関東大震災と朝鮮人中国人虐殺・資料編

【資料目録】
第1 関東大震災の罹災と虐殺の発生について

資料第1の1 現代史資料(6)『関東大震災朝鮮人みすず書房1973年
資料第1の2『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料?U朝鮮人虐殺関連官庁史料?X』緑陰書房1991年
資料第1の3『関東大震災政府陸海軍関係史料?T巻 政府・戒厳令関係史料』監修松尾章一 編集 平形千恵子・大竹米子 1997年 日本経済評論社

資料第1の4『関東大震災政府陸海軍関係史料?U巻 陸軍関係史料』監修編集発行年度 前書に同じ
資料第1の5『関東大震災政府陸海軍関係史料?V巻 海軍関係史料』 監修編集発行年度刊行社 前書に同じ

第2 戒厳令の発布について

資料第2の1『戒厳令』大江志乃夫著 岩波書店1978年
資料第2の2 関東戒厳司令官命令第一号前文『関東大震災政府陸海軍関係資料?V巻陸軍関係史料』139頁

第3 軍隊による虐殺について

資料第3の1「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」(『関東戒厳司令部詳報第三巻』所収「第四章 行政及司法業務」の「第三節 付録」付表。 資料1の4所収)
資料第3の2『震災後に於ける刑事事犯及之に閑聯する事項調査書』「第十章 軍隊の行為に於いて」の「第四 千葉県下における殺害事件」(資料1の1)
資料第3の3『十一月九日丸山、大迫両人大島町国労働者被害事件調査、八丁目惨殺の件』
資料第3の4『9月6日警視庁広瀬外事課長直話』
資料第3の5 在北京立田内務事務官翻訳作成の綜麟祥による大正13年8月14日付け中国人黄子連聴取書−『支那人誤殺事件宣伝者に関する件』。
資料第3の6 黄子連の姪である黄砕乃(フアンツイナイ)の証言(仁木ふみこ『震災下の中国人』178頁)
資料第3の7「支那人被害の実状踏査記事」(仁木ふみこ『震災下の中国人』(仁木ふみ子氏はこの目撃者の氏名を特定しているが、プライバシー保護のためこの報告書では、氏名をふせた。)
資料第3の8『江東青ばなし』
資料第3の9『遠藤日記』
資料第3の10『久保野日記』

第4 自警団による虐殺について

資料第4の1 本庄事件判決(浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の2 神保原事件判決(浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の3 寄居事件判決(浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の4 熊谷事件判決(浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の5 片柳事件判決(浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の6 藤岡事件判決(前橋地方裁判所1923年11月14日判決)
資料第4の7『関東大震災から得た教訓』陸上幕僚総監部第三部(1960年)
資料第4の8『大震災対策研究資料』警視庁警備部・陸上自衛隊東部方面総監部編
資料第4の9『八千代市の歴史』1979年八千代市編集・発行
資料第4の10『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編)青木書店1983年6頁

第5 国の対応と責任
資料第5の1 共同通信配信記事(1999年4月7日)
資料第5の2 2002年12月19日付け日弁連会長声明、同緊急アピール

(4)刑事事件判決に判示された事実
 このような経過は、朝鮮人に対する虐殺行為について検挙され、公訴提起された自警団員らの刑事事件判決(資料第4の1ないし5)においても明らかにされている。

(ア)片柳事件判決外の浦和地裁判決
 浦和地裁大正12年11月26日判決(資料第4の5)は、 当時の埼玉県北足立郡片柳村における朝鮮人に対する殺人被告事件(いわゆる「片柳事件」)である。この事件は、自警団が日本刀や槍等を携帯して警戒に従事中、被害者である朝鮮人が差し掛かったところ追跡し、槍で胸部を突き刺し、転倒したところを日本刀で左肩辺を斬りつけ、頭部を槍先で殴打したが、被害者は起きあがって逃げようとしたのでさらに日本刀で右腕や腎部を斬りつけ、後頭部を槍で突き刺して、その結果死亡に至らしめたという残虐かつ酸鼻なものである。
当時の朝鮮人虐殺の典型的な事件ともいえる。
 判決理由に、このような虐殺行為に至った経過について以下のとおり判示している。
「不逞鮮人が過激思想を抱ける一部の内地人と結託して右震災に乗じ東京市等に於て盛んに爆弾を投じて放火を企て或は井戸へ毒物を投入する等残虐の所為を敢てし・‥との流言浮説頻に喧伝せられ同村地方民は痛く之に刺激を受け興奮し居れる折柄県当局者に於ても咄嵯の間当時誤風説の根拠たる帝都における鮮人の不逞行為に付き其裏偽を探究するの術なかりしより万一の場合を慮り翌二目の夜所轄郡役所を介して夫々管内の町村役場に対し、予め消防手在郷軍人分会青年団等の各首脳者と協議し警察官憲と協力の上叙上不逞の輩の襲来に備うべく自警の方策を講ぜられたき旨の通牒を発したるより被告等居村民も亦同月3日夜より各自日本刀槍等の凶器を携帯し居村内に於て之警戒に従事中‥・」(同第3丁)。
 このように片柳事件判決は、「県当局者」が9月2日夜、東京等で朝鮮人が放火や井戸への毒物の投入などの不逞行為を行っているという風評について真実かどうかの確認の時間もなかったため、郡を通じて町村に対し、在郷軍人会、青年団消防団等に警察等と協力のもとに不逞の輩の襲来に備えるための「自警の方策」をとるようにとの「通謀」を発したことにより、自警団が日本刀などで武装して警戒し、朝鮮人に対する無差別的な殺人に及んだことを事実認定している。
 この経緯は、浦和地裁における神保原事件、寄居事件、熊谷事件、本庄事件、妻沼事件(いずれも大正12年11月26日判決)の各判決においても、同様の事実認定がなされており、埼玉県内の各地における朝鮮人虐殺事件に共通する背景であることを示している。

(イ)国会質疑にあらわれた「通牒」の内容
 判決において示されている「通牒」の内容は、次のようなものであったと伝えられている。
すなわち上記永井柳太郎の質疑「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑(前回の続き)」106頁、資料第1の1『現代史資料6』480頁、及び、資料第1の2『朝鮮人虐殺関連官庁史料』67頁所収)によれば、
「現に浦和地方裁判所に於きまして、大里、児玉両郡々書記が陳述致しました証書に依ってもその移牒電話は大体次の如きものであったのであります。『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』と云うことであります。」との事実が指摘されている。
このように、通牒文は当時書証として残っていたことが明らかであり、その内容は上記判決に判示された通牒の内容とほぼ同じである。

(5)千葉県八千代市在住者の残した日記による記録
 千葉県八千代市で発生した自警団による虐殺については、八千代市が1979年に編集・発行した「八千代市の歴史」(資料第4の9)に記録されている。同書549ないし550頁によれば
「村の各区では自警団が組織され、鳶口、槍、日本刀、猟銃などを持って部落の入口の警備にあたりました。また、高津廠舎に軍の命令で朝鮮人を引き取りに行って殺害したりしました。大和田地区では数人が殺されたといわれています。」と記載されている。この調査結果を裏付ける貴重な資料として、当時の地域住民の日記(資料第4の10)が保存されている。