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風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-05-09

第953回 普通であることのすごさ

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 このたびの鬼海弘雄さんの大判の写真集「Tokyo View」を購入した方から、「1ページずつバラバラに切り離して、額装したい。」という声をたくさんいただいている。

 印刷とは思えないクオリティだと誉めていただいているわけだが、一方では、この写真集の厚塗りの黄色のニス引きを印画紙のような風合いを出すための編集上の作為だとみなし、銀塩プリントと印刷物は似て非なる表現なのだから、印刷物は印画紙の複製を目指すべきではないと批判する写真家もいる。

 誤解があるようなのだが、この写真集が醸し出している風合いは、狙ってやったものではない。鬼海さんの写真の良さを極限まで引き出すために、探し続け、追求し続けた結果としてこうなったにすぎないのだ。

 そして、何よりも、鬼海さんの写真自体が醸し出す味わいやユニークさも、狙ってやったものではない。

 写真家の中には、いかにも絵になりそうな光景を狙ってシャッターを切る人もいる。いかにも絵になりそうな光景というのは、大勢の人々のなかであらかじめ共有された感覚でもあるので、プリントや印刷が多少あまくても、「面白いね」、「すごいね」、「かっこいいね」と言ってもらいやすい。そういう光景を見つけてきて、すばやくシャッターを切れることが写真家だと思っている人も多いだろう。

 その表現スタンスは、テレビ番組などにおいて、面白キャラや、ショッキング映像などで視聴者を引きつける手段と近いものがある。

 表現とされる分野において、そういうものばかりが増え、結果として、どうすれば個性的になれるか、人より目立てるか、人に受けるかということばかりに気を使う人が増え、普通がいけないことのような息苦しい空気が社会全体に満ちている。

 そういう風潮に対して、鬼海弘雄さんの表現におけるモットーは明確である。

 普通であることが、すごいということ。普通のすごさを、伝えること。

 しかし、表現には説得力が大事で、普通であることのすごさを説得力のある表現にまで高めることは、至難の業だ。

 鬼海さんの口癖は、「一日中歩き回ってもほとんどシャッターを切れない」。「カメラは、写すための道具だと思われているけれど、肝心なことは写らない。」ともよく言っている。

 撮影だけでなく、プリントを焼く際も、普通の素晴らしさを引き出すためには、丁寧に、取り組まなければならない。世間によくあるモノクロプリントのように、黒の濃度を強くして”劇的”にすれば、作品らしく見えるという安直なことではダメなのだ。

 また、そういう安直なスタンスで撮られた写真ならば、写真集を作る上での注意も、そんなに多くない。組み方とか大きさの強弱などは当然ながら必要だが、印刷段階においては、できるだけ”黒を締める”とか、”コントラストをつける”とか、その程度の指示ですむ。実際に、校正紙に入れる朱書きも、その程度の内容だ。私も、風の旅人を50冊作ってきて、膨大な写真に朱書きを入れてきたので、よくわかる。

 実は、風の旅人の第49号で、今回の鬼海さんの写真集「Tokyo View」の中のほんの一部を紹介した。しかし、結果は無残だった。両方を持っている人は、見比べてみればその違いが歴然とわかるだろう。

 これまで風の旅人において、印刷がうまくいかない場合は刷り直しをしてきた。風の旅人の場合、雑誌といえども、読者がクオリティを期待しているからだ。しかし、49号は、刷り直しをしても完璧にはならない。なぜなら、一般的な雑誌の宿命として、鬼海さんのページと他の写真家のページを一緒に印刷しなければならない。とりわけ、49号では、一緒に印刷しなければならない他の写真家の写真が、白と黒のコントラストを重視する写真が多く、鬼海さんの写真と傾向が違っていた。

 今回の写真集「Tokyo view」は、鬼海さんの写真のことだけを考えればよかった。鬼海さんの写真の良さを引き出すためにはどうするべきか。「普通であることが、すごい」を、説得力あるものにするためには、どうすべきか。

 そのプロセスについては、5月5日のブログで書いたが、色々な試行錯誤繰り返して出来上がったものが、最終的に、「1ページずつバラバラに切り離して、額装したい。」と言われるものになった。実際に、そう考えて追加購入した人もいる。

 こういう意見を言ってくれる人は、この写真集がオリジナルプリントみたいだから額装したいのではなく、1ページごとに見入ってしまうから、そうしたいと言ってくれているのだと思う。

 なぜ1ページごとに見入ってしまうのか。それこそが、鬼海さんの写真の力なのだ。

 額に入れて飾りたいのは、部屋の装飾になるからではなく、じっと眺めていたいからであり、毎日のように眺めていても飽きないからである。

 「すぐれた小説は何度読んでも味わい深いように、すぐれた写真は何度見ても見飽きない。」

 これは鬼海さん自身の言葉だが、鬼海さんは、何度見ても見飽きない写真とはどういうものかを、カメラを持っていない時でも、ずっと考え続けているだろう。

 上に述べたような、いかにも絵になりそうな絵というのは、フェイスブックのタイムラインに流れる画像のように、見た瞬間は「いいね!」となるかもしれないけれど、部屋に壁に飾って毎日見続けられるものではない。おそらく、すぐに飽きてしまうだろう。見るたびに、発見があるということもないだろう。

 自分の心の状態というのは、日々、変化している。その変化によって、見ているものの印象が違ってくる。自然風景などの場合、そのことがよくわかる。

 しかし、表現物において、そこまで懐の深いものは、実はとても少ない。その理由は、表現をする者の心が、被写体と出会った時に、その瞬間の面白さのことにしか向いていないからだ。

