語られていた特攻 〜 沖縄戦


 大東亜戦争で海軍は沖縄を決戦場と考えていたため多数の特攻機を投入しています。昭和20年4月6日より菊水作戦が開始され、海軍は約1000機、陸軍も900機投入しています。その前にも第一神雷桜花隊(桜花15、一式陸攻(母機)18)が出撃しており(戦果なし)、3月27日には台湾へ向かうはずだった武剋隊が特攻攻撃をしています。
 
 特攻隊のことが当時沖縄でどう捉えられていたか知りませんでしたが、ひめゆり隊の学校長、野田貞雄がこの特攻の様子を目撃していたことが仲宗根政善著「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」に少し書かれていました。野田校長は軍より参謀部勤務を命じられていましたが、断って生徒と壕で寝食をともにしておられました。(6月21日戦死)校長は首里の崩れ落ちた城壁より海を見ていました。

「ここは観戦場なんだ。今朝未明に慶良間沖に特攻隊が出た。壮絶そのものだ。実にみごとなもんだよ。轟沈あっけない。煙がぽっと上がったかと思うとそのまま艦船は沈み、ただ煙だけが宙に浮いている」

 野田校長は丹念に日記を記しておられ、撃沈艦船の数を示しながら、今朝の特攻隊の壮絶さを繰り返して語られたといいます。必死の特攻を伝えて生徒を勇気付けようとした心が伝わってきます。
 このほか同著には一緒だった新婚の軍医が「この戦いは負ける」と口癖のようにいっているのに毎日艦船撃沈の数を数えていたことが書かれており、特攻隊に一縷の望みを持っていたことが伺えます。
 また、ひめゆり隊が喜屋武(きゃん)まで追い詰められたとき、もう最期だ、どうしようか、兵隊と行動をともにして死ねれば本望だと思ったところ、兵隊が「いま盛んに特攻機を送るように通信しているのだ。きっと来るよ。もうしばらくの辛抱だ。勝つぞ」と励まされ、心強く思い、その日までどうしても生き延びよう、と思った手記が掲載されています。
 
 仲宗根政善氏の著書は戦艦大和の特攻のことが書かれていないので、おそらく情報が入ってこなかったのでしょう。戦艦大和には歯磨、歯ブラシを各50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド(生理用品)15万人分を積んでいたといわれています。
 
 沖縄特攻の戦果は沈没15隻、損傷174隻ありましたが、沈没艦船は駆逐艦以下の小型船で米の作戦を阻止するほどには至りませんでした。しかし沖縄県民の精神的な支えになり、それによって生き延びた人がいたということであれば、特攻で命を捧げた英霊もよろこばれることでしょう。



参考文献
 「沖縄戦渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦
    『沖縄戦における軍官民関係』原剛
 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善
 「歴史通」 WiLL2009.7月号『歴史教科書に大和が載った』藤岡信勝
参考サイト
 沖縄戦史 武剋隊隊長 中尉 広森達郎 http://www.okinawa-senshi.com/hiromori.htm
 WikiPedia特別攻撃隊」「菊水作戦」
添付画像
 神風攻撃機の攻撃を受け炎上する5月9日英航空母艦ビクトリアス(PD)

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【英霊に】 神風特別攻撃隊 魂のルフラン 【捧ぐ】
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