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風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-06-05

第955回 人間として引き継いでいくべきものを写す写真


 現代社会は、概念としてできあがっている「問題意識」を上塗りする社会的・政治的な写真や、消費社会で商業的に成功した写真をもてはやす傾向が強い。しかし、そのどちらの写真があってもなくても、世界の見え方や、受け止め方に、そんなに大きな変化は生じない。

 だから、たとえ、その写真が過激な政治的傾向を帯びていたり、マスコミで評判を呼んだとしても、どこにでもある無難な写真である。

 誰もが概念として知っている時代社会を演繹するプレゼンテーション資料になったり、政治運動のイデオロギーの補強になるかもしれないが、それは、かなり以前から繰り返し行われてきたステレオタイプなのだ。

 そうした写真は、何度も何度も視たくなるということにはならない安易な仕事だと思うが、この消費社会において、なぜだかその類の安易な仕事に対してお金を落とす人は多く、誰もができるわけではない困難な仕事にお金を払う人は意外と少ない。”親近感”とか、”わかりやすさ”という媚びが、消費社会で成功する鍵だからだ。

 媚びのあるものは飽きられやすい。飽きられやすいから次の消費に向かう。それが、右肩上がりの経済を成功させる秘訣でもあった。

 そのように入れ替わりの激しいことを活性化と呼ぶようになり、人間として引き継いでいくべき大事なものは見えにくくなり、そのことがさらに、買う人に媚びた消費財や表現の大量生産、大量消費の構造を強化することにつながった。

 しかし、その浪費の果てに空虚しかないことに気づき始めた人も、少しずつ現れてきているのではないか。

 決まり切った現実の中で戯れるだけだったり、戯れの合間に問題意識を唱えていても、自分が時間を消費しているように、自分の言動もまた消費されるだけで、どこにも引き継がれず、自己満足にすぎないことが、次第に強く意識され始めている。

 自分の作り出したものが、受け手の中で、いつまでも残る深い記憶になったり、愛着を持って使い続けられたり、その受け手が死んだ後も誰かに引き継がれていくこと。人間は、問題の多い現実を生きながらも、そうした”永遠”につながりたいという願望を持っており、その願望が僅かでも果たされれば、限られた生に意義を見いだすことができる。

 とりわけ、表現だけを社会との接点にしている表現者は、消費社会の中の商業的成功よりも、永遠に至ることこそが最大の成功の筈であり、それを実現する為の努力も並大抵のものではない。

 しかし残念ながら、消費社会の成功者ばかりにスポットライトがあてられ、即物性のある結果を安易に追い求める人の方が多くなってしまった。そして、即物的な結果を支援するという専門学校やワークショップでは、お金を払って、即物的な結果における成功者のアドバイスに熱心に耳を傾けている人がたくさんいる。

 同タイプの結果を求める過剰競争のなかで、同タイプの粗悪品ばかりが濫造されて、写真表現が、人間として引き継いでいくべき何かを映し出すメルクマールになるなどという信頼は、もはや微塵もない。

 こうした写真表現の現状の中で、敢えて、鬼海弘雄さんの「Tokyo view」という大判の写真集を制作した。視る人に媚びた写真集ではないので、そんなに売れないだろうけれど、50年後、100年後にも残ると確信を持てるものを作りたかった。

 鬼海弘雄さんが撮る写真は、「何度も何度も繰り返して視てしまう。魅入ってしまう。そして何度視ても飽きない」とよく言われる。

 また、「その場所の空気が写っている」とも言われる。

 たまたまそう感じられるような一枚の写真というのは、世の中にわりとあることだが、鬼海さんの写真は、写真集に掲載されているほとんど全ての写真から、それが感じられる。

 場所によって、時間や季節によって、光線の具合も微妙に違ってきて、街の表情も変化していく。どのタイミングで、どこからどのアングルで撮るのかによって、視え方や感じ方は違ってくる。

 鬼海さんの写真のほとんど全ての写真から、その場所の空気感が強く感じられるのは、世界の表情、世界の見え方を、どう切り取りたいのか、鬼海さんの中に明確な設計図があるからだ。そして、鬼海さんには、その設計図に基づいて画面を作り上げ、プリントを焼き上げる技術の裏打ちがある。

 その設計図は、写真家の場合、思想や哲学という言葉に置き換えてもいい。

 写真はセンスだとか、偶然性とか、出会い頭と言う人がいるが、とんでもないことだ。写真に限らずどんな表現も同じだが、技術を疎かにしてしまうと、伝えるべきものが伝わらない。自分の技術の未熟さを棚にあげて、「視る人が自由に感じてくれればいい」などという言い方は、そんな中途半端なものを見せられても視る側は何も感じないのに、何も感じとってもらえないことへのプロテクションか、何も感じないことが感性の悪さであるかのように視る側に引け目を感じさせる詭弁でしかない。

 表現と称するもののなかには、その種の紛い物が、そこら中にまき散らされている。

 写真において、「その場所の空気が写っている」という言い方がなされる時、その空気とはいったい何なのか。

 たまたま1枚か2枚そういう感じがするという程度のものの場合、それは、空気ではなく、物をしっかりと視ていないことによる、人と物の隔絶でしかないことが多い。だからそれは、その場所の空気ではなく、それを視る人の心の孤独とか侘しさという、心の中の空気にすぎず、その空気が、その写真の醸し出しているものと、たまたま同期しただけにすぎない。

 鬼海さんの写真集のように、どの写真からも、その場所の空気が感じられるようなものの場合、その空気は、写真家が対象を視ている眼差しによって生み出されている。

 写真家が、フレームを定めて対象を視ている時、そこに在るものが現実に触れているものなのか、虚構として現実から離れたところに行こうとしているものなのか、その”あわい”と”揺らぎ”の中に写真家は存在している。その”あはい”と、”揺らぎ”こそが空気感なのだ。

 現実の単なるコピーからも、現実から完全に引き離された独善的な架空性(それを心的イメージだと煙に巻く人もいる)からも、空気感は生じない。

 ピントの合っていないぼんやりとした感じの空気っぽさを売りにする写真は、一種の現実逃避にすぎないが、”あはい”と”ゆらぎ”の空気感をまとった写真には、現実と超現実のどちらにも転ぶ緊張感がある。そういう写真は、じっくりと現実に踏みとどまり続けている写真家だからこそできることである。そのモラルのある写真家は、現実の材料を使って虚構の戯れをやったりしない。

