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風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-01-07

第977回 競争から共創へ、利己から利他へА‘本の歴史や伝統!?


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 山頂に巨石が祀られている六甲の比売神社を訪れた。最近、神社を頻繁に訪れているが、神社の建物そのものより、その場所に長い年月を超えて存在し続けている大木や巨石に心惹かれる。

 原生林の中の巨木も素晴らしいが、人間の傍で人間の営みの影響を受けながら、無数の人間に触れられたり人間の息吹を感じながら存在し続けている大木や巨石は、独特の気配を発している。

 私たちが生きている地球は、地磁気や気圧、風向き、陰日向、気温差など、エネルギーの流れがある。無数の人や車が動いても、エネルギーの流れは、乱れたり、方向を変えたりすることがあるだろう。

 私は、神様や仏様のことはリアリティを感じることができないが、エネルギーの流れは、実感できる。家でも会社でも街中でも自然の中でも、心が淀む場と、心が活性化する場は、明らかに違いがある。人間の生命活動は、消化や呼吸など化学反応なのだから、自分の意思とは別に環境のエネルギーの影響を受けるのは当たり前のことだと思う。

 利便性とか経済効率のことばかり考えていると、その当たり前のことを見失ってしまう。

 風雪に耐えて、時には戦乱など人間の罪業を乗り越えて生き延びてきた樹木や、人類が誕生する遥か以前から、激しい環境変化を何度も乗り越えて存在し続けている石の姿は、凄まじいエネルギーの流れや、エネルギーの緊迫した均衡の形のように見え、命の姿が現前化しているように感じられる。

 自分を媒介としてエネルギーの通り道を作ったり、溜めを作り、適時、周りにエネルギーを配り、配っている。だから、周りも元気になる。

 人間もまた、そうあるべきなのだが、ともすれば利己的な傾向を持ちやすい現代人は、エネルギーの流れや均衡のことよりも、自分の都合のために外部のエネルギーを使うという意識しか持っていない。そのため、周りは、エネルギーを失い、不活性になり、淀んでしまう。結果的に、その環境の中にいる自分のエネルギーのバランスもおかしくなり、不幸になってしまう。

 最近、神社本庁が、日本の歴史と伝統を守り伝えるという大義名分をふりかざし、自民党政権と足並みを揃えた改憲活動を行ったりしているが、そうした活動を行っている神道関係者は、はたして大木や巨石と心を通わせたりすることがあるのだろうか。

 天皇陛下は、人間世界の王になどなりたいと思わず、自然界の摂理を損なわない媒介者でありたいと考えているのではないか。

 歴史や伝統を守り伝えるというのは、皇室神道、天皇崇敬を軸に国家をまとめあげるということではなく、自然の命との関わり方を深い精神文化へと洗練させてきた知恵や技を、見失わないようにし、子孫へと伝えていくことだろう。

 人間というものは弱い存在であり、その弱さが、人間組織への盲目的な従属につながって、集団に紛れて良心の呵責のない行動を平然と引き起こしたりする。

 太古の昔から、人間は、なぜ巨石や大木を崇めてきたのか。その姿形が、人間の都合という範疇を遥かに超えた森羅万象の存在意義を暗黙のうちに伝えてくるからではないか。そして、日本人が洗練させ深めてきた精神文化は、人間の弱さを自覚しながらも、森羅万象の摂理にアクセスすることで、人間も含めた万物の存在意義を、美しく、潔く、現前化させることなのだ。その力によって、弱さは昇華され、悪業につながりやすい人間集団への盲目的な追随と従属を防ぐこともできる。

 にもかかわらず、宗教だけでなく伝統文化の関係者も、日本の歴史や伝統を守るため、日本人としての誇りを持つため、などと主張しながら、組織的な活動を展開し、組織の巨大化をめざし、組織が生き延びるための策を弄し、組織の縛りを強めて従属を強いる傾向が目立つ。

 宗教にしろ、文化にしろ、徒党を組んだものは、あまり信用できない。それこそが、忘れてはならない歴史の教訓だ。

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2017-01-04

第976回 競争から共創へ、利己から利他へΑ>討涼罎猟擦蓮△い弔い捗个笋襦

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(元伊勢 皇大神社

 かごめかごめ  籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった  後ろの正面だあれ?

 今年は酉年。首相も都知事も、大空を飛ぶ鳥のように俯瞰の目で見ながら手を打っていくと、年頭の挨拶で述べていた。

 しかし、実際には、鳥が大空を舞う前に、囚われた籠の中から、いつ、どのように出るかの方が大事な年になる。

 2017年の初詣は、丹後の天橋立のすぐ傍の籠神社と、その奥宮の真名井神社、若狭湾から由良川を遡った元伊勢皇大神社、元伊勢豊受神社と、元伊勢ではないかと議論されている4つの神社を訪れた。

 昨年末、12月に冬至の太陽に合わせて三重の伊勢神宮に行き、宇治橋の前の大鳥居から昇る太陽を見たが、その冬至の太陽のライン上に位置するのが、京都の下鴨神社、丹後の元伊勢豊受神社、そして、日本海に浮かぶ隠岐ということになる。

 そして、丹後から戻ってから、なぜか冒頭の「かごめ かごめ」の唄が、気になってしかたがなくなった。

 この「かごめ」の唄は、籠目だから丹後の籠神社の唄であると、籠神社自身が主張しているらしいが、丹後にかぎらず、全国にこの唄は広がっている。そして、この歌詞の意味は、いろいろな説があって、どれが正しいか今のところ誰も言えない。

 なかにはダビデの星がどうのこうのとか、陰謀説もあるが、理屈をつけて謎解きをするほどのものかと思う。

 しかし、この短い唄は、とても謎めいていて、心の深いところに語りかけてくる何かがある。だから、様々な謎解きが行われているのだろう。

 とくに、「後ろの正面だあれ?」という言葉に、ドキリとさせられる。

 背中から何ものかに見られているような感覚。

 「かごめかごめ」の遊びでは、鬼は目隠しをして座り、それ以外の子供達が唄を歌いながら円になって鬼のまわりをまわり、「後ろの正面だあれ?」 と鬼に問うて座る。そして、鬼は、自分の後ろの子を当てなければならない。

 だとすると、歌詞は、「後ろにいるのはだあれ?」でもいいのだけど、「後ろの正面だあれ?」となる。

 でもそんなに深く意味を考えなくても、歌っている子供達が、鬼の背中側を意識してまわりをぐるぐるまわっているのだから、鬼に対して、あなたの”後ろの正面にいるのはだあれ?”と問うているだけなのだけれど、”自分の後ろが、相手の正面である”という感覚の意識化が、なんとも言えない気持ちさせるのだ。

 それはまるで、ご先祖様の守護霊に、背中からじっと見つめられているような感じ。

 さらに、「籠の中の鳥は、いついつでやる」という言葉も、輪の中で目隠しをしている自分と重なる。まさに、鬼になっている時の自分は、籠の中の鳥みたいな不自由な存在だと自覚させられる。

 「夜明けの晩に」という言葉は、「夜明け」という言葉がきて太陽の光が差し込んでくるイメージの後に、「晩に」という言葉がくると、今はまだ暗いというイメージが浮かぶ。

 鬼である自分は目隠しをしているので、実際にはまだ暗い状態であるが、でも、夜明けがやってきそうな予感は与えられる。

 「鶴と亀がすべった」。すべったという言葉は、「滑る」ではなく「統べる」だという説もある。統合とか統治するという意味。同時に、座を外すとか、位を退くという意味もあって、意味としては逆になる。鶴と亀は、鳥と亀で、それは陰陽を表すという人もいるが、鳥ではなく、鶴なのだから、鶴のイメージを自然に受け止めればいいような気もする。鶴と亀と言われると、私は、めでたさの象徴だという気がする。

 そして、真ん中で目を閉じて座っている鬼の感覚として唄を聞いていると、夜明けの晩という暗い時に、鶴と亀がすべると言われると、すってんころりんと滑ったのかという気になる。鶴と亀はめでたいものだが、もう当てにできないという気持ちだ。

