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風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-02-19

第986回 日本の誤算

 

 東芝を擁護する気持ちなんてまったくないけれど、現在起きている出来事が、あまりにも矮小化されて、高見の見物のように語られているように思う。東芝の経営陣の経営センスのなさ、傲慢さ、日本人の働き方の問題など・・・。

 確かにその側面もあるかもしれないが、今回の出来事の根底に横たわっている問題は、その程度のことではないだろう。

 東芝を破綻の危機に追い込んだ問題は、日本のエネルギー政策の問題だ。

 そして、東芝の誤算は日本の誤算だ。記者会見で、東芝の経営陣に対して、「反省しろ!」と叫んでも、日本が抱え込んでいるエネルギー上の問題は、解決できない。

 2月17日、すでにウェスティングハウス社の原発関連の問題で合計9600億円の損失を出し、ほとんど死に体となっている東芝が、さらに、シェールガス由来の米国産液化天然ガス(LNG)事業で、累計約1兆円の損失が発生する可能性があることが分かった。

 東芝は、2013年、テキサス州で生産する年間220万トンの液化天然ガスを2019年年から20年間にわたって引き取る契約を結んだ。当時は、シェールガスブームで、アメリカのLNGは安く感じられたが、その後は、アメリカ以外の国のものに比べて割高になっている。日本国内で原発再稼働が進まず原子力産業の見通しが立たなくなり、火力発電用の天然ガスを安く押さえておこうという目論見だったが、それが大きく外れることになったのだ。

 これについて、東芝の経営人の経営センスや見通しの悪さを、軽いノリで指摘して嘲笑する声もあるが、そういう人は、あの震災後の空気をもう忘れてしまったのだろうか。

 福島原発事故をきっかけに全国の原発が停止した時、それまで電力供給の40%を担っていた原子力の代わりに、火力発電に全面的に頼らざるを得なくなった。そういう状況下で、日本は、世界で最も高値の天然ガスを買わざるを得なかった。足元を見られているとも言われたが、天然ガスの製造やパイプラインなどのプラントは、かなり長い時間をかけて減価償却されるものなので、緊急時の短期契約で、安く買うことは難しい。

 だから仕方なく高値で数年間購入するという対症療法をした後、当時の感覚としては割安だったアメリカの天然ガスを、2019年から20年にわたって輸入する契約を結んだのだ。今は誰でも簡単に東芝を非難することができるので、その空気に便乗して、東芝を攻撃する材料を見つけて攻撃する人は多いが、そういう安易なことを繰り返すと、今起きている問題を自分ごとと感じられない人が増えるだけだろう。

 原発も天然ガスも、日本人が無自覚のうちに大量に消費しているエネルギーの問題なのだ。一民間企業の判断だけで行われていることではない。だからといって、悪どい政治家と官僚と大企業がグルになって利権のために行っているという単純な陰謀論で片付く問題でもない。

 日本国の現状は、明らかに国家法人である。グローバル企業と同じく、国家の利益を追求するため、政治家や官僚が経営者のように情勢を判断し、物事を進めている。主権は、国民一人ひとりにあるのではなく、また一握りの政治家や官僚にあるのでもなく、国家法人の存続という大義名分のなかにある。

 そしてエネルギー政策は、その要にある。だから、日本政府は、フランス政府がアレバ社を救済するように、東芝を救済するのだろう。その方法が、誰の目にも明らかになるかどうかは別の問題として。

 1990年代前半のバブル崩壊の時もそうだった。1995年、政府は破綻した住宅金融専門会社に対して6850億円の公的資金を注入することを決定し、多くの人が驚き、怒った。

 しかし、その後、なし崩し的に、直接注入と不良資産の買い取りを合わせて22兆1,000億円の公的資金が銀行救済に使われた。今、世間を騒がせている東芝問題は、バブル崩壊時の最初の住専問題にすぎないかもしれず、これからさらに、エネルギー問題(原発問題)への深刻な対応が次々と出てくる可能性はある。

 事故を起こした福島原発の処理だけでも、今後どれだけの年数と金額が必要になるか、現時点では想像すらできないのだから。

 現在、東芝を窮地に追い詰めている原子力関連事業は、2006年のウェスティングハウスの買収から始まっているわけだが、中国の台頭などで、東芝、ソニー、パナソニックなど日本の主要電気メーカが、かつて世界を席巻した家電分野で赤字続きとなり、その苦境を乗り切るために、東芝は、原子力分野に活路を見出すしかなかった。その判断は、東芝単独のものではない。買収が行われた2006年当時、経産省は「原子力立国計画」として原発輸出などを官民一体となって推進する国策を声高に主張していた。

 そして日本政府および東芝の原発事業への過信は、2011年の3月11日直前まで続いた。

 2011年2月21・22日に、東芝は、日経・読売掲載、カラー15段にこんな広告を出している。

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 しかし、2011年3月11日の東北大震災と、福島原発事故は、世界を一変させた。

 日本社会は、あれだけの大惨事に見舞われながら、1年間は、それまでのエネルギーを大量に消費する生活に対する自粛の空気に包まれていたものの、アベノミクスの経済最優先の掛け声のもと原発再稼働の声も高まり、3.11の大震災が遠い出来事になっていった。

 しかし、福島原発事故を受けてドイツが原発廃止をいち早く決定するなど、世界の原発を取り巻く環境は、劇的に変わった。

 プルトニウムを扱う福島第3号機が爆発した時、その対策協力のためにやってきたフランスのアレバ社。この会社は、震災後、福島原発に放射能汚染水の処理装置を納入したが、トラブルが相次いだ。アレバ社は、原発建設の他、高浜原発3、4号機ならびに伊方原発3号機などプルサーマル原発で使うMOX燃料も製造している世界最大の原子力産業複合企業だが、2011年の福島原発事故以降、業績を急激に悪化させた。

 2011年から2015年の5年間の累積赤字が1兆2070億円に達して、あっという間に経営破綻に陥り、仏政府が主導で救済がはかられている。そこに、日本の三菱や日本原燃も出資する。

 2011年以降、アメリカでも、ウェスティングハウスが受注した原発建設において審査基準が厳しくなるなど建設費が急激に上がり、さらに建設期間が大幅に伸びて、そのリスクとコストが、東芝の経営を直撃することになった。

 さらに、日本政府は、英国が計画する原子力発電所の建設プロジェクトを資金支援することを決めており、英国政府から原発の建設・運営を受託した日立製作所の英子会社に、国際協力銀行(JBIC)や日本政策投資銀行が投融資する。総額1兆円規模になる公算が大きい。

 アメリカで東芝、フランスで三菱、イギリスで日立と、核関連技術が中国など第三国に流れないように、逆風が吹き続ける原発産業において、日本が、連合国の一員としてリスクを負う構図になっている。

 そして、アメリカで東芝が火だるまになったが、三菱や日立が、フランスやイギリスで同様のトラブルに巻き込まれない保証はない。

 エネルギー分野は、一民間企業の経営判断だけで実行できるものではなく、国家プロジェクトだ。だから、東芝の誤算は日本の誤算であり、三菱や日立も巻き込まれれば、それもまた日本の誤算となる。

 そして、東芝が、深手を負わされるはめになった原子力事業をどうするかは、日本が原子力事業をどうするかということだ。

 2月14日の記者会見で、東芝の綱川智社長は、原子力事業について(1)米国4基、中国4基の建設中の原発はあらゆるコストを削減して完成させる(2)原発新設は原子炉供給などに特化し、今後、土木建築工事は受注しない(3)原子力事業の売上高の8割は既存原発の燃料・サービスであり、安定したビジネスとして継続する(4)再稼働、メンテナンス、廃炉事業は継続するーーと説明した。 

 東芝の原子力事業は2016年上期で3800億円を稼いでいるようだ。ここにはウェスティングハウスの稼ぎも入っているが、国内事業は安定収益という。

 東芝の綱川社長は、ウェスティングハウスが新規に4基の原子力発電所の建設を受注してしまったことが今回の巨額損失の原因で、もちろん、それ以前にウェスティングハウスの買収そのものが問題であったと記者会見で述べた。日本は、止まっている原発でさえもしっかり稼げる産業構造になっているから、よけいな手を出さなければよかったということだ。

 原子力関係の安定したビジネスは、既存原発において燃料を供給し、保守管理や修理点検を行っていくということ。安全意識が高まれば、保守管理や修理点検の仕事は安定的に得られる。また、燃料に関しては、電気料金が総括原価方式によって決められるので、東芝が電力会社に売る燃料の価格が変われば、電気代が変わるだけのこと。だから、リスクを負うことなく稼ぎやすい。そして、新規の原子力発電所の建設は、あまりにもリスクが大きいので作らない。となれば、今後の日本の原子力政策も、おのずから決まってくる。

