Hatena::ブログ(Diary)

こころはどこにゆくのか? このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-09-16 もう増田ってレベルじゃねーぞ!

[][]増田に書いた教育系ネタが広がりすぎて困惑している件

増田に書いた教育ネタについて、真面目に書こうとすると話が広がりすぎて増田で書けば迷惑になるレベルに達してきたので、こちらに場所を移すことに。


とりあえず以下返答。

(1)「教育って福祉?サービス業?」

について。*1

「教育には金をかけすぎている」→事実誤認。根拠は既述。

「45人学級の頃は日本の学力水準が世界でも上位水準」→そんな調査も結果も無い。

「他の地域が35人学級で、他の地域と同程度の学力を達成するために大阪は25人学級にしなければならないってのは、それは解決方法としてナンセンスでしょ。」→他の地域は40人で大阪は35人。「クラス定数」と「クラス平均人数」を、橋下と同じく混同してる。/大阪が教師の数を増やしていたのは「増やす理由/必要があったから」であって、その理由が解決されていないのに「試験の点数」という結果だけを問題にして35人学級を批判してどうするの?

「45人学級が35人学級より劣悪だとすれば、その劣悪な環境の方が国際的な教育水準ではより成果を残してきた厳とした事実がある。」→そんな事実は無い。

最後の奴なんかは多分2chの受け売りか何かだと思うが、TIMMSの調査結果なんかを見て言ってるんだと思うけど、じゃあ実際にいつどれくらいだったのと聞いても多分出てこないだろうから、こちらからあげておく。

基調報告:国立教育政策研究所

の6ページ(資料では23ページ)に分かりやすく表になってる。とりあえず「低下した」という傾向は見えないこと(調査対象国が増えている)、そして、何より重要なのは、過去と現在で『学力』が変わっていること(後述)。その意味で単純比較などできないことは知っておくべき。


さらに。

*2

(2)あれ?なんでけんかごしなの?

「こういう手段がありますよって話ならともかく、こういう手段しかないってのは、どうなのよ。」→「かけられる金は減らしたい」のは世界共通で、世界共通に金をかけて解決しようとしてることに金かけようとせずにまず『他の手段』、というのはおかしい。

「要求水準が変わってるってどういうこと?学力の要求水準がむかしの方が低かった、けれども今、高い、なので以前と同じ方法論ではやってられないというならわかるけどね。」→一家族あたりの子どもの数が減った。家庭が多様化した。これは先進国共通の課題。で、保護者は以前よりも子どもに手をかけて多様な育て方をするようになり簡単に言えば『学校にも同じく手厚く多様な手のかけ方を求めるようになった』ということ。だから諸外国は教育にかける予算を増やさなきゃいけないと考え実行している。この間の事情は下の中教審答申でも述べられている。

「今の学生の方が学力は低いから。」→事実誤認。下のデータ参照。

「45人学級の時代のベテランたちでも35人学級で学級崩壊が起きているなら、問題は人数じゃないってことでしょ?ここ、理解がおかしい?」→45人学級時代の「人」が現在の状況に対応出来てないということは教師の「質」は関係なくて現代の要求水準が上がってるということを表わしてる、という話。

「誰も少人数学級が学力向上にプラスになることは否定してないんだから。否定してる?どこに書いている?」→その件について「あなたは否定してる」などと私は主張していない。私は『グダグダ言い訳して教育に予算出さないのはシミッタレだ』と言ってるだけ。その言い訳も、事実誤認やデータに基づかない印象論の上に成り立つはなはだ不安な代物。

いくつか誤認はあるにせよ、少人数教育の意義を理解し賛成していただけるのはもちろん結構。できれば更に、自分が色々全く事実でないことに基づいて「他の案」なるものを示唆しようとしているけれどそれが全く無意味だということにいい加減気づいて欲しい。というか、そもそも私は「『学力』が低下しており向上が必要だ」なんて一言も言ってないはず。それこそ読み返して頂くとありがたいし、あなたが根本的に勘違いしてるのもそこ。私は、先進諸国と同じ問題を抱える日本は一刻も早く教育に適正な予算配分をするべきだ、と言っているだけ。学級崩壊、いじめ自殺、多様性の確保、現場の高齢化と技術の不継承、モンスターペアレンツ現象(親だけの問題ではなく教師側含めた構造的な問題として)、保護者負担教育費の高騰、新しい『学力』観の定着……等、これらの教育問題への対応は遅れれば遅れるほどクリティカルなものになり得ます。それらに対する最も本質的で重要な手だてが、何を置いてもまず「教育への適正な予算配分の実施」であり少人数教育であるという話。