 そして、「後ろの正面だあれ?」と問われて、うまく答えられないと、籠から出られない。

 何かの囚われの身になっている不自由な自分がいて、暗闇の中で座り込んでいる。籠から抜け出て飛び立つ夜明けは近いのだけど、鶴とか亀はもう当てにできないんだよ。おまえの後ろでおまえをじっと見ているものは何? 当ててみな。と問われている。「かごめかごめ」の唄は、私にはそう聞こえる。

 自分の後ろには、自分がたどってきた道もあるし、自分をここまで導いてくれた様々な人があるし、ご先祖様もそうだろう。自分が生まれ育った風土もそこに含まれる。自分の身体と精神を育ててくれた全てのものの延長に、自分がある。そのことに気づかないと、いつまでも自分の損得や都合しか考えられず、不平や不満に囚われて不自由であり続ける。籠の中の鳥というのは、様々なしがらみや分別や我欲に心が縛られている状態だろう。

 鳥が籠から出て自由になるためには、自分の後ろを意識しつつ、同時に、それらの前にある自分を意識しなくてはいけない。今の私の心理状況では、そうした解釈が、もっともピンとくる。  

 

 若狭湾の天橋立の根元にある籠神社と真名井神社を訪れた後、酒呑童子の鬼伝説でも知られる大江山(大江山の周辺に金属精錬に関する地名が多く、鬼とは金属精錬・冶金の職能集団だとする説がある)を抜けて、元伊勢皇大神社を訪れた。

 元伊勢がどこかという議論は、いろいろあるが、その特定は、どうでもいいと思う。元伊勢という言い方は、伊勢神宮を基準にしているわけだが、伊勢神宮じたいが、そんなに古いわけではない。20年に1度の式年遷宮が始まったのは、天武天皇14年(685年)に、式年遷宮の制が制定されてからで、大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の時、天照大神に先勝祈願をして勝利をおさめ、これが契機となって天照大神は皇祖神への道を歩みだしたといわれている。

 しかし、それよりも古くから人々の信仰を集めていた場所は、縄文時代からたくさんある。

 丹後の元伊勢皇大神社も、そのうちの一つだろう。日本で一番美しいピラミッド形の山と言われる岩戸山さんが近くにそびえ、夏至の日、皇大神社の遥拝所から見ると、その山頂に太陽が沈む。また、近くには縄文時代のものと推測される祭祀跡が見つかっている。近くには、金属鉱山もある。

 また、初めてこの地を訪れて気づいたのだが、日本海に向かって車を走らせながら、道中、険しい山越えをしているという実感がなかった。

 日本列島は、背骨のように東西を貫く高い山々があって、裏日本と表日本を分けているというイメージを持っていたけれど、丹後の元伊勢皇大神社(内宮)、豊受大神社(外宮)の傍を流れて日本海の若狭湾に注ぐ由良川と、逆方向の瀬戸内海の播磨灘に注ぐ加古川を結ぶラインは、わずか95.4mの標高という日本でもっとも低い分水界を越えて、南北に行き来することができるのだ。だから、由良川は、満潮の時は、かなり奥までその影響を受ける。

 そしてもしも海面の高さが100m上昇すれば、舞鶴から播磨のラインで日本列島が東西に別れることになる。

 私は、明石市の西の端で生まれ育ったが、そこは加古川下流に近いところで、播磨平野というだだっぴろく単調な平野のことと、北から吹き抜けてくる風の冷たさと強さは、経験上知っていたが、播磨から若狭湾まで自転車でも簡単に抜けられるほどの標高差だとは知らなかった。

 播磨は、自分ではずっとローカルな場所だと思っていたのに、陰陽師のふるさとと言われたり、日本で一番美しいと言われる姫路城があったり、宝殿とか高砂とかめでたい地名が多かったり、源氏物語で、なぜか”明石”がもっとも重要な意味と役割をもったり(光源氏の死後は、源氏と明石の君のあいだの子孫が、もっとも榮える)、そこで生まれ育ちながら、その土地の重要さは、考えたこともなかった。

 明石海峡が、瀬戸内海と太平洋の境界にあたるので、漁場として、また海上交通において重要で古代から海人と呼ばれる人たちが活躍したことは知っていたが、中国や韓国から若狭湾を経て、元伊勢皇大神社のあたりから播磨に抜けるルートもあったのではないかと考えると、歴史的な意味が、まったく違ってくる。

 おそらく、生まれ育った故郷を捨てて東京や大阪に出て生きている多くの人たちも、自分の出身地の近くに古くからの重要な場所がいくつもあるというケースは多いはずだ。

 物の流れ、人の流れは、現在と古代ではまったく違っている。

 それはともかく、由良川の近くにある丹後の元伊勢皇大神社は、今まで訪れた日本の神社の中で、もっともいい”気”を感じさせる神社の一つだった。ここは山全体がご神体で、それがそのまま神社になっているようなところで、自然が自然のままに置かれているが、その朽ちていく様も美しい。

 三重の伊勢神社が、徹底的に人為が関与することで、神々しいまでの清らかさが満ちているのに対して、丹後の元伊勢皇大神社は、自然本来の聖性が、活かされ、その結果として、自然のエネルギーが、山全体に、美しく循環しているように感じられた。自然のエネルギーをそのまま放置して人間を畏怖させるだけでなく、自然のエネルギーの流れ道を作ることによって、自然を管理するのではなく、かといってただ恐れるのでもなく、自然の大きな力を自分に取り込んで自らの活力とすることができる。自然信仰の本来の姿は、こういうものだったのではないかと思い、自分のこれからの活動に、大きなヒントになると直観した。

 大和朝廷がどこにあったかとか、卑弥呼は誰なのかとか、古代に関する議論は色々とあるが、それを突き止めたところで知的好奇心を満たすだけなら、あまり意味がない。

 それが自分の生き方にどう関係してくるかの方がはるかに大事だ。

 歴史の教科書や、それ以外の正当と認められていない無数の古代史の多くは、戦いと征服の話が基本になっている。

 しかし、そういう見方は、現代の世界観をそのまま当てはめすぎているのではないかという気がしてならない。

 古代から大切に守られてきたものを、後から来たものが、取り込み、融合し、未来へと引き継いでいくこともあっただろう。神仏習合で行われたようなことが、縄文の時代から何度も行われただろう。もちろん、時折、明治維新のような原理主義的な運動があって、一方の都合で一方が激しく破壊される出来事があったかもしれない。しかし、全体の調和を無視した運動は続かず、長い時間のなかで、また異なるもの同士が、うまく調和していく方法が探られたのではないか。

 砂漠のような過酷な環境で生か死かと二者択一を迫られる風土ではなく、森という全体の調和と循環こそが全ての存在するものにとって欠かせない風土で、日本の思想文化は生まれ育ってきた。

 籠の中に囚われている状態から出るためには、こうした我々のバックグラウンドをきちんと認識することが大事なんだろう。

 偶然かもしれないが、若狭湾と播磨灘を結ぶ加古川は、古きを加えると書き、由良川は、良い由(来歴、由緒)と書く。

 新しさというのは、過去と断絶したところに現れるのではないのだ。

 安倍首相は、2017年の年頭会見で、「経済最優先、デフレ脱却に向けて、金融政策、財政政策、そして成長戦略の三本の矢をうち続けていく」と語った。経済最優先!といった掛け声は、何も考えずについていくだけで豊かになれそうな錯覚を与えるが、それは、鶴亀に対して幸運を委ねるようなもので、そうした安易な姿勢と思考で、複雑な籠の中の鳥が、外に出られるはずはない。

鶴と亀は、すべった。

後ろの正面だあれ?