 鬼海さんの場合、その瞬間の面白さだけではなく、常に、その背後に思いが寄せられている。鬼海さんの写真集は、今回だけに限らず「ペルソナ」もそうだが、写真に添える短いキャプションが絶品なのはよく知られているが、あの短いキャプションは、鬼海さんの対象に向ける目の奥行きを伝えている。

「普通であることの、すごさ」。

 普通であることと、凡庸は同じではない。むしろ、真反対であるとも言える。

 普通というのは、自然に育まれた結果としてそうなったもの。ごまかしが一点もない非凡な俳句、それも無季の俳句。鬼海さんの写真に、それを感じる人は多いはずだ。シンプルな素材だけで、その人ならではのものと思わせることが非凡なのだ。個性的であろうとして意図がみえみえの過剰は、どんな表現においても凡庸だ。

 哲学を深め、その哲学が自然に削ぎ落とされたところに、非凡な表現は生まれる。そして、非凡な表現だけが時代を超える。

 鬼海さんの写真は、そういうものであると私は思っているし、だからこそ、今回、全精力を傾けて「Tokyo view」を制作して、販売している。

 写真界のことを少しでも知っている人は、今日の社会で、大型の上製本の写真集を発行して採算をとることが、どれだけ困難なことか理解しているだろう。

 多くの出版社は、もうそういう写真集を作らなくなってしまった。世の中に出ている作家性の強い写真集は、ほとんどが共同出版という名で写真家のプライドを傷つけないように配慮をした、実質、自費出版である。きちんとした印税が支払われている写真集発行を見つけるのが困難なくらいだ。写真家も、自分の作品集ができることだけで満足してしまうからだ。ひどい話しである。

 共同出版というのはビジネスだ。しかし、ビジネスのためではなく、作品への敬意があるからこそ妥協のない写真集を作れるのであり、敬意がなければ、膨大な時間をかけることはできない。

 時代を超えるという確信があるからこそ、心の底から真剣に取り組めるのだ。

 そして、このたびの写真集を制作する根底に、作品に対する敬意があるから、デザインその他において、”受け”を狙ったり、デザイナーの”主張”を入れるという作為的なことは一切行っていない。

 表紙タイトルの入れ方や装幀がおとなしすぎて面白みに欠けて記憶に残らない、と思う人もいるかもしれない。

 面白いということがどういうことなのか、価値感や好き嫌いの違いと言ってしまえば元も子もない。

 ただ一つ言えることは、写真を撮ることも、写真集を作ることも、また料理でも衣服でも何でもそうだろうけど、「普通でありながらすごい」と感じてもらえるものづくりが、究極だと思うのだ。

 素晴らしい俳句をおさめた本を一冊作る際に、なにゆえに表紙に凝る必要があろうか。何の先入観も持たずに、作品の中にすっと入っていける表紙がいいと私は思っている。写真集に限らず、中身に自信があるものは、みな同じだ。

 人間の作為というのは、自然を歪めていく何かしらの罪を負っている。にもかかわらず、作ることが人間の宿業で止められないのであれば、自己顕示欲によってその歪みを増大させるのではなく、作ることを通して、普通に、自然に回帰していく心がけを持つことが、せめてもの罪滅ぼしではないだろうか。

 一般的には、シャッターチャンスを逃さないために常にカメラを持ち歩いているのがいい写真家だと思われているが、鬼海さんは、カメラを持ち歩かない写真家だ。鬼海さんは、写真を撮る時間よりも、物事を見つめている時間と、考えている時間の方が、圧倒的に長い。

 自分の中にないものは撮れない。だから、いい写真を撮ろうと思えば、自分を豊かにする努力以外の近道はない。はやりのワークショップや、メーカー主宰の写真教室では、そういう大事なことを教えてくれない。その真理は、写真にかぎらず、どんな物作りにおいても古今東西同じだと思う。 

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鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。

詳しくはこちらまで→

2016-05-05

 *第952回 何度見ても、気にかかる写真

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 鬼海弘雄さんの写真集「TokyoView」が完成して、発送作業に追われている。(写真集の詳細はこちら→http://www.kazetabi.jp/

 この写真集の制作には2年かけた。それだけ拘るに値する写真ばかりだからだ。

 最初の1年で写真の選択と組み方とレイアウトとデザイン。そして、印刷会社に写真を入稿して写真分解を始めたのが、2015年の正月明けだった。そこからが大変で、鬼海さんがハッセルブラッドで撮影した街の写真のディティールの繊細さ、階調の豊かさを印刷で表現することは、とてつもなく難しく、写真分解を何度も何度もやりなおした。しかも、ディティールの豊かさを伝えるために超大型の判型でデザインをしたので、その分、拡大率が高まり、粒子の粗さが目立ってしまった。白と黒のコントラストを強調してザラザラとした粒子で見せる表現の場合は、ごまかしがきくが、鬼海さんのプリントは、シルクのように滑らかなので、粒子の粗さは致命的だった。

 途中で何度やってもうまくいかないと悟り、印刷用紙を見直すことにした。マット紙の方が高級感と上質感は出るが、若干、インクを吸ってしまうために、何段階にもわたるグレーの微妙な階調が出てこない。インク乗りのいいグロス系の紙で高級感と上質感を損なわない紙を選択した。それでも、紙のピカピカとした反射は安っぽくなるので、ニスを厚めに乗せることでその欠点を補おうと考えた。最後に、そのニスの色もやり直しをするはめになり、二週間ほど納期がずれこんだ。