 今ある原発を、使えなくなる時がくるまで、ノラリクラリと使い続けていくということだろう。

 そうしなければならない理由が、現在、膨大にためこんでいるプルトニウムや使用済み核燃料や高レベル放射性廃棄物の処分、そして廃炉の問題のなかにある。この問題を解決する方向へと議論を持っていかないかぎり、いくら「原発反対」と唱えても、国家法人の原発政策は止まらない。

(次に続く)

2017-02-09

第985回 企業トップの内面は、トップが意識している以上に企業に顕現化する。


 今回の東芝のように、企業の不祥事が起こると、この記事のように経営陣の体質という分析がよくなされる。

 http://diamond.jp/articles/-/117281?utm_source=daily&utm_medium=email&utm_campaign=doleditor

実際に、経営の舵取りをしている人間によって企業の盛衰は決まる。しかし、それ以前の問題として、どういう人物が経営者になっていくかという企業風土の問題があると思う。

 社内の調整役が出世しやすいのか、アイデアマンなのか、業績に貢献した人か、それとも人格者なのか。

 私は20歳で大学を辞めて2年間諸国放浪をして帰国後、2、3年、昼夜逆の生活をしながら文学青年を気取っていたが、25歳を前に、あることをきっかけにアウトサイダーのままではだめだ、社会の中に入り込んで社会を内から知らなければいけないと奮起し、サラリーマンになった。そして、どうせなら社会に対する感度がもっとも敏感なところがいいと思い、宣伝販促、PR、マーケティングに関わる仕事に携わった。その時、最初に出入りするようになったのが、浜松町に煌めく高層インテリジェントビル、東芝本社だった。

 1980年代後半の東芝は光り輝いていた。家電分野は中国などと競争する以前で大きなシェアを誇っていたし、ラップトップパソコンも高性能、軽量、デザインもよくて評判だった。そして半導体も世界でナンバーワンだった。そのうえ、ソニーやナショナルが持たない原子力をはじめとするエネルギー関連分野があった。そして、巨大自動車メーカー、フォードと提携するなど、東芝の社員は自信満々だった。私の担当は東大出身で、あいだに入っている電通の担当も東大出身だった。東芝はどこから見ても隙がなかった。

 しかし、社長プレゼンの前日、社長へのプレゼンはたった10分ほどなのに、プレゼンの準備とともに、床のゴミをガムテームできれいに剥がしとっていったことを覚えている。とにかく課長以下が緊張しまくっていた。社長は、雲の上の存在で、しかも、仕事内容だけでなく、何が原因で「あいつはダメだ」と烙印を押されるかわからないという恐怖があったのだ。

 その後、私は、数年間、カネボウ化粧品の仕事に深くコミットした。この会社もまた上に立つ者が威張っていたし、個人の利のために、社会通念上もしかしたら法的にも問題のある要望のほのめかしもあった。上の者が威張っているので、下の担当者も下請け会社に対して、ありえないほど横暴だった。出入り業者として見下しているのか、約束時間になっても出てこず、1時間も2時間も会議室で待たされたことは当たり前で、待たせても申し訳ないという顔一つしない担当者もいた。なにせ年間の取引金額が莫大だった。このカネボウの経験で、25歳の時に決めた社会経験はもう十分だと思った。30歳だった。どんなに貧しくても不安定でも、精神の奴隷状態の生き方よりは遥かにマシと決めた。

 当時のカネボウは、実に巧みな戦略をとっていた。世間では、資生堂とカネボウの二つの会社がライバルのように見えていたが、実績は資生堂がダントツで、カネボウ、コーセー、花王がしのぎを削っていた。カネボウは、徹底的に資生堂の真似をして、キャンペーンのタイミングも合わせて二強対立を演出することで、花王やコーセーを引き離した。しかし、当時のカネボウ化粧品は、鐘紡という繊維会社の事業部にすぎず、繊維部門は衰退して赤字だったものの、伝統的に、ずっと繊維部門出身が社長だった。化粧品部門は一番の稼ぎ頭だったが、化粧品トップは、事業本部長にすぎなかった。しかしその後、数字を盾に、その事業本部長がカネボウ全体の社長になって長く君臨し、その間に、不正会計を積みかさねた。数字で掴んだ権力だから、数字を悪く見せることはできなかったのだろう。

 実は、化粧品業界は、バブルの後、カネボウに限らず資生堂も危機に瀕していた。肌の違いに応じた多品種の商品をそろえ、肌診断を称してカウンセリングを行い高級基礎化粧品を売りつけていたツケだった。バブル崩壊後、販社やチェーン店に在庫が山のように残り、身動きとれない状態だった。その時、資生堂は、創業者の孫の福原義春さんが、世襲ではなく実力でつかんだ(義春さんの父は跡を継いでいない)アメリカ支社長から、本社社長になった。社長になってすぐ不良在庫を処理して莫大な赤字を計上し、有名な話だが、自腹で「木を植える人」という本を全社員分購入し、社員全員に配り、その後、V字回復した。いっきょに膿を出し切って、一丸になって頑張ろうと社員に呼びかけた結果だ。財界屈指の文人肌として知られ自分でも写真を撮る福原さんは、風の旅人を愛読してくださり、万年筆でしたためた感想をよく送ってくださった。何度かお会いし、禅問答のような経営の話が興味深かった。破綻したカネボウのトップも、同じ時期の資生堂のトップも知っているが、徳の違いはあまりにも大きかった。

 30歳になるまで、東芝とカネボウ以外に、ホンダやセブンイレブンなどの仕事もやった。ホンダは仕事の質に対する要求は厳しいが、社員が、社外の我々と一体になって苦労してくれて、より良いものを作りたいという情熱も強かった。だから問題がある場合とか、何かが必要な場合とか、割とフランクに言えた。カネボウはそれが非常に言いにくかった。早い方がいいと思って何かあればその都度というスタンスで伝えると、「忙しいんだ、まとめて伝えろ」という感じで怒られたりした。東芝の場合も、あいだに電通が入り、電通が東芝に気を使いすぎていることもあって、気軽に電話で伝えるなどできず、いちいちレポートのようなものにまとめなければいけなかった。時間とエネルギーを割くべきは他にあるのに、本来は必要のない段取りに多くの時間とエネルギーが割かれた。

 セブンイレブンは独特の会社で、長いあいだ、鈴木社長がカリスマとして君臨していて、社長のことを部長以下全員が恐れていたので、その分、部長も含めて、社長に叱られないための準備に非常に協力的で、うまくいくと、みんなでほっとして、同志的なつながりが得られた記憶がある。

 カネボウは不正会計で上場廃止となり実質的に破綻し、東芝も、不正会計で、破綻の危機に面している。どちらも、悪者が誰なのか明確には分かりにくいという点で共通している。企業体質と言ってしまえばそれまでだが、たとえばホンダもセブンイレブンも、はっきりと顔の見えるリーダーがいた。そしてそのリーダーは、単に経営上のトップというだけでなく、その言葉が日本社会のなかで頻繁に伝えられ、一人の人物としても一目を置かれていた。

 人として、またビジネスを行ううえで何を大切にすべきかを明確に語るトップがいること。そういうトップがいると、判断に迷った時でも、宙ぶらりんのままにして問題を先送りにはしない。なぜなら、そういう言い加減なことをしていることを知った時のトップの悲しげで怒り狂う顔が心に浮かぶからだ。人格者というのは、ふだんは温厚でも、そういう時は鬼のように厳しい。

 問題のある企業のトップの怒りは、その基準がよくわからなかったり、仕事内容ではなく、目の前の数字だけが基準だったりする。

 東芝は、あれほどの巨大企業なのに、トップの価値観どころか顔すら思い浮かべられる人は少ない。カネボウ化粧品もそうだった。ともに、社内では立場を利用して帝王のように君臨していたのに、一人の人物としては、社会的にほとんど知られていない。社内政治に強かっただけでトップになったからだろう。日本のサラリーマン社会でよくあるように、「何をしているんですか?」と聞かれた時に、「◯◯銀行、◯◯商社に勤めています」という答えしか返ってこないような、つまりただの会社人間で社内の事情に強いだけの、組織なければ何もなしという人をトップにしてしまう企業風土のある会社は問題があると思う。

 経営トップが、その存在だけで、人としていかに生きるべきかをオーラのように発している人であれば、企業の不祥事は、そんなに起こらないはずだ。不祥事だけでなく、その企業が生み出す商品やサービスにも、トップの人格は反映されると思う。

 企業トップの内面は、トップが意識している以上に、その企業において顕現化する。

2017-02-01

第984回  自分の利己主義に無自覚な現代日本人  

 トランプ大統領が、難民受け入れを禁止する大統領令にサインしたことが大きく取り上げられ、それに対して日本人が、ひどいと言っている。しかし日本はもっとひどい。

 このたびのトランプ大統領の行動に対して、フランスやドイツの首脳は明確に非難をしているが、安倍晋三首相は、「米国の大統領令、米政府の考えであろうと考える。私がこの場でコメントする立場にはないが、難民への対応は、国際社会が連携して対応すべきだ、難民が出てくる状況を根絶する中で世界が協力するため、日本はその役割を果たしたい、トランプ大統領とも話し合いたい。」と述べるだけで、日本の難民受け入れの現状からすれば、アメリカに何かを言えるはずがない。

