近江の兄弟ヴォーリズ(2) 賀川豊彦

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 兄弟メレル・ヴォーリズは人好きのする男である。私は彼の最初の時からの活動をよく知っている。彼が神戸衛生院に入った時と、殆んど同じ時に私は神戸衛生院を出て、明石の肺病院に入院した。
 その後の彼の苦闘を私はよく『マスタード・シード』で読んで善いことをしてくれると、いつも貧民窟で感謝していた。『芥種』を印刷するところが、もと妻が女工を7年間もやっていた神戸福音印刷会社であったものでから、私はそこの支店長の菅間さんに見せて貰ってよく愛読したものである。
 最初私がヴォーリズ氏と知り合いになったのは吉田悦蔵兄を通してであった。吉田と云う男は美い男で―こんなに云うと或る人は誤解するかも知れぬが、私の知っている範囲では、吉田と云う男があるので、ヴォーリズ氏も、今日、右手と左手を二つ持っていると私は考えている。
 勿論、その外に、村田君や佐藤君や、その他に大分偉い人物も居るが、私は主として吉田君を通じて兄弟ヴォーリズを知るようになった。
 私は「兄弟ヴォーリズ」と云う。君をつけても氏をつけても、あまり遠縁になるように思うので「兄弟ヴォーリズ」と呼ぶのである。吉田君はメレルと呼び捨てにして居る。実際、メレル・ヴォーリズは、ヤンキーのヤンキーである。日本に来ても少しもヤンキー味が抜けて居らない。もし日本人が米国人を見たいと思えば、メレル・ヴォーリズを見るが一番よい。賢くて快活で一生懸命で、発明的だ。そしてヤンチャで、苦難を平気で切り抜けて行く。
 私は吉田を通じて、ヴォーリズ自らの財政上に困ったことを聞かされたことは幾度か知れない。
 実を云えば、私はヴォーリズや吉田の仕事を人の仕事と思うていない。泣き乍がら祈ったことも度々ある。肺病病院のことを心配して吉田君に注意してことも度々ある。伝道の助けにも行くし、相談もよく受ける。
 そして、いつ如何なる時でも、メリル・ヴォーリズは快活で一生懸命である。吉田は「メレルは天才だ」と云うているが、私もそうだと思うている。彼は日本の為めに、天才を自ら殺したのだ。
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 メリル・ヴォーリズは世界の中心は近江の八幡だと云うて居る。それほど諧謔の持ち主である。之も彼がヤンイーである証拠だ。あの男は一寸やそっとでへこむ人間ではない。滑稽家であったアブラハム・リンコルンが奴隷解放をした如く、この中背のヤンキーは泣くべき所でも笑い乍ら仕事をする。私はメレルの中に善きものを発見するのは此処である。
 或る夏、私はメレル・ヴォーリズと軽井沢で逢った。私は晩遅く軽井沢に着いて飯を食うて居らなかった。その晩、森の中の公会堂では音楽界があった。
『カガワ、クン、飯を食わなくともよい、音楽を聴いたら腹が膨れる」
 そう云うて、私を無理矢理に音楽会に引っ張って行って、10時過ぎまで音楽をきかせ、それから夕飯を食わしてくれた。万事が此の流儀でもないが、彼の滑稽と諧謔は最も美しいヤンキー魂から出て来ているので、日本人には一寸分からないが、真に米国魂の善い方面を知って居るものには彼の善いところがすぐ解る。
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 彼は猛烈に事故の説に突進する。この為めに宣教師の中などでも折々誤解するもともあるようである。然しそれは彼が偉いからで、彼の偉さがそれで判るのだとわつぃは考えて居る。―それ程私は彼に惚れているのかも知れない。
 然し、ヤンキーである為めに随分損をしているところもあるのであろうと思う。私などの眼から見れば、メレル・ヴォーリズの周囲に人々はあまり西洋臭いような気がしてならない。私は勿論、それを承認する。然し、日本的講義所風のキリスト教に慣れている私などには、あまり西洋臭いので吃驚することが度々ある。
 勿論、メレル・ヴォーリズの胸の中には、日本娘と結婚する位の熱愛が日本に捧げられているのだから、日本を米国化するなど云う気は毛頭ないとは思うが、それでも何だかまだシックリ日本的になって居らないように思うて仕方がない、是は私の見方が悪い野であるかも知れないが、もう少し日本的であっても善いと思う。
 私はメレル・ヴォーリズが、御殿場の夏期学校で日本室に寝て、浴衣一枚で飛び廻る勇気のある男である。月50円で吉田と二人で貧乏を忍んで日本教化に専念しようと考えたほどの強者である。然し、そこで私がシックリ肌に沁み込んで来ないのは八幡の周囲にあまり英語の多いことである。
 私は日本語のキリスト教が知りたいし、安土から出た日本に生えたキリスト教が信じたいのである。伝えてくれるのは英語でもかまわぬが、私は英語で祈る時と、日本語で祈る時と心持ちが違う。私は矢張り日本語をイエス化したい。それで八幡の基督教には英語が多過ぎはしないかと思ったりする。
 私はメレル・ヴォーリズが建築者だからなお注文したい。それはライトが帝国ホテルを建てて成功したか失敗したかは知らぬが、兎に角、日本を理解して日本に向くような、新しい様式の石造建築をしようと努力したと同じように、八幡に於ける住宅建築でも、その様式に於いて少なくも、新しい日本の様式を創作すべきはずだと思う。メレル・ヴォーリズほど日本をよく理解して居る男がただ近代ルネサンス位のところで八幡を飾るのでは困る。私はメレル・ヴォーリズを愛するほど、彼に大きな注文がしたいのである。(吉田悦蔵著『近江の兄弟ヴォーリズ等』(大正12年5月、警醒社)の「跋」から転載)

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