 現実の中に、人間として引き継いでいくべきもの、商業主義によって、また暴力的な自己顕示欲によって作り出される無数の紛い物の中に埋没して見えにくくなっている物事への敬意とか慎み深さ。自分の都合のためにだけ生きるのではなく、色々な問題を抱えながらも、そこから逃げずに現実に踏みとどまり、祈るような思いで狭い現実の向こうに魂の救いを求めるという、宗教の枠組を超えて、はるかなる昔から人間が続けてきた命の引き受け方がある。そのいじらしいまでの信心。鬼海さんは、その現れを捉えるのが実に見事だ。

 そうした人間の実質とつながっているものの形は、その時々ごとに異なる時代を示しているが、形は違えど、現実と超現実の”あはい”と”揺らぎ”の中にあるという緊張感が通底しており、時代を超えても、人々の心を引きつける。そういうものこそ、人間として引き継いでいくべきものだと言える。

 もちろん、視る側に、それを受け止めるだけの基盤がないと何も伝わらない。だからといって、同時代の大勢に安易に媚びてしまうのではなく、連綿と続く過去と未来のなかにつながる人がいるという信心こそが、誠実な表現の動機となるだろう。

 写真行為は、どんな表現行為よりも、受け身である。

 観るということは、本来、受動的な行為だからだ。

 だからいっそう、表現に誠実さが反映されやすい。

 何を選び取り、選び取った対象の中に何を見いだし、何を引き出そうとするのか。そして、自分の選択や、技術の至らなさによって、対象を損なっていないかどうか、いのちの関係性を歪めていないかという自問の果てしない繰り返し。

 こうした誠意があれば、一日に何枚もシャッターを切れない。

 鬼海さんは、撮影している時間よりも、遙かに長い時間を、視ることと考えることに費やしてきた人だから、自分の言葉を持っている。明らかに鬼海さんの言葉だとわかる言葉を紡げる人だから、一目見れば鬼海さんの写真だとわかる写真が撮れるのだ。

 自分の言葉を育むこともなくカメラを持って街をぶらつきながら何枚もシャッターを切っても、人がそこに在るということの全ての意味と言えるようなものを、一枚の写真を通じて、視るものに手渡すことなどできやしない。

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鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。

詳しくはこちらまで→

2016-05-30

第954回  高齢化問題で、ふと思ったこと

 最近、身近にあった出来事で、今まであまり意識していなかったことが、自分ごとになった。

 高齢化によって様々な問題が生じることが当然ながら予測できるが、膨大な高齢者をどう支えるかという問題だけでなく、これから高齢化していく人たちの意識を、今からでも遅くないので、どう変えていくかということも大きな問題だろうと思う。

 10年後、20年後に、今のような社会保障が受けられる保証もないので、病気にならないよう、日頃から意識して健康的な生活をするということも、もちろん大事なことだ。

 そうした自分を守るためのことは、比較的、意識しやすいし、納得感もある。

 問題は、自分では意識できないまま(極端な場合、自分は正しい、自分は間違っていないと思いこんでいる)、その無意識の膨大な集積が、日本社会を歪めていくことだ。

 たとえば、保育園や幼稚園において、子ども達が遊んでいる声が周りの住民の迷惑になるからという理由で、子ども達をできるだけ外のグランドで遊ばせないとか、わざわざ遠くの公園まで連れていくという、周りの住民への”気遣い”が必要だということが言われる。また、そうした問題のため、それでなくても足らない保育園の建設が難しいという話もある。

 しかし、普通に考えてみれば、園児達が遊ぶ時間に、そのはしゃぎ声が迷惑になるという人達は、勤め人ではなく、昼間の時間、ずっと家にいる人たちだ。主婦か、仕事をしていない人、もしくは家で仕事をしている人に限られる。なかでも、特に何もすることなく、家の中でただ静かに過ごしたいという人達。その多くは、高齢者なのだ。この高齢者達が、日中、家の中で静かに快適に過ごしたいという権利意識だけを強く持つようになると、近所に、保育園があるということ自体が不快になる。

 活動的に外に出ていくような人達はいいが、何をするわけでもなく、ずっと部屋の中に閉じこもるだけだと、ちょっとしたことでも気になってしかたないのだろう。そして、こういった人達が、ものすごい人数になるのが、高齢化社会でもある。高齢化によって身体が弱まる人が膨大になり、年金や医療費の負担が若者を圧迫するという問題だけでなく、もし、自分の快適さのことしか考えられず、他者に対して不寛容な高齢者が増えると、その層は人口が多い故に政治的な力もあるので、若者や子供は、ますます窮屈な生き方を強いられるようになる。口では子ども達のために保育園は必要だと言いながら、でも作るんだったら他で作ってくれというタイプ。自分自身が、人を寄せ付けない雰囲気や言動を発しているのに、近頃の若いヤツは俺に挨拶もない、と不満をぶちまけるタイプ。高齢者に限らないが、個人主義が発達して、どこかの知事のように、自分には甘いけれど他者には厳しく不寛容な人が増えていることは間違いない。それでも、やることがあって忙しければ、そちらに意識がとらわれ、問題はあまり表面化しない。問題というのは、人間が暇になった時ほど、表面化しやすい。

 人々が快適に暮らす権利が強く主張され、行政は、その障害を取り除くことが仕事になり、そのため、昔に比べて、トラブルは減っているのかもしれない。しかし、そうしたナーバスな対策の積み重ねによって、表面的には波風は立たなくても、その皺寄せがどこかにきている。

 保育園の設置場所に神経質にならざるを得ない問題もそうだが、たとえば、能力に関係なく正社員の権利を守るという正論は、これから職に就く人のことを後回しにすることにつながり、その結果、若者の非正規社員が増える。

 両方が満たされればいいのだが、そんなに都合よくはいかないというケースはこれ以外もたくさんあり、どこかで、どちらかが折れなければならない。

 そして、どちらかが折れなければならない場合は、本来であれば、人生経験が豊かである筈の年長者が、より寛容でなければならない筈なのだが、その逆に、年とともに自分の権利意識に囚われ頑迷に主張するパターンが増えてしまっている。

 どの分野でも、後進に道を譲らない人が、非常に増えているし・・・。

 一体何故なんだろう。他者への不寛容は、根本のところで自分自身が満たされていないことが原因なのではないか。本当の意味で充実した人生というものは、地位や名誉、便利や快適といった自分を満たすことのために向けられるエネルギーだけでは達成できず、おそらく、自分よりも他者のことを優位に考えられるような円熟した境地にならないと掴めないのかもしれない。なのに、自分の心を満たそうとする欲求で自分のエゴに走れば走るほど、より不満が溜まるという悪循環に、個人も社会も陥ってしまっているのだ。