 

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2016-12-27

第975回 競争から共創へ、利己から利他へァ/祐屬伴然をつなぐ宗教

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 伊勢に行った。冬至の前後、太陽は、伊勢神宮の内宮の宇治橋にある大鳥居から昇るというので、それを見るために。

 夏至の時は、夫婦岩の間から昇り、その延長線上に、富士山と鹿島神宮があり、その逆方向は、高野山から剣山を通り、高千穂に至る。日本を南北に引き裂く中央構造体と重なるのが不思議だ。

 太陽のラインに沿って聖地があるのは、太陽観測に基づいて聖地を定めていけばいいので、そんなに不思議ではない。しかし、その太陽のラインが中央構造体と重なっているのは、人為を超えている。

 ちなみに、冬至の日の太陽のラインは、丹後の元伊勢と、伊勢神宮をつないでいるが、そのあいだに京都がある。京都は、やはり風水に基づいて遷都されたのだろう。 

 神社というのは、神様がそこにいる建物だと思われているけれど、実際は、神社という建物の裏山に奥の院があって、そこが本当の聖域だったりするわけで、建物は、一つのランドマークであり、その周辺全体が聖域であることは間違いない。

 伊勢の内宮(皇大神宮)に行くと、そのことがはっきりわかる。建物そのものより、それ以外の空間とか、次の遷宮の時に新たな神殿が建てられる予定地の何もない空間に、西行が詠んだ、「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」 という歌が伝えている、”なにごとか”が満ちているような氣がする。

 伊勢神宮は、人間が手がけた場であり、人間が作ったものであり、人間が維持してきた領域であるけれど、人間のことよりも自然のことを、より意識させられる世界だ。人間の創造行為の中で、もっとも尊いものは、そういうことではないかという気がする。結果的に、人間のことより自然のことを意識する瞬間、人間の心は、鎮められ、和らぐ。

 人間の作り出すもので、もっとも忌むべきものは、当の人間の心さえ、不穏に波たたせ、おぞましいものを感じさせる。知恵を司る”もんじゅ”などというおこがましい名前を冠した高速増殖炉など、その代表だろう。

 伊勢神宮に参拝する政治家などは、なぜ、忌むべき人間行為と尊い人間行為の違いを感じないのか、不思議でならない。

 しかも近年、神社関係者ですら、政府の改憲運動と足並みをそろえる輩も増えてきている。

 ただ、伊勢神宮そのものは神聖さを感じさせても、その中で見かける神社関係者の立ち振る舞いなどに、まったく神聖さを感じるどころか、だらしなく、醜悪なものを感じることもある。

 ただ給与をもらうために自分はそこにいるという気持ちがにじみ出てしまっている。そうなると、身にまとう衣装も、公務員のユニフォームでしかない。神社に限らず寺も、ヨーロッパの教会も同じことかもしれないけど。

 本来の宗教の精神は、世俗の塵にまみれる我ら人間にとって、リアルに感じにくく、歪められやすい性質を持っているのだろう。

 人間は、生死の境とか、自分ではどうしようもできない極限の状況に陥ることなく宗教の本質を感知することができないのかもしれない。

 何を今さら、ということになるが、伊勢神宮が伝えているのは、人と自然の共生と共創だという気がするが、生と創は、人智を超えた領域であり、自然と人間は同等でなく、もちろん人間が上位ということなどありえず、自然の中の一部に現れて消える存在として、共に生きて、共に創らせていただくだけで、有り難いという感覚に自然にならないかぎり、高速増殖炉のような人間が勝手に作り出したもので、人間は、おぞましいしっぺ返しを受けることになるのかもしれない。

 古代から、ソドムとゴモラの時代に、必ず、人間の傲慢を諭し、謙虚を説く宗教が出ているのは、人間の性質が、過去から現在まで、そんなに変わっていないからなのだろう。だからこそ、過去のことを、遺物としてではなく現在に反映させて、見直すことは必要なのかもしれない。

 伝統文化も、宗教も、様式になった時に、その魂が抜かれる。魂の抜かれた文化や宗教は、いとも簡単に政治に利用される。

 

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2016-12-22

第974回 競争から共創へ、利己から利他へぁ〃从儿舁性とは逆のところにある豊かさ

 

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 能登半島の北部の「じんのびーと」で行われた『京ことば源氏物語 能登語り会』に参加して、帰ってきた。山下智子の源氏物語の語り会を核にして、心に沁みる様々な出来事が重なり合う催しとなった。

 第二部の「自然と伝統文化から日本を見つめ直す」という座談会に参加していただいた遠見和之さんは、能登半島の最北の地で、手漉の和紙をつくる職人さんだった。座談会ではあまり多くを語らなかったが、その作品が素晴らしく、催しの翌日、彼の工房を訪れた。手漉の和紙製造の工程の中に、紅葉や桜など様々な植物を漉き込み、その偶然の配置が絶妙で、一枚一枚に見惚れた。インターネットで画像をアップしても、その質感の素晴らしさは伝わらない。実際に間近で見て、手で触れてこそ、その価値がわかる。一枚の手漉の和紙を求めて、こんなところまで足を伸ばす人は稀だろうが、足を伸ばした人間にしかわからない世界がある。

 能登半島で「源氏物語」の語り会を行うことについても、一体どれほどの人が来てくれるのかと、主催者のマスノマサヒロさんは、本番まで心配で胸を痛めていたに違いない。経済合理性のことだけを考えていたら実現しないことはたくさんある。しかし、経済合理性のことばかり考えて行っていることは、果たしてどれだけ人々の心に深く残っているのか。日本各地の祭りなんかにしても、テレビが取り上げ、観光気分の大勢の群衆がおしかけ、マナーも悪く、かつての神聖さがすっかり失われてしまい、ただそこに行ったというだけで、心に何も残らないものが非常に増えてしまった。安易な気持ちで行けるところでは、安易な気持ちで来ている人にしか会えない。無料のイベントよりも、きちんとお金を払うイベントの参加者の方が、マナーはいいし、真摯で、感謝の心がある。

 この種の催しで、わざわざ能登まで足を伸ばしてくれる人たちは、ベルトコンベアーに乗せられたような人生を歩んでいない。その分、紆余曲折があり、悩みも深いけれど、だからこそ一言一言に深みがあり、対話が豊かになる。そう思って、催しを提供するだけでなく、座談会とか、宿泊付き!時間無制限の自在な対話の場を設けることを提案させていただいた。参加者も含めて、みんなで創り上げる催し。その分、主催者のマスノさんは大変だったろう。自分の利益や都合ばかり考えていたら、こんな大変なことはできない。

 座談会に参加していただいた高市さんの蕎麦は、天下一品だが、高市さんは、自分が創る物へのこだわりが深いゆえに、能登の工芸品や食べ物に関する情報も信頼できる。以前、マスノさんと一緒に高市さんにお会いした時、どこか宿泊するのに面白いところはないかとお聞きしたところ、輪島の近くの漁師民宿を教えていただいた。その宿で、早朝4時に起きて、漁師の方々と一緒に船に乗せていただき、鯛漁を体験させていただいた。船いっぱいの鯛に度肝を抜かれた。朝、網にかかった鯛が朝市で競りにかけられているところや、その後、鋭い眼光で競りに参加していた老婆が、輪島の商店街の露店で売りさばいているところまで追いかけることができた。

 源氏物語の語り会も素晴らしいが、その副産物が非常に豊かな催しだった。その会場となった「じんのびーと」で、マスノさんが自分で焙煎した豆を挽いて、おいしいコーヒーを何回か用意してくれた。そして、おいしいコーヒーの淹れ方を教えてくれた。家に帰って、その方法で、コーヒーを淹れてみたら、今までとまるで違うものになった。少しだけ時間と手間をかけて淹れたうまいコーヒーを飲むだけでも、暮らしの時間が、ひときわ豊かになる。経済合理性のことを考えていたら、決して得ることができない喜びや味わい。多くの人は、できるだけ便利で快適に、不安や悩みもなく、ただ楽しいだけの営みを求めているのかもしれないが、濃密で豊かなものは、その逆のところにあることが多い。

 濃密で豊かなものとの出会いは、時に、自分の無力さを痛感し、辛く感じることも多いので、そちらの方が幸せだとは簡単には言いきれないが、物事の有り難みが身にしみて、自分の心が洗われることは間違いない。

