ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

優秀な共同体を迫害すると...

ダニエル・パイプス先生の著述(新聞雑誌向けの定期コラム、論考文、ブログ、書評など)を訳させていただくようになって、もうそろそろ一年になります(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120322)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120330)。
このブログでも、毎日のように、パイプス先生について率直なところを綴ってきました。最初から一貫して私の基本姿勢は同じつもりですが、パイプス先生とお仕事に対する感じ方や理解の仕方において、少しずつ私なりの前進や深化があると実感しています。
この日本には、邦訳よりも英語(およびフランス語)の原文で直接読んでいる方も、ある程度はいらっしゃることと思いますが、もし訳業の意義を問われるとするならば、何よりも私自身が、この仕事を与えられて最も恵まれているのではないかと、最近ますます強く感じるようになっていることです。いわば、パイプス学院なるものにパイプス先生のご推薦によって入学して、奨学金(報酬としての謝礼)をいただきながら勉強させていただいているような感覚です。
中東という抜き差しならぬ混沌とした地域を研究調査対象にするという困難もさることながら、言論活動で身を立てることの厳しさを充分に承知の上で、相当の決心と準備の延長として現在のパイプス先生があるわけですが、ちょっと私のこれまで知る日本人には見当たらないほど、すごい才能と意志の強さと胆力の持ち主だと感じます(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120819)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120922)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120924)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121031)。
同時に、日本の一般向けメディア(特に左派と左派中道系)が、読者を低く見て、いかにいい加減で甘っちょろい報道をして済ませているか、とみに腹立たしくなってきました。
主人が繰り返し言うには、「パイプス氏とユーリは気質が合っているんだろう」とのことで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120608)、それは私も同感するところです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120127)。幅広く背景を調べながら訳文をつくるのは確かに時間がかかり、いくら見直しを繰り返したところで大抵はミス発見の連発。これこそが完璧だというものはあり得ませんが、しかし、通常の人の三倍四倍以上も勤勉に、日々の細かな情報収集と鋭く厳しい分析を怠らず、内面の恐れを克服して速やかかつ個性的な文筆に訴えるパイプス先生の信念と姿勢は、感動的でさえあります。
世界情勢の読み方も、訳業を通して間接的に教えていただいているように思います。一見、何でもないようにさり気なく書かれているようでも、しばらく数をこなすと、日本国内の報道だけでは、ちょっと分からないレベルと幅だということに気づきます。例えば、イスラエルが独立直後に脆弱だった頃には、国外の左翼陣営から同情と支援を受けていたのに、イスラエルが強く発展し繁栄するようになると、途端に左翼側が手の平を返したように非難囂々浴びせる傾向にあるという陰険さも知りました。

このところ『変化する反セム主義:古代から現在まで』(拙訳)と題する本を読み(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130319)、西洋(西欧と東欧)および第二次世界大戦後以来のムスリム世界で、いかに繰り返し具体的にひどい反ユダヤ主義に基づく迫害や虐殺が発生していたかを知り、改めて衝撃を受けました。カトリック教会もルターもひどいもの。そういう背景があってこそ、パイプス先生の些かも気を緩めることなき厳しくも懸命な言論活動があるのだと認識を新たにした次第です。
そして、何よりも重要な教訓は、ユダヤ人を迫害し虐殺するような国や社会や時代は、ほぼ間違いなく文化程度が下がっているということです。これは、故中谷宇吉郎博士の随筆集にも書いてあったかと記憶していますが(後注:樋口敬二(編)『中谷宇吉郎随筆集岩波文庫1988年)pp.184-185)、ドイツでナチ政権が権力を握って以来、物理学論文集のレベルが下がったそうです。つまり、優秀なドイツ系ユダヤ人学者が迫害されて国外に出てしまったので、必然的に優秀でない人々が論文集を華々しく飾ることになり、その結果、遙か極東の日本人学者にさえ、劣化の甚だしさが目についたという有様だったようです。
ちょっと考えてみればわかる単純なことで、例えば小学校の学級でも、勉強も運動もよくできて、性格も朗らかで人気のある子の周りには、そこからよい感化を受けたいと願って仲良くしたい子ども達が自然と集まり、なんとなくクラスが明るく上向きに健全になっていくのに、逆に、妬みか僻みかでその子の悪口を言って回り、意地悪を繰り返していると、クラス全体が陰険になるばかりか、雰囲気が悪化して澱んでしまうという...。集中力も削がれるために、学力も平均して下がるのです。会社でも同じことで、最初の出発点は小さな零細から始めても、社員一人一人を大切にし、世の中のニッチを埋めるよい仕事を見つけてせっせと励んでいるうちに、会社が上向いてきて利潤が生まれると、ますます有能な人を採用するようになって、業績が上がり、気がついたら規模が大きくなって福利施設も充実していくという...。その反面、意地悪な社長が従業員を牛耳って正当な報酬を与えなかったり、悪条件でこき使ったりすると、ますます質の悪い人しか集まらなくなり、評判が下がるために、挙げ句の果ては倒産という...。
個人レベルで見ても、大概、本当に優秀な人ほど他者から常に学ぼうとしているので、威張り散らす暇がなく、従って腰が低く謙虚で落ち着いていると思います。しかし、(あいつは憎たらしい)と歪んだ眼で見て意地悪をしていると、その人自身の次元がそもそも見事に下がっていくのです。つまり、欧州でもムスリム世界でも、イスラエルを迫害し、イスラエルの破壊を願って虎視眈々と励んでいる集団は、どう見ても尊敬に値するとは思えないのは、一目瞭然。
もちろん、ユダヤ人といっても、皆が皆100パーセント裕福で卓越した才能を発揮している独創的な成功人ばかりではなく、我々(と言って悪ければ私)レベルの並の人も存在していますし、皆が同じような宗教実践をしているわけでもないこと、中にはキリスト教に改宗して教会ヒエラルキーの上位を占めた人々も皆無ではなかったことは、よく知られている事実です。しかし、そうは言っても、いつまでも常に学び続けること、一つの事柄を多角的に柔軟に独創的に考える教育と習慣、国境を超えたユダヤ共同体の人的ネットワークと相互扶助と情報網は見事なもので、そこが何より強み中の強み。我々(と言って悪ければ私)が学ぶべきは、まさにそこだと思うのです。
他民族の土地で始終、迫害と追放と虐殺の憂き目に遭い、ゲットーに閉じ込められていても、その中でトーラーと聖書を学びながら解釈を加え、民族史を記録し、同化せずとも欧州文化からさまざまなことを吸収していった自治精神は、大変に素晴らしいと思います。