 (定年までの長い間、組織社会のしがらみで個人の意見が言えなかった反動で、定年後、急に権利を主張し始めるという指摘もある。)

 自分の傍で子ども達が騒ぎ立てるのを、微笑みを浮かべながらただ見ているだけの好好爺のイメージが、まだ理想の老人像として脳裏に残っているが、それはもう昔話の中の出来事のようにぼんやりとしたものになってきている。年齢を重ねるとともに自我(エゴ)を削ぎ落としていくのが理想の生き方だが、もし、逆の人間が増えていくようなことがあれば、日本はもう終わりだ。これから高齢者になっていく自分自身は、常にそのことを意識していなければいけないと思う。自分もまた、戦後の個人主義社会の影響を受けて年齢を重ねてきているので、意識しないと、それでなくても年齢とともに思考や感受性の柔らかさが失われていくわけだから、エゴばかりが肥大化して、その重い石が、これからの社会を作っていく若者だけでなく、自分自身の心も押しつぶしていく可能性があるから。

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鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。

詳しくはこちらまで→

2016-05-09

第953回 普通であることのすごさ

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 このたびの鬼海弘雄さんの大判の写真集「Tokyo View」を購入した方から、「1ページずつバラバラに切り離して、額装したい。」という声をたくさんいただいている。

 印刷とは思えないクオリティだと誉めていただいているわけだが、一方では、この写真集の厚塗りの黄色のニス引きを印画紙のような風合いを出すための編集上の作為だとみなし、銀塩プリントと印刷物は似て非なる表現なのだから、印刷物は印画紙の複製を目指すべきではないと批判する写真家もいる。

 誤解があるようなのだが、この写真集が醸し出している風合いは、狙ってやったものではない。鬼海さんの写真の良さを極限まで引き出すために、探し続け、追求し続けた結果としてこうなったにすぎないのだ。

 そして、何よりも、鬼海さんの写真自体が醸し出す味わいやユニークさも、狙ってやったものではない。

 写真家の中には、いかにも絵になりそうな光景を狙ってシャッターを切る人もいる。いかにも絵になりそうな光景というのは、大勢の人々のなかであらかじめ共有された感覚でもあるので、プリントや印刷が多少あまくても、「面白いね」、「すごいね」、「かっこいいね」と言ってもらいやすい。そういう光景を見つけてきて、すばやくシャッターを切れることが写真家だと思っている人も多いだろう。

 その表現スタンスは、テレビ番組などにおいて、面白キャラや、ショッキング映像などで視聴者を引きつける手段と近いものがある。

 表現とされる分野において、そういうものばかりが増え、結果として、どうすれば個性的になれるか、人より目立てるか、人に受けるかということばかりに気を使う人が増え、普通がいけないことのような息苦しい空気が社会全体に満ちている。

 そういう風潮に対して、鬼海弘雄さんの表現におけるモットーは明確である。

 普通であることが、すごいということ。普通のすごさを、伝えること。

 しかし、表現には説得力が大事で、普通であることのすごさを説得力のある表現にまで高めることは、至難の業だ。

 鬼海さんの口癖は、「一日中歩き回ってもほとんどシャッターを切れない」。「カメラは、写すための道具だと思われているけれど、肝心なことは写らない。」ともよく言っている。

 撮影だけでなく、プリントを焼く際も、普通の素晴らしさを引き出すためには、丁寧に、取り組まなければならない。世間によくあるモノクロプリントのように、黒の濃度を強くして”劇的”にすれば、作品らしく見えるという安直なことではダメなのだ。

 また、そういう安直なスタンスで撮られた写真ならば、写真集を作る上での注意も、そんなに多くない。組み方とか大きさの強弱などは当然ながら必要だが、印刷段階においては、できるだけ”黒を締める”とか、”コントラストをつける”とか、その程度の指示ですむ。実際に、校正紙に入れる朱書きも、その程度の内容だ。私も、風の旅人を50冊作ってきて、膨大な写真に朱書きを入れてきたので、よくわかる。

 実は、風の旅人の第49号で、今回の鬼海さんの写真集「Tokyo View」の中のほんの一部を紹介した。しかし、結果は無残だった。両方を持っている人は、見比べてみればその違いが歴然とわかるだろう。

 これまで風の旅人において、印刷がうまくいかない場合は刷り直しをしてきた。風の旅人の場合、雑誌といえども、読者がクオリティを期待しているからだ。しかし、49号は、刷り直しをしても完璧にはならない。なぜなら、一般的な雑誌の宿命として、鬼海さんのページと他の写真家のページを一緒に印刷しなければならない。とりわけ、49号では、一緒に印刷しなければならない他の写真家の写真が、白と黒のコントラストを重視する写真が多く、鬼海さんの写真と傾向が違っていた。

 今回の写真集「Tokyo view」は、鬼海さんの写真のことだけを考えればよかった。鬼海さんの写真の良さを引き出すためにはどうするべきか。「普通であることが、すごい」を、説得力あるものにするためには、どうすべきか。

 そのプロセスについては、5月5日のブログで書いたが、色々な試行錯誤繰り返して出来上がったものが、最終的に、「1ページずつバラバラに切り離して、額装したい。」と言われるものになった。実際に、そう考えて追加購入した人もいる。

 こういう意見を言ってくれる人は、この写真集がオリジナルプリントみたいだから額装したいのではなく、1ページごとに見入ってしまうから、そうしたいと言ってくれているのだと思う。

 なぜ1ページごとに見入ってしまうのか。それこそが、鬼海さんの写真の力なのだ。

 額に入れて飾りたいのは、部屋の装飾になるからではなく、じっと眺めていたいからであり、毎日のように眺めていても飽きないからである。

 「すぐれた小説は何度読んでも味わい深いように、すぐれた写真は何度見ても見飽きない。」

 これは鬼海さん自身の言葉だが、鬼海さんは、何度見ても見飽きない写真とはどういうものかを、カメラを持っていない時でも、ずっと考え続けているだろう。

 上に述べたような、いかにも絵になりそうな絵というのは、フェイスブックのタイムラインに流れる画像のように、見た瞬間は「いいね!」となるかもしれないけれど、部屋に壁に飾って毎日見続けられるものではない。おそらく、すぐに飽きてしまうだろう。見るたびに、発見があるということもないだろう。