(写真は、遠見さんの手漉き和紙と、その工房)

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2016-12-10

第973回 競争から共創へ 利己から利他へ 授かった命との付き合い方

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 私の家から自転車ですぐ行ける範囲内で、樹齢400年くらいから1000年くらいになる木が、何本もある。屋久島など深い森の中の原始林もすごいが、京都という街中で、中世の人々の暮らしのすぐそばで生きてきた樹木が、今もそこにあるというのがすごい。

 これらの樹木は、震災や戦火で焼けることなく、何百年も生命をつないできたという時間の積み重ねのリアリティを、観念ではなく実態として伝えてくれる。

 京都のほぼど真ん中、京都三条回商店街のすぐ近くに武信稲荷神社がある。坂本龍馬が自分の無事を伝えるために榎の木に印を残したということで坂本龍馬信者がよく訪れているが、ここにある榎の木は実に荘厳な佇まいをしている。樹齢は約850年。平安時代末期、平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を 移したと伝えられている。弁財天が宿るといわれる榎の神木は、木にふれた手で体をさすると病気が治るといわれている。この木の枝が折れて落ちて、チェンソーアートの世界チャンピオンの城所ケイジ氏が、その太い枝の中に龍の姿を見い出し、できるだけ手を入れずに龍を掘り出した。

 私は若い頃から世界各国を旅して約70カ国を訪れ、いろいろ彷徨ったけれど、今思うことは、苦しい人生を生きるための深い知恵は、日本に宿っているということ。西洋近代は、自由、平等、博愛(もともとは財産)を人間が健やかに生きていくための基本だとみなしたが、そんなものだけじゃ人間は生きていくうえでの辛さを乗り越えられないと、最近、つくづく思う。日本が育んできた、”もののあはれ”、”侘び寂び”、”粋”といった精神的態度は、苦しい境地に陥れば陥るほど、なんという奥深い哲学なんだと実感せずにいられない。

 日本文化は、基本的に、授かった命との付き合い方がベースになっている。

 まず第一に、天災や生老病死をはじめと自分にはどうしようもない命といものがあって、それは宿命であり、その宿命との付き合い方において、「もののあはれ」という境地を洗練させてきた。世の中というものは、そういうものであると弁えたうえで、自分が関わる物事の細部に至るまで大切にし、慈しみ、思いやること。

 第二に、自分の心がけ次第で、動かせたり変えられる可能性がある命というものもあって、それは命を運ぶという”運命”であり、その運命との付き合い方において、一期一会や、「侘び寂び」という境地を洗練させてきた。おごりを捨てて、外面よりも内面を大切に本質にそってふるまえば、きっと命は、よりよく展開し、調和するのだという信心。

 第三に、人生には実に様々なことがあるけれど、一切の分別を超えて、ただそれを全うすることが大事だと知る命というものがあって、それは自分の命を使う”使命”であり、使命との付き合い方において、「粋」という境地を洗練させてきた。世の中には様々な複雑な事情があるかもしれないけれど、”自分がやるっきゃない”、という開き直りと諦観と、覚悟のある孤高の境地。どうせ一度の人生、誰もが死を逃れられないのだから、せめて、安易に人や世間になびいてみっともないものを晒してしまうことだけは避けたいという、濁りのない意気地。それが粋の本質。

 けっきょく、生きることというのは、西欧の近代的自我のもとになっている自由とか平等とか財産という利己世界の中に閉じたものではない。命というのは、自分と世界の紐帯(へその緒)のようなものであり、世界から養分をいただきながら、自分の生き方、そして死に方を決めていく。

 世界で最も天災の多い土地で、宿命に耐え、運命に翻弄されたり、それを自らの意思と行動で転換させたりしながら、自らの使命を全うしようとした日本人の精神的態度は、今という難しい時代に、とても重要になってきているのではないかと思う。

 「もののあはれ」と、「侘び寂び」と、「粋」を、今の自分にあてはめて捉え直すだけでも、少しは、生きるに値する何かが見えてくるのではないかという気がする。

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2016-12-05

第972回 競争から共創へ、利己から利他へ◆ー然と伝統文化から日本を見つめ直す

 

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 都会を離れ、慌ただしい日常の時間からしばし離れ、能登半島にこもり、大自然の中で、日本のことをじっくりと振り返りませんか。大きな時間の中で、過去から今、そして未来のことに思いを馳せませんか。

 12月19日(月)、能登半島にある「能登の家じんのびーと」というところで、友人の写真家、マスノマサヒロさんと、以下のようなイベントを企画しました。どうせここまで来ていただくのならばと、時間を気にしなくてすむ宿泊付きの企画です。

 宿泊場所となる「能登の家じんのびーと」は、マスノさんが、原発事故で被災した福島の子供達が思い切り心身を広げられる場として開いている大自然に囲まれた大きな一軒家です。

 と き  12月19日午後2時開演(開場正午)

 

 第一部  京ことば源氏物語 女房語り・山下智子

 第二部  座談会「自然と伝統文化から日本を見つめ直す」 

      コーディネーター・佐伯剛

      能登の伝統文化、自然文化、継承者たちとともに

      高市範幸さん 川原伸章さん 遠見和之さん 妹石武吉さん

 

 第三部  自由自在な交流会

 参加費  3,300円 *宿泊希望の場合は、宿泊費無料、食費は別途2,000円(夕食+朝食)

 場所:能登の家じんのびーと(鳳珠郡能登町柿生天5-14)

    http://www.kazesan.net/pg364.html

     *のと鉄道穴水駅からの送迎あり。

     送迎は正午の穴水駅出発に間に合う方となります。 

 

▶お申し込み・お問い合わせ  マスノマサヒロ写真事務所

   電話 080・2341・3365

   Fax 076−287−6824

   Email : mm@kazesan.net

   (なるべくメールでお願いします)

<趣旨>

 源氏物語は、日本人なら誰でも知っている物語ですが、実際に読み通したことがある人はほとんどいないという不思議な読み物でもあります。現代人がこの物語のことを意識することはほとんどありません。しかし、私たちの無意識の深いところに、この物語のエッセンスは脈々と流れているのです。なぜなら一千年も前の平安時代に書かれた物語は、その後の鎌倉、室町、江戸時代に、無数の写本や絵巻が描かれ、無数の人々に影響を与え、そこから中世日本文化が生まれ、その中世日本文化の影響を受けて、日本人の思考や感性がつくられてきたからです。もののあわれ、侘びや寂び、粋などという日本が洗練させてきた深い精神的態度は、すべてここに遡ると言って過言ではないでしょう。この源氏物語を核に、伝統文化や自然から日本を見つめ直す場を、能登という聖なる時空の中に設けました。

 能登半島は日本列島のほぼ真ん中に位置し、日本海に突き出ています。半島や岬は、彼岸と此岸の境であり、古くから神々の世界と人間界をつなぐ場所でした。能登もまた、神々と人々が自然を介して共存する土地で、しばしば「民俗の宝庫」あるいは「祭りの宝庫」と称されます。古くから、山や海、木や岩など自分を取り囲む自然の中に魂を感じとり、畏敬の念と感謝の気持ちを育ててきた日本人は、世界が急速に均質化して行くグローバル化の大河の中で、自分のアイデンティティを問わざるを得ない状況にもなっています。頭でっかちに考えるのではなく、身体の感覚を敏感にして、記憶の深いところに耳を傾ける。日本人の優れた知恵や技は、そのようにして生み出され、受け継がれてきました。

 都会の中にいると、見えないもの、聞こえない音があります。それは、都会の雑多な情報が、我々の分別や打算という目先の現実に適合するために活性化する大脳の働きを刺激しすぎるからです。記憶の深いところに意識を集中するためには、少し大脳を鎮めて、小脳の記憶にアクセスする必要があります。能登の自然の中で、身も心もリラックスさせて、深いところで日本を見つめ直す一期一会になればと思います。