 法務省の報告によると、2015年度、日本に難民申請した人の数は7586人で、前年に比べて2586人増加。それに対して、難民認定者数はたった27人で、前年に比べても16人だけ増えただけ。

http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri03_00111.html

 

 2015年に戦争や紛争、迫害を理由に自分の国を追われて難民状態となった人の数は史上最多の6530万人。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2015年に最も多くの難民を受け入れた国はトルコで、その数は250万人。急激に大勢の難民を受け入れたドイツは、申請認定待ちも含めて180万人。

 アメリカは、2015年9月時点で、シリア難民を、2016年には85000人、2017年には10万人受け入れると発表していた。その発表が大統領選によって覆されたから影響は大きく、トランプ大統領が非難されて当然だが、日本人は、アメリカのことを非難する前に、日本は一体どうなっているんだろうと考えなければいけないと思う。

 トランプ大統領のことを非難する時、日本人は、まだ対岸の火事のような感覚があり、自分ごとになっておらず、正義のポジションに自分を置いて非難できる。トランプのことを話題にする前に、日本人は、日本に起こっている現実の酷さに目を向けるべきなのだろう。

 2016年5月、安倍晋三首相は5年以内に、たった150人のシリア人難民を日本で受け入れることを発表したが、同時に、「難民より国内問題解決が先」と発言した。

 その”解決”という言葉が差している一つが、福島におけるこういう現実。爆発した原発の炉心の中がどうなっているのかわからない現状で、そこから僅か10kmの浪江町の住民を東京オリンピック前年までに強制的に帰そうとしている。生活に支障がないなどと言い切って。

 http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/blog-entry-111.html

 日本は、もともとこういう国だったのか、それとも、長い間、大切に守り続けてきた大事な何かが、この数十年で著しく損なわれてしまったのか。政治家や官僚の利権とか保身とか、そういう単純化された言葉で片付けられるものではないような気がする。

 官僚の仕打ちだけでなく、浪江町から避難した人たちに対する偏見と差別。そして、生きていくことが困難極まる状態になっている場所なのに、「自分の家に帰るべきだ」と強要すること。これは、世界の難民問題に対する日本人の態度と同じだ。いったい何故なんだろう。鎖国が長かったとか、いろいろな説明があるが、どうもそういうことではないような気がする。

 たとえば保育園問題も似ている。口では保育園が必要と言いながら、近所に作られることに反対する日本人。

 ”よけいな物事”が自分に深く関わってきて、自分の快適な環境や、定まったスケジュールや、平穏な心が乱されることを忌避する性根。つまり日本人は、オートメーション工場のラインの中の機械やロボットになってしまった。予想外のことやトラブルに対する抵抗力が極端になくなってしまった。パッケージツアーであらかじめ決められたところをきちんとまわることが、楽しい旅行だと思うようになった。物に対しても、(食べ物もそうだが)、見た目ばかりを重視し、ちょっとした瑕疵が許せなくなった。

 時とともに、いろいろなトラブルを重ねていくほどに、関係も深まり、味わいも増すという経年変化の良さもわからなくなった。

 お役所が商品管理のルールを作って、それを守っているものであれば安心という暮らしを続けてきて、自分の心身で判断する力を失っているのだから、難民は恐ろしい存在でしかないだろう。そうした日本人の期待に応えて、日本のお役所は、商品管理をするように難民の審査を厳密にやっているだけなんだろう。少しでも瑕疵のあるものを流通させるとどんな非難を受けるかもしれないと臆病になって。

 そしてお役所は、さらに考える。日本国に瑕疵があるように外国人に見られては、東京オリンピックに来てもらえないし、カッコ悪い。

 だから、浪江町の住民には、2020年東京オリンピックの前年の2019年までに戻ってもらいたいと言っている。

 これはお役所だけの心理ではなく、どんな添加物が入っているかは無頓着に、パッケージの綺麗なものを買ってしまったり、形の悪い野菜を規格外として破棄している日本人の現状と同じだ。お役所に務める人間も現代日本人。現代日本人の思考特性、行動特性が、この国の現状につながっている。他人事ではなく、自分もまた現代日本人であることを意識して、その思考特性や行動特性を、見直さなければいけない。

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2017-01-31

第983回 ユーリー・ノルシュテインの世界は、静かな慈悲の泉


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 2月3日まで京都シネマで上映中の「アニメーションの神様、その美しき世界」。

 http://www.imagica-bs.com/norshteyn/

 ユーリー・ノルシュテイン監督の作品は、数年ごとに見てはいるものの、何度見ても、胸に突き刺さるものがある。今回は、デジタルリマスター版ということらしいが、そのあたりの技術的なことはどうでもよく、本当に素晴らしかった。

 この世には、様々な戦いや軋轢、不安や孤独など、辛く悲しいことはたくさんあるけれど、それに対して乱暴な言葉や態度で対抗しても、ますます人と人の溝は広がり、心の裂け目は深まるばかり。

 ノルシュテインの世界は、ヒリヒリとした祈りが隅々まで行き渡っており、その祈りが、清冽な美しさ、哀しいまでの汚れなさ、愛しすぎる可笑しさに転換していく瞬間、なんとも言えない救いと和みが心を満たす。

 顔の表情も、仕草も、言葉も、徹底的に抑制した表現で、にもかかわらず、ここまで深いものが表現できるものだと感心せざるを得ないが、こうした世界に浸った後はとくに、我々を取り巻く情報や表現の、姦しさ、浅さ、自分勝手さが際立って感じられる。世界に瑕疵を見つければ得意満々に糺弾し、もしくは世界のことより自分のPRばかりに忙しい言葉と映像の氾濫。

 ノルシュテインの映像作品は、この空虚な世界のイコンのようなもの。比類無く慎ましく清楚なイコンは、乾ききって殺伐たる精神の砂漠の中を生きなければならない人々への静かな慈悲の泉のよう。幾ら歩き続けてもどこにも達することのできない空虚のなかで見失いがちな自分を、そっと取り戻させてくれる。

 この泉は、魂に染み入るように美しく、懐かしく、どんなに辛い現状の中にあっても、自らの魂の内側に信じるべき何かがあると、そっと告げてくれているように感じられる。

 そして、この作品が、DVDになる。

【初回限定版】ユーリー・ノルシュテイン作品集 2K修復版 [DVD]

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 5つの短編がセットになって3855円という信じられない価格。心が乾ききった時、数分の間、珠玉の作品一つを見るだけでも、心が潤う。そして何よりも、自分が発している言葉や映像の乱れに気づかせてくれる最高の手本であると思う。

2017-01-28

第982回  物づくりと、永遠に通じる道。

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「草木は人間と同じく自然により創り出された生き物である。染料になる草木は自分の生命を人間のために捧げ、色彩となって人間を悪霊より守ってくれるのであるから、愛をもって取扱うのは勿論のこと、感謝と木霊(こだま)への祈りをもって、染の業に専心すること。」(前田雨城)

 

 源氏物語の女房語りや、誉田屋源兵衛さんの織物などを通じて、日本の歴史文化の底力を見つめ直す試みの第一回が終了。誉田屋源兵衛さんが、売るためではなく後世に残すために作っている染色織物は、こういう機会でないと見られない。直に見たり聞いたりすることは、やはり心に迫るものがある。

 こうしたものは美術館のガラスケースに入れてしまうと、オーラが伝わってこない。物には命が宿り、オーラが発せられているという感覚すら現代人はわからなくなっているが(そういう物に触れる機会がないから)、物から命の気配が漂うのは、物を作っている人が命を吹き込んでいるからだという当たり前のことすら、私たちはわからなくなっている。

 日本の古代染色の探求者、故前田雨城氏の全く妥協を許さない仕事を目のあたりにしてきた源兵衛さんは、氏からの教えを語る。

 桜も桃も、花ではなく枝から染め上げる。枝の中に色が準備されている。枝から染めるためには木を伐らなければいけない。だから、木の中でも、見た目がさえない木に語りかけて、このまま生きていたいか、色となって永遠に生きてみたくないかと語りかけるそうだ。そして、伐られるのは嫌だという木には手を出せない。手を出すと、本当に暴れるのだそうだ。愛(なさけ)をもって取扱い、感謝と木霊こだまへの祈りをもって染の業に専念すること。現代の風俗に染まっている人間からすれば、まるで神話だが、神話ではなく本当の話なのだ。だから、現代に伝えられている神話も、作り話ではなく、すべて本当の話。人間は、樹や花や動物と対話ができるのに、現代人が、そのことを忘れてしまっているだけ。非科学的だなどと自分の鈍感さを棚にあげて。