 自分の心の状態というのは、日々、変化している。その変化によって、見ているものの印象が違ってくる。自然風景などの場合、そのことがよくわかる。

 しかし、表現物において、そこまで懐の深いものは、実はとても少ない。その理由は、表現をする者の心が、被写体と出会った時に、その瞬間の面白さのことにしか向いていないからだ。

 鬼海さんの場合、その瞬間の面白さだけではなく、常に、その背後に思いが寄せられている。鬼海さんの写真集は、今回だけに限らず「ペルソナ」もそうだが、写真に添える短いキャプションが絶品なのはよく知られているが、あの短いキャプションは、鬼海さんの対象に向ける目の奥行きを伝えている。

「普通であることの、すごさ」。

 普通であることと、凡庸は同じではない。むしろ、真反対であるとも言える。

 普通というのは、自然に育まれた結果としてそうなったもの。ごまかしが一点もない非凡な俳句、それも無季の俳句。鬼海さんの写真に、それを感じる人は多いはずだ。シンプルな素材だけで、その人ならではのものと思わせることが非凡なのだ。個性的であろうとして意図がみえみえの過剰は、どんな表現においても凡庸だ。

 哲学を深め、その哲学が自然に削ぎ落とされたところに、非凡な表現は生まれる。そして、非凡な表現だけが時代を超える。

 鬼海さんの写真は、そういうものであると私は思っているし、だからこそ、今回、全精力を傾けて「Tokyo view」を制作して、販売している。

 写真界のことを少しでも知っている人は、今日の社会で、大型の上製本の写真集を発行して採算をとることが、どれだけ困難なことか理解しているだろう。

 多くの出版社は、もうそういう写真集を作らなくなってしまった。世の中に出ている作家性の強い写真集は、ほとんどが共同出版という名で写真家のプライドを傷つけないように配慮をした、実質、自費出版である。きちんとした印税が支払われている写真集発行を見つけるのが困難なくらいだ。写真家も、自分の作品集ができることだけで満足してしまうからだ。ひどい話しである。

 共同出版というのはビジネスだ。しかし、ビジネスのためではなく、作品への敬意があるからこそ妥協のない写真集を作れるのであり、敬意がなければ、膨大な時間をかけることはできない。

 時代を超えるという確信があるからこそ、心の底から真剣に取り組めるのだ。

 そして、このたびの写真集を制作する根底に、作品に対する敬意があるから、デザインその他において、”受け”を狙ったり、デザイナーの”主張”を入れるという作為的なことは一切行っていない。

 表紙タイトルの入れ方や装幀がおとなしすぎて面白みに欠けて記憶に残らない、と思う人もいるかもしれない。

 面白いということがどういうことなのか、価値感や好き嫌いの違いと言ってしまえば元も子もない。

 ただ一つ言えることは、写真を撮ることも、写真集を作ることも、また料理でも衣服でも何でもそうだろうけど、「普通でありながらすごい」と感じてもらえるものづくりが、究極だと思うのだ。

 素晴らしい俳句をおさめた本を一冊作る際に、なにゆえに表紙に凝る必要があろうか。何の先入観も持たずに、作品の中にすっと入っていける表紙がいいと私は思っている。写真集に限らず、中身に自信があるものは、みな同じだ。

 人間の作為というのは、自然を歪めていく何かしらの罪を負っている。にもかかわらず、作ることが人間の宿業で止められないのであれば、自己顕示欲によってその歪みを増大させるのではなく、作ることを通して、普通に、自然に回帰していく心がけを持つことが、せめてもの罪滅ぼしではないだろうか。

 一般的には、シャッターチャンスを逃さないために常にカメラを持ち歩いているのがいい写真家だと思われているが、鬼海さんは、カメラを持ち歩かない写真家だ。鬼海さんは、写真を撮る時間よりも、物事を見つめている時間と、考えている時間の方が、圧倒的に長い。

 自分の中にないものは撮れない。だから、いい写真を撮ろうと思えば、自分を豊かにする努力以外の近道はない。はやりのワークショップや、メーカー主宰の写真教室では、そういう大事なことを教えてくれない。その真理は、写真にかぎらず、どんな物作りにおいても古今東西同じだと思う。 

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鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。

詳しくはこちらまで→

2016-05-05

 *第952回 何度見ても、気にかかる写真

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 鬼海弘雄さんの写真集「TokyoView」が完成して、発送作業に追われている。(写真集の詳細はこちら→http://www.kazetabi.jp/

 この写真集の制作には2年かけた。それだけ拘るに値する写真ばかりだからだ。

 最初の1年で写真の選択と組み方とレイアウトとデザイン。そして、印刷会社に写真を入稿して写真分解を始めたのが、2015年の正月明けだった。そこからが大変で、鬼海さんがハッセルブラッドで撮影した街の写真のディティールの繊細さ、階調の豊かさを印刷で表現することは、とてつもなく難しく、写真分解を何度も何度もやりなおした。しかも、ディティールの豊かさを伝えるために超大型の判型でデザインをしたので、その分、拡大率が高まり、粒子の粗さが目立ってしまった。白と黒のコントラストを強調してザラザラとした粒子で見せる表現の場合は、ごまかしがきくが、鬼海さんのプリントは、シルクのように滑らかなので、粒子の粗さは致命的だった。

 途中で何度やってもうまくいかないと悟り、印刷用紙を見直すことにした。マット紙の方が高級感と上質感は出るが、若干、インクを吸ってしまうために、何段階にもわたるグレーの微妙な階調が出てこない。インク乗りのいいグロス系の紙で高級感と上質感を損なわない紙を選択した。それでも、紙のピカピカとした反射は安っぽくなるので、ニスを厚めに乗せることでその欠点を補おうと考えた。最後に、そのニスの色もやり直しをするはめになり、二週間ほど納期がずれこんだ。

 そして、印刷は、鬼海さんの情報量豊かな写真の再現のために、当然ながらハイビジョンテレビや4Kと同じように、高精細印刷でやらなければいけない。

 しかし、高精細印刷というのは、校正刷りも印刷の本機で行う必要があり、全てのページの校正刷りを行うと、校正代だけで桁外れのコストになる。ましてや、厳しい鬼海さんの目で見て校正が一回で終わることはありえないので、校正のたびに莫大なコストが上乗せされることが予想され、おそろしくて手が出せない。