源氏物語〜もののあはれ源流への旅〜 女房語り 山下智子>

 言霊の国日本。京ことば源氏物語は、京都の国文学者・故中井和子先生が十五年の歳月をかけ源氏物語全五十四帖を今から百年ほど前の京ことばに訳されたものです。(大修館書店より出版-全五巻)

 現代からみると雲の上のような格調高い王朝絵巻ですが、京ことば源氏物語では一人の女房(高の女官)の視点で宮中の出来事のあれこれがあたかもここで話しているように語られ、生き生きとした平安の世の人間模様が浮かび上がります。

 「ことば」はその土地の独特の気候風土が育んだ感性によって紡がれたものです。複雑で微妙に移ろいゆく京都の自然は、そこに住む人々の心にことばにかさねられてゆきました。女房という立場から、配慮を見せつつおぼろげにことばをかさねてゆくことでだんだんと立体化する物語世界は直接的ではありませんが、気候風土のもたらす発想の息吹そのものが「音」となって響いては消えるその中に、源氏物語の底に流れるもののあはれをくみ取っていただけることを願います。


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2016-12-04

第971回  競争から共創へ、利己から利他へ  ―ゞ気遼楴

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 神社が政治的存在感を増している。 http://toyokeizai.net/articles/-/139081

 神社で憲法改正を求める幟やポスターが掲げられ、署名が集められている。神社は、祈りの場なのに政治活動の場になっている。

 そうした神社の関係者は、「個人だけでなく国家の安泰を守るための精神的な柱になりたい、その宗教的権威を取り戻したい」という思いがあるのかもしれないけれど、宗教者として大事なことを見失っている。

 「日本人から道徳心や精神性がなくなっているのは宗教心が弱いからだ、それを取り戻さなければいけない」と考え、政治と宗教を結びつけようとしている人もいるが、それもまた、大事なことを見失っている。

「国家」という言葉を使うと、何か立派なことのように聞こえるが、そうした言葉を大義名分のようにふりかざずのは、小心な人間にすぎない。小心な人間が、自分を立派に見せるために、言葉の上で立派そうなことを言っているにすぎない。国家権威とか宗教権威など権威という虎の威を借る狐にすぎない。

 そして、その狐じたいが、何か立派な存在のように奉られている状況も、現代社会が、大切なことを見失っているからだ。

 お稲荷さんの狐も、本来は眷属であり使者であるが、それを神様のように崇める人が、この世界には多くいる。それは一種の偶像崇拝なのだが、人間は、偶像崇拝によって堕落していくことを、宗教の創始者達は理解し、禁じていた。

 偶像は、心を偶像へと心を向けさせることで、本来、向き合わなければいけないものから目を逸らさせ、偽りの、つかの間の、心の安泰へと導く。

 宗教にかぎらず、現実世界には、偶像が溢れかえっており、権威付けというのは、すべて偶像化による心理操作である。

 だから、露骨な偶像化が行われている時というのは、向き合わなければならない大切なことから人々の目を逸らさせようとする人間の策略だと考えた方が間違いない。

 向き合わなければいけない大切なことは何なのか。それは、虎の威を借る狐が、大きな声で叫ぶ国家の安泰なのか。

 その国家とは何なのか。「一部の政治家や官僚のためだけの国家」という体制批判でよく使われる古い言い方は、もうやめとこう。

 国家という言葉が、国民一般を含むものだとしても、国家の安泰が叫ばれる時の「国家」は、利己への執着の集合体でしかない。

 私たちが今、本当に向き合わなければいけない大切なこと、考えなければいけない大切なことは、利己への執着のためだけに祈る心が、今の社会状況に相応しいかどうかなのだ。そういう人の集合体が国家ならば、その国家の中では、利己への執着のための競争が永遠に続き、その勝者が崇められ、敗者の上に君臨するだけのこと。

 利己主義を自由化と言い換え、その原理に基づく競争が国家を繁栄させるのだと主張する人々は、その貪婪な競争の勝利者であることが多い。そういう価値観が存続することが、自らの地位の安泰を守ることになる。彼らの叫ぶ国家安泰というのは、そうした自分に都合の良い秩序や価値観の安泰ということにすぎない。

 利己への執着の強さは、人を人とも思わないことを考えさせ、実行させる。

 時代を超えて存続してきた宗教は、この利己的な執着を断つことを、人間の最も崇高な精神的態度とみなしている。

 それは、その執着が人間に悲劇をもたらすことを歴史から教訓として学んでおり、まともな宗教は、そのことを真摯に語り継いでいる。

 宗教的マインドの本質は、競争ではなく共創であり、利己ではなく利他であるはずだ。 

 もしも、競争や利己のために宗教を持ち出すものがあれば、すべて紛い物であると心得ていた方がいい。


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2016-11-24

第970回 ドナルド・トランプの勝利と、資本主義の曲がり角


 Δら続く

 ドナルド・トランプが大統領になったアメリカは、金融の資金調達力に情報技術と天然資源を結びつけて、新たな製造業の時代を切りひらき、新たな保護主義政策をとっていくのかもしれない。

 そして、アメリカに限らず、イギリス連邦、EUも、グローバルな自由主義政策から転換し、自分たちの経済発展に有用な国・地域をある程度限定して、「ブロック経済」を構築していく可能性だってある。 

 1929年のウォール街の大暴落を起点とする世界恐慌以後の1930年代、イギリスやフランスなど植民地を持つ国々は、植民地をブロックするという保護政策をとった。それにうまく対応できなかった日本は、次第に孤立し、戦争へと突き進むことになった。

 その時の過ちを繰り返さないために、今から準備しておく必要がある。

 当時と状況が異なるのは、新興国と呼ばれる国が世界中に広がっていることだ。

 これまで日本が、ODA(政府開発援助)で援助してきた国や地域は、185カ国・地域あり、これらの国々の中には、日本がその国にとっての最大の援助国になっている国が多数ある。そして現在、日本から援助を受けていた国々は、新興国として著しい発展の途上にある。それらの国々と、今後、日本がどういう結びつきを作り上げていくのか。まさに日本の利他と共創の精神が、とても重要なカードになっていく可能性がある。

 戦後の日本の発展は、アメリカに軍事的に守られ、アメリカが日本の製品をたくさん買ってくれたからだという指摘を否定するつもりはない。

 しかし、それは、アメリカにもメリットがあったからそうなったわけで、アメリカが、国家の生存戦略を転換しつつある今、これまでのようにアメリカとの関係に依存しすぎていると、アメリカの恫喝に怯えながら、上手に利用されるだけとなる可能性が高い。

 日本は、この70年間、アメリカやイギリスと異なり、どの国も戦争行為で侵しておらず、経済支援だけを続け、それらの国々の発展に貢献してきた。

 そして今、次なる時代を見通し、世界全体の人々の暮らしがより健やかになっていく投資活動を行い、そうした投資分野の成長とともに自らも豊かになっていくというビジョンを描き、実践できるかどうか。

 簡単ではないと言われるかもしれないが、けっきょく、どういう暮らし方が望ましく、幸福なのか、という原理原則が、もっとも大事になる。

 お金がお金を生んでいくこと、ただそれだけに喜びを感じられる人は、不幸だろう。

 もしも資金に少しでも余裕があるのならば、そのお金が、健やかな未来社会につながり、かつ、その分野の成長とともに自らの生活に少しでも潤いがもたらされるのであれば、心の状態としては、とても満たされたものになるのではないかと思う。

 現在、金融分野において、革命的な動きが進行しつつある。

 フィンティック、クラウドファンディングやソーシャルレンディングといった方法で、金融機関を通さず、個人から直接、お金を必要とする企業/団体や個人にお金が投資できるようになっている。

 事業の将来性が高かったり、地方にとって必要な産業なのに、銀行が、担保を取れなければ資金の貸し出しを行わないために成長発展が阻害されたり計画が頓挫するケースが多くあるが、そうした銀行のスタンスを、金融庁は「日本型金融排除」と位置づけ、改めるよう指導していくらしいが、金融庁の指導・管理のもと右往左往する日本の銀行の存在意義は、現在進行中の金融革命によって、今後ますます失われていくだろう。

