日本を愛して他国を憎めと教ゆる馬鹿者は誰だ?

我等は世の貧民窟の小供達が如何に立派な家に伴れて行かれても、直に「帰る帰る」と云つて、豚小屋のやうな所に帰って始めて安んずるが如く、生れ故郷に帰つて始めて安んずる底の愛郷心を有つてゐる。斯の心は純なる幼児の心で、一点の不純分子を交へぬ天真の美性であるのだ。

されば此の幼児の純なる心が即ち天の意で、それがまた聖人君子の道であり、聖人君子を慕う総ての人の道でなければならぬ。

されば我が生れ故郷を愛する心は、取りも直さず我が熊本を愛する心であり、我が熊本を愛する心は、それが直に我が日本を愛するの心であり、将た亦世界を愛するの心でなければならぬ。

咄! 我が日本を愛して他国を憎めと教ゆる馬鹿者は誰だ? 若し左様な馬鹿者があれば、それは天意人道の叛逆者でありて天の審判を以てすれば、まさに大逆罪に問はれるべき大罪人であるのだ。

斯る大罪人は、我国にもマダ多々ある。外国にも多々ある。多々あるどころか、今の世界は此等の叛逆者大馬鹿者に依つて支配されて居る。争乱葛藤の止む時ないのは、蓋し当然の理である。

されど時代進歩の風潮は、彼等叛逆者大馬鹿者に依つて奴隷若しくは闘犬扱ひにされたる多数人を揺り起して目醒まさしめた。彼等は目を刮つて起つた。而して天意人道の剣を掲げてその叛逆者なる似非人道主義者や軍国主義者に戦ひを挑んだ。戦ひは既に始まつた。勝敗の決遂に如何。

宮崎滔天「出鱈目日記」1920年8月23日/宮崎滔天全集第三巻)


アナキズム13、14号に掲載した「宮崎滔天の『世界革命』」では、滔天の思想についてあれこれ書いた。だが実は、もっとも伝えたかったのは単純に滔天の魅力である。彼の文章に直接触れてみることをお勧めしたかったのである。

上記の文章は、滔天の魅力がよく現れている一文だ。荒筋で言えば、滔天はこの文章で、故郷を愛する心は純粋な幼児の心(すなわち聖人の心)においては日本を経て世界への愛に直結していると主張している。そして、これに反して「他国を憎め」と煽る国家主義者と、民衆を「闘犬」として利用する国家群そのものを、「天意人道の叛逆者」と批判し、そうした「叛逆者大馬鹿者」に支配された世界の転覆をアジっているわけである。単純でナイーブなようでいて、読み込むと味わいのある文章である。

当時は、世界では民族自決社会主義、国内では大正デモクラシーの時代であり、滔天も「時代進歩の風潮」に期待している。だが彼が期待した「叛逆者大馬鹿者」の世界の転覆は、90年後の今も実現していない。それどころか「叛逆者大馬鹿者」たちは世界中で大量殺人を繰り返し、日本国内でも、ネット上で、書店で、街頭で、「日本を愛して他国を憎め」と大声で叫び、ときに暴力さえ振るっている始末だ。

東北関東大震災では、日本社会は近隣諸国をはじめとする「他国」の、「世界」の人々の支援を受けた。今も「故郷」は放射能によって汚され、被災者は不安な状況におかれたままだ。にもかかわらず、一時は鳴りを潜めていた連中がまたぞろ「他国を憎め」という合唱を始めたくてウズウズしているのが見える。そのためのネタはなんでもいい。無人島だろうがテレビドラマだろうが憎しみの火種になれば。もちろん、小泉・安倍政権の時代ほどには、人々もそうした合唱に追従しなくなってきている。世界的にも「奴隷若しくは闘犬扱ひ」されてきた人々の反抗が相次いでいるようだ。さあ果たして「勝敗の決遂に如何」。