徳について−アリストテレスと孟子−

アリストテレスは徳を、理論的な徳としての「知性的徳」と実践的な徳としての「習性的徳」とに二分した。知性的徳は理性を働かせる徳で、知識(エピステーメ)・思慮(フロネーシス)・技術(テクネー)に分類し(第6巻)、教育や学習によって発達するもので、真理を直観する観想的生活や、何が中庸の状態かを決定する思慮がこれにあたる。習慣的徳(倫理的徳・性格的徳・本性的徳)とは、さまざまな感情や行動において過度や不足の両極端を避けて中庸を選ぶような意志の習慣が身についた状態である。松本正夫(1988)は、「アリストテレスは徳の自由意志と行為の責任能力とを強調し、行為の正しい目的は徳によって定まり、また正しい目的に対する手段は行為に伴う思慮によって定まるとしている」(p.149)と述べ、習慣的徳の重要性を指摘している。これは、具体的には、勇気、節制、寛大、豪快、矜持、温和、友愛、真実、機知、正義・自尊などがあげられる。いわば、ある行動を繰り返すことによって、それがエートス(習慣、性格)として身につくようになる徳である。川田熊太郎・山粼正一・原佑(1955)では、「徳とは各の物に固有なる働きの優秀性であり、霊魂の徳に従える活動に幸福は随伴するのである。此の見地から諸徳は勇気等の習性的徳と知恵等の知性的徳に区別せられる。前者は両極端の中に存し、思慮即ち実践理性が之を決定する。知性的徳は智恵を終局とし、之によりて理論的生活が説かれる」(p.22)と述べている。松本正夫(1988)は、『ニコマコス倫理学』の巻5・8・9を取り上げ、徳の正義・親愛・友情への発展を述べている(p.151)。
これに対して孟子は、性善説の論拠として人間に備わっている四徳を設定している。四徳とは、「仁(同情心)・義(正義感)・礼(社会的節度)・智(道徳的分別)」のことであり、特に仁・義を重視した。そして、その発端として徳を育てる四端、すなわち、惻隠の心(人の不幸を見過ごせない心)・羞悪の心(自分と他人の悪を恥じ憎む心)・辞譲の心(他人に譲る心)・是非の心(善悪を正しく判断する心)を養い育てることを主張した。この四徳に対して、董仲舒は、「仁・義・礼・智」に、人を裏切らない誠実さを示す「信」を加えて五常とした。
このように比較すると、アリストテレスは徳を二分割した上で、知よりも人格を重視したことが特徴的であるが、意欲が理性によって導かれる自由意志・責任能力をその基盤としている点で、孟子と異なる。孟子は人格の面を最重要視していることがわかる。栗田賢三・古在由重(1979)などでは触れられていないが、アリストテレスに近いものは、孟子ではなく、朱熹が『大学』をもとに述べた、窮理(一物一物の理を窮めていくことでそれがすべての理に通じるとする)・居敬(欲望を抑えて理に従い振る舞いを厳粛にすること)によって本来の真知にいたる人間修養の根本的なあり方である「格物致知」に近いと言える。

アリストテレスは徳を、理論的な徳としての「知性的徳」と実践的な徳としての「習性的徳」とに二分した。知性的徳は理性を働かせる徳で、知識(エピステーメ)・思慮(フロネーシス)・技術(テクネー)に分類し(第6巻)、教育や学習によって発達するもので、真理を直観する観想的生活や、何が中庸の状態かを決定する思慮がこれにあたる。習慣的徳(倫理的徳・性格的徳・本性的徳)とは、さまざまな感情や行動において過度や不足の両極端を避けて中庸を選ぶような意志の習慣が身についた状態である。松本正夫(1988)は、「アリストテレスは徳の自由意志と行為の責任能力とを強調し、行為の正しい目的は徳によって定まり、また正しい目的に対する手段は行為に伴う思慮によって定まるとしている」(p.149)と述べ、習慣的徳の重要性を指摘している。これは、具体的には、勇気、節制、寛大、豪快、矜持、温和、友愛、真実、機知、正義・自尊などがあげられる。いわば、ある行動を繰り返すことによって、それがエートス(習慣、性格)として身につくようになる徳である。川田熊太郎・山恕W正一・原佑(1955)では、「徳とは各の物に固有なる働きの優秀性であり、霊魂の徳に従える活動に幸福は随伴するのである。此の見地から諸徳は勇気等の習性的徳と知恵等の知性的徳に区別せられる。前者は両極端の中に存し、思慮即ち実践理性が之を決定する。知性的徳は智恵を終局とし、之によりて理論的生活が説かれる」(p.22)と述べている。松本正夫(1988)は、『ニコマコス倫理学』の巻5・8・9を取り上げ、徳の正義・親愛・友情への発展を述べている(p.151)。
これに対して孟子は、性善説の論拠として人間に備わっている四徳を設定している。四徳とは、「仁(同情心)・義(正義感)・礼(社会的節度)・智(道徳的分別)」のことであり、特に仁・義を重視した。そして、その発端として徳を育てる四端、すなわち、惻隠の心(人の不幸を見過ごせない心)・羞悪の心(自分と他人の悪を恥じ憎む心)・辞譲の心(他人に譲る心)・是非の心(善悪を正しく判断する心)を養い育てることを主張した。この四徳に対して、董仲舒は、「仁・義・礼・智」に、人を裏切らない誠実さを示す「信」を加えて五常とした。
このように比較すると、アリストテレスは徳を二分割した上で、知よりも人格を重視したことが特徴的であるが、意欲が理性によって導かれる自由意志・責任能力をその基盤としている点で、孟子と異なる。孟子は人格の面を最重要視していることがわかる。栗田賢三・古在由重(1979)などでは触れられていないが、アリストテレスに近いものは、孟子ではなく、朱熹が『大学』をもとに述べた、窮理(一物一物の理を窮めていくことでそれがすべての理に通じるとする)・居敬(欲望を抑えて理に従い振る舞いを厳粛にすること)によって本来の真知にいたる人間修養の根本的なあり方である「格物致知」に近いと言える。