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風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-03-29

第997回 格安旅行の旅行会社の倒産の裏側


 東芝の1兆円近い負債のことで大騒ぎになったので、てるみくらぶという旅行会社の倒産で発生した150億円の負債は、一般の人にはとても小さくみえるだろう。

 そして、このことについて、「資本主義経済をとる以上、企業の倒産は避けられない。自由競争、規制緩和の号令の下で、企業はより厳しい競争にさらされている。競争する以上、結果的には、勝者と敗者は必然的に現れざるをえない。」などと擁護する人もいる。

 また、新聞などで、この旅行会社の倒産理由を、「格安旅行会社の過当競争などから収益は低調に推移。ハワイなどに設立した現地法人や国内の事業拠点の拡充などが資金負担になった」などと説明したり、「仕入れ環境の変化や、新聞広告のコスト負担」などと社長が説明しているが、本当のことは、たぶんそういうことではない。

 企業の倒産は珍しいことではないから、それほど大騒ぎする必要はないと思う人がいるかもしれないが、150億円の負債のうち100億円は、一般の旅行客からのお金なのだ。

 もしも、新聞広告などで詐欺的な広告を行って90,000人から100億円のお金を集め、ある日、その募集元が姿を消してしまったら、大騒ぎになるだろう。

 3月27日に破産の申請をしているが、その直前、3月21日付や23日付の全国紙朝刊の東京都内版に「現金一括入金キャンペーン」などとうたった新聞広告を掲載。複数のツアーを紹介し、現金で一括払いなどすれば代金が1%安くなると説明していた。

 お金を振り込んですぐに会社が無くなってしまった人もいるし、お金を振り込む直前に倒産の知らせを聞いた人もいる。一人平均10万円だから大金である。

 せっかくの休日、旅行を楽しみにしていたのに、旅行に行けなくなっただけでなく、10万円も奪われてしまったら、ショックは大きい。しかも、格安ツアーの旅行だから、お金に余裕がある人ではなく、コツコツとバイトをしてお金を貯めた若い人も大勢いただろう。なんともやりきれない気持ちになる。

 2016年9月の終了時点で、この会社が、旅行者から前受金として預かっているお金は70億円で、銀行からの借金は23億円、預金は14億だった。

 そこから半年後の2017年度3月末、銀行からの借入金は23億円から32億円に増加。一方で、旅行者からの前受け金は70億円から100億円に増加。にもかかわらず預金は2億円。

 https://www.travelvoice.jp/20170328-85867

 現金収入が39億円も増えた筈なのに、預金残高は12億円も減っている。年間売り上げが200億円ほどの会社なのに、この半年で、50億円もお金が消えているのだ。

 この会社の倒産を伝えるニュースで、このカラクリがきちんと説明されていない。新聞などが書くように、収益が低調に推移とか、国内の事業拠点の拡充で、半年で50億円も消えるのか!? 

 もちろん、この会社は、数年前から不正会計を行っていた。発生したコストをごまかし、実際には赤字なのに黒字に見せて銀行から借金がしやすいようにしていた。しかし、急激に負債が増えた理由は、それだけではない。

 急激に負債が増えた理由は、急激に負債が増える前の負債額も会社の規模の割に大きすぎて、まともな方法では資金繰りが追いつかなかったこと。まともでない方法で資金繰りを乗り切ろうとして、そのことがさらに膨大な負債を生み出した。

 まともでない方法は後で説明するとして、なぜこの会社が、会社の規模の割に大きすぎる負債を抱え込んでいたのか。

 その理由は、薄利多売なのに、直販ではなく、販売代理店を通しても旅行商品を売っていたこと。販売代理店に販売手数料を払わなければいけないので、最悪の場合、持ち出しになる。

 そして、毎年、累積赤字が増え続ける中で、一般航空会社の座席を確保して旅行商品を販売するだけでは借金の返済が難しいので、リスクのあるチャーター便を多数行っていた。

 http://www.travelvision.jp/news/detail.php?id=66689

 チャーター便というのは、利益の出る価格設定で空席がでないように集客できれば利益が多く出る。が、空席が多くても赤字になるし、集客のために低価格にしたり販売代理店に委託すると、利益も出なくなる。しっかりと運営しなければうまくいかないが、80人の社員で50人の新卒を採用するという、とても入れ替わりの激しい(短期間で辞めていく)会社で、それができていたとは思えない。チャーター便でも、大きな赤字を出していたことだろう。