 蚕の話も面白かった。奈良時代から飼育されている在来種の小石丸は、1つの繭から取れる糸は普通のカイコの繭の半分以下、産卵数が少なく病気に弱いなど、飼育が難しい。そのため、品種改良で、より大きく飼育も難しくない家蚕がつくられ、その糸を、私たちは絹だと言っているが、今日、源兵衛さんが、家蚕と小石丸の糸の違いを、目で見て手で触れて感じさせてくれた。実際にその二つを目の前にすると、光沢も、手触りもまったく違う。

 小石丸は、自分が繭から抜け出して飛びだす意思を持っているから、一部分を薄くして、外に出やすいように繭を作っている。しかし、家蚕は、全体的に均等に糸を張り巡らしている。つまり、自分は繭の中で生命を終えることを知ってしまっている。その生命意思の差が、糸の質の差になっているのかどうかわからない。

 美智子皇后が約20年間育てた小石丸の絹糸を使って、正倉院に保存されていた絹織物の修復が行われたことはよく知られているが、昔の物はすごい。刀なども鎌倉時代のものが最高で、その後は、質が下がる。私たちは、時代が先に進むほど良い物が出てくると信じているが、それはデジタル製品の世界の話で、音楽なども、100年前の蓄音機で聞くと、圧倒される。小説なども、数十年前のものに比べて、どんどん世界が狭く、表層的なものになってきている。評価の基準が面白いかそうでないか好きか嫌いかのレベルにしかならず、圧倒されたり、度肝を抜かれたり、放心したりと、理性分別の境界を超えたところに連れていってもらえるものと、ほとんど出会うことができない。

 どうでもいいものを数多くこなすよりも、ただ一つでも、本物に出会った方が、はるかに多くのことが得られる。物や情報だけでなく人間もまた同じだろう。本物は、自分のために作っていないし、だからといって、世の中の価値観や傾向といった移り気なものに合わせることもしない。今ではほとんど死語になってしまっている”永遠”のために、自分の生命を賭している。

 日本の歴史文化を見つめ直す意義の一つは、現代社会では、ほとんど見かけることがなくなってしまった”永遠性”に触れること。目先のことで慌ただしくすることが人生の充実であり豊かさだと錯覚させる現代社会の欺瞞性に少しは気付けること。

 私たち人間は、物を媒介にすることで、永遠に通じる道を知る。

 古代、人間が死を意識し始めた時、死の恐怖、不安、無念を乗り越えることを、真剣に考えたのではないかと思う。

 その真剣さと畏れが、物づくりに反映されている。それが、”命懸け”の仕事につながっていくのではないか。

 故前田雨城さんの心を伝える源兵衛さんの話から、”命懸け”というのがどういうことなのか改めて教えさせられた。命懸けの人は、自然に対する姿勢と同じく、人の仕事に対しても、隅々まで心が行き届き、敬意と配慮と感謝がある。それは人間にとって最も崇高な資質。それがある人とない人で、作りだされる物がまったく違うことは、物を見ればはっきりとわかる。自分を誇示するために物や人や自然を利用することしか頭にない人は、物や言葉や態度に、いくら取り繕っても、了見の狭さが出てしまう。

 テクノロジーを上手につかいこなし、様々な情報を要領よくさばいても、一時的に命の本質から目をそらしているだけ。だから、時の流れのなかで、泡のように消えていく。

 命懸けの仕事だけが、時代を超えて、人々の心に刻まれ、伝えられていく。

 しかし、ここに書いていることも含め、言葉では何とでも言えるが、物それ自体の説得力からは、遠く隔たっている。

 だから、命懸けの仕事には、言葉を超えたところで伝えられていく秘伝というものがある。しかし、長い年月を経て伝えられていく秘伝は、主に技術的なことで、秘伝ですら、本当に重要なことは取り除かれていたという。自分で感得するしかない、という領域。それを感得することなく、その人の色は出ない。

 永遠に通じる道は、目眩がするほど深い世界。


(以下、前田雨城氏著『日本古代の色彩と染』より)

 よい染色(そめいろ)は五行の内に有り。 本来の染色を得んとする者は、五行の訓(おしえ)に従って、その業をすること。

  五行の訓とは、 木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)、を言う。

木の章。

 草木は人間と同じく自然により創り出された生き物である。

 染料になる草木は自分の生命を人間のために捧げ、色彩となって人間を悪霊より守ってくれるのであるから、

 愛をもって取扱うのは勿論のこと、

 感謝と木霊(こだま)への祈りをもって、染の業に専心すること。

火の章。

 火には誠せよ。誠なく火に接すれば、必ず害をうける。

 火の霊(たま)は良き霊であるが、それに接する人の心によっては、悪霊にもなる事を知れ。

 常に心して火の霊を祭ること。

土の章。

 土より凡て生れる。土悪ければ、その地の草木悪し、草木悪ければ染色悪し。

 大地に念じ良き土を選ぶべし。

 総じて清気溢れたる土に生える草木をよしとする。

金の章。

 金気(鉄気・かなけ)は美しい色の大敵也。

 金気(鉱物質ならん)なければ色彩固まらずと言えども、金気にも善悪あるを知るべし。

 霊(たま)に良き霊と悪しき霊のある如し。

 一見して善しと見るは注意せよ。

水の章。

 一に水、二に水、三に根気、と言う。

 一の水は量を表し、二の水は質を表す。まず大量の水を必要とし、

 染色(そめいろ)に適するは、治まった水にして素直なる水であること。

 素直なる水とは草木に生命を与え得る水の事也。

 三の根気とは、仕事を与えられた喜び、その喜びに祈りの心を添えて、

 与えられた仕事に自己の力の凡てを、捧げることを言う。

2017-01-24

第981回 「伝統文化」と、3.11以降の生き方をつなぐために

 

2017年1月28日(土)を第1回として、源氏物語と日本文化の秘めた力 定期公演・研究会を行います。 

https://www.kazetabi.jp/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/

 この研究会は、同志社大学創造経済研究センター主催です。文学部ではなく、経済学部の主催で、伝統的文化の現代的創造研究会をやるということです。

 経済学部の主催ですから、伝統文化を使って、現代社会でどういう経済活動をするのかという風にもとれます。源氏物語をテーマにした香水やファッションを作って、いかに商売をうまくやるかとか、日本経済の活性化に少しは役に立つかとか。

 しかし、このテーマで企画するようにと話をいただいた時、私はそのように考えませんでした。そういう考えって、現代社会に媚びた形で伝統文化を消費するだけで、伝統文化を広めるどころか、衰退に手を貸すようなものだと思うからです。

 それはともかく、芸術にしろ、学問にしろ、現実の問題に向き合って、そこから何かを創造するということが難しくなっていると感じます。とりわけ伝統文化の関係者は、自らが関わる分野の保護を主張する言葉として、「伝統を守らなければいけない」というだけでは輿論に訴える力は乏しくなっており、現実の様々な問題と自らの活動の関係をどう伝えていくかという大きな課題があります。

 そうした状況を反映しているのか、社会全体としても、社会問題の解決の手段として人文社会論的ではなく、技術論的なアプローチばかりが優先され、大学も、文科系はいらないんじゃないかという風潮になってきています。

 私は、専門の学者ではなく、編集者にすぎません。その分、アカデミズムのルールに従う必要もない。専門家からすれば中途半端な知識しかないけれど、編集者というのは、異なるものを組み合わることで、認識に広がりを持たせることが可能な技法です。

 今回、伝統文化をテーマにした研究会で、つなげたい大切なものが、私の中にあります。

 それは、伝統文化と、3.11以降の生き方です。

 3.11は、津波による自然災害でしたが、原子力発電所の事故によって、経済やエネルギーの問題になり、よって、私たちの生き方の問題になっています。

 単純な言い方をすれば、今までのような生き方を続けるのであれば、安全性を確保したうえで原発を利用するしかないという論理で、一つひとつ原発再稼動が決定されているわけです。

 そうした議論の陰に隠れて、大事なことがあまり話題になりません。それは、原発再稼働をするしないに関わらず、日本は既に17000トンもの膨大な使用済み核燃料と、原爆4000個に該当する48トンものプルトニウムも作り出していることです。これらの処分の問題は、財政赤字の問題とともに、将来へと先送りされています。

 そのことについて、多くの日本人は、あまり深刻に考えていないようです。

 かつて、孫の代のことを考えて仕事をしていた日本人が、なぜこんなに安易に問題を先送りするようになってしまったのでしょうか。

 一つは、歴史認識の問題があると思います。

 進化論の影響で、人間の技術や能力は後の時代の方が優れていると、ほとんど全ての人が信じています。だから、今、山積みになっている問題も、将来の人間が解決してくれるだろうと心のどこかで思っているのではないでしょうか。

