ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

世論の是正が始まった(1)

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崩壊 朝日新聞』長谷川熙(http://www.amazon.co.jp/dp/4898314430/ref=cm_sw_r_tw_dp_gFT5wb0BQBK1Z …)がきれいな中古品で届いた。元朝日人の内部暴露話。特にマレー半島に関する松井やより氏に関するエピソードが興味深い。1990年4月のマレーシア赴任前、文献を集めていて知ったが、重苦しい内容だった。今知る事実。

(転載終)
(後注:「に関する」が二度重なってしまったが、正しくは、「マレー半島に関する松井やより氏のエピソード」とすべきでした。お詫びして訂正いたします。)
昨日は、日文研学術講演会。第61回とのことで、新たな出発として、光田和伸准教授退任記念講演会(「神々は出雲に帰る−「邪馬台国」と『水底の歌』に及ぶ」)と若手新人の女性研究者のお話(「吉田・鳩山・岸の時代−1950年代の日本外交」)を同時に。
どちらも興味深かったが、国文学科卒業生としては、詳しい系図付きの出雲のお話により引き込まれたし、聴衆もほぼ満席で、笑いも度々起こり、いい時間だった。
日本外交については、確かに私より数歳もお若いから、「1950年代はおもしろい」と人前で言い切れるのだろうが、私などは、戦時中をやっとの思いで生き延びた祖父母の世代がまだ矍鑠としていた頃に学生時代を送ったので、畏れ多くてそんなことは言えなかった。こうしてみると、得をしたのか損をしたのか、よくわからなくなってくる。
1956年に日ソ国交回復をした鳩山一郎氏については、社会党が応援していて、米国での評価は低いとの由。孫の由起夫氏の迷走した政治舵取りから、今や鳩山批判は当然のことであるが、しかし、一郎氏の妻の薫子さんが、主人の母方のルーツに関係のある家系だったことから(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091210)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100108)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B7%B0%BB%D2%A4%B5%A4%F3)、知る立場にある私としては、黙ってはいない。後世が批判することは簡単だが、当時の事情を鑑みるにやむを得ず、熟慮の末に勇断し、生きて戻って来られないという覚悟で夫妻でソ連に赴いたのだった。
アンケート用紙には、以下の質問を書いて提出した。

鳩山一郎氏が『ソ連中共との交通往来、貿易によって世界平和へ』という、米国にとっては対立すべき世界観を持っていたこと、米国での評価は最も低いリーダーだったとのお話だが、『鳩山一郎日記』を読んだ時、公職追放の間、非常に共産主義を恐れていた記述が散見された。国交を開くためフルシチョフに会いに行ったのは、シベリア拘留者の家族の懇願によるものだったと理解している。その点、先生のご見解はいかがでしょうか。」

(筆写転記終)
(後注:「シベリア拘留者」とは「シベリア抑留者」の意味で用いた。上記の質問は、会場で走り書きで写した筆者メモによる。)
鳩山一郎日記』とは、正確には『鳩山一郎・薫日記』(上)(下)を指し、ファイルやノートを作成してある。過去ブログをどうぞ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100201)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100205)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100213)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100324)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100326)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100329)。
こうしてみると、自分の小さな研究テーマについて一次資料を探し回っている間、時間稼ぎないしは視野を広げる意味で、興味ある卑近な分野を勉強しておいたことが、数年後に役立つことがわかる。
恐らく、学生時代から長らく違和感を持っていた社会風潮について、今後は少しずつ世論の是正が行われていくのであろう。