 そして、印刷は、鬼海さんの情報量豊かな写真の再現のために、当然ながらハイビジョンテレビや4Kと同じように、高精細印刷でやらなければいけない。

 しかし、高精細印刷というのは、校正刷りも印刷の本機で行う必要があり、全てのページの校正刷りを行うと、校正代だけで桁外れのコストになる。ましてや、厳しい鬼海さんの目で見て校正が一回で終わることはありえないので、校正のたびに莫大なコストが上乗せされることが予想され、おそろしくて手が出せない。

 そのため、高精細印刷の校正確認は一折り分(16ページ)だけにして、それ以外は通常校正を行い、高精細印刷の校正を行う16ページは通常校正も出して、その2つを見比べることで、高精細印刷の校正を行わないページの最終仕上がりを想像するという方法をとった。リスクはあるが、そうでもしないと、価格が10,000円に抑えることができなくなる。

 それが何とかうまくいって、この写真集の仕上がりを見た人が、10,000円では安いと言ってくれるものになった。

 写真集の10,000円は、一般的な通念から言えば高い。しかし、その仕上がりで、オリジナルプリントに負けないくらいのものにすれば、オリジナルプリントは数万円から数十万もするのだから、1万円では安いと感じてもらえるだろう。実際に、あとから2部追加購入をして、一部は額装用、一部は保存用、もう一部を普段見るためのものにすると言っている人もいる。

 自分で言うのもなんだが、写真と真面目に取り組んでいる人は、鬼海さんの写真を通じて学ぶところが多くあるだろうし、写真集の制作を考えている人は、現代、このくらいの価格で実現し得る1つの極点として、この写真集は、きっと参考になると思う。

 そして、私自身も、ほぼ毎日のように、この写真集を見直している。2年に渡って制作し続けてきたので、見飽きるくらい見ている筈なのに、まだ飽きない。何度見ても、飽きない写真。そういう写真は、めったにない。

 何度でも見るのは、気にかかるからだ。気にかかるのは、自分ごとだからだろう。でもなぜそれが自分ごとなのか、自分でもよくわからない。だから、飽きずに見続けてしまう。

 理由はよくわからないけれど、なぜだか気にかかる。心が惹かれるのは、そういうものである。

 コンセプチュアルな表現とか、社会問題を取り扱った表現というのは、だいたいにおいて、1度見れば、それっきりである。あらかじめ定められたコンセプトや社会問題が、表現のゴールになっていて、あとは、その処理に仕方で競い合っているだけだからだ。それは、同じことを違う言い方で言い合っているだけのこと。表現の自由を主張してはいても、物事の認識において、不自由を感じてしまう。

 鬼海さんが撮る写真は、奇をてらったところがまったくない。撮られている対象も、ごく当たり前のものである。鬼海さんは、その当たり前のものを、撮影という手段で、強いこだわりをもって丁寧に拾い集めている。そして、どんなものでも丁寧に対応されたものは、命の輝きを帯びてくる。命は、全てに行き渡っているのだけれど、丁寧に対応されなければ、命は、隠れてしまう。

 下駄箱にしまいこんだ革靴を丁寧に磨けば、生き生きと輝くのと同じで、どんなものでも付き合い方次第なのだ。

 表現は、命の抑圧に対して戦う手段であるが、命に対する配慮が十分になされていないものは、命の抑圧を増殖させるだけだ。

 損なわれたものや抑圧されたものを見せつけて命の尊厳を説くことは誰にでもできる。難しいのは、普通に存在しているものを通して、どんなものにも命が通い合っていることを実感させることである。鬼海さんは、人を真っ直ぐに撮る場合も、人の暮らす壁を撮る時も、そこに通い合っている命を見ている。自分が相手と命を通わせないかぎり、その命は見えてこない。

 表現は自由でなければならないけれど、その目的は、そんなに多くは必要ない。世知辛い世の中で、見失われがちな命への気づきを与えてくれればいい。気づかせてもらえれば、あとは自分の方法と、自分の時間軸で、命の手入れを行っていけるだろう。鬼海さんの写真が、何度見ても飽きず新鮮なのは、見るたびに、新たな命の気づきがあるからだろうと思う。

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鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。

詳しくはこちらまで→

 

 

2016-04-25

第951回 野党に期待できるわけではないけれど


 夏の参院選を占う補欠選挙が、北海道と京都で行われた。

 結果は、”逆風”が強いため自民党が候補者の擁立を見送った京都3区は民進党、前回よりかなり接戦となった北海道5区は自民党が勝った。

 日本全体を見渡すと、現時点の自民党支持率が40%ちょっと、野党に頑張ってくれというのが30%、どこにも興味がないのが30%といったところか。北海道5区の補欠選挙は、自民党の町村前衆議院議長の娘婿という相変わらずの世襲議員が勝利したが、野党が足並みをそろえて反自民の票を分断させずに獲得できれば、なんとか戦えるかもしれないという手応えは少しはあったかもしれない。あとは、どこにも興味がないという残りの30%。自民党への支持率がそんなに高くないのに自民党が圧倒的に議席数をとっている理由は、野党の足並みがそろっていなかったことと、どこにも興味がないという人が多すぎること。自民党を支持する人達というのは、自民党の政治によってメリットを得ている人達、自民党の政策に反対できない人達、もしくはその政治が変われば自分が不利益になったり混乱に陥る可能性が高いと考えている人達だから、自民党支持の40%は、夏の参院選でも、自民党に投票するのだろう。すると、どこにも興味がないという30%の人達が選挙に行かないと、また自民党の勝利になる。今の野党を見ていると、野党が政権をとっても何も変わらない、何も期待できないという大勢の心理もよくわかるし、私もそう思う。