大体「学力」なんて未定義で曖昧な概念、私は相当否定的な文脈でしか、またカッコ付きでしか怖くて使用できません。それを、あたかも「学力」なるものに実態があるかのように考え、しかもペーパーで調査できる「点数」すら上がっているというデータも前にしながら、なお「学力低下」を唱え続け、しかも出すべき金だけ惜しむ、というのはどういう心性なのか?というのが、昨今の議論の本当にうんざりする点なんですよ。

とにかく視野を広く、そして事実をもとに議論しましょうよ、と。


◎(参考)「学力」の推移に関する文科省の調査結果について

過去の調査と同一問題の正答率を見ると、多くの問題で大きな変化が見られないか、高くなっている。(過去とは昭和37,39年度に行われた全国学力テスト含む)

過去同一問題に比べて有意に低下したと言えるもの :

小学校0問、中学校1問

過去同一問題に比べて有意に高くなったと言えるもの:

小学校9問、中学校8問

「平成20年度全国学力・学習状況調査調査結果のポイント」

http://www.nier.go.jp/08chousakekka/01chousakekka_point.pdf

こういうテストで計れるものを『学力』と呼ぶとすると、少なくとも『学力』は向上していることになる。ちなみに調査の結果は19年度20年度でそれほど変わらなかった。結果、全国学力テストとかはもういらないんじゃ?というのが現在出始めている声。


あと、以下はサービスなのでまずは落ち着いて読んで欲しい。「ガクリョク!ガクリョク!」叫ぶ前に必ず知っておきたいこと。

◎(参考2)「新しい『学力』観」について

新しい『学力』観とは、日本では1991年に(旧)中央教育審議会第29回答申(下にリンク)で提起され、現在に至るまでの『学力』観や文科省方針の基礎となっているもの。背景をたどれば、世界的に産業界からの要請が変化しつつあり、従来のような「組織内で機能するメンバー」でなく「流動するシステム内で自立できるメンバー」を育てる教育が求められはじめたことに由来する。ここから、従来のような知識の量だけでなく、自ら考え・学ぶことのできる能力を新たに『学力』と考えることになった。すなわち、言葉の正しい意味での「ゆとり教育」が目指した物。現在OECDの行っている国際学力調査が言う『学力』もこの後者の定義に基づくもので、昨年来日したOECD事務総長アンヘル・グリアは講演の中で日本の「古い学力観」に言及し

生徒がたんに科学的知識を記憶し、その知識とスキルを再現することを学習しているのだとすれば、多くの国の労働力市場からすでに消えつつある種類の仕事に適した人材の育成を主に行っているというリスクを冒していることになる。

と問題点を指摘している。すでに17年前に「新しい学力観」を打ち出した日本が、今さらそんなことを指摘されなくてはならないのはなぜなのか。一体何が教育界の改革を阻んでいるのか。

たとえばhttp://slashdot.jp/comments.pl?sid=382275の1258968さんなんかはその間の事情を非常によく理解していると思う。


参考:中教審第29回答申(’91)「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」

今後は,社会そのものが欧米の近代社会へ「追い付け追い越せ」の近代化とは異なる目標へ向かって質的転換を遂げつつあるのに合わせ,学校教育もまた,今までより以上にきめの細かな,コストも時間もかけた,丁寧な対応を求められてきている。それは教育を受ける側の選択の自由への期待が広がっていることにも関係している。子どもたちは画一性を嫌い,多元的な価値を求め始め,個性的な学校に憧(あこが)れるようにもなりつつある。それが時代のいわば趨(すう)勢である。

