言っていられないでしょう。
とにかく、ずっともやもやしていたものが、小さな一つの形にまとまったという点では、チャンスを与えてくださった若い編集者の方に感謝しています。
それと、実にタイミング良く、上記の最終稿を提出した翌日に、学会の初校ゲラが送られてきたのです。そうこうするうちに、不定期の自宅でのアルバイト仕事も依頼が入りましたが、思いがけずうまい具合に、こちらのスケジュールに合う分量で、助かりました。不思議なことです。昨晩は、「お疲れさま」も兼ねて、義兄がくれた株主招待券の最終日ということで、主人と外食もできたし...。
要は、あまり心配せずに、やることをやっていけば、何とかなるのかもしれないってことですね。ある先生が、数年前「このまま続けていけば、道は開けるんじゃないの?」とおっしゃった時、(そんな簡単におっしゃらないでください)と内心反発していたのですけれども。

一つ、とてもありがたかったことがあります。おとといと昨日は、今年に入って、ある教授から勧められた学会が京都であったのですが、専門分野の違いが歴然とありながらも、私の興味関心にぴったり合うような、集まっている人々の雰囲気も心地よく合うような、楽しい経験をさせていただいたのです。先生、どこかで私をお見通しだったのかなあ、などと...。
前の職場では、新入りの私にとっては戸惑うことばかりで、相談にうかがうと、「自由に思い切ってやりなさい。何も遠慮することはない」「学生達、喜んでいますよ」などと激励されてはいたのですが、ふたを開けてみると、実は政治力やお金で話が動いているようなところがあって、げんなりしていました。政府からお金をもらうと、どうしても成果という外面が重視されてしまいがちですし、大学間競争の激化によって、政治や人脈がモノをいうことは百も承知の上ですが、それにしても、先行研究も現地事情も地道な作業もまるで無視して、一部の先生達だけで勝手に話が進んでいき、結論のみがこちらに伝わってくるような感じで、それが一番嫌でした。でも、そのために学生さん達にも混乱があってはならないだろうし、いずれはバレルのだから事実だけはきちんと伝えなければならないし、と錯綜した思いの数年間...追い出されたのか自分から出てきたのかわからないような...。
ところが、人間社会、捨てたモノじゃありません。主催者の先生いわく、「政治的な話ではなく、学術面を重視した学会にしたい」(←当たり前です!)「理想主義的かもしれないが、個の唯一性から、個性を大切にし、互いに学び合おう」「ここから新しい学者が育ってくることを期待する」とのことで、新しく考案された方式を紹介されていました。一番頼もしかったのが、数年前に私の拙い授業を受講してくれた院生氏が司会を務め、大変な成長ぶりを間近で拝見できたことです。そして「また来てください」と言ってくれました。先生の方も「親睦会にもどうぞ出てください」「こちらは○○さんです」「再来月にも是非来てください」など温かく迎えてくださり、全く違和感のない雰囲気でした。
要領よく政治力でのし上がろうとするタイプの先生には、それを敏感に察して利用してやろうという気質の学生が集まりますし、高い理念を持って熱心に真剣に学問しようとするタイプの先生には、真面目に努力を積み重ねるような質のいい学生が集まります。それに、東京よりも関西の方が自由闊達で新しいものを創り出すのびのびした学問風土があって、その伝統を活かしていこうという意気込みが感じられ、私にとっては大満足でした。
残念ながら、冒頭の原稿書き終了の安心感から、どっと疲れが出て、熱心な討論の間に不覚にもうつらうつらしてしまい、親睦会も失礼させていただきましたが、逆に言えば、それほど居心地がよかったということでもあります!議論を聴いていて、(あ、こういう発言が出てくるなら、次はこの先生が挙手してこう言うんじゃないかな)と思っていると、本当にその先生が発言なさるので、すごくおもしろかったです。ようやく、この歳にして、私にも議論の流れが読めるようになってきたというのか、それぞれの先生方のお仕事の意味がわかりかけてきたというのか...。もっとも、私は国文学科出身で言語問題が原点だったのですから、ここまで関心が広がったのも、不思議といえば不思議なのですけれども。
イスラームの話も、ようやくこの場で納得のいく発言が聞けたことに大満足。「イスラーム法学が中心になっていると、対話が難しく不満がある」という某先生の発言には、上記と一部重なりますが、(やっと本音が聞けました。でも先生、数年前は立場上、虚勢張っていらっしゃったですよね)なんて不遜にも思いましたし、(はいはい、そうです!マレーシアなんて、長年それを地でいってますもん。だから2003年の頃からはっきり申し上げたじゃないですか)と内心ニンマリしたりしていました。やはり学会たるもの、こうでなければ.....儀式の演技じゃなくて、事実に基づいて本当のことを語り合わなければ、なにも生まれないのだ、と。
翌日の研究発表も、とても熱心な姿勢を拝見でき、内容が完全に理解できるわけではなくとも、うれしく励まされました。こういう刺激が重要なんでしょうね。
多分、分野の面から、私がこの学会で発表したり投稿したりすることは、余程のことがない限りあり得ないだろうけれども、つながりを持たせていただくことで、よい影響が及ぶことを期待しています。研究分野の地域が同じだから理解し合えるというものではなく(情報交換の上ではあり得ても)、理念や雰囲気や気質が合うかどうかの方が大事なんじゃないかなと思いました。うちの主人が、「そんな発言をする人がいる閉鎖的なところなんて、やめてしまえ。オーディエンスが間違っているのに、どうして同じ所で続けようとするのか」と笑っていましたが、確かにそうです。今回も、初対面の若い京大の研究者が、私のテーマがおもしろいと研究会に誘ってくださいました。実際には名刺交換も正式な案内もなかったので、単なるお話に過ぎないのでしょうが、そういう柔軟さやオープンな姿勢は、この学会の掲げる理念に共鳴する人達が集まっていたからでもありましょう。
イスラームに関して、日本の大学で、こんなにすっきりとした思いで話が聞けたのも初めてでした。「和解できないという前提で研究しています」とおっしゃった先生とも知り合いになりました。そうですね、リアリズムを徹底させるとそういうことになる。そして、そこを認めるところから話が始まる。それなのに、「強い」側をとりあえず叩くことで、そして「最近のマレー人はイスラームにまじめなんですよ」「キリスト教をマレー人は怖がっているんですよ」と言って済まそうとする安易な態度。これじゃあ、堂々巡りを繰り返すだけです。
私が最も知りたいと願っているのは、イスラーム世界で、ユダヤ人がどのようにして自己の伝統やアイデンティティを守りながら共存できたのか、その秘訣です。そのうち、明らかになることでしょう。ますます楽しみです!