 だから情報知識に関しても、新しいものにはアンテナをはりますが、過去の教訓に目を向けることはあまりありません。

 そしてもう一つ。原発問題は近代社会の問題ですが、日本人の多くは、近代は明治維新から始まっていると考えています。そして教科書的に言えば、中世は鎌倉時代、源氏物語が書かれた平安時代は、なんと古代に区分されています。

 だから、近代の問題を考える時に、政治も思想も、明治維新以後のことにしか目を向けないのです。源氏物語は、今とは関係のない遠い昔のことであり、趣味としてそれを嗜む程度の位置付けです。だから、自分の趣味に合わなければ自分と関係ないものになってしまうのです。

 歴史家が悪いのですが、我々が教科書で教えられている時代分けは、世界の基準からずれています。

 たとえば、日本の律令制は、随や唐を模倣しましたが、中国史において随や唐は中世です(京大と東大で説が分かれていて、東大は唐の中旬までが古代らしい)。だとすれば、奈良時代は中世ということになります。

 そして、平安時代中期に書かれた源氏物語は、古代の物語でしょうか。

 源氏物語をきちんと読みばわかりますが、源氏物語の登場人物の心のあり方は、私たち現代人と非常に近いところがあります。

 欧米における近代意識は、一般的には、17世紀、デカルトが、「我考える、ゆえに我あり」と唱えた時と認識されています。

 デカルトは最後の宗教戦争と言われるドイツ30年戦争に志願し、そこで矛盾をいっぱいに感じ、自分に起っている現実に対して、宗教に依存するのではなく、自分の頭でしっかりと考えなければいけないと思うわけです。

 それぞれの固有の体験に対して、なぜそうなったか、どうすればいいかを考える。その悩みは固有のものであり、その固有の悩みが、その人が存在している証となる。近代意識と個人主義はそこから始まっています。

 それ以前、それぞれの個人の悩みは、宗教的に処理されていたわけです。

 源氏物語には実に多彩な人物が登場し、実に多彩な、個人的な悩みが綴られています。源氏物語は、一面では華麗で美しい物語かもしれませんが、70%は、個人の悩みの描写で占められています。それぞれの登場人物が、それぞれの体験の中で固有の悩みを持ち、深く考えている。そして、何も考えなければ悩む必要がないのに、考えることで悩みは深まる。それはまさに実存的な悩みであり、我々と同じ近代の悩みです。

 そして、源氏物語の主人公たちは、ただ悩むだけでなく、それぞれの方法で、自分の悩みと折り合いをつけていきます。最終的には出家という形をとるものが多いのですが、現実とどう向き合い、どう乗り越えていくのかという自問自答に、多くのページが割かれています。

 その中に、もののあはれ、侘び寂び、粋といった、鎌倉時代から江戸時代にかけて日本人が洗練させてきた精神文化の萌芽が感じられます。

 その共通項は、自分のことも大切だけれど、それ以上に、相手や周りの人間のことを隅々まで思いやること。

 世は無常。だからといって、安易に自然の道を外れたことはやりたくないという美意識を、多くの日本人は持っています。そして、矛盾の中を生きながらも、だれかのせいにするのではなく、一歩引いて、自分に非をもつ。源氏物語の中には、そういう粋な女性が多く描かれていますが、現在の様々な問題に対して誰かを責めるばかりで自分を顧みない野暮になっている私たちは、もう一度、1000年前から精神を組み立て直す必要があるのかもしれません。

 日本人は、源氏物語以降、個人の実存的悩みを乗り越えるための方法を、近代ヨーロッパよりも長い1000もの年月をかけて洗練させてきました。だから現代でも、外国人を含め、西欧的近代合理主義の問題を深く感じる人が、関心を寄せ、そこから何かを学び取ろうとしているのです。

 源氏物語に限りませんが、過去のものを丁寧に見つめ直していく時、時間が先に進めば人間は優秀になるとか、より良いものができるという思い込みが錯覚であることに気づくでしょう。

 本居宣長も川端康成も言いきりました。源氏物語を超える文学は、その後、出ていないと。空海ほどの行動的思想家、天武天皇、源頼朝、徳川家康ほどの政治家、若冲ほどの画家が明治維新以降に出ているのでしょうか。

 歴史認識が少しでも変われば、現代の問題を解く鍵が未来にあるとは限らず、過去の教訓の中に埋もれているかもしれないと、アンテナが広がるかもしれません。

 後の時代の方が人間が優秀になるとはかぎらず、だから深刻な問題を先送りしてしまうことは、解決どころか問題をより複雑にするだけだと、悟るかもしれません。

 

 

2017-01-22

第980回 使用済み核燃料のことから原発問題を考える

△ら続く

 福島原発事故は、もしかしたら80年前の満州事変かもしれないと思うことがある。あの時に止めておくべきだったのだという歴史的節目は必ずある。

 集団的自衛権など改憲問題も大事だけれど、悲劇は、人々が意識できるような形で起こらない。私たちは、過去の教訓があるので戦争に関して不穏な動きがあれば多少は敏感になって反応できるかもしれないが、原発問題は経験に乏しく、何がどうつながって最悪な事態へと展開していくのか想像もつかない。

 80年前の太平洋戦争の場合、突然、真珠湾攻撃が始まったわけではなかった。 

 1923年に関東大震災、1929年の株価大暴落による世界恐慌の後、1930年から昭和恐慌、そして、1931年に満州事変が起こる。

 国内の苦しい現状を変えようと、大陸進出を始めたのだ。

 1904年の日露戦争に勝利した時から、日本は、満州にどんどん投資を行っていた。学校や病院が作られ、炭鉱が開発され、満州にわたる日本人も多かった。満州が、日本の経済の一部に組み込まれていた。しかし、清から中華民国に変わり、ロシアや欧米諸国との駆け引きも複雑化してきて、満州で思うような経済活動がやりづらくなってきて、力づくで占領するという行動になった。

 満州事変は、戦争好きな軍人が、自らの利権のためにやったのではなく、当時の時代背景や、経済の問題(食べていくには仕方がないという論理)が大きく関係している。

 そして、当然ながら、日本の強引な手法が各国の非難を浴びることになり、日本は次第に国際社会から孤立していった。

 日本が起こした満州事変について、1933年の国際連盟特別総会で審議され、日本以外の総会に参加した全加盟国が、満州国を認めなかった。

 その時、日本の全権を任命され総会に参加していた外交官・松岡洋右は、「日本は国連の決定を受け入れることができない」と演説を行って帰国し、日本国民からは拍手喝采で出迎えられた。その流れで、1935年に、日本は正式に国連を脱退する。にもかかわらず、終戦後、日本人は、政府に騙されていたと言うのである。

 一度、負のスパイラルに陥ってしまうと、なかなか抜け出せないことを歴史が教えてくれる。

 1932年の5.15事件に続いて1936年に2.26事件、1937年に日華事変があり、1941年に太平洋戦争が始まる。その後でも、ミッドウェイやガダルカナルで大敗北をして、潔く負けを認めて戦争を終わらせるべき機会はいくらでもあった。しかし、それができず、東京をはじめとする各地での大空襲、沖縄戦、広島と長崎への原爆投下など、後になればなるほど被害は甚大なものになっていった。

 なぜ、あの時に止めることができなかったのかと後で後悔しても遅い。

 原発のことを考えてみる。

 2011年3月11日の福島原発事故の後、人々が原発に対して拒否感をもっていたのは、わずか一年ほどだった。一年ほど経った頃から、日本経済のために原発はやむをえないという声が大きくなりはじめた。

 原発の危険性を訴える反対派に対して、安全に管理すれば大丈夫と答弁する政府や電力会社を信じるべきなのか、それともやはり危険なのかという議論は、安全が保証できるのであれば原発をやっても構わないということでは同じなので、それを判断するために原子力規制委員会が作られ、原発の安全性の審査を行う仕組みになった。専門家が様々な角度から審査をして、それに通れば、原発を動かしてもいいというお墨付きを得るのだ。

 この仕組みは、原発稼動のための条件を、”原発の構造などの安全性”というかなり限定したものにしており、使用済み核燃料のことは、一切考慮されない。

 原発を稼動させると、当然ながら高レベル放射性廃棄物が生まれるが、それを保管する場所が、原発敷地内に用意されているか、それが危ういなら他に中間貯蔵できる場所を確保しているか、その後にどうするかといったことが、当然、考えられ、決定されていなければならないが、その判断は原子力規制委員会の仕事ではないのだ。

 高レベル放射性廃棄物から大きな事故が発生する可能性があるのに、福島原発事故とは違う形で現時点では予測できない新たな問題が起こる可能性だってあるのに、それを判断する審査は存在しない。