 そのため、高精細印刷の校正確認は一折り分(16ページ)だけにして、それ以外は通常校正を行い、高精細印刷の校正を行う16ページは通常校正も出して、その2つを見比べることで、高精細印刷の校正を行わないページの最終仕上がりを想像するという方法をとった。リスクはあるが、そうでもしないと、価格が10,000円に抑えることができなくなる。

 それが何とかうまくいって、この写真集の仕上がりを見た人が、10,000円では安いと言ってくれるものになった。

 写真集の10,000円は、一般的な通念から言えば高い。しかし、その仕上がりで、オリジナルプリントに負けないくらいのものにすれば、オリジナルプリントは数万円から数十万もするのだから、1万円では安いと感じてもらえるだろう。実際に、あとから2部追加購入をして、一部は額装用、一部は保存用、もう一部を普段見るためのものにすると言っている人もいる。

 自分で言うのもなんだが、写真と真面目に取り組んでいる人は、鬼海さんの写真を通じて学ぶところが多くあるだろうし、写真集の制作を考えている人は、現代、このくらいの価格で実現し得る1つの極点として、この写真集は、きっと参考になると思う。

 そして、私自身も、ほぼ毎日のように、この写真集を見直している。2年に渡って制作し続けてきたので、見飽きるくらい見ている筈なのに、まだ飽きない。何度見ても、飽きない写真。そういう写真は、めったにない。

 何度でも見るのは、気にかかるからだ。気にかかるのは、自分ごとだからだろう。でもなぜそれが自分ごとなのか、自分でもよくわからない。だから、飽きずに見続けてしまう。

 理由はよくわからないけれど、なぜだか気にかかる。心が惹かれるのは、そういうものである。

 コンセプチュアルな表現とか、社会問題を取り扱った表現というのは、だいたいにおいて、1度見れば、それっきりである。あらかじめ定められたコンセプトや社会問題が、表現のゴールになっていて、あとは、その処理に仕方で競い合っているだけだからだ。それは、同じことを違う言い方で言い合っているだけのこと。表現の自由を主張してはいても、物事の認識において、不自由を感じてしまう。

 鬼海さんが撮る写真は、奇をてらったところがまったくない。撮られている対象も、ごく当たり前のものである。鬼海さんは、その当たり前のものを、撮影という手段で、強いこだわりをもって丁寧に拾い集めている。そして、どんなものでも丁寧に対応されたものは、命の輝きを帯びてくる。命は、全てに行き渡っているのだけれど、丁寧に対応されなければ、命は、隠れてしまう。

 下駄箱にしまいこんだ革靴を丁寧に磨けば、生き生きと輝くのと同じで、どんなものでも付き合い方次第なのだ。

 表現は、命の抑圧に対して戦う手段であるが、命に対する配慮が十分になされていないものは、命の抑圧を増殖させるだけだ。

 損なわれたものや抑圧されたものを見せつけて命の尊厳を説くことは誰にでもできる。難しいのは、普通に存在しているものを通して、どんなものにも命が通い合っていることを実感させることである。鬼海さんは、人を真っ直ぐに撮る場合も、人の暮らす壁を撮る時も、そこに通い合っている命を見ている。自分が相手と命を通わせないかぎり、その命は見えてこない。

 表現は自由でなければならないけれど、その目的は、そんなに多くは必要ない。世知辛い世の中で、見失われがちな命への気づきを与えてくれればいい。気づかせてもらえれば、あとは自分の方法と、自分の時間軸で、命の手入れを行っていけるだろう。鬼海さんの写真が、何度見ても飽きず新鮮なのは、見るたびに、新たな命の気づきがあるからだろうと思う。

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鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。

詳しくはこちらまで→

 

 

2016-04-25

第951回 野党に期待できるわけではないけれど


 夏の参院選を占う補欠選挙が、北海道と京都で行われた。

 結果は、”逆風”が強いため自民党が候補者の擁立を見送った京都3区は民進党、前回よりかなり接戦となった北海道5区は自民党が勝った。

 日本全体を見渡すと、現時点の自民党支持率が40%ちょっと、野党に頑張ってくれというのが30%、どこにも興味がないのが30%といったところか。北海道5区の補欠選挙は、自民党の町村前衆議院議長の娘婿という相変わらずの世襲議員が勝利したが、野党が足並みをそろえて反自民の票を分断させずに獲得できれば、なんとか戦えるかもしれないという手応えは少しはあったかもしれない。あとは、どこにも興味がないという残りの30%。自民党への支持率がそんなに高くないのに自民党が圧倒的に議席数をとっている理由は、野党の足並みがそろっていなかったことと、どこにも興味がないという人が多すぎること。自民党を支持する人達というのは、自民党の政治によってメリットを得ている人達、自民党の政策に反対できない人達、もしくはその政治が変われば自分が不利益になったり混乱に陥る可能性が高いと考えている人達だから、自民党支持の40%は、夏の参院選でも、自民党に投票するのだろう。すると、どこにも興味がないという30%の人達が選挙に行かないと、また自民党の勝利になる。今の野党を見ていると、野党が政権をとっても何も変わらない、何も期待できないという大勢の心理もよくわかるし、私もそう思う。

 しかし、政府に安易に期待してしまうという心理は危険だと思う。安倍政権が、ここまで大勝利をおさめてきているのは、国民を期待させるためのテクニックをうまく使ってきたからだ。実質的なことは結果が出るためには時間がかかる。そちら方面のことは、安倍政権は何もできなかった。それに対して金融操作というのは、表面的な変化を作り出しやすい。

 https://newspicks.com/news/1519507/body/?ref=index

 これを見ればわかるように、日銀が、株価を支えるために、日本の大企業の株を買い漁り、日経平均株価を構成する9割の企業で実質的な大株主になった。指数採用225銘柄のうち約200社で日銀が保有率上位10位内に入っているのだ。当初4500億円の年間購入枠は、黒田東彦総裁による13年4月の異次元緩和で1兆円に増額、翌年10月の追加緩和で3兆円まで膨らんだ。加えて、昨年12月には設備・人材投資に積極的な企業で構成するETFを年間3000億円購入する考えも示し、今月4日から新枠を使い1日12億円の買い入れを連日行っている。