今後の高等学校の在り方を考えるに当たっては,次の視点を重視していくことが必要であろう。

ア 量的拡大から質的充実へ

イ 形式的平等から実質的平等へ

偏差値偏重から個性尊重・人間性重視へ

*1:とりあえず『塾はサービス業で教育は福祉』でしょう。

*2:なんで喧嘩腰、というか、同じような話がたくさんあって、しかもそのほとんどが少し調べれば分かる誤解を放置してるものだから、いちいち説明することにウンザリしているだけで別に怒っては無いですよ。

2007-10-04 今日までそして明日から

[]コミュケーション<データベース

コミュニケーションとデータベース(はてな匿名ダイアリー)

ネットをめぐる重要な見解の一つと感じたので記録。

http://anond.hatelabo.jp/20071004170446

持ってる情報を「可能な限り」そこに流すべき、ね。

可能か不可能かの判断は、もちろん発信者の自由だよ。

というか、そこは重要じゃない。

罵倒だって記録されるべき情報だ、ってことを言いたいわけだ。

http://anond.hatelabo.jp/20071004170850

確かにその通りです。例えば、罵倒表現も当時の文化を研究するための歴史的資料としては価値がありますし、温泉旅館の批評コメントなども旅行者にとっては大変重要なものです。

この世の何処かにはその罵倒コメントで価値を得る人がいるかもしれませんが、いるかもしれない人のためにわざわざ対象ブログのコメント欄やSBMのコメントを罵倒や誹謗中傷で埋めつくしておく必要はありません。むしろそういうのは2chなどのアンダーグラウンド色が強く、対象ブログ作者の目の届かないところでやるべきだと思うのです。コミュニケーションツールとしてのネットに罵倒表現を溢れさせるのはコミュニケーション(情報伝達)の阻害要因でしかないと思います。

http://anond.hatelabo.jp/20071004173243

ぶっちゃけ、コミュニケーションとデータベースのどっちが大事かと言ったら、データベースのほうが大事なんですよね、個人的には。

コミュニケーションのためにデータベースが破壊されるのは我慢ならない。

罵倒なんてブロガーが気にしなけりゃ解決する話ですよ。

しかし、この考えが支持されないこともわかっています。

いまならほとんどの人がコミュニケーションの方を取るでしょうし。

太字強調した部分の気持ちは凄くよく分かる。ネットにコミュニケーション求めて絶対にいけないかというとそうでもないんだけど、少なくともデータの蓄積や議論、応答をしているときにコミュニケーションのためにデータベースのレスポンスが低下するというのは犯罪的だと思う。


なんでこれが重要かというと、つまりこれが「無断リンク」問題に対する分析の視点として非常に分かりやすいから。元記事はあくまで「批判ブクマ」問題についてのエントリなんだけど、「ネットも現実社会と同じく人と人とのコミュニケーションの場なんだからお互い気を遣おうよ」という意見は当然「だから嫌がる人に無断リンクするのはやめようよ」という意見につながるし、一方「ネットは情報の集積場なのだから、データベースを充実させることが全体の総和としての善なのだよ」という意見は「無断リンク禁止の風潮を広めるなどもっての外」ということになるよね。前者と後者の利益対立が、無断リンク禁止論争(論争というべきかどうかは疑問だけど)の根幹なのだと分析する視点として有効じゃないかと思ったので。


何より、自分の言いたいことが非常にスッキリと表現されていて爽快だった。これがいわゆる「モヒカン族」的な思考?多分そうなんでしょう。でも実社会でも、たとえば会議や無駄な打ち合わせの時間を縮小する最大のポイントの一つは「口語で会議をする」ということだったりするというのは、以前の職場(のあるチーム)で実感したことがある。ちなみに「書き言葉」で話すのがデフォルトになってる現在の職場の会議は非常に非効率的。このあたりは要改善ポイントだと思ってます。だから「コミュニケーション<データベース」という意見は決してマイナーとか趣味とかいう問題でなく、普通に有りな意見だと思います。