 しかし、政府に安易に期待してしまうという心理は危険だと思う。安倍政権が、ここまで大勝利をおさめてきているのは、国民を期待させるためのテクニックをうまく使ってきたからだ。実質的なことは結果が出るためには時間がかかる。そちら方面のことは、安倍政権は何もできなかった。それに対して金融操作というのは、表面的な変化を作り出しやすい。

 https://newspicks.com/news/1519507/body/?ref=index

 これを見ればわかるように、日銀が、株価を支えるために、日本の大企業の株を買い漁り、日経平均株価を構成する9割の企業で実質的な大株主になった。指数採用225銘柄のうち約200社で日銀が保有率上位10位内に入っているのだ。当初4500億円の年間購入枠は、黒田東彦総裁による13年4月の異次元緩和で1兆円に増額、翌年10月の追加緩和で3兆円まで膨らんだ。加えて、昨年12月には設備・人材投資に積極的な企業で構成するETFを年間3000億円購入する考えも示し、今月4日から新枠を使い1日12億円の買い入れを連日行っている。

 日銀にくわえて、年金積立金管理運用独立行政法人(GRIF)も、日本企業の株を30兆円ほどを保有しているし、日銀も年間3兆円ベースで買い増しているので10兆円になっていると思われる。株価が下がったと思ったらすぐに上がるのは、こうした操作が露骨に行われているからだ。その結果、日本の全上場企業の時価総額約500兆円のうちの最大株主がGRIFで、次が日銀という、おそろしく歪んだ構造ができてしまった。

 エコノミスト達は、日銀やGRIGが相場を支えているし、大企業も現時点ではありがたいことなので、誰も批判しない。大企業をスポンサーにしているメディアも同様だ。しかし、これが続くと、確実に、政府の管理下におかれることになる。

 最近、メディアに対する政府の露骨な介入が目立っており、その事実ばかりが批判されるが、いくら批判されても止まらないのは、金融操作によって、安倍政権の大企業に対する影響力が、じわじわと拡大しているからだろう。そして、いったんこういう構造ができてしまうと、株価の下落によって年金資産が大幅に減少するなど恐ろしいことが起こるから、問題意識を持っていても、誰もネガティブなことが言えなくなる。

 背後に潜んでいる問題のことを知らず、金融操作によって株価があがるなど表面的な良い変化が生じているから、40%くらいの国民が安倍政権に対して相変わらず期待している。次の参院選でも自民党が大勝利してしまうと、変化をわかりやすくするための操作を、金融以外のことでも、色々とやるだろう。法律改正というのが一番のポイントだ。

 しかし、金融操作と同様に、国民に伝えられることと、その背後の事情は、別である可能性が高い。(悪人を征伐するという大義名分で、新型兵器の見本市としての他国への武力攻撃などは常套手段だ)

 当然ながら、本当のことは隠される。そして人気取りのメッセージだけが表面化する。その時、大企業やメディアに対する影響力を増大させている政府は、自分の人気を落とすような言論に対して、今以上に厳しい締め付けを行うだろう。安倍政治は、そのような子供じみた浅はかなことを平気でできてしまうのだが、その横暴が通っているのは、国民が子供じみているからだ。

 小泉政権の頃から顕著になっているが、発言も容姿も、外面だけ整えたものに簡単に引っかかるようになっている。そして、わかりやすいことがあたかも美徳のように、知識人も含めて、単純化されたものへの共感、熱狂というファシズムの精神的土台を準備している。

 政治は複雑でわかりにくいものでかまわない。だから政治家は老練であってかまわない。そういうものだと理解したうえで、国民もまた、政治家の腹を探るくらいの用心さがあった方がいい。政治と国民が子供じみた単純な共鳴現象を起こすことが一番恐いのだ。そうした共鳴現象が広がってしまうと、少し外れたことを口にするだけで、異端分子、売国奴とみなされて、激しい攻撃がくわえられる。民主主義の社会なのだから大丈夫と思っている人が多いかもしれないが、民主主義の社会においても大半の人は企業に所属しており、企業に生活の糧を握られている。自分の所属する企業が政府の管理下におかれ、自分の意に反したことを進めようとしていても、それに異論をはさむことは簡単ではない。それができるのは、会社を首になる覚悟や、その余裕がある人だけだ。

 政府を慮った報道番組のキャスター降板。テレビ朝日「報道ステーション」の古舘伊知郎、TBS「NEWS23」の岸井成格、NHKも「クローズアップ現代」の国谷裕子、こういったことは氷山の一角だ。

この状況に対して、「メディアは、権力に対し、批判すべき点は批判するというジャーナリズムの役割をきちんと果たすべきだ」とステレオタイプの注文をつけたところで何もならない。

 政府に首根っこを押さえられている組織においては、今後、政府による干渉はますます露骨になり、それに従わざるをえなくなっていくだろう。

 だから、志のある人は、政府に首根っこをおさえられた組織に従属し続け、その中で抵抗するのではなく、新たな組織やシステムを作っていくしかないのだ。とくに、メディアは、まだまだテレビ局や大新聞の影響力が強いのかもしれないが、そこから志のある人達が抜けて別のものを立ち上げていく流れができれば、あっという間に局面が変わってくるだろう。

  VICE MEDIAのような、既存のテレビ局とはまったく異なるこの時代ならではの映像メディアが数多く生まれてくれば、政府の報道管制によって情報が一色に染められることも防げる。

 太平洋戦争の時と違って、私たちが生きている時代は、それができる時代でもある。

 しかし、その環境が整う前に、安倍政権が強引に物事を進めていき、社会の構造が変わることを恐れる大組織などが政府の動きと足並みを揃えて、現在の支配体制が、より強固になってしまうことが一番恐い。

