半年の悔い

銀座並木座

このあいだ「銀座二十四帖」を観にラピュタ阿佐ヶ谷に行ったとき(→5/28条)、ロビーで川本三郎さんの『銀幕の東京』(中公新書)や阿奈井文彦さんの『名画座時代』(岩波書店)が展示即売されていた。これらと一緒に並んでいたのが、嵩元友子さんの『銀座並木座―日本映画とともに歩んだ四十五年』*1(鳥影社)である。懐が寒かったにもかかわらず、気持ちが大らかになっていたこともあって、勢いで購入してしまった。
衝動買い気味ではあるものの、購入を決めたきっかけ(理由)がないわけではない。本を手にとってめくったところ、巻末に1953年(昭和28)の開館から1998年(平成10)の閉館までの全上映作品のリストが掲載されていたことに、言いようのない興奮をおぼえたのである。たんに日付と作品・監督名が二段組みで並んでいるだけの記録に過ぎないのだけれど、そこに日本映画の豊かさが封じ込められているような気がして、身震いした。本書全体で280頁余りのうち、約100頁がこのリストに割かれている。
直接のきっかけはこのリストだとしても、この本を手に取るに至らせた伏線がある。先日書友でもあり、映画のことでいろいろお教えいただいている方と呑んだとき、その方の口から並木座で観た映画の思い出が語られ、印象に残っていたのだ。
わたしは並木座で映画を観たことがない。古い日本映画に取り憑かれたのはここ数年の話だから、あたりまえだ。だから、いまさら日本映画好きになったからと言って、すでに閉館した名画座の閉館を悔やむのはないものねだりに過ぎない。
並木座の存在が、まったくわたしの「東京在住歴」と重ならないのであれば、まだ納得できる。わたしは1998年4月に東京に移り住んだ。並木座はその年9月に閉館した。つまり98年の4月から9月まで、並木座最後の半年だけ、すぐ行けるような環境にあったのである。並木座が閉館したというニュースもうっすらと記憶にある。半年の重なりがあるだけに、この半年がわけもなく悔しいのだ。
もっとも本書で掲載されている写真や文章を読むと、末期の頃は椅子もボロボロで、84席しかない狭い空間だから、いまのフィルムセンターやラピュタ阿佐ヶ谷の快適さに慣れているわたしにとって、はたして並木座を映画館として好きになったかどうかはわからない。息苦しくて好きになれなかったかもしれない。
ただ、スクリーンの記憶が映画館の空間と分かちがたく存在するという気持ちが少しずつわかってきたいまの自分にとって、もし一度でも並木座で映画を観たならば、そんな悪条件などと無関係にひたすら懐かしく思い出すに違いない。並木座で映画を観る経験を逸したことが、いまとなっては痛恨の一事に尽きる。
著者の嵩元さんはフリーライターで、芸能(主に落語など)・旅行・健康などをテーマに執筆活動をされているという。本書は、成瀬巳喜男監督のプロデュースでも知られる東宝の藤本眞澄氏の発案で開館した当時から閉館までの、山あり谷ありの歴史を追うとともに、初代支配人佐藤廉夫さんや、藤本氏の誘いで開館時株主として出資した俳優小林桂樹さんのインタビューなどをまじえ構成されている。
並木座の開館は1953年だから、映画の黄金時代である。なぜこうした時期に封切館としてではない日本映画専門の小さな映画館ができたのかといえば、当時は封切り一週間しか上映されず、観逃した人がそれを観るチャンスをつくるためだったという。
巻末の上映作品リストは、いまわたしがフィルムセンターやラピュタ阿佐ヶ谷に通ったり、ケーブルテレビを通してDVDにせっせと録りためているような日本映画がずらりと並び、壮観である。よく考えてみると、開館当初においてこれらの映画は、いまわたしが同じ対象に感じるのとは異なり、公開されて数ヶ月ないし数年しか経っていない、同時代の映画だったわけである。
時代が経つにつれて、監督特集などの企画物が組まれるようになったらしいが、リストを眺めていると、一週間や二週間の間隔で連続して日本映画が雑然と上映されている様にただただ圧倒され、羨ましさがつのってくる。
もしかりに、いまなお並木座が銀座にあって、そのまま上映を続けていたならば、わたしはここの常連になっているだろうか。銀座という立地は、仕事帰りだとすればフィルムセンターより少し遠い。でも感覚としてはフィルムセンターに行くようなものだから、さほど苦にはならないだろう。休みの日に出ていくにしても同じだ。ひとつ気になるのは入場料金。本書には閉館当時の料金が書かれていない。いくらだったのだろう。もしご存じのかたがいたら教えていただきたい。ラピュタ阿佐ヶ谷と同じ800〜1000円程度なら許容範囲で、きっと通うことになったに違いない。