 日本の眠っているお金を活性化させる力は、もはや既存の銀行システムにはない。

 終身雇用、年功序列の時代は終わり、日本人の働き方が大きく変化している。そして、数多くの若き起業家が、様々な分野で育ちつつある。もちろん、単なる金儲けが目当ての人もいるし、日本社会をより健やかな方向に導きたいという哲学とビジョンを持っている人もいる。

 これまで、こうしたベンチャー企業への投資は、ベンチャーキャピタル(VC)やエンジェル投資家など、ごく限られた投資家にしか門戸が開かれていなかった。

 ベンチャー投資には高度なノウハウや知識、そして財力が必要だったからだ。

 こうした専門的な投資の機会を、フィンテックを使って一般に開放する動きが出てきている。これまでベンチャーキャピタルに頼らざるを得なかった起業家は、自らのビジョンや事業内容に共感、期待してくれる一般の多くの人から資金を集めることも可能になってきたのだ。

 一人一人は少額でも、人数が集まれば、それなりの規模になる。東北大震災の後、石巻の牡鹿半島の漁村が、全国から一口1万円の投資金を集めて話題になったが、あの時よりもシスマティックな方法で、必要な資金を集めることができる。

 特定の金融機関や投資家が、資金の流れを独占し、富めるものだけがさらに富めるという時代は、そろそろ終わりを迎えつつあるのだ。

 お金の回り方が変わってくれば、世界の様相も変わってくる。

 もはや政府が税金を無駄に使って社会を束の間だけ活性化する時代ではなく、また特定の金融業者や投資家が、情報とノウハウとチャンスを独占してマネーゲームに興じる時代でもなく、広く一般の人たちが自分の意思と見識をもって、身体やお金を通して参加することで、福祉や就労や日々の暮らしの健やかさが持続する社会の構築が、10%でも可能性があるのならば、その方向に希望を持ちたい。

 新しい仕組みは、最初は色々なトラブルも発生するかもしれない。自分のお金をそんなわけのわからないものに投じることなどできないと思う人は、現段階では多いかもしれない。

 しかし、15年前には、インターネットで、クレジットカードを使って物を購入することに躊躇する人は多かった。オークションサイトなんか信用できないと言う人は多かった。

 いつの間にか、インターネットで物を買うだけでなく、オークションに出品する人も増えたし、最近では、メルカリには1日50万もの商品が商品が出品され、不用品を売って稼いでいる人がけっこういるらしい。子供が図画工作などで急に必要になったトイレットペーパーの芯を、メルカリに出品している人がいて、それをタイミングよく購入する人もいるそうだ。

 15年後には、お小遣いを自分好みのベンチャー企業に投資し、その成長を見守ることが当たり前になっているかもしれない。こういう投資は、決してリターンだけが目的なのではない。東北大震災の後の牡鹿半島の漁村に一万円を投資した人たちは、漁の復興後、牡蠣の現物を受け取ることが約束されていたが、その前に、家族で漁を見物に行った人も多かった。投資した1万円以上の交通費や宿泊費をかけて、わざわざ現地を訪れているのだ。

 人は、自分の利益だけを目的に生きているわけではない。

 他人との競争に明け暮れ、自己利益の過剰な追求によって心を貧しくしていくのではなく、 他人と共創し、他人に利益となるように図ること(利他)が、心を豊かにする。

 西洋の近代合理主義と個人主義を見よう見まねで追い続けた結果、物質的な豊かさを手にいれることはできたが、肝心の幸福感は遠ざかってしまった。 

 今こそ、競争から共創へ、利己から利他への転換が必要な時なのだろう。

 先進国と呼ばれた国々は、新興国の追い上げによって、これまでの方法で優位を保てなくなってきている。その状況下で、自己の利益のみを守ろうとすると、もはや排他的なブロック経済しかなく、ブロックとブロックの競争が激化するばかりだろう。

 日本も生き残りのために、そうした戦略を重視すべきだと主張する有識者も多くいる。

 どう考えるかは人それぞれだが、老いることや死ぬことに抵抗して、いつまでもこの世に留まりたい人なら話は別だが、どうせ時期が来れば誰でも老いて死ぬ宿命を受け入れるのであれば、せめて生きている間は、自分に損とか不利ということばかりに心を砕くのでなく、人の道としてどうなのかということを考えた方が、この世を去る時に後悔がないだろう。

 とくに、高齢者に、そういうマインドを取り戻して欲しい。

 自分の安心快適のために、武器輸出や原発輸出を見て見ぬふりをする利己的な老人が増えると、若者は、人の道をどうやって学んでいけばいいのか。

 最近の若者は年長者への敬意がないなどと言う前に、自分が若者に尊敬される人間になっているかどうか省みることの方が先だ。

 年長者が尊敬される存在になってはじめて、若者は、人生の先輩から、人としてあるべき姿、人生をいかに生きていくかを学ぶことができる。

 綺麗事だと批判されるかもしれないが、一人ひとりが、人としてあるべき姿や、人生をいかに生きていくかを真剣に考えるようになっていくと、日本のあり方も、おのずから決まってくる。

 日本のように小さな島国で資源を持たない国は、ブロック経済という敵対的な構造の中で卑屈になったり虚勢を張って生きるのではなく、自在なポジションと、信頼関係こそが強みとなるような方法で、世界の新たなる形に貢献していくことが、生き方として理想だ。

 そういうことを夢や目標にできる日本人が増えていけば、今のような刹那主義の虚しい消費社会を脱して、努力の方向性も、より本質的なものへと変わるだろうし、生きていく甲斐が十分に感じられるような社会になっていくのだろうと思う。

 15年前には考えられなかったような、非常に便利な道具がたくさんあるし、これからも増えていく。それらの道具は、国境を超えた人と人との関係や、一人ひとりの働き方や生き方を変えるポテンシャルがある。にもかかわらず、それらを無聊の慰めにだけ使うのは、あまりにももったいない。

 道具は使い方次第。使い方で、人類の未来はまったく違ったものになる。

 道具をどう使うか考えるために、現在そしてこれからどうなっていくかという物語が必要だ。

 私が7回にわたって書いてきたのは、正しい分析のためではなく、あくまでも一つの可能性としての物語だ。

 自分の物語を語らず、人の物語の一部にケチをつける人はけっこういるが、そういう行為は、どこにもつながらない。

 人が組み立てた物語に意義を唱える暇があったら、自分なりの物語を組み立てて、それを語ればいい。 

 一つの命題に対して正しいか否かと議論するのは、20世紀までのやり方だ。なぜなら、「少品種大量」の20世紀は、議論によって導かれた一つのコンセンサスを、広く大きく展開する時代だったからだ。

 21世紀は、少量多品種の時代であり、一つのコンセンサスよりも、多くの物語があった方がいい。 

 いくつもある物語の中で、どの物語に共感できるか、納得できるか、共感でき納得できる物語があれば、それをもとに、自分の物語を磨いていけばいいだけのこと。

 これからの時代を生きていくために、物語の中に織り込んでいかなければならないことは、限りなく存在する。

 私がここに書き連ねてきたことは、途中経過でしかない。


(完)

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2016-11-23

第969回 ドナルド・トランプの勝利と、資本主義の曲がり角

イら続く

 資本主義によってお金や物は増えたけれど、貧富が拡大し、人間が機械部品のように扱われる職場で働きがいや生きがいを喪失し、競争社会でストレスを抱えて鬱病など心の病に陥る人も増え、家族や地域のつながりがなくなって孤立化する人が増え、引きこもり、独居老人、老老介護など様々な問題が数多く生まれ、これらが現代社会の歪みとして毎日のニュースで伝えられる。