 政府に世の中を変えてもらうことを期待する必要なんかない。安易に期待することの方が、厄介なことになる。

 遠回りになってもいいから、ゆっくりと自然に変わっていく、そのペースに合わせて、自分の暮らし方や生き方を変えて整えていけばいい。そのための時間稼ぎがもう少し必要だ。

 だから、この夏の参院選挙は、野党に期待しているわけではないけれど、自民党を調子づかせるのはよくない、という大人の判断が大事だろう。その判断を、どれだけの人ができるかで、この国の行く末が決まっていくような気がする。




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鬼海弘雄さんの新作写真集が、まもなく完成します。

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2016-04-20

第950回 自分ではどうにもならない困難と、自分で何とかするしかない課題

 

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 この世界には、自分ではどうにもならない困難と、自分で何とかするしかない課題がある。長い人生で、ずっと順風満帆に行くことはありえず、どこかで間違いなく苦しい困難に遭遇する。自分で何とかするしかない課題の場合は、自分を鼓舞したり気分転換をはかったり、どこかにいい智恵がないかと一生懸命に探したり、とにかくやれることは何でもやるしかないし、そういう必死の努力ができるかどうかで、その課題を乗り越えられるかどうか決まってくる。

 しかし、自分の努力の範疇の外にあって、自分ではどうにもならない困難は、何とかしたくても、何ともならない。そうした困難でも、終わる時がくることを知っていれば、心の苦痛は軽減する。しかし、多くの場合、その渦中にあるあいだは、その辛さが永遠に続くかのように感じてしまう。だから、辛さに打ちのめされて自暴自棄になったり無気力になったり、それまで普通にできていた自己管理もできなくなり、健康を損なったり、心が蝕まれたりする。その結果、当初は1つであった困難が次々と膨れあがってしまう。

 自分ではどうにもならない困難に遭遇した時、その1つの困難で止めることができず、連鎖的に他に悪循環が及ぶかどうかは、自分次第ということも多い。

 とはいえ、悪い状況が起こった時に、その悲しみや苦しみに囚われてしまい、よりいっそう悪い流れを作りやすいのが人間だ。賭け事でも、少し負けた時に辞めてしまえばいいのに、負けを取り戻そうとムキになってさらに負けを膨らませ、途中から自棄になって一発勝負で取り戻そうとして途方もない負け方になることはよくある。

 また、悲しいことがあると、悲しさを忘れようとして酔いつぶれてしまい、翌日、さらに悲しみが増し、その悲しみを忘れようと酒量を増やして、しまいには身体を壊してしまい、人生も壊してしまうこともよくある。

 特に日本人は、情にもろいというのか、個人での対応に慣れていないというのか、酒を飲むにしても、独りでしみじみと楽しみを味わったり苦しみを噛みしめながら飲むのではなく、楽しむためにはみんなで宴会騒ぎ、苦しい時もみんなで憂さ晴らしで大騒ぎ、でないといけないかのような空気がある。

 楽しい時は、みんなではしゃがなければならないし、苦しい時は、みんなで乗り切らなければならないのだ。どちらであれ、大きな”騒ぎ”になる。

 太平洋戦争にしても、始めてしまったものは、今さらその是非を論じても仕方がない。ただ、ガダルカナル島やミッドウェー海戦で負けた時に止めておれば、あんなに悲惨なことにはならなかった。敗戦するにしても出来るだけ良い条件を引き出したいから、という小心ものの往生際の悪さによって、終戦前の半年で、それまでの数年の何倍もの被害へと拡大させることになってしまった。

 この歴史的教訓を、常に頭に置いておく必要がある。

 原発の場合も、数十年前は、多くの人が夢のエネルギーだと信じていたのだから、やり始めたことに対して今さらその是非を論じても仕方がない。しかし、2011年の福島の原発事故は、もしかしたらガダルカナル島やミッドウェイ海戦の敗戦に等しいのではないかと、思いをめぐらす冷静さは必要だろう。

 にもかかわらず、このタイミングで、頭に血が上っている安倍政権は「1億総活躍社会の実現」ということを言い始めた。このたびの九州の地震も、「オールジャパンで支える」と言う。安倍首相の話しぶりの特徴は、視線は原稿を丸読みだけれど、ポーズとか語尾の断言口調だけで”勇壮さ”を誇示するところであり、太平洋戦争末期の日本の幹部も、こんな感じだったのではないかと思わざるを得ない。

 状況はよく似ている。

 ガダルカナルやミッドウェイの戦いに敗れた時に、東京空襲や原爆のことを予測できなかったから突き進んだように、福島原発事故の後でさえ、伊方や川内の原発の事故が起こりうる根拠を特定できないという理由で、このまま突き進むのだろうか。

 先のことを完全に予測することは不可能でも、”置かれている状況の悪さ、その先の不吉さ”は、察知できるはずだ。

 政治的判断というのは、その先の不吉さに対して手を打つことであり、歴史に残っている名将は、その判断と決断ができた人物たちだ。

 「原子力規制委員会という専門家が、原発を止める科学的根拠がないと言っているから、それに従うだけ」というのは、もはや政治ではない。それは、太平洋の制空権を完全に失った後でも、まだ負けると決まったわけではないと言っているようなものだ。科学的予測ではなく、不吉さに基づく行動の方がどれだけ大事なことか。

 原子力規制委員会は、「基準の整合性は見ていますけれど、安全であるとは私は申し上げていない。」と言っている。つまり、不吉さはあるということだ。

 自分ではどうにもならない困難に巻き込まれて悲しみに打ちひしがれている時、それまできちんと行っていたことができなくなる。人間である限り、それは仕方が無いことだと思うが、しばらく続いた時に、このままこういう状態が続くとマズイのではないかと自分の先行きに対して不吉を感じること。不吉を感じたら、すぐに意識を切り替えること。

