ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

タルムード的発想

昨日の続きです。
くどいようですが、ダニエル・パイプス先生に関して、なぜこの日本でも、一部の中東研究者やブロガーから非難があったのかを考察してみると、いろいろな理由が考えられはしますが、一つには、「平和の架け橋」の内実が、ほとんど正反対であることも大きいだろうということに気づきました。
1980年代を境に、主流のキリスト教神学では、イスラームに関して、植民地時代とその後しばらくのような、我彼の相違に注目するのではなく、共通項に焦点を当てた対話を重視するような潮流ができてきました。また、どんな小さな事例であっても、イスラームにポジティブな面を見出そうというクリスチャン学者の尽力もあります。その場合、「平和の架け橋」とは、相互の違いから距離を置くのではなく、むしろ、「アブラハム一神教」としての同胞関係をリンクとして、架け橋とみなすわけです。それによって、平和共存に至ろうとするのが趣旨でした。
ところが、パイプス先生の考えでは、仲良くするためという名目で違いをあえて覆い隠すのではなく、また、実態はそのままなのに、言葉の上の言い換えでごまかすことを嫌い、あくまで違いは違いとして、そのまま直視し、危険性があるとすれば、真っ直ぐにそれを西洋社会に伝えることで、問題を事前に回避しようとする。この作業を「平和の架け橋」と呼称されているようです。ちょっと苦しい説明かもしれませんが、素直にとるならば、そう理解するしか方法がありません。
ユダヤの考えでは、力が漲っていることを「平和」と呼ぶと、かなり前にどこかで読みました。とするならば、パイプス先生は、まさにそれを実践されているとも言えます。それなのに、「あいつは平和の破壊者だ。架け橋なんかじゃない」などと名指しで誹謗されれば、いくら落ち着いて反論していたとしても、ものすごく傷つかれていたのではないでしょうか。だから、しつこいほどこまごまと、文筆で反論し返しているのではないかと思います。
しかし、以前から繰り返しているように、オリジナルの原文を英語で読むのは数分間で済み、その直後には内容把握ができたように感じていても、翻訳を依頼されて、いざ作業を始めてみると、ダニエル・パイプス先生が、いかに注意深く表現されているかにも気づくようになります。あれほど大量に書き続けていらっしゃるのに、込み入った中東情勢も、実にシンプルにあっさりと書き切ってしまうように見えて、実はギリギリの線で、慎重さも見せている、という...
ただ、イスラーム関連の論文では、同時代の他の研究者による類似テーマの論文を読んでいて経験するような、だらけた感覚は全くありません。むしろ、あまりに正直過ぎて、つい笑わされてしまうというのが実感。
ここが、あの先生の不思議な魅力というのか、力量というのか才能というのか、計算し尽くしているというよりも、恐らくは自然にそうなっている面も大きいのではないかという気がしてきました。
今日も、二通のメールが届きましたが、私宛には、相変わらず優しくて友好的なのに、もう一通は日本国内の某所に当てたものの転送で、いくら事務的なものとはいえ、プロトコールは守っているものの、あまりにもぶっきらぼうな調子なのには笑ってしまいました。(先生、いくらメールでも、それはないでしょう?お返事がないと言ったって、受け取った側にとっては、その調子じゃぁ、どう返答したらよいか迷いますよ。少なくとも、日本社会では...)と思いました。が、そこは「エチケット」として黙っておき、「じゃ、明日、私が電話で聞いてみますね」と。
今日読み直していたインタビュー記事に、「物腰やわらかで、祈るような気持ちで録音機を見つめざるを得ないほど穏やかな声で話すのに、その内容の激しさが、何とも奇妙な組み合わせだ」と書いてあったのにも、何だか情景が目に浮かぶようで、笑わされてしまいました。
もう一つの過去のインタビュー記事では、ずっと同じ場所に住んでいても、自宅の住所も電話番号も公表していないし、地元のレストランなどをブラブラすることもなく、タクシーを呼ぶにもホテルに宿泊するにも、別名を使っているとか。二人目の奥様や三人のお嬢さんのお名前なども、「警備上の理由から」決して明かさないのだそうです。あれほどメディア露出が頻繁な割には、警戒心が抜群な点は、どこかハリネズミみたい...。(とはいえ、初婚の頃は、みずから本にも書かれていましたし、映像に残っているインタビューでは、ご家族の話になると、途端にうれしそうな表情で喋っていらっしゃいました。その頃は特に、ご長女がご自慢の愛娘さんだったようです。当時は、インターネットも出回っていなかった上、9.11前だったので、あまり後先を考えなかったのかもしれません。)
そして、お父様の研究の関係で、ダニエル先生は、8歳の時にはフランスの学校に、13歳の時にはスイスの学校に通っていた上、夏期休暇になると、欧州はもとより、イスラエルにもよく旅行されていたとか。現在のお仕事は、その延長線上にあると言えば、その通りなのかもしれません。(ご自身では、ユダヤ系であることと、これまでのキャリアとの関係をインタビューで問われ、「悪いけど、それはわかりません」みたいな曖昧な回避をされていました。)もし、そうだとすれば、道理で、我々のように日本生まれで日本だけで教育を受けた者が、いくら大学に入ってから奮闘してみたところで、中東および一神教の理解に関しては、我彼の差違が大き過ぎるわけです。その代わり、歴史的なしがらみや感情的なものがないため、すっと入り込める領域もあるとも言えましょう。
今日読んでいた1993年の10数ページに及ぶ論文では、(もっと早くから知っていれば、私の原稿にも引用できたし、少なくともこれが前面に出ていれば、彼が全く反イスラームではないことが証明できるのに)と残念に思いました。キリスト教会のムスリムとの対話の試みについても、正当な評価をしているのみならず、その欠陥や問題点を指摘した上で、提言までされていますが、私自身の限られた経験と照らし合わせても、その洞察の優れている点には、本当に驚かされました。だから、誤解された知識人でもいらっしゃるわけです。
今朝、ふと思いついたのが、ダニエル・パイプス先生の公式ウェブサイトは、何だかタルムードみたいだなって。幾つかの基本テーマがあって(そこには、予備的に「日本項目」もあり)、それを基軸に、資料を集めて論文を書きため、次々に書評も書き、新聞投稿を続けて、活字にする。(ボツ原稿はブログに掲載。それでも、まだ未発表原稿が相当あるのだそうです。一日に何本ずつ書いているのでしょう?)それに付随して、新たな項目をツリーのようにつなげて展開させ、ある時期になると、それを項目ごとに整理して、サイト内でリンクをつなげていく。時間の経過につれて、新たな状況が発生するのに応じて、次々と追加記事ができてくるので、結局は、タルムードのように解釈を書き加えて膨らんでいくというわけです。