ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

配偶者呼称についての雑感

国文学科出身で、日本語教師としての訓練を受け、かつて社会言語学も学んでいた者としては、この話題、もっと熟考しない限り、書くべきではないのだろうとは思います。ただ、いつもどこか気になっていますし、時々、家でも話題に取り上げているので、手短かに書いてみましょう。あまり時間がないため、今日はこの程度でお許しください。
今日も、神戸バイブルハウスで神田健次先生からエキュメニズムのお話(三回目)をうかがいました。初回のおちゃらけた駄洒落がぐっと少なくなり、熱心にお話しくださってありがたい限りなのですが、前から一箇所だけ気になっているのが、「私のパートナー」という配偶者呼称。
先生の世代(1948年生まれ)は、いわば全共闘時代だからなのか、同世代の方の中にも、時々、違和感を覚える表現を使われることがなきにしもあらず。

一方、私はと言えば、小さな頃から、銀行員だった父が、言葉遣いや電話の受け方などにかなり厳しかったことや、母も祖母も「そんな言葉を使うなんて、うちの子じゃない!」とうるさかったので、びくびくものでした。(例えば、電話ベルが一回以上鳴ってから受話器を取ろうものなら、「はい、お待たせいたしました。××でございますが」というのが、家にいても父の常套句。とはいえ、私自身、セールス勧誘や騙しの電話を怖れるようになってからは、自ら先に名乗ることはやめています。)また、学部生の頃より、上の世代の「おじいさん教授」に指導されることが比較的多かったこともあり、関西に来てから、かなり崩れた言葉遣いになったとはいえ、どうも心理的に抵抗があって、使えない語彙があります。
その一つが「私のパートナー」。実は、某大学で教えていた数年前、一人の女子学生が、当時はボーイフレンドだった人のことを「私のパートナー」と呼んで、留学報告に来たことを思い出します。その時には、(若いから、あまり深く考えもせずに使っているのだろう)とやり過ごしたのですが、やはり、相当のご年齢兼お立場の方が使われると、(私とは語感が違う)と思ってしまいます。(注:その女子学生は、卒業後、その彼と結婚して、かわいい赤ちゃんを抱っこして大学に来ました。母親になった今でも「私のパートナー」と呼んでいるのでしょうか?)
限られた範囲内で一生懸命考えてみたところでは、独断と偏見に過ぎませんが、どうも、プロテスタント教会のあるグループの人々が、「パートナー」「お連れ合い」と言いたがる傾向を有しているのではないか、と勘ぐっています。つまり、その語彙を用いることで、「私は女性(妻)を差別せず、対等に扱って(注:「接して」ではなく)いますよ」と、無理矢理、意思表示しているかのように感じられるのです。かいつまんで言ってしまえば、フェミニスト神学の(悪?)影響ではないか、と思うのです。
言葉は含意を伴うので、当然、使い方によって、その人の人柄のみならず、思想信条、場合によっては、政治的立場まで表すことも多くあります。ここで問題となるのは、その語彙を意図的に使っているのか、それとも、無意識のうちに口にしているのか、という点。(周囲に流されて、いつの間にか意に反して用いている、というケースもあると思いますが、そちらの方が、むしろ事は深刻かもしれません。)
配偶者のことを「私のパートナー」と言うと、あくまで私の語感では、ちょうど英語の「ビジネス・アソシエート」を思い浮かべてしまうのです。恐らくは‘marriage partner’,‘life partner’からの直訳もどきなのでしょうが、それでは、ドイツ語で‘mein Mann’(私の夫)‘meine Frau’(私の妻)はどうなるのでしょうか。スペイン語の‘mi marido’(私の夫)‘mi mujer’(私の妻)も同様のみならず、アジア言語の一つであるマレー語でも、「パートナー」呼ばわりはしていません。