 おそらく、人生において自分の力で何とかするべきことというのは、こうした切り替えなのだ。誰も前もって何が起こるか完全に知ることなどできない。読みが外れることは何度でもある。そうして痛い目に遭ったら、不吉に対して敏感になる。不吉には科学的根拠などない。不吉を感じているのに、科学的根拠を持ち出してその不吉を打ち消そうとすることが、悪循環を招く。

 そして、不吉を感じていたくせに強行して、より悲惨な状況になってしまったら、「想定外だった」と言う。指導的立場にありながら、「想定外だった」という言葉を簡単に口にするような輩は、最初から指導者の資質がなかったということだろう。

 日本が今陥っている経済的に困難な状況は、誰のせいでもない。多くの発展途上国から富を奪うことで限られた先進国が豊かさを享受できた時代は終わったのだ。ベトナムや中国だけでなく、アフリカやアジアをはじめ、さらに多くの諸国が経済発展をしていけば、相対的に、日本の経済は苦しくなっていって当然だ。それに抗うことが、自分で何とかするしかない課題だと思っている人が多いが、限界があると思う。

 自分で何とかするしかない課題というのは、流れに抗うことではなく、その先に不吉を感じるのであれば素直に限界を認めたうえで意識を切り替え、謙虚な生き方の価値感を構築していくことではないか。

 地震や台風など、自分ではどうにもならない困難を数多く経験してきた筈の日本人は、科学的証拠よりも、不吉をベースにした智恵と、備えと、素直さや謙虚さを身に付けてきた筈なのだ。

 人生は限られている。人は誰でも死ぬことが決められている。どんなに最新の高額医療を受けたところで寿命は少し延びるかもしれないけれど永遠の命は得られないし、タックスヘブンを利用して莫大なお金を隠しても使い切れない。

 だから、命やお金をどう使うかは、畢竟、価値感の問題であり、その価値感は、ともすれば世間の風向きに左右されがちであるが、自分次第なのだと思う。敗戦するくらいなら自決、というのも1つの価値感。原発事故を見て見ぬふりをして派手な消費生活を続けるのも1つの価値感。火星に移住したいと思うのも、人類の夢なんかではなく、1つの価値感にすぎない。(私はまっぴらゴメン。火星よりもサハラ砂漠の方が遙かにマシ)。また、自分で手に負えない困難に遭遇した瞬間、自分の人生はもう終わりだと自暴自棄になるのも、人の営みとはそういうものと腹をくくるのも、究極において、価値感によるところが大きい。

 当たり前のように自分に染みついている価値感をいったん洗い流してみることは、簡単ではないけれど、今、自分で何とかしなければならない課題だという気がする。その課題に向き合わないと、自分が陥っている困難が1つではなく、連鎖反応のように、どんどんと膨れあがってしまう恐れがある。個人でもそうだし、社会もそうだ。歴史的にも、経済問題が戦争へとつながっていったことが何度でもある。教訓というのは、知識の獲得ではなく、不吉な感覚を身に付けることだ。





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鬼海弘雄さんの新作写真集が、まもなく完成します。

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2016-04-19

第949回 ”これまで通り”の果てに

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(地震によって破壊された阿蘇神宮 画像:NHKニュースより)


 日本を縦に貫くフォッサマグナと、横に貫く中央構造線にそって、東の鹿島神宮から長野の諏訪神社、伊勢神宮など、重要な神社が建っていることは前から気になっていた。大地が引き裂かれたり押されたりしているわけだから、電気や光など何らかのエネルギーが発生していることは間違いなく(それを察知できる生物は、驚いて事前に動く)、現代人には感じ取れないそのエネルギーを古代人は感じ取っていただろうし、実際に、その場所で、地震をはじめ様々な神の怒りのような天災も起きていたのだろう。その中央構造線に、愛媛の伊方原発や鹿児島の川内原発など原子力発電所が建てられていること。そのうえで、川内が、現在、日本で唯一稼働中の原発で、危険なプルサーマル原発である伊方が、7月に再稼働が予定されていること。この2つが、今起こっている熊本や大分の大地震の両隣であることが何かとても暗示的で、不気味で、そうした考えを非科学的と批判されるかもしれないけれど、気になる。

 しかし、”科学”の英知を総動員して行われる地震予知が、まったく当たらず、地震研究は、いつも起こった後の説明ばかりである。

 つまり、科学というのは、けっきょくそういうもので、終わった後の分析・研究であり(宇宙誕生の探求も含めて)、過去の分析が未来に役立つという前提で莫大なお金が投入され、ロマンとされるわけだが、過去の分析という過去に対する傲慢な態度よりも、過去の教訓に学ぶという姿勢の方が未来にとって大事なことであり、その謙虚と厳粛こそが、日本の精神文化の根底に流れていて、神社は、その要なのだろうと思う。このたびの震災で、中央構造線の上に立つ阿蘇神社が崩壊している姿を見た時、聖なる生物が潰れて死んでしまったかのように見えて、大きなショックを受けた。

 世の中には雑多な情報が多すぎて、大切なサインがそれに紛れて見落とされる。

 意識を攪乱させる姦しい処世的な雑音を排して、古代人もそうしていたように、じっと目を凝らし、耳をすませて、自分がどうあるべきかを、謙虚に、考える時なのかもしれない。