 いずれにしろ、何万人もの旅行客をチャーター便だけで運営するのは不可能だから、当然、一般の航空会社の座席に頼らざるを得ない。

 そして、この会社の負債が、最終局面で急激に膨れ上がっていった最大の原因は、おそらく、その航空券代および旅行代金の設定である。

 てるみクラブは、倒産直近の2016年9月末で、195億円という過去最高の売上高をあげている。2017年に入ってからも、格安旅行の乱売で売上高は増大していただろう。現時点で90,000人のお客が申し込んでいたということだから、半年の取り扱いが、仮に300,000人とすれば、一人当たり、10,000円の赤字で、あっという間に30億円の赤字である。

 つまり航空会社からの仕入れ値が10万円なのに9万円で売ると、そういう結果になる。1万円の赤字が出るのがわかっているのに目先の9万円が欲しいために、そういうことをしたとしか思えない。

 なぜ目先の9万円が必要かというと、それがないと、数日後、出発する航空券をを発券できない。数日間、生き延びるために、数週間、数ヶ月先のお客を犠牲にするという延命を繰り返していたのだ。しかし、その数日間の延命行為は赤字で行っているのだから、繰り返せば繰り返すほど負債は増える。愚の骨頂である。

 はっきり言って、この会社の経営はメチャクチャである。

 まず、社員が80人に対して、今年の4月の新卒内定者が50人もいたそうだ。倒産直前、36、000件もの旅行予約数があり、それを80人で対応するのは、気違いじみている。ありえない。おそらく、数年前から資金繰りが苦しくなり、目先のお金が欲しいために損を覚悟で旅行商品を格安で売って莫大な前受金を集めていた。そうすると、旅行客の人数も増えるから社員は猛烈に忙しくなる。しかも、目先の現金欲しさに、社員は、ほぼ毎日、旅行客に入金を促す電話をさせられていたのではないか。だから、大勢の社員が次々と辞めているはずだ。その穴埋めに、50人の新卒に内定を出した。

 旅行業というのは低収益産業の代表であり、年間の経常利益が3億円もあれば、優良企業なのだ。旅行会社の経常利益率は、異様に低い。JTBですら1%に行くか行かないかだ。

 なので、売上高とさほど変わらない負債を返済するには、毎年JTBなりの利益率でも100年かかるわけで、100%不可能である。

 それにしても、社員が100人ほどの会社で、工場などの設備投資をする必要もない旅行業で、売上高とさほど変わらない150億円もの負債を抱えるのは異様だ。

 社員100人ほどで、しかも若い社員が多いから、社長が何億もの給与をとってないかぎり、人件費は年間、5億はいかないだろう。

 100人の社員が働くスペースの家賃も、年間5億はいかない。仮に新聞広告を派手にやったところで、毎週全面広告を打っても、5億円はいかない。固定費は、年間15億円くらいじゃないか。

 とすると、ずっとこの規模の会社だったとしても、10万円で仕入れた航空券を10万円で売るという利益がでないやり方で、10年間続けて、借金が150億円になる。

 この会社は、格安旅行を売るために、ほとんど原価で販売を続けていたのだろう。そして、借金が次第に増えていった。借金が増えても、旅行代金は旅行の出発前に受け取れるので、そのお金で何とか会社をまわしていた。しかし、借金の額が増えすぎて、運転資金に事欠くようなり、そこからは、上に述べたように赤字を覚悟で旅行商品を乱売して、目先のお金を得ようとした。すると負債はさらに急激に増える。後半になればなるほど負債が異様に膨れ上がったのは、そのためだ。