[]増田と人力で「関西弁vs標準語」論争が勃発中

はてな匿名ダイアリー

関西人は…

はてな人力検索

関西人は、なぜ東京へ来ても堂々と関西弁で話すのでしょうか? 他の地方出身の人は、大抵標準語で話すのに。。                                                                               


「言葉とは何か」とか「標準語の成り立ち」とか、みんなもう少し勉強した方がいいんじゃないか。

「標準語にまつろわぬ人々」である関西人を、自らを「標準語の人間」だと信じている東京人が叩くその心性は分からなくもないが、しかしそれは随分奇妙な構図なのだ。なぜなら、本当は前者こそ「テレビや何かで標準化された標準関西弁」をしゃべっていたり、後者が「〜しちゃった」とか「しょうがない」などの単なる東京方言*1を使用していたりするからだ。前者は「関西弁」と信じてむしろ方言を圧殺していることに無頓着であり、後者は「標準語」と信じて方言を喋っている。そして後者が前者に「方言の無意味さを語る」という構図は、なかなかシュールだ。


ここには同時並行で二つの問題が露呈している。

A「メディアが形成する国民国家 vs 人と人のつながりが作る市民社会」問題

B「大阪 vs 東京」問題

である。先にハッキリ言っておくが、こうやって比較してみれば分かるとおりこれは、優劣や便利不便で方付けたり、まして解決したりということが一切期待できない問題なので、論じるだけ無駄だ。国民国家と市民社会のどちら「が」優先されるか、ではなく、どちら「も」大切にしていくしかないことは明白だし、異なる二つの地方に論理的な正解不正解や優劣をつけようという試みなど、単なる己の趣味の投射か卑賤な差別意識を照らす鏡になる以外のどのような意味もあり得ない


とりあえず、単純な方言否定論者に言っておくが、自分が方言を使っていないなどというのは思いこみに過ぎない。方言を否定するのは自分を否定するのと同じである。言葉と言葉の「通じ具合」について標準語の方がいくらか適しているとかそういう一見もっともらしい主張は、それが単に「国民国家的に便利だ」という主張にしかならず「個人と個人が暖かみを伝え合う市民社会的には不便だ」という主張であっという間に論破されることになる(つまりAの問題)。それ以外にどういう「標準語優先論」があり得よう?*2とりあえずまず「標準語≠東京弁」だということを自覚した上で発言すべきだ。


ならば要するにいわゆる「方言否定論者」は、自分が単なる「東京弁至上主義者」であり他の方言を美醜で判断するエキセントリックな趣味を周囲にまき散らしているに過ぎない*3ということを気づかなくてはいけない。それはたとえて言えば、大声で誰かに向かって「お前の顔キモいよ!キモい!」と叫ぶような、身の程知らないか、いずれ自分に返ってくるみっともないだけの行為だからよしなさいと忠告しておく。


(追記)

下に色々コメントがついていますが、正直最後まで読むと脱力されると(私は脱力しました)思いますので余りおすすめできません。一応。


(追記2)

定期的に湧くネタですね、この話。ちなみに今回のトピ主さんはなかなか冷静かつ論理的に頑張っておられるようで好感が持てますね。

■「関西弁は柄が悪い、下品だ」「大阪は民度が低い」

*1:言うまでもないが、「標準語」ならば「〜してしまった」とか「仕方ない」というのが正しい。これは口語か文語かという問題ではない。それを言うなら、そもそも「口語の標準語」など未だかつて制定されたことすらないのだから、口語で語るあらゆる方言を標準語と比較すること自体がおかしい。

*2:たとえば増田にあった意見だが『異郷の人とのコミュニケーションではスタンダードとされている言葉を使うべきだ』という意見は、それを『標準関西弁』を使う人に対して述べているなら滑稽な意見に過ぎない。もちろん多くの「ふつうの関西人」は、関東に行って関東弁しかしゃべれない人に対して「関西弁まるだし」で話をしたりはしない。それに、ある言葉にはその言葉にしか存在しない言い回し、ニュアンスを含む場合があり、翻訳が常に可能であるとは限らないが、標準語の強制が方言の中にあるそういった『内容』に対する抑圧になりうるという視点を、そういう人は持つべきだ。「同じ言葉を喋れ」というのは「同じように考えよ」ということなのである。これは本エントリとはまた別の問題だが、普通に言うまでもない話だと思うので省略する。

*3:ちなみに、関西人の中にもまた似たような『標準関西語至上主義者』がいて、東京で大声で奇妙な「自称関西弁」をまき散らしたりしており、彼らもまた同じ理由で間違っていることは言っておく。