 しかしながら、九州に大地震が発生して、どのテレビチャンネルも自粛して震災報道になった時に、その”自粛”を批判して、被災地にいない人々は、できるだけこれまで通りの生活をしながら被災地の為にできることを考えてすべきという意見があったが、数日が経ち、これまで通りの番組が流れ出した。

 震災前であれ後であれ、今のテレビ番組は、どのチャンネルも、常に、キンキンとした笑い声が絶えない。中には、相変わらず、グルメや大食いのものもある。その番組のあいだ、頻発する地震ごとに、震源とか震度とかテロップが流れる。番組を見ている時に、そうしたテロップを見るのではなく、ニュース番組を探してリモコンを動かしているあいだに、笑いと震災テロップが重なった画面を何度も見ることになる。これは、ものすごく違和感を感じる。私たちの”これまで通り”というのは、まさに、こういうことなのであり、意識を攪乱させる姦しい処世的な雑音だらけなのだ。

 お笑いなどを”自粛”をしたうえで現地からのニュースを伝えているとされていたあいだも、神妙な顔をしているというだけで、実際にやっていることは、”これまで通り”だった。

「テレビ局なんですけどお、どんな揺れでしたか?」「今のお気持ちは?」という決まりきった質問、そして都合のいい答、欲しい言葉だけもらったら、はい次に行こう、というスタンスは、これまで通りで、震災の最中のテレビの中の安易なバカ騒ぎと同様、違和感を感じる。目の前でとてつもないことが起こっているのに、じっと目を凝らし、耳をすませて考えさせるような伝え方にはならない。

 この10年、IT技術の発展による流通・製造をはじめとする様々な社会変化、金融危機、東北の震災、原発事故など、あきらかに、これまでのやり方を変えなくてはいけないという状況ではあるけれど、テレビ番組のスタンスは、何も変わっていない。テレビが悪いというよりも、テレビは、何かを象徴しているのだろう。”人生には色々と辛いことがあるけど、あまり深刻に考えたくない、考えてもどうにもならないことは考えたくない、今を愉しく生きられればいい、人が陥っている不幸はもちろん見ていて辛いけれど、だからといって自分が何かできるわけでもないし、自分も安泰ではないので人のことはそんなにかまっていられない”という大勢の感覚を、きっとテレビが代弁しているのだろう。テレビが変わっていないというのは、私たちが変わっていないということなのだ。

 その根底には、無気力があり、諦めがある。

 諦念じたいは、悪いことではない。

 今も南九州では絶大な人気を誇る西郷隆盛の言葉に、「いのちもいらず、金もいらず、名もいらぬ人は始末にこまるなり。されどこの始末にこまる人ならでは、天下の大事に任じがたし。」というのがある。

 無欲に徹し切った人は、心を惑わされないので、人に簡単に操られない。だから、扱いにくい。利用しにくい。

 諦めるならば、そこまで諦めきらなければ、自分では気づかないうちに、欲や保身につけこまれて、うまく利用される。政治家の人気取りの政策というのは、ほとんどがそうだし、経済界にも、その類のものが多い。ヒット商品というのは、”始末に困らない人”がターゲットであることは間違いない。

 国民が、”始末にこまるような人達”になれば、我欲に簡単につけこまれることもなく、きっと何かが変わるのだろう。多くの国民がそうなることは不可能でも、せめて指導者とされる人からでも、そういう人が出てくれば、変わっていくのだろう。

 しかし、西郷隆盛のように高潔な指導者は、もうほとんど見られない。多くのケースで見られるのは、それとは真逆の執着ばかりだ。自我が肥大化してしまい、自分の周辺のことだけは、なかなか諦めきれない。誰が悪いとかではなく、天下のことは諦めていても、自分と自分の周辺のことだけはなかなか諦めさせてくれない自我が、知らず知らず自分を蝕み、その集合である国全体を蝕んでいく。





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2016-04-13

第948回 どんな現実も、自分の潜在意識の現れ



ごめんなさい 許してください 愛しています ありがとう。

(ホ・オポノポノの4つの言葉)

 どんな目の前の現実も、100%自分の記憶(潜在意識)の現れ。

 同じことが起きていても、人によって現実の受け止め方や解釈や対応の仕方が違うのだから、その現実は、その人の記憶(潜在意識)に左右される。

 だから、すべては、自分の中に原因がある。だからといって、その原因に囚われているだけでは、ただ苦しいだけで、現実は変わらない。

 原因に囚われてばかりでなく、素直に赦しを請うこと。記憶の中の辛いことも楽しいことも、全て自分の一部であり、なかには思い出したくないこともあるかもしれないけれど、根本のところで、自分はそれらを、せつなく愛している。愛しているからこそ、ひとしおの辛さも感じる。愛がなければ、どんな感情も生じない。そのことは間違いない。

 愉しいことだけでなく、辛いことも、全て含めて、自分を作ってくれていることに、素直に感謝できるようになれば、生きていることの意味も、おぼろげながらわかる。

ごめんなさい

許してください

愛しています

ありがとう

2016-04-11

第947回 消費社会のマインドコントロール


 日本の首相は、演説をする時、いつも原稿から目を離さない。そして、借り物の言葉で語る。自分の頭で考えていないからだ。ウルグアイのムヒカ前大統領は、ほとんど原稿を見ることなく、自分の言葉で力強く語り続ける。信念を持ち、それを実践しているからこそできるのだろう。一国の指導者というのは、最低限、それができる人であってほしい。自分の言葉で国民に語れない最高指導者なんて、もしも国民投票で決めるのならば、決して選ばれないだろう。

 ムヒカ前大統領は、いったい何が問題なのか、本質を把握して、その本質に向かって、問いかけている。

 ムヒカ前大統領は、以下の内容を自分の言葉で語り続ける。

 その内容は、アベノミクスと、まったく正反対のものだ。

 