 日銀にくわえて、年金積立金管理運用独立行政法人(GRIF)も、日本企業の株を30兆円ほどを保有しているし、日銀も年間3兆円ベースで買い増しているので10兆円になっていると思われる。株価が下がったと思ったらすぐに上がるのは、こうした操作が露骨に行われているからだ。その結果、日本の全上場企業の時価総額約500兆円のうちの最大株主がGRIFで、次が日銀という、おそろしく歪んだ構造ができてしまった。

 エコノミスト達は、日銀やGRIGが相場を支えているし、大企業も現時点ではありがたいことなので、誰も批判しない。大企業をスポンサーにしているメディアも同様だ。しかし、これが続くと、確実に、政府の管理下におかれることになる。

 最近、メディアに対する政府の露骨な介入が目立っており、その事実ばかりが批判されるが、いくら批判されても止まらないのは、金融操作によって、安倍政権の大企業に対する影響力が、じわじわと拡大しているからだろう。そして、いったんこういう構造ができてしまうと、株価の下落によって年金資産が大幅に減少するなど恐ろしいことが起こるから、問題意識を持っていても、誰もネガティブなことが言えなくなる。

 背後に潜んでいる問題のことを知らず、金融操作によって株価があがるなど表面的な良い変化が生じているから、40%くらいの国民が安倍政権に対して相変わらず期待している。次の参院選でも自民党が大勝利してしまうと、変化をわかりやすくするための操作を、金融以外のことでも、色々とやるだろう。法律改正というのが一番のポイントだ。

 しかし、金融操作と同様に、国民に伝えられることと、その背後の事情は、別である可能性が高い。(悪人を征伐するという大義名分で、新型兵器の見本市としての他国への武力攻撃などは常套手段だ)

 当然ながら、本当のことは隠される。そして人気取りのメッセージだけが表面化する。その時、大企業やメディアに対する影響力を増大させている政府は、自分の人気を落とすような言論に対して、今以上に厳しい締め付けを行うだろう。安倍政治は、そのような子供じみた浅はかなことを平気でできてしまうのだが、その横暴が通っているのは、国民が子供じみているからだ。

 小泉政権の頃から顕著になっているが、発言も容姿も、外面だけ整えたものに簡単に引っかかるようになっている。そして、わかりやすいことがあたかも美徳のように、知識人も含めて、単純化されたものへの共感、熱狂というファシズムの精神的土台を準備している。

 政治は複雑でわかりにくいものでかまわない。だから政治家は老練であってかまわない。そういうものだと理解したうえで、国民もまた、政治家の腹を探るくらいの用心さがあった方がいい。政治と国民が子供じみた単純な共鳴現象を起こすことが一番恐いのだ。そうした共鳴現象が広がってしまうと、少し外れたことを口にするだけで、異端分子、売国奴とみなされて、激しい攻撃がくわえられる。民主主義の社会なのだから大丈夫と思っている人が多いかもしれないが、民主主義の社会においても大半の人は企業に所属しており、企業に生活の糧を握られている。自分の所属する企業が政府の管理下におかれ、自分の意に反したことを進めようとしていても、それに異論をはさむことは簡単ではない。それができるのは、会社を首になる覚悟や、その余裕がある人だけだ。

 政府を慮った報道番組のキャスター降板。テレビ朝日「報道ステーション」の古舘伊知郎、TBS「NEWS23」の岸井成格、NHKも「クローズアップ現代」の国谷裕子、こういったことは氷山の一角だ。

この状況に対して、「メディアは、権力に対し、批判すべき点は批判するというジャーナリズムの役割をきちんと果たすべきだ」とステレオタイプの注文をつけたところで何もならない。

 政府に首根っこを押さえられている組織においては、今後、政府による干渉はますます露骨になり、それに従わざるをえなくなっていくだろう。

 だから、志のある人は、政府に首根っこをおさえられた組織に従属し続け、その中で抵抗するのではなく、新たな組織やシステムを作っていくしかないのだ。とくに、メディアは、まだまだテレビ局や大新聞の影響力が強いのかもしれないが、そこから志のある人達が抜けて別のものを立ち上げていく流れができれば、あっという間に局面が変わってくるだろう。

  VICE MEDIAのような、既存のテレビ局とはまったく異なるこの時代ならではの映像メディアが数多く生まれてくれば、政府の報道管制によって情報が一色に染められることも防げる。

 太平洋戦争の時と違って、私たちが生きている時代は、それができる時代でもある。

 しかし、その環境が整う前に、安倍政権が強引に物事を進めていき、社会の構造が変わることを恐れる大組織などが政府の動きと足並みを揃えて、現在の支配体制が、より強固になってしまうことが一番恐い。

 政府に世の中を変えてもらうことを期待する必要なんかない。安易に期待することの方が、厄介なことになる。

 遠回りになってもいいから、ゆっくりと自然に変わっていく、そのペースに合わせて、自分の暮らし方や生き方を変えて整えていけばいい。そのための時間稼ぎがもう少し必要だ。

 だから、この夏の参院選挙は、野党に期待しているわけではないけれど、自民党を調子づかせるのはよくない、という大人の判断が大事だろう。その判断を、どれだけの人ができるかで、この国の行く末が決まっていくような気がする。




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2016-04-20

第950回 自分ではどうにもならない困難と、自分で何とかするしかない課題

 

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 この世界には、自分ではどうにもならない困難と、自分で何とかするしかない課題がある。長い人生で、ずっと順風満帆に行くことはありえず、どこかで間違いなく苦しい困難に遭遇する。自分で何とかするしかない課題の場合は、自分を鼓舞したり気分転換をはかったり、どこかにいい智恵がないかと一生懸命に探したり、とにかくやれることは何でもやるしかないし、そういう必死の努力ができるかどうかで、その課題を乗り越えられるかどうか決まってくる。

 しかし、自分の努力の範疇の外にあって、自分ではどうにもならない困難は、何とかしたくても、何ともならない。そうした困難でも、終わる時がくることを知っていれば、心の苦痛は軽減する。しかし、多くの場合、その渦中にあるあいだは、その辛さが永遠に続くかのように感じてしまう。だから、辛さに打ちのめされて自暴自棄になったり無気力になったり、それまで普通にできていた自己管理もできなくなり、健康を損なったり、心が蝕まれたりする。その結果、当初は1つであった困難が次々と膨れあがってしまう。