 そうした資本主義の行き詰まりを、北欧のような福祉の充実によって乗り越えるという考えを持つ人もいるだろう。

 しかし、福祉の充実のためにはお金が必要であり、そのお金は税収でまかなわれる。

 無駄なお金を少なくして福祉にまわせばいいと単純に言う人もいるが、実際には、現時点ですでにかなりの金額が福祉に投入されている。

 http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/002.htm


 所得税、法人税、消費税、その他の税を合わせた税収が、57.6兆円に対して、社会保障は約32兆円。さらに地方交付税で15兆3千万だから、この金額のなかにも、地方の社会福祉関係にまわるお金がある。目の敵にされる公共事業は約6兆円、防衛費は約5兆円だ。

 所得税収が、約18兆円、法人税が約12兆円、消費税が約17兆円。税収だけだと国の運営にまったく足りないので、将来の若者が負担しなければならない借金である国債を34.4兆円発行することになる。

 この状況で、現時点で32兆円もかけている福祉をさらに充実させるために税収をあげるとすれば、所得税、法人税、消費税を一体どれくらい上げなければいけないのか。

 理想の国とよく言われるスウェーデンは、人口1000万人に満たない国である。日本のように1億2千万の人々が住み、かつ都会と地方であまりにも環境条件が異なる国で、中央政府が中心になって均質に福祉を行き渡らせようとすると、複雑度が桁外れに違ってくる。

 東京都知事の選挙の際、スウェーデンの国家予算と東京都の予算は同じだと話題になった。スウェーデンと東京都の人口と予算はそんなに変わらないかもしれないが、東京都の場合、保育所を一つ作るのにも大変な騒ぎになる。福祉施設を建設するための近隣住民の説得、土地の買収その他、日本は、スウェーデンのように簡単に物事が進まないのだ。そして、日本で、今以上、福祉を充実させるために税金を高くすると、今以上に巨額のマネーがこの分野に流れるわけで、さらに複雑な利権構造も生まれるだろう。福祉先進国の視察と称して、政治家や役人が、贅沢な外遊をする口実を作る可能性もあり、国民は、もうそういうことにはうんざりのはずだ。

 理想国家のように褒め称えられるスウェーデンというのは、実は、世界有数の武器輸出国である。少ない人口の国の福祉を支える基幹産業が、軍需産業で、国民一人当たりの武器輸出量は、イスラエル、ロシアといったその筋では有名な国についで、世界第3位なのだ。しかも、人権問題で世界から非難を受けているような国にも武器を輸出してきた。

 自分の国の豊かさと安定のためには手段を選ばないという利己主義があり、日本もその路線を追ってしまうと、原発の輸出などが、さらに促進されてしまう可能性もある。

 また、近年、スウェーデンも経済状況が悪化してきているため、国家福祉に綻びが生まれてきて、福祉サービスの民営化が進み、かつてのように手厚いサービスでもなくなってきている。若者の失業は増え、海外に出稼ぎに出る人も多い。失業率は日本の3.18%に対して6.91%。とくに若者がひどく、20%と言われる。高い税金によって老人に対する福祉は充実していても、日本同様、それを支える若者がそろそろ我慢の限界にきている。

 福祉の問題は難しい。かつて日本も、田中角栄内閣の1973年から1983年、高度度経済成長(1955年〜1974年)のピーク期に、豊富な税収をバックに国民の声および政治的な背景により高齢者の医療費を無料にしたが、病院が高齢者の溜まり場になってしまった。

 かつての反省を踏まえ、現在、日本が推し進めている介護保険をもとにした地域包括ケアシステムで老人をケアしていく仕組みは、世界的にもかなり先進的な取り組みである。

 全体としてはかなり良い成果を出しているにもかかわらず、一つでも事故が起きると、マスコミが大騒ぎして、ネガティブキャンペーンのような形になる。

 「看取りは病院から自分の家で」という流れも、手厚く保護しすぎることで生命力を損なうのではなく、自立支援を目的に、病院ではなく地域社会の連携によって高齢者の生きる力を活性化させる取り組みこそが、結果的に財政負担を減らし、借金を将来に先送りしないことにつながるという考えが背景にある。しかし、こうした地域包括ケアシステムのことが、多くの国民に正しく理解されていないから、孤立した高齢者とか、老老介護の問題も起きて、マスコミお抱えの有識者から、人々の不安を煽るネガティブな情報ばかりが流布する。マスコミは、何か問題があればただ大騒ぎするだけで、将来どういう方向に向かうべきなのかという考えを持っておらず、だから、情報の伝え方に工夫を凝らすという配慮がまったくない。

 いずれにしろ、北欧のように税収をアップさせて福祉を充実するというのは日本のように人口の多い大国には困難であり、日本人一人ひとりが、福祉サービスの内容に不平不満ばかり言うのをやめ、つまり単なる福祉の受益者であるという発想をやめ、自分にできることを行ってお互いに支えていく国にしていくしか道はないだろうと思う。

 たとえば、富士宮市は、認知症の人をサポートする仕組みを住民のボランティアを中心に整えている。人口13万人の10人に1人が認知症サポーターだ。住民が一丸となって、「認知症になっても、これまでと変わらぬ暮らしができる街づくり」を進めている。

 もともとは、若年性アルツハイマーで苦しむ個人が、行政に相談に行った時に、行政で解決策を作るのではなく、その相談者に、様々な場所で自分が抱えている問題を語ってもらうというナラティブな方法をとり、それによって、共感の輪がどんどんと広がっていったものだ。

 住民1人ひとりに特別に大きな労力を要求するわけではなく、「気がついたら助ける」という意識を1人ひとりが持つだけで、かなり大きな力になるということを、富士宮市は証明している。

  

 日本はアメリカのように天然資源に恵まれているわけではないし、イギリスの英連邦のような強力な国際ネットワークもない。

 しかし、アメリカやイギリスよりは安定した資金があるし、技術もあるはずだ。

 そして、現在は薄れてしまっているかもしれないが、もともと日本人は、自分の存在意義を、欧米から取り入れた個人主義や、競争に勝つことで示すのではなく、利他と共創の精神によって、より感じられる民であった。その理由の一つは、昔から自然災害に苦しめられ、自然の前で無力な人間が生きていくためには、人間同士が、お互い様の気持ちで連携していかなければいけないという心構えがあったからだろう。

 日本の未来戦略の中に、そうした日本人ならではの心構えが織り込まれていなければ、マネーゲームに翻弄された時のように、他国の後を追うばかりで、先行者の戦略に翻弄されるばかりとなる。

 利己の追求と競争のことばかり考えていると、せっかくの技術と資金は、他者との軋轢と対立を増大させる道具にしかならず、また視野が狭くなってしまう結果、他者に上手にだしぬかれ、利用される。

 利他と共創のスタンスによって、周りに気を配り、関係性に思いをめぐらし、他者のことをより深く考えるようになるわけだから視野は広くなる。広くなった視野と、利他と共創によって自然ともたらされる信頼で、技術と資金は、必ずや、より健やかに生かされる時代になっていく。

Г紡海

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2016-11-20

第968回 ドナルド・トランプの勝利と、資本主義の曲がり角

 いら続く

 今回のドナルト・トランプの勝利後の世界について、漠然とした悲観論や不安を軸にした分析を行う社会学者やジャーナリストは多い。

 そうした分析は、もしかしたら80%は”間違いではない”かもしれない。しかし、間違いではない分析だったとしても、その分析は、来るべき未来社会に対して何ら意味を持たないし、社会の活性化にもつながらないし、人間の意識も変えないし、警告にすらならない。

 警告にすらならない理由は、漠然とした悲観論や不安は多くの人がすでに共有してしまっており、やはりそうなのかと、その不安や悲観論を固定化するだけでの意味でしかないからだ。