 太平洋戦争もそうだったが、後になって、国民は騙されていたと言う。しかし、おそらく戦争への道を推し進めていた人たちは、騙すつもりではなく、うまく説明できなかっただけかもしれない。

 原子力発電所の問題にしても、現在、原子力利用における安全を確保するため、安全規制に係るのは環境省の外局である原子力規制委員会の役割である。

 そして、核燃料の確保、放射性廃棄物の処理と処分、原子力発電所の建設等は経済産業省、核燃料物質などの輸送や原子力防災に関連することは国土交通省、放射線障害の防止と、環境放射能水準の観測を行う放射線環境対策、核燃料サイクルに係る基礎的研究開発、それと原子力損害の賠償は、文部科学省が担当する。あと、原発就労者の労働災害防止とか、住民の被爆など健康問題、食品の放射能問題は厚生労働省。

 それぞれの行政責任が分かれていることで、互いに牽制が働くという考えも成り立つが、全体を通して把握し判断し説明できる人はいなくなる。もちろん、それが政治家の役目であるが、それぞれの省庁の担当大臣はころころ変わり、政権中枢は、次の選挙のことを考えて、「経済最優先」「3本の矢」としか言わない。

 おそらく、太平洋戦争の前だって似たような状況だったろう。陸軍とか海軍とか、自分たちが得ている情報だけをもとに自分の正当性を主張するばかりで、全体を正確に理解し、判断し、伝えられる人がいなかったのではないか。

 こうした状況は、政治に限らず学問の世界でも似たようなところがあり、部分の説明を聞けても、それが全体とどういう関係にあるのか、うまく説明してくれる人は、なかなかいない。

 そのようにバラバラの情報ばかり流れてくるから、国民の興味関心も薄くならざるを得ない。

 原発問題も、危険かどうか、経済に対する影響がどうか、という論法ばかり。それ以上、どう考えればいいのか、考え方じたいがわからない。そのようにして、高レベル放射性廃棄物や、政府は廃棄物とは呼ばないけれど危険物質で扱いの難しいプルトニウムが蓄積していくのだけれど、国民にとって、あまり自分ごとでなくなっていく。満州事変が起こっても、多くの国民にとっては自分ごとではなかったように。

 事態が悪くなっていくと、政府は、国民に余計な心配をさせないためとか、パニックになって暴動を起こすことを防ぐため、といった理由で、ますます情報を隠蔽するようになるだろう。

 そのようにして、後に「あの時は騙されていた」と言い逃れしやすい状況が作られる。

 高レベルの放射性廃棄物に関して、カナダでは、しばらくの間、最終処分地は決めないようだ。

 最初の60年は原発敷地内、または浅い地下の貯蔵施設で管理し、その間により安全な処分方法の開発とその賛否などを問う国民的な議論を行う。その後、深い地下への地層処分をすることになっても方針変更があった場合に備え200年は廃棄物を回収できるようにしておく。

 国民に詳しく説明しないまま最終処分地を決めて、そこに埋めてしまえば、それこそ臭いものにふたをした状態になり、国民の多くは、罪なことをしたという意識を持たないまま始末におえないものを次世代に先送りすることになるが、現在の日本には、そのように自分の良心の痛まない方法で物事を進めてもらった方がいいと心の中で思っている偽善者は多い。

 それは倫理的に問題だと言葉で言うことは簡単である。しかし、国の借金にしても、平気で次世代に先送りできてしまうのが、我々、高度経済成長下の日本を生きてきた者たちのメンタリティなのである。

 物であれ何であれ、自分の豊かさを自分で享受するだけでは満たされず、それを人に見せびらかして満足する人が多いことが、物と情報を次々と消費する社会をつくりあげたが、おそらく、原発問題というのは、そうした、”今、自分が楽しければいい”という消費社会のメンタリティと切っても切れない関係にある。

 問題を先送りにしてしまう心理の問題は、実に根深いものだ。高度経済成長時代を生きてきた我々は、自分では意識できていないけれど、人として大事なことを忘れてしまっているのだろう。

 自分を快適にすることばかり考えていても、自分は、心底、幸せになれないということ。

 戦争にしても原発にしても、多くの国民が、自分の良心を痛めて悩む状況こそが、推進するうえで一番の支障になる。

 当事者意識を持たずに敵を攻撃するだけのスタンスは、賛成でも反対でも、自分の問題として捉えていないことは同じで、そうした活動は、自分は正しいけれど世の中は間違っているという風潮を広めることに一役買っているだけである。

 反対の声があちこちで聞こえるのに何ら現状が変わらないのは、たぶん、そのためである。

 自分の問題としてとらえたら、果たして何から変えていけるのか。

 できるだけ消費を抑えること。経済を基準に政府を選ばないこと。生きていくために仕方ないなどと安易に判断せず、他の方法で生きていく手段を考えること。

 政府頼みになると、現実を変えていくのではなく、現実がこうだから仕方ないという論法にそって、きっと物事が進められる。戦争も、原発も。

2017-01-20

第979回 使用済み核燃料のことから原発問題を考える

,ら続く

 原子力規制委員会は1月18日の定例会合で、九州電力玄海原発3、4号機(佐賀県)が新規制基準に適合したことを示す審査書を正式決定した。これで安全審査に合格した原発は全国で5原発10基となった。九電は年内の再稼働を目指している。このニュースに合わせて、報道ステーションでは、使用済み核燃料プールが満杯状態であるという問題を取り上げていた。

 http://www.dailymotion.com/video/x58y9fg

 この指摘は重要なポイントではあるが、実に巧みに、使用済み核燃料を中間貯蔵しなければならない現状の啓蒙報道になっている。

 日本の各原発の冷却プールは満杯に近づいており、2018年度から使用済み核燃料を再処理する予定の六ヶ所村のプールも、すでに満杯。他にスペースがなく、すでにあるプール内で、燃料と燃料のあいだを詰めて保管するか、乾式という方法でプールの外に保管することを決定しなくてはならなくなっている(これを中間貯蔵と言うが、2000年6月の原子炉等規正法の一部改正で、原発敷地外において使用済み核燃料の貯蔵が可能になった)。

 先週、六ヶ所村に行った時に、むつ市で準備が進められている中間貯蔵施設を見てきた。テロ対策ということで、入り口の看板以外、写真を撮ることは許されなかった。

 この中間貯蔵施設は、50年間を限度に東京電力と日本原燃の使用済み核燃料が保管されることになっている。当初は3000トン、のちに2000トンを保管する施設が作られる。東電以外の電力会社は、この中間貯蔵に関して、まだ何も決まっていない。

 それはともかく、玄海原発の再稼動を伝える報道ステーションのニュースでは、大事なことに触れられていない。それは、今回、新基準の審査に通ったという玄海原発3号機が、プルトニウムを核分裂させるプルサーマルであることだ。報道ステーションの報道は、私の考えすぎかもしれないが、中間貯蔵に関しては国民に問題意識を持ってもらいたいがプルサーマルのことは騒いでもらいたくないという政府に配慮しているように思われた。

 昨年の1月に再稼動をして、その後、停止になった高浜原発3号機もプルサーマルだった。また、現在、日本で稼動している原発は、九州の川内原発1号、2号基と、愛媛の伊方原発3号基だけだが、伊方もプルサーマルだ。原発の再稼動が、プルサーマルを中心に行われているという印象がある。これは明らかに、国内に貯まっているプルトニウムの処分の方法が他にないからであり、原爆を作ることができるプルトニウムを商業用に使っていかなければ、国際的な批判にさらされ、昨日のブログにも書いたように2018年に満期を迎える日米原子力協定にも影響を与える。

 もんじゅの廃炉が決定した今、日本は、プルサーマルを使ってプルトニウムを使っていくしかない。しかし実際には、MOX燃料中のプルトニウムの割合は、日本原子力研究開発機構の報告書では、発電後に4分の1弱しか減らないという。ウラン235の9倍もの価格で発電して、プルトニウムもたいして減らないし、使用済み核燃料の取り扱いも難しく核のゴミもさらに増えてしまうというプルサーマル計画は、プルトニウムを商業用に使っていますよというポーズでしかないのだ。

 今後も六ヶ所村で使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、そのプルトニウムが商用目的であることを証明するために高いお金をかけてMOX燃料を作るという、悪夢としか言えない核燃料サイクルを行わなければならない理由は、いったいどこにあるのか。

 いつでも核武装ができるようにするためだと極論を言う人もいるが、すでに4000発分の原爆を作るだけのプルトニウムが存在しているのだから、さらに作る必要などないだろう。

 本当のところはわからないが、一つの理由として、使用済み核燃料の最終処理の問題があるかもしれない。

 使用済み核燃料の再処理の危険性に関して様々な議論があり、再処理ではなく、原発から出た使用済み核燃料をそのまま直接処分する方法にすべきだという話もある。

 使用済み燃料は膨大な放射能の塊で、人間が近づけば即死してしまうような非常に強力な放射線を出し続けているが、再処理は、この使用済み燃料をブツ切りにし、大量の化学薬品を使ってプルトニウム、燃え残りのウラン、核分裂生成物に分離するわけで、放射能にまみれた廃液の問題もある。