一見、性区別を出さず、中立的でモダンで平等かつ進歩的な印象を与えるように感じる方もいらっしゃるかと思いますが、どうも私には作為的、つまり、生々しい家庭内のニュアンスというのか、生態ないしは情愛のような感情を人為的に押し殺しているか、あるいは反対に、事を即物的に出し過ぎか(例えば「性のパートナー」)、などと感じられます。場合によっては、いわゆる戸籍届けを出さない「事実婚」の人達が、相手を隠しておきたい時に使う用語だったりもします。つまり、いずれにしても、頭で考えた語のように思われるのです。
我が家の場合、外向きには「主人」「家内」で通しています。「だって、丁寧な感じがするでしょう?その方が好きだな」とは主人の言。例えば、よそからかかってきた電話で、「じゃあ、その件については、家内とも相談してからお返事しますので」などと答えているのをそばで聞いた時には、(あぁ、結婚したんだなぁ)と、感慨ひとしおでした。また、家の中では、私が創作したあだ名で呼び合っていますし、別に「男に仕える女」「家におさまっている妻」だとか、封建主義的だとか、差別的だなどと感じたことも一切ありません。その証拠に、自由にのびのび、好きなようにやらせてもらっています。
そして、間違っても「うちの旦那」とか「亭主」とか「私のパートナー」あるいは「連れ合い」などとは呼べないし、呼んでもらいたくもありません。同時に、「うちのワイフ」「カミさん」「女房」などと言っている夫の姿も想像できません。「ワイフ」ならば、気障な印象を与えるのみならず、語感にふさわしい洋風の雰囲気を醸し出した女じゃなければいけないと思いませんか?(以前、「あなたの夫/良人さん」と言われた時には、仰天しました。これは大阪方言なのでしょうか?)
結婚してから気づいたことですが、女性や男性が、それぞれ自分の配偶者に言及するのに、どのような呼称を用いているかで、その関係性の内実が、否が応にも透けて見えてしまうということです。(あ、今、冷たい戦争中だな)とか、(もう、相手に飽きているな)あるいは(本当に尽くすタイプの女性なのねぇ)または(いかにも家族愛だなぁ)などと...。「お父さん」「お母さん」なんて呼び方も、この歳になると、私は悪くないと思いますけどねぇ。イスラエル旅行でご一緒した同志社神学部出身の80代の牧師夫妻の場合(参照:2007年12月13日付「ユーリの部屋」)、奥様の方が「パパ、パパ」と呼んでいらして、いかにも苦楽を共にした仲ならではこそ、とっても微笑ましく、可愛らしい感じがしました。
ちなみに、カトリックのある神父さまから独身時代に聞いた話ですが、「牧師は夫婦間の悩みを抱えることが多い」のだそうです。職場でもある教会では、信徒の手前、常に模範夫婦で模範家庭の長として振る舞っていなければならず、しかも、信仰上のいわば規範に縛られる場合、率直な感情を夫婦の間で出しにくいのだそうです。どちらかに鬱屈した悩みが長年続いていても、相手が何かに夢中になっていると、抑圧の時代が続くのだとか。
だとしたら、いちいち言葉を挙げつらう方が無配慮だと言うことにもなります。はい、気をつけます!上記は、元日本語教師としての癖がつい出てしまったのだと、ご寛大にお受けとめください。

PS:と、ここまで書き上げたところで、ちょうど帰って来た主人と、本件について話し合いました。「やっぱり、『私のパートナー』はおかしいんじゃないか。聞いたこともないな」と主人。ただ関西では、「家内」と言うと文脈によっては気取り屋のように思われるので、自分で「うちのヨメさん」と言うこともある、とのこと。「じゃあ、私も『ヨメ』なわけ?」「でしょう」ということで一件落着。「でも、地域差もあるだろう」と、一言添えてくれました。
「敬語の疎外性」という考え方があります。それに従うならば、我が家の場合、「主人」「家内」を使うことで、結婚という社会的制度によって男女関係を排他的に拘束しているわけです。そして、それによって、私自身はより自由になれます。
それにしても、夕食時にも考えてみましたが、「私のパートナー」って、もしシングルのキャリア・ウーマンならば、年齢と容貌という制限付きで使うと、ちょっとだけ格好いい響きがするかもしれません。しかし、男性側から「私のパートナー」と言われるのは、たとえ何らかの照れ隠しであったとしても、やはり引いてしまいます。