「私たちは、グローバリゼーションをコントロールしていません。グローバリゼーションが私たちをコントロールしているのです。

 マーケット経済が、マーケット社会を作っているのです。人類が消費社会をコントロールしているのではなく、消費社会が人類をコントロールしている。ハイパー消費が世界を壊しているにもかかわらず、高価な消費やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。

 消費が社会のモーターの世界では、私たちは消費をひたすら速く多くしなければなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

 このハイパー消費を続けるためには、商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは10万時間もつ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるということです。人がもっと働くために、もっと売るために、「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。

 貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人。

 根本的な問題は、私たちが実行した社会モデルです。改めて見直さなければならないのは私たちのライフスタイルです。

 毎月2倍働き、ローンを払っていたらいつの間にか老人になっているのです。幸福な人生が、目の前を一瞬にして過ぎてしまいます。

 環境のために戦うのであれば、幸福こそ環境の一番大事な要素であることを覚えておかなければなりません。」

 私は、最近、いっさいの農薬や肥料を使わずに育てた天然の綿や麻などを草木初めで着色し、丁寧に手織りで作り上げた「うさと」の服(これだけの手間をかけて、よくもまあこの値段で販売できるなあと不思議でならない)を着ている。 

 冬の乾燥で身体が痒くなったりしないし、空気に包まれているようで居心地がいいというのが一番だが、着続けていて不思議なのは、汚れないこと。化学製品のような静電気がないから埃などを吸着しにくいのか、汗をかいても化学製品のような変な匂いがしないからなのか、多少、皺になってもそれが風合いになるからなのか、10日間以上同じ物を着続けていても、まったく気にならない。着た後はハンガーにかけたまま、また気が向いたら着てということを繰り返し、買ってから一度も洗濯をしていない。

 本来はそれでよかったのではないかな。消費社会というのは、とにかく新しくピカピカの物がいいというイメージを押しつけてきて、そのため、綺麗とか清潔の概念も変えてしまった。ちょっとした体臭も、気にしすぎたり。

 消費社会の中で、私たちは、マーケットに騙され、洗脳され、価値感を歪められている。現在、世界中で猛威をふるっている消費を軸にした価値感だが、人類史の中ではごく短期間にすぎない。人類が長く続けてきたものの中にこそ、時間の中で育まれた大切な智恵が宿っていることは間違いないだろう。長く続けられるというのは、人間の快適さや幸福にとって、それが利にかなっているということなのだから。

 過去から現在そして未来に向かって時間が前に進めば人類が進歩し、快適と幸福が増すというイメージが、消費社会が作り出した最強のマインドコントロールなのだと思う。アベノミクスは、そのマインドコントロールで日本を管理しようとしているのではなく、消費社会にマインドコントロールされていることに無自覚な政治家や官僚の、ムヒカ前大統領のような深い洞察や信念も覚悟もない、現状打開のように見せかけた現状追随の膨大な官僚文書にすぎないのではないか。

 ムヒカ前大統領は、専用機も使わず、世界会議にはエコノミークラスで移動。

もしくは、他の大統領機に相乗りするという倹約家で、その分のお金で、学校を作ったりしていた。

 そして、およそ100万円の月給のうち、そのほとんどを、貧困者用公共住宅建設プログラムなどに寄付し、自身は10万円ほどで、いつも同じ服で、畑を耕したりしていた。

「大統領になったからと言って生活水準を上げる暮らしはしません。他の人にとっては足りないと感じる私の収入、私にとっては必要以上の額です。犠牲ではなく、義務なのです。」

 大統領官邸に住まない理由も、自分が大統領官邸に住むことで42人の職員を雇うぐらいなら、学校のためにお金を使った 方がいいと考えていたからだ。

 それに比べて、日本は、都知事ですら、オリンピックの為という口実で、サッカーのワールドカップを観戦するために往復266万円のファーストクラスで移動し、一泊19万円のスィートルームに宿泊。それだけならまだしも、金魚の糞のようにくっついていく都職員ですらビジネスクラスを使い、その観戦費が、トータルで5041万円にもなる。その理由として、都は、要人との急な面談やセキュリティー面などで「格式と設備がある施設が必要」と説明した。実際には、宿泊した部屋で舛添氏が要人と面会することはなかったにもかかわらず。

 ムヒカ大統領が、自分で運転する車にヒッチハイカーを乗せたことはよく知られている。そこまで腹がすわっていなくてもいいが、セキュリティのために格式と設備が必要で、1泊19万円になるという発想じたいが、ものすごく歪んでいるとわからないのだろうか。

 (腐敗する権力に戦いを挑み、6発の銃弾を浴び、4度の投獄、2年以上井戸の底に閉じ込められ、2度の脱獄を経て、13年間の牢獄生活を送ったムヒか前大統領と、減点主義の評価制度に縛られて自分の保身のことで頭がいっぱいの公務員が考えることを比較することじたいが空しいが、いくら公務員がそういう案を提出してきても、知事に信念があれば変更できただろうし、その方が尊敬もされただろうに、そのあたりのバランス感覚が麻痺しているのだろう)

 いずれにしろ、視察と称しながら何にも役に立たない知事と都職員のサッカー観戦で消費された5041万円があれば、どれだけのことができるか。

 太平洋戦争末期も、極悪非道人のリーダーシップによって国民が奈落の底に落ちていったのではなく、現状の問題に対して表面的に蓋をしたり先送りしたり、自らの保身ばかり気にする小心ものの官僚的対応の積み重ねが一番問題であったことを、忘れてはならないと思う。

 





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