 そして、その膨れ上がった負債は、銀行からの借金ではなく、旅行を楽しみにしていた人たちからむしり取ったものである。

 もしも、2016年9月の時点で倒産していれば、旅行者からの預かり金は70億円で、この会社の銀行預金は14億円だったから、10万円払った人は2万円くらいは戻ってきた。(企業倒産では、銀行や法人よりも一般人への返済が優先される)。

 もちろん、それでも十分ではないが、それから半年が経って、旅行者からの預かり金は100億円に膨れ上がったのに、この会社の預金は2億円。

 被害を受ける人のトータルの損害額は半年で1.5倍になり、そして返金は一銭もないという最悪の状態になった。

 航空券やホテルの仕入れ値は、旅行会社のあいだでそんなに大きな差はない。座席数や部屋数は限られているから、航空会社やホテル側は、旅行会社によってそんなに大きな差はつけない。旅行業というのは、製造業や製造物を売るサービス業と違って、スケールメリットのない産業なのだ。

 だから、旅行会社で格安商品を販売しているところは、どこかで、かなり無理をしている。

 とりわけ、ネット検索で最安値の会社が表示されるようになっているので、価格勝負の旅行会社は、採算度外視の料金をつけなければ、集客ができない状況だ。

 今この時点でも、赤字覚悟の料金設定で、旅行者からの前受金を借金の返済にあてながら、かろうじて生き延びている旅行会社があるはずだ。

 航空会社やホテルからの仕入れ値がさほど変わらないのであれば、他社よりも代金が高いにもかかわらず販売できて利益をあげることができるのは、”質に対して信頼されている旅行会社”だけだ。実績とか、口コミとか、旅行業では数少ない上場企業とか、有名企業というだけで安心して申し込む人もいるだろう。

 そして、利益の出ない商品を売り続けるために、異様に安い賃金で働かせたり、長時間労働をさせている旅行会社もある。賃金を安く抑えるために、社員が数年で退職していく方がいいと考えている旅行会社もある。格安旅行を売るだけなら経験は関係ないからだ。てるみくらぶが、50人も新卒を採用していたのは、そういう理由だろう。80人の社員の会社なのに50人の新卒社員。しかも、その80人の社員は、薄利多売で猛烈に忙しいし、旅行者への入金の催促も大変だ。いったいどうやって人材教育ができるのだ。悲しいことに、企業の経営状態を調べようともせず、好きな旅行に関われるという理由だけで旅行会社への就職を希望する人たちが多いから、旅行会社は、あまり採用に苦労しない。だから、平気で社員の使い捨てができる。

 てるみくらぶを退職した人たちの声を拾っていけば、今、新聞で書かれているような単純な理由ではない本当の理由が、いろいろとわかってくるだろう。でも旅行会社で働いている人は、経営のことなど興味がないという人が多いので、経理に携わっていた人でないと、本当のことはわからないかもしれないが。

 いずれにしろ、重要なポイントは、この会社の最悪のところは、旅行者から預かっているだけのお金を、会社のお金のように錯覚して使いきってしまったことだ。

 会社の自己資本と銀行からの借り入れ金が底をついたところで、ギブアップすべきなのだ。それがいつの時点だったかは知らない。その時点で、旅行者に返金手続きをしたうえで破産を申請していれば、負債は銀行とか関連会社だけですんだ。旅行者からの預かり金を会社の運営費にしてしまったことが、一般の企業の倒産とは違う、より深刻な事態を引き起こしてしまったのだ。

 「企業の倒産はよくあるものです。」などと分け知った顔で語る人は、その違いがわかっていない。

2017-03-28

第996回 脱中央集権的な社会という夢

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PHOTOGRAPH BY ROBERTA RIDOLFI  出典『WIRED』

ルイス・アイヴァン・クエンデ|LUIS IVÁN CUENDE

1995年、スペイン・アストゥリアス州オヴィエド生まれのシリアルアントレプレナー、エンジニア、ハッカー、クリプトアナキスト。


 この21歳の天才青年の考えていることが、とても興味深い。

 http://wired.jp/2017/03/26/portrait-of-a-crypto-anarchist/

 もしも、彼のように考える若者が増えてくるならば、人類の世界は、きっと新しいステージに入るだろう。

 ここ数十年、技術の発展は目覚ましいが、人類は、以前として古いステージにとどまっている。

 古いステージというのは、中央集権的な価値観に縛られたままだということ。

 中央集権的であるのは何も政治体制とは限らない。中心に信頼のお墨付きを置いて、そのお墨付きが物事を決定する判断基準となり、従って、人生もまたそのお墨付きに左右されてしまうということ。その結果、お墨付きは権威となり、権力やお金が集まる。