 また、再処理の過程で大量の放射能が出るので人は近づけず、遠隔操作をしなければならない。コストも直接処分よりも遥かに高い。使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り除いた後、ガラス固化体にすることで少しは発熱量も体積も減り、放射能も弱まるらしいが、それでも人が近づけば20秒で死亡するほど危険なものであり、チタン等で作られたオーバーパックに納められる。表面温度は200℃以上の高温のために、すぐには動かせず、30-50年間冷却して発熱量が減ったところで地中に埋めるなど最終処分される予定なのだ。もとのウラン鉱石と同じレベルにまで低下するには10万年もの歳月を必要とする。

 なぜそこまでして再処理をするのかという問いにたいして、六ヶ所村に同行した経済産業省の人は、ウランやプルトニウムを取り除くことで臨界核分裂が起こる可能性がなくなることや、高レベル放射性廃棄物の量が減ること(4分の1と言われている)、さらに、10万年の保管期間を約8000年と短くできると説明した。(それに対して、異論を唱える学者も多い)

 しかし海外では、フィンランドやスウェーデン、カナダ、アメリカなどは直接処分することになっている。

 しかし、再処理をした高レベル放射性廃棄物でさえ引受先がないのに、プルトニウムも含まれた使用済み核燃料を、いったい誰が引き受けるのか。

 直接処分であれ、再処理処分であれ、高レベル放射性廃棄物を処分しなくてはいけないという現実は変わらない。

 日本に限らず、韓国、ドイツ、イギリス、アメリカなどもまだ最終処分の候補地が決まっていない。アメリカはユッカマウンテンに一旦決まったが、オバマ政権になり白紙撤回された。ドイツや最大の原発国であるフランスはほぼ候補地が絞り込まれていると。フィンランド、スウェーデンは最終処分地を、それぞれオルキルオト、エストハンマルに決定し、20年、24年に操業を予定している。

 最終処分地を決定したフィンランドは、オルキルオト原子力発電所のある島にオンカロという施設を準備中で、2020年から、地下420メートルを超えたところに、再処理を行わない高レベル放射性廃棄物を半永久的に埋めていく方針だ。

 曲がりくねったトンネルは最終的には42kmになる。内部は低温に保たれ、廃棄物を水分による腐食から保護するために岩盤は極度に乾燥している。鉄の鋳造物で囲った使用済み核燃料棒を、分厚い銅の容器の中に封印した上でトンネルに運び込み、この容器を、周囲の岩盤の揺れや浸水を防ぐ働きをするベントナイトと呼ばれる粘土で覆う。最終的には、さらに多量のベントナイトや粘土の塊を使い、トンネルを埋める計画だという。

 フィンランドは日本に比べて地震が少ないところだが、それでも放射能漏れを心配する声も大きいし、10万年という途方もない時間について一体誰が責任を負えるのかと反対する人も多い。

 このフィンランドの最終処分場で、日本の放射性廃棄物も処理してもらえばいいと無責任なことを言う人がいるが、その人は、現実がわかっていない。

 オンカロは、これから先100年かけてトンネルを拡大していくのだが、そこで処分することの出来る廃棄物の量は9000トンに過ぎない。

 我が国で廃棄処分しなければならない廃棄物は、「核燃料」だけですでに1万7000トンに達し、そのうち7100トンはイギリスやフランスに再処理が委託され、ガラス固化された高レベル放射性廃棄物が、フランスからは1310本返還されており、イギリスからは、2010年から10年かけて850本が返還される予定だ。(ガラス固化体の重量は、ステンレスキャニスター約100kgと合わせて500kg。さらに強力な放射線を遮断するチタンや炭素鋼でつくられるオーバーバックが6トンになる。)

 そのうえ、原発事故によって、福島原子力発電所の4つの原発は、建物自体が、高レベル放射性廃棄物になってしまった。

 フィンランドのオンカロには入りきれない核のゴミを、日本はすでに生み出してしまっているということだ。

 六ヶ所村の再処理工場で処理して臨界による核分裂爆発の可能性のあるプルトニウムとウランを取り除いてガラス固化体にすれば、高レベルの放射性廃棄物の体積は小さくなるのかもしれないが(取り除かれたプルトニウムも、廃棄物とは呼んでいないだけで、取り扱いの難しい放射性物質に変わりない)、同時に膨大な低レベルの放射性廃棄物が発生する。その量はフランスのラ・アーグ再処理工場では元の使用済み燃料に比べて約15倍、六ヶ所再処理工場でも、事業申請書から試算すると約7倍の放射性廃棄物の発生が見込まれている。さらに工場の操業後は、施設全体が放射性廃棄物となる。

 こういうことを考え出すと、気が遠くなる。

 にもかかわらず、日本は、エネルギーのためだけでなく、プルトニウムが問題視されないように、まったく採算が合わない高コストで、原発問題を複雑化させるプルサーマル計画を優先的に推進しようとしている。

 これまで行ってきたプルサーマルで、MOX燃料の放射性廃棄物が、国内に少なくとも127トン保管されていることがわかっている。この放射性廃棄物をどうすればいいか何も決まっていないのに、愛媛の伊方に続いて、玄海原発でプルサーマルを稼動させることになった。現在、安全審査に合格した原発10基のなかに、プルサーマルを実施する4つの原発がすべて入っている。愛媛県の伊方と佐賀県の玄海に続いて福井県の高浜3号機と4号機のプルサーマルが稼動していくと、日本は、形は違うけれど、80年前にズルズルとはまり込んだ悲劇のスパイラルを繰り返しているのではないかと心配になる。

 福島原発事故は、80年前の満州事変かもしれない。あの時に辞めておくべきだったのだという歴史的節目は必ずある。改憲問題も大事だけれど、悲劇は、人々が意識できるような形で起こらない。戦争の悲劇は体験があるから不穏な動きには敏感になれるかもしれないが、原発問題は経験に乏しく、福島原発事故とは違う形で、現時点では予測できない新たな問題が起こる可能性がある。

に続く

 

2017-01-19

第978回 使用済み核燃料のことから、原発問題を考える

f:id:kazetabi:20170112164455j:image

(使用済み核燃料の再処理行程の模型)

 2018年上期から使用済み核燃料の再処理が予定されている青森の六ヶ所村に行ってきた。

 原発に賛成か反対かを議論する前に全ての人が考えなければいけないことがある。それは、これまで日本人が溜め込んできた放射性廃棄物をどう処分するかだ。この現実を知れば知るほど、解決の道筋がさっぱりわからなくて途方に暮れてしまう。

 六ヶ所村では、2018年に再処理工場を稼働させた後、2019年上期までにMOX燃料工場が完成する予定になっている。再処理で取り出されたプルトニウムとウランで、MOX燃料(ウランとプルトニウムの混合酸化物燃料)が作られることになっているのだ。

 このMOX燃料は、もともと核燃料サイクルの要として位置付けられていた高速増殖炉で使われる予定だった。高速増殖炉でMOX燃料のプルトニウムを核分裂させると、燃料の中に含まれているウラン238に中性子が衝突して、新たにプルトニウムが生まれる。燃料で使ったプルトニウムよりもたくさんのプルトニウムが得られるので、日本がエネルギーを自給するための手段になると考えられていた。

 しかし、昨年末の12月21日、政府の原子力関係閣僚会議は、福井県敦賀市の高速増殖原型炉「もんじゅ」の廃炉を正式決定した。これまで1兆円以上の事業費を投じながら、相次ぐトラブルで今後の見通しも立たず、幕を下ろすことになったのだ。

 「もんじゅ」は、実験の原型炉でしかなく、高速増殖炉を商用にするにはさらに巨大な設備が必要で、その建設や試験などのことを考えると、「もんじゅ」ですらトラブル続きで莫大な費用が投入されているのに、その先のことなど想像もつかない。

 しかも、高速増殖炉は、ウラン238にぶつける中性子の力を殺さないように、原子炉の中を、一般の原子力発電所が使う水ではなくナトリウムで満たしている。プルトニウム爆発のエネルギーがナトリウムの温度を上昇させ、その熱がタービンをまわす力となって発電される。しかし、ナトリウムは大気に触れると爆発するので取り扱いが極めて難しい。高速増殖炉の事故は、福島原発の事故と比較にならないほど甚大だろう。

 海外ではフランスが原型炉から一歩進んだ実証炉を開発したが、経済性に乏しく実用化が困難なことから閉鎖。米国、ドイツ、英国なども開発から撤退した。

 だから、もんじゅの廃炉決定で、日本も危険な核燃料サイクルへの執着も捨てるのかと思っていたら、そうではなかった。

 政府は、もんじゅの廃炉決定と同時に、使用済み核燃料の再利用を目指す核燃料サイクル政策は維持することも決めた。「新たなチャレンジを求める」として、もんじゅに代わる高速炉の開発を続けることになったのである。