 自分ではどうにもならない困難に遭遇した時、その1つの困難で止めることができず、連鎖的に他に悪循環が及ぶかどうかは、自分次第ということも多い。

 とはいえ、悪い状況が起こった時に、その悲しみや苦しみに囚われてしまい、よりいっそう悪い流れを作りやすいのが人間だ。賭け事でも、少し負けた時に辞めてしまえばいいのに、負けを取り戻そうとムキになってさらに負けを膨らませ、途中から自棄になって一発勝負で取り戻そうとして途方もない負け方になることはよくある。

 また、悲しいことがあると、悲しさを忘れようとして酔いつぶれてしまい、翌日、さらに悲しみが増し、その悲しみを忘れようと酒量を増やして、しまいには身体を壊してしまい、人生も壊してしまうこともよくある。

 特に日本人は、情にもろいというのか、個人での対応に慣れていないというのか、酒を飲むにしても、独りでしみじみと楽しみを味わったり苦しみを噛みしめながら飲むのではなく、楽しむためにはみんなで宴会騒ぎ、苦しい時もみんなで憂さ晴らしで大騒ぎ、でないといけないかのような空気がある。

 楽しい時は、みんなではしゃがなければならないし、苦しい時は、みんなで乗り切らなければならないのだ。どちらであれ、大きな”騒ぎ”になる。

 太平洋戦争にしても、始めてしまったものは、今さらその是非を論じても仕方がない。ただ、ガダルカナル島やミッドウェー海戦で負けた時に止めておれば、あんなに悲惨なことにはならなかった。敗戦するにしても出来るだけ良い条件を引き出したいから、という小心ものの往生際の悪さによって、終戦前の半年で、それまでの数年の何倍もの被害へと拡大させることになってしまった。

 この歴史的教訓を、常に頭に置いておく必要がある。

 原発の場合も、数十年前は、多くの人が夢のエネルギーだと信じていたのだから、やり始めたことに対して今さらその是非を論じても仕方がない。しかし、2011年の福島の原発事故は、もしかしたらガダルカナル島やミッドウェイ海戦の敗戦に等しいのではないかと、思いをめぐらす冷静さは必要だろう。

 にもかかわらず、このタイミングで、頭に血が上っている安倍政権は「1億総活躍社会の実現」ということを言い始めた。このたびの九州の地震も、「オールジャパンで支える」と言う。安倍首相の話しぶりの特徴は、視線は原稿を丸読みだけれど、ポーズとか語尾の断言口調だけで”勇壮さ”を誇示するところであり、太平洋戦争末期の日本の幹部も、こんな感じだったのではないかと思わざるを得ない。

 状況はよく似ている。

 ガダルカナルやミッドウェイの戦いに敗れた時に、東京空襲や原爆のことを予測できなかったから突き進んだように、福島原発事故の後でさえ、伊方や川内の原発の事故が起こりうる根拠を特定できないという理由で、このまま突き進むのだろうか。

 先のことを完全に予測することは不可能でも、”置かれている状況の悪さ、その先の不吉さ”は、察知できるはずだ。

 政治的判断というのは、その先の不吉さに対して手を打つことであり、歴史に残っている名将は、その判断と決断ができた人物たちだ。

 「原子力規制委員会という専門家が、原発を止める科学的根拠がないと言っているから、それに従うだけ」というのは、もはや政治ではない。それは、太平洋の制空権を完全に失った後でも、まだ負けると決まったわけではないと言っているようなものだ。科学的予測ではなく、不吉さに基づく行動の方がどれだけ大事なことか。

 原子力規制委員会は、「基準の整合性は見ていますけれど、安全であるとは私は申し上げていない。」と言っている。つまり、不吉さはあるということだ。

 自分ではどうにもならない困難に巻き込まれて悲しみに打ちひしがれている時、それまできちんと行っていたことができなくなる。人間である限り、それは仕方が無いことだと思うが、しばらく続いた時に、このままこういう状態が続くとマズイのではないかと自分の先行きに対して不吉を感じること。不吉を感じたら、すぐに意識を切り替えること。

 おそらく、人生において自分の力で何とかするべきことというのは、こうした切り替えなのだ。誰も前もって何が起こるか完全に知ることなどできない。読みが外れることは何度でもある。そうして痛い目に遭ったら、不吉に対して敏感になる。不吉には科学的根拠などない。不吉を感じているのに、科学的根拠を持ち出してその不吉を打ち消そうとすることが、悪循環を招く。

 そして、不吉を感じていたくせに強行して、より悲惨な状況になってしまったら、「想定外だった」と言う。指導的立場にありながら、「想定外だった」という言葉を簡単に口にするような輩は、最初から指導者の資質がなかったということだろう。

 日本が今陥っている経済的に困難な状況は、誰のせいでもない。多くの発展途上国から富を奪うことで限られた先進国が豊かさを享受できた時代は終わったのだ。ベトナムや中国だけでなく、アフリカやアジアをはじめ、さらに多くの諸国が経済発展をしていけば、相対的に、日本の経済は苦しくなっていって当然だ。それに抗うことが、自分で何とかするしかない課題だと思っている人が多いが、限界があると思う。

 自分で何とかするしかない課題というのは、流れに抗うことではなく、その先に不吉を感じるのであれば素直に限界を認めたうえで意識を切り替え、謙虚な生き方の価値感を構築していくことではないか。

 地震や台風など、自分ではどうにもならない困難を数多く経験してきた筈の日本人は、科学的証拠よりも、不吉をベースにした智恵と、備えと、素直さや謙虚さを身に付けてきた筈なのだ。

 人生は限られている。人は誰でも死ぬことが決められている。どんなに最新の高額医療を受けたところで寿命は少し延びるかもしれないけれど永遠の命は得られないし、タックスヘブンを利用して莫大なお金を隠しても使い切れない。

 だから、命やお金をどう使うかは、畢竟、価値感の問題であり、その価値感は、ともすれば世間の風向きに左右されがちであるが、自分次第なのだと思う。敗戦するくらいなら自決、というのも1つの価値感。原発事故を見て見ぬふりをして派手な消費生活を続けるのも1つの価値感。火星に移住したいと思うのも、人類の夢なんかではなく、1つの価値感にすぎない。(私はまっぴらゴメン。火星よりもサハラ砂漠の方が遙かにマシ)。また、自分で手に負えない困難に遭遇した瞬間、自分の人生はもう終わりだと自暴自棄になるのも、人の営みとはそういうものと腹をくくるのも、究極において、価値感によるところが大きい。