 華道や茶道の家元制度もそうだし、ポストモダニズムという反体制的な芸術運動も、結果的に同じ道を辿った。ビジネス界においてもそうだ。旧い体制やシステムに問題意識を持って闘いを挑んでいるうちに、評論家に認められたり、作品や商品やサービスがヒットしてしまうと、メディアなどで成功例として持ち上げられ、あちこちで引っ張りだこになり、体制の中でお金を稼げるようになり、自らが権威となる。かつて自分が問題意識を持っていた世界は何も変わらないし、成功した自分は、その問題のある世界を上手に利用するだけで、口先で、世を憂うポーズをとる。

 表現分野ですらそうだったので、最初から利益を目標とするようなビジネスの分野では、言わずもがなだった。

 IT技術を利用して稼ぎ、世の中を変えたなどと言われ成功者としてチヤホヤされる人の分野は、そのほとんどが、ゲームや、ファッションや、ショッピングや、情報まとめサイトのようなものばかりだった。大量生産、大量消費の世の中は、何も変わっていない。

 この21歳の天才は明確に言っている。

「テクノロジーの力で社会に自由をもたらそう、そして、人間を高めようという純粋な大望がドライヴとなって生まれたコミュニティは、とても残念な状況にさらされることになった。もはや、この業界をドライヴしているのは理想でも大義でもなく、金でしかないんだ。」

 若くして成功した彼は、「自分が開発したテクノロジーをマネタイズすることに、罪悪感を覚えるようになったんだ。それで、お金と自分の活動を切り離して考える癖がついてしまった」とまで言う。

 そして、「ブロックチェーンブームのなかで、自己中なヤツらがクイックマネーをがっぽり稼いで立ち去るのを横目に、ぼくたちハッカーは、静かに社会の脱中央集権化に励むだけだ」と覚悟を決めて、未来に向けた仕事に取り組んでいる。

 彼は、ブロックチェーンの可能性に夢を持っている。

 「権力というものから世界を自由にする発明」として。

 権力というのは、政治家や官僚のことだけではない。政府や官僚や大企業やメディアやアカデミズムも一体化したマーケティングであり意識や価値の操作だ。その操作は、中央集権的な特徴を持っている。情報を流している者は、自らを正当としたいから、自らを基軸にした情報を選んで流すことになる。そして、規模が大きかったり、人を集める力があったり、権威的な賞を受賞していると、その情報力、すなわち自己正当化のマーケティング力も強くなる。強い者がより強く、富める者がより富む理由は、ここにある。

 トマ・ピケティは、「21世紀の資本」という本で、膨大なページを割いて、”格差が広がっている事実と構造「資本収益率(r)>経済成長率(g)」を説明し、その解決策として、儲けている者から税金を多く取りなさい”ということしか書いてないのだが、そんな本をヨイショする中央集権的なメディアの力(そこに寄生する評論家も含む)によってベストセラーになり、ピケティも稼ぐことができた。彼は、稼いだ印税をどこかに寄付したのだろうか?

 この20歳の天才は、そういうことにも辟易していて、「誰かの受け入り」ではない「新しい信頼」を築き、脱中央集権的な社会を構築し、真実を取り戻すこと。つまり、世界を救うということに夢を賭けている。

 プログラミングの技術を身につけて、いいアイデアを見つけて起業して、ベンチャーとして注目されてお金儲けして有名になりたい、などというチンケな夢ではないのだ。

 果たして、ブロックチェーンのその先に、社会改革の夢は存在するのだろうか。

 ヒネくれた大人は、あれこれとネガティブな粗探しをする。

 もちろん、時間はかかるだろう。しかし、