 その決定の背後にあるのは、現在でもロシアや中国、インドなどは高速増殖炉の開発を推進しており、とくにロシアは、ウラル地方ベロヤルスク原子力発電所に建設した設備で、もんじゅの3倍の発電能力を誇る高速増殖炉を送電網につなぎ、試験を経たのち2016年10月末からフル稼働体制に入り、産業用に電気を供給するのも間近という状況で、「日本は先を越された。」と声をあげる政府および経済関係者も多いからだ。

 ロシアで高速増殖炉が事故を起こしても大変なことになるだろうが、国土の狭い日本と広大な土地を持つロシアを同じ土俵で語ることはできない。

 にもかかわらず日本が高速増殖炉の夢を捨てきれないのは、エネルギー自給のためだけでなく、どうやら放射性廃棄物の問題が関係しているようだ。 

 文部科学省は、高速炉は、中性子を高レベル放射性廃棄物の核種にぶつけることで、非放射もしくは短寿命の核種に変え、放射性廃棄物の体積を大幅に減らしたり、管理期間を約10万年から約300年に減らせる可能性があると説明している。

 さらに、日本が核燃料サイクルの計画を放棄しますと言えないのは、2018年に満期を迎える日米原子力協定の問題も関係している。この協定によって、日本は、非核兵器保有国として唯一、再処理施設や濃縮施設を持つことを許されている。原子力エネルギーの平和的利用を最重要国策にもあげ、それを認めてもらうことによって日本はプルトニウムを貯め込んでおり、その量はすでに48トン(4000発分の原発を作れる)に達している。(北朝鮮のプルトニウム保有量は50kgと見積もられており、日本はその約千倍だ。)

 私たちは、戦後、原子力発電を主なエネルギー源として経済を発展させてきたが、その代償として、莫大な量のプルトニウムと、1万7000トンもの使用済み核燃料を貯め込んでしまっている。そのうち7000トンは、イギリスやフランスに再処理の委託が行われ、MOX燃料とガラス固化された高レベル放射性廃棄物が日本に戻ってきている。

(原発を作っている国は、原発の材料となるプルトニウムを取り出すために使用済み核燃料の再処理を行ってきた)

 日本の場合、これまで使用済み核燃料は、原発の敷地内の冷却プール(常に水を入れ替えて冷やし続けなければいけない)と、六ヶ所村の再処理工場の冷却プールに保管されている。六ヶ所村のプールはすでにほぼ満杯であり、各原発のプールも、限界に近づいている。

 昨年末、もんじゅの廃炉が決定された時、にもかかわらずなぜ、六ヶ所村で使用済み核燃料を再処理しなければいけないか理解できなかった。もともと、使用済み核燃料の再処理は、プルトニウムを取り出して高速増殖炉で使うためだったから。

 「高速増殖炉の計画が頓挫してしまっているのに、なぜ危険を伴う再処理を行ってMOX燃料を作る必要があるのか?」と、六ヶ所村の再処理工場のPRセンターで質問すると、「MOX燃料は、もともと高速増殖炉ではなく、プルサーマル原発で使うものだ」という答えが帰ってきた。

 しかし、その答えは明らかに矛盾があり、1997年、もんじゅのトラブルのために高速増殖炉の運転が延び延びになってしまったからプルサーマル計画が立ち上がったことは知っている。

 プルサーマルは、普通の軽水炉原子力発電所プルトニウムを核分裂させるという付け焼き刃的な計画で、ウランの時よりも中性子のエネルギーが大きいために原子炉が痛みやすく危険度も高いし、この方法で生まれる使用済み核燃料は高温で、より長いあいだプールで冷却しなくてはいけないし、放射性廃棄物の毒性も強くなると考えられていて、どのように処理すべきか、まだ決まっていない。

そして、日本にはまだMOX燃料を作る工場はないからイギリスやフランスに作ってもらっているが(日本から使用済み核燃料を両国に送って、 MOX燃料と高レベル放射性廃棄物が送り返される)、そのコストは、ウラン原料の9倍にもなる。

 どう考えても、何らメリットがない方法なのだ。

 とにかく、付け焼き刃的にプルトニウムを減らす方法として捻出されたプルサーマル計画であるが、当初は16〜18基を予定していたものの、危険性から地元の人々の説得も難しく、結局、愛媛の伊方や福井の高浜など5基だけとなり、そのうちの1つ福島第一原発の3号機は、2011年に爆発した。

 現在は、愛媛の伊方原発一つだけが稼働しているが、プルサーマル計画の現状は、日本が貯め込んだプルトニウムを減らす方法とはとても言えないし、コストも高すぎるし、何よりも使用済み核燃料の問題をより複雑にしている。 

 △紡海


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2017-01-07

第977回 競争から共創へ、利己から利他へА‘本の歴史や伝統!?


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 山頂に巨石が祀られている六甲の比売神社を訪れた。最近、神社を頻繁に訪れているが、神社の建物そのものより、その場所に長い年月を超えて存在し続けている大木や巨石に心惹かれる。

 原生林の中の巨木も素晴らしいが、人間の傍で人間の営みの影響を受けながら、無数の人間に触れられたり人間の息吹を感じながら存在し続けている大木や巨石は、独特の気配を発している。

 私たちが生きている地球は、地磁気や気圧、風向き、陰日向、気温差など、エネルギーの流れがある。無数の人や車が動いても、エネルギーの流れは、乱れたり、方向を変えたりすることがあるだろう。

 私は、神様や仏様のことはリアリティを感じることができないが、エネルギーの流れは、実感できる。家でも会社でも街中でも自然の中でも、心が淀む場と、心が活性化する場は、明らかに違いがある。人間の生命活動は、消化や呼吸など化学反応なのだから、自分の意思とは別に環境のエネルギーの影響を受けるのは当たり前のことだと思う。

 利便性とか経済効率のことばかり考えていると、その当たり前のことを見失ってしまう。

 風雪に耐えて、時には戦乱など人間の罪業を乗り越えて生き延びてきた樹木や、人類が誕生する遥か以前から、激しい環境変化を何度も乗り越えて存在し続けている石の姿は、凄まじいエネルギーの流れや、エネルギーの緊迫した均衡の形のように見え、命の姿が現前化しているように感じられる。

 自分を媒介としてエネルギーの通り道を作ったり、溜めを作り、適時、周りにエネルギーを配り、配っている。だから、周りも元気になる。

 人間もまた、そうあるべきなのだが、ともすれば利己的な傾向を持ちやすい現代人は、エネルギーの流れや均衡のことよりも、自分の都合のために外部のエネルギーを使うという意識しか持っていない。そのため、周りは、エネルギーを失い、不活性になり、淀んでしまう。結果的に、その環境の中にいる自分のエネルギーのバランスもおかしくなり、不幸になってしまう。

 最近、神社本庁が、日本の歴史と伝統を守り伝えるという大義名分をふりかざし、自民党政権と足並みを揃えた改憲活動を行ったりしているが、そうした活動を行っている神道関係者は、はたして大木や巨石と心を通わせたりすることがあるのだろうか。

 天皇陛下は、人間世界の王になどなりたいと思わず、自然界の摂理を損なわない媒介者でありたいと考えているのではないか。

 歴史や伝統を守り伝えるというのは、皇室神道、天皇崇敬を軸に国家をまとめあげるということではなく、自然の命との関わり方を深い精神文化へと洗練させてきた知恵や技を、見失わないようにし、子孫へと伝えていくことだろう。

 人間というものは弱い存在であり、その弱さが、人間組織への盲目的な従属につながって、集団に紛れて良心の呵責のない行動を平然と引き起こしたりする。

 太古の昔から、人間は、なぜ巨石や大木を崇めてきたのか。その姿形が、人間の都合という範疇を遥かに超えた森羅万象の存在意義を暗黙のうちに伝えてくるからではないか。そして、日本人が洗練させ深めてきた精神文化は、人間の弱さを自覚しながらも、森羅万象の摂理にアクセスすることで、人間も含めた万物の存在意義を、美しく、潔く、現前化させることなのだ。その力によって、弱さは昇華され、悪業につながりやすい人間集団への盲目的な追随と従属を防ぐこともできる。

 にもかかわらず、宗教だけでなく伝統文化の関係者も、日本の歴史や伝統を守るため、日本人としての誇りを持つため、などと主張しながら、組織的な活動を展開し、組織の巨大化をめざし、組織が生き延びるための策を弄し、組織の縛りを強めて従属を強いる傾向が目立つ。

 宗教にしろ、文化にしろ、徒党を組んだものは、あまり信用できない。それこそが、忘れてはならない歴史の教訓だ。

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