 当たり前のように自分に染みついている価値感をいったん洗い流してみることは、簡単ではないけれど、今、自分で何とかしなければならない課題だという気がする。その課題に向き合わないと、自分が陥っている困難が1つではなく、連鎖反応のように、どんどんと膨れあがってしまう恐れがある。個人でもそうだし、社会もそうだ。歴史的にも、経済問題が戦争へとつながっていったことが何度でもある。教訓というのは、知識の獲得ではなく、不吉な感覚を身に付けることだ。





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2016-04-19

第949回 ”これまで通り”の果てに

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(地震によって破壊された阿蘇神宮 画像:NHKニュースより)


 日本を縦に貫くフォッサマグナと、横に貫く中央構造線にそって、東の鹿島神宮から長野の諏訪神社、伊勢神宮など、重要な神社が建っていることは前から気になっていた。大地が引き裂かれたり押されたりしているわけだから、電気や光など何らかのエネルギーが発生していることは間違いなく(それを察知できる生物は、驚いて事前に動く)、現代人には感じ取れないそのエネルギーを古代人は感じ取っていただろうし、実際に、その場所で、地震をはじめ様々な神の怒りのような天災も起きていたのだろう。その中央構造線に、愛媛の伊方原発や鹿児島の川内原発など原子力発電所が建てられていること。そのうえで、川内が、現在、日本で唯一稼働中の原発で、危険なプルサーマル原発である伊方が、7月に再稼働が予定されていること。この2つが、今起こっている熊本や大分の大地震の両隣であることが何かとても暗示的で、不気味で、そうした考えを非科学的と批判されるかもしれないけれど、気になる。

 しかし、”科学”の英知を総動員して行われる地震予知が、まったく当たらず、地震研究は、いつも起こった後の説明ばかりである。

 つまり、科学というのは、けっきょくそういうもので、終わった後の分析・研究であり(宇宙誕生の探求も含めて)、過去の分析が未来に役立つという前提で莫大なお金が投入され、ロマンとされるわけだが、過去の分析という過去に対する傲慢な態度よりも、過去の教訓に学ぶという姿勢の方が未来にとって大事なことであり、その謙虚と厳粛こそが、日本の精神文化の根底に流れていて、神社は、その要なのだろうと思う。このたびの震災で、中央構造線の上に立つ阿蘇神社が崩壊している姿を見た時、聖なる生物が潰れて死んでしまったかのように見えて、大きなショックを受けた。

 世の中には雑多な情報が多すぎて、大切なサインがそれに紛れて見落とされる。

 意識を攪乱させる姦しい処世的な雑音を排して、古代人もそうしていたように、じっと目を凝らし、耳をすませて、自分がどうあるべきかを、謙虚に、考える時なのかもしれない。

 しかしながら、九州に大地震が発生して、どのテレビチャンネルも自粛して震災報道になった時に、その”自粛”を批判して、被災地にいない人々は、できるだけこれまで通りの生活をしながら被災地の為にできることを考えてすべきという意見があったが、数日が経ち、これまで通りの番組が流れ出した。

 震災前であれ後であれ、今のテレビ番組は、どのチャンネルも、常に、キンキンとした笑い声が絶えない。中には、相変わらず、グルメや大食いのものもある。その番組のあいだ、頻発する地震ごとに、震源とか震度とかテロップが流れる。番組を見ている時に、そうしたテロップを見るのではなく、ニュース番組を探してリモコンを動かしているあいだに、笑いと震災テロップが重なった画面を何度も見ることになる。これは、ものすごく違和感を感じる。私たちの”これまで通り”というのは、まさに、こういうことなのであり、意識を攪乱させる姦しい処世的な雑音だらけなのだ。

 お笑いなどを”自粛”をしたうえで現地からのニュースを伝えているとされていたあいだも、神妙な顔をしているというだけで、実際にやっていることは、”これまで通り”だった。

「テレビ局なんですけどお、どんな揺れでしたか?」「今のお気持ちは?」という決まりきった質問、そして都合のいい答、欲しい言葉だけもらったら、はい次に行こう、というスタンスは、これまで通りで、震災の最中のテレビの中の安易なバカ騒ぎと同様、違和感を感じる。目の前でとてつもないことが起こっているのに、じっと目を凝らし、耳をすませて考えさせるような伝え方にはならない。

 この10年、IT技術の発展による流通・製造をはじめとする様々な社会変化、金融危機、東北の震災、原発事故など、あきらかに、これまでのやり方を変えなくてはいけないという状況ではあるけれど、テレビ番組のスタンスは、何も変わっていない。テレビが悪いというよりも、テレビは、何かを象徴しているのだろう。”人生には色々と辛いことがあるけど、あまり深刻に考えたくない、考えてもどうにもならないことは考えたくない、今を愉しく生きられればいい、人が陥っている不幸はもちろん見ていて辛いけれど、だからといって自分が何かできるわけでもないし、自分も安泰ではないので人のことはそんなにかまっていられない”という大勢の感覚を、きっとテレビが代弁しているのだろう。テレビが変わっていないというのは、私たちが変わっていないということなのだ。

 その根底には、無気力があり、諦めがある。

 諦念じたいは、悪いことではない。

 今も南九州では絶大な人気を誇る西郷隆盛の言葉に、「いのちもいらず、金もいらず、名もいらぬ人は始末にこまるなり。されどこの始末にこまる人ならでは、天下の大事に任じがたし。」というのがある。

 無欲に徹し切った人は、心を惑わされないので、人に簡単に操られない。だから、扱いにくい。利用しにくい。

 諦めるならば、そこまで諦めきらなければ、自分では気づかないうちに、欲や保身につけこまれて、うまく利用される。政治家の人気取りの政策というのは、ほとんどがそうだし、経済界にも、その類のものが多い。ヒット商品というのは、”始末に困らない人”がターゲットであることは間違いない。

 国民が、”始末にこまるような人達”になれば、我欲に簡単につけこまれることもなく、きっと何かが変わるのだろう。多くの国民がそうなることは不可能でも、せめて指導者とされる人からでも、そういう人が出てくれば、変わっていくのだろう。

 しかし、西郷隆盛のように高潔な指導者は、もうほとんど見られない。多くのケースで見られるのは、それとは真逆の執着ばかりだ。自我が肥大化してしまい、自分の周辺のことだけは、なかなか諦めきれない。誰が悪いとかではなく、天下のことは諦めていても、自分と自分の周辺のことだけはなかなか諦めさせてくれない自我が、知らず知らず自分を蝕み、その集合である国全体を蝕んでいく。





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