 また、「未来は予測不可能」という言い方がなされるが、本当にそうだろうか。

 200年後の世界は予測不可能でも、20年から30年後は、予測可能ではないか。

 どの企業の株が上昇するとか、そういう具体的なことまでわからなくても、今後どういう方向性に進んでいくか、その可能性は、ある程度は想像できるのではないか。

 過去においても、15世紀後半から世界を侵略する大航海時代が突然始まったのではなく、14世紀からのルネッサンスがその準備をしていた。

 18世紀後半からの市民革命は、宗教戦争に明け暮れた17世紀前半から育まれていった近代意識が準備をしていた。

 ならば21世紀に構造変化が起こるとすれば、現時点でそれは準備されているはずだ。その準備とは一体何なのか深く考える必要があるだろう。

 たとえばソーシャルメディアにしても、今はまだ古い構造の中で使ううえでは便利なツールにすぎないが、次なる構造の下地になる可能性は秘めている。

 また、企業の海外現地生産なども、古い構造の中では生き残りのための苦し紛れの手だったかもしれないが、結果的に、現地に雇用を生み、現地から受け入れられ、新しい国際関係の切り札になっている場合もあり、その切り札が、次なる構造で大いに有効になる可能性がある。

 具体的には、例えばアメリカ軍が去って日本は中国からの攻撃を防げるのかといった議論もあるが、それぞれが自国の安定に必要不可欠な存在になった状態になることが、最大の防衛策という新しい構造ができる可能性だってある。

 人々の意識はどうだろう。たとえば自動車配車会社uberが誕生し、米国では車を購入しない若者が増えた。各種のシェアリングビジネスで、物を所有することに価値を持たず、物を持つことの不便さを意識する人が増えた。オークションサイトが当たり前のように使われ、リサイクルショップを利用する人も増えた。企業に勤めなくても収入を得る手段が増え、また安く生活する手段も増え、就職に対する意識も変わり、それとともに、進学に対する意識も変わってきた。こうした意識変化は、20世紀の大量生産、大量消費の構造を強化するために誘導された人間意識と、かなり異なり、21世紀の新しい構造を準備する人間意識となるかもしれない。

 もちろん、未来に向けての準備が、別の角度から見れば不吉なものに感じられることもある。

 たとえば数日前、イーロンマスク率いるスペースXが、4,425個の衛星を製造して打ち上げる計画を米連邦通信委員会(FCC)に申請した。実現すれば、地球上のほぼすべての地域で高速インターネットが利用できるようになるという。高速インターネットを通じて、学校のない辺境の村でも、オンラインで教育が受けられて、そこから才能ある若者たちが次々と現れてくるなど、様々な新しい可能性がある。その反面、人間が作り出したものだから、それらの機械はやがて壊れる。現在、地球の上空には、すでに1万数千の人工衛星が存在し、その状況を確認することすらできる。http://www.gearthblog.com/satellites

 原発の作り出す放射性廃棄物と同様、簡単に回収できないゴミが、われわれの周りに溜まっていき、未来にいけばいくほど、それは増える。

 未来を左右する重要なカードは、これ以外に無数にあるだろう。

 未来の構造を決めていくのは、それらのカードをどう使うかという人間の意識であり価値観だ。

 ルネッサンスから17世紀に近代意識が準備されたように、未来に重要な影響を与える新しい意識が準備されているのか、それとも、人間の尊厳よりも人間が作り出す物や、お金(資本)の方に価値が置かれた近代資本主義の価値観が、これからも続いていくのだろうか。

 原発事故や原爆をはじめ、人間が作り出した物で、人間の尊厳など、木っ端微塵に打ち砕かれた20世紀から21世紀初頭。

 商品に少し欠陥があったというだけで、店のフタッフや企業の顧客窓口に、人を人とも思わない言葉でクレームをつける人の増大。

 近代資本主義というのは、資本家が、労働力以外には売る物がない労働者から労働力を買って、それよりも価値の高い商品を作り、その差額を利益として資本を増やしていくというメカニズムであった。だから、商品よりも労働者の価値が低い構造になっており、商品が、市場競争によって、また大量生産によって世の中に溢れるようになって、その価値が限りなく下がっていく(有り難みがなくなる)と、それを作ることに携わる人間の価値も限りなく下がっていく。

 物を手にいれる満足よりも、労働を提供する不満足の方が強く、その不満足を埋めあわせるために物を購入するが、それでも満たされないために次々と商品を捨てては新たな商品の購入を繰り返す。これが消費社会のメカニズムだが、この繰り返しで世の中に物がさらに溢れていくにつれ、人間の価値は下がり、不幸感が増していくという悪循環になる。

 この構造のなかでは、労働は美徳になりえない。

 労働が美徳になるのは、仮に商品に不備があっても、連絡を受けたら駆けつけてうまく修め、その対応に感謝されるような構造の中でこそだ。

 昔の職人は、そういう意味で、働くことが美徳になり得た。その人にしかできない仕事を持っている人は、現在でも、商品よりも自分を下に見られて尊厳を傷つけられるということはないだろう。

 幸福を考えるうえで、これはとても重要なポイントであり、未来の社会の構造を考える時に、このことを忘れてはならない。

 人に優しい社会などというキャッチフレーズで福祉の充実を謳っていても、ただ人にケアされるだけでは、人間は幸福になれない。一人ひとりが、他にとりかえのきかない自分であると実感できる何かが必要なのだ。

 それは、近代主義を支えてきた利己主義を”基”にした、自由、平等、権利(財産、友愛)とは違う。

 他に取り替えのきかない自分というのは、利他的なマインドを”素”にした、他者との関わりの課程で育まれるものだからだ。

 大手メーカーによる建売住宅を買った場合と、地元の大工さんと相談しながら作った家を比べればわかりやすい。

 大手メーカの住宅は、何かしらの欠陥や条件違いがあれば、契約書をもとに、場合によっては企業の顧問弁護士が出てきてやりとりをしながら、購入者は、自らの権利と自由を守ろうとし、企業の担当者も、家の価値から企業の利益や広告費やパンフレット代を引いて、下請け会社への支払いも引いたごくわずかな手数料の価値でしかないと相手に思われ、屈辱的な言葉を浴びながらの対応となる。

 地元の大工さんなら、何か不具合があればすぐに直してもらえるし、顔が見える関係なので、後々、何かあったら対応してもらえる安心感もあるし、メンテナンスなど先のことも十分に考えて仕事をしてもらえる。

 とにかく売ればいいというスタンスではない。仕事の報酬は得ても、マインドとしては、利己的ではなく、利他的なのだ。

 次なる時代の人間意識の準備が、こういうことでなければ、次なる時代も人間は幸福になれないだろう。

 近代資本主義には、人間の尊厳を傷つける構造的問題があった。しかし、だからといって、全て悪いということではない。

 近代資本主義にしろ、現在、知識人の多くが批判するグローバリスムにしろ、物がないことが不幸の原因となっている人々に物を行き渡らせる効果はあった。

 富める者を富ませ、何もない人たちを少しマシにした。世界に目を向ければ、貧困国とされていた国々の生活水準は間違いなくあがった。

 問題は、上にも書いたように、物が増えていくにつれ物の価値が下がり、それとともに人間の価値も下がるから、中間層とされる人々の下の方から、次第に貧困層になっていくということと、生きていくために労働を提供しているかぎり、商品よりも価値の低い労働という構造の中で、人間の尊厳の回復が難しいということだ。

 未来の幸福のためには、この構造を転換させていかなければならないが、これまでの問題の多い資本主義システムの中で、人間が自らの尊厳を傷つけながら作り出してきた物が、もしかしたら、構造転換の重要なツールになる可能性もある。

 そして、利己主義に基づく、自由、平等、権利(財産、友愛)では幸福になれないという気づきが、そのツールと結びついた時、それが次なる時代の準備となるかもしれない。

 そこに資本が関わっていくことで、お金の回り方が変わるかもしれない。お金の回り方が変わることで、社会の構造と、それを促進する人間意識が、より変化していくかもしれない。

 未来に対してネガティブなイメージはいくらでも想定できる。

 しかし、可能性は限られていても、そうでないストーリーも考えることはできる。

 イメージを持つことは自由であり、クリエイティビティは、自己実現の武器にはなるだろう。しかし、それだけでは足らない。

 望ましい姿のイメージと、その実現性のストーリーがあることで、クリエイティビィティは、より磨きがかり、大きな力を発揮できる。

 その結果として、わずかなポジティブの可能性が、小さな空論ではなく、もう少し大きく実際的なものになっていくと思いたい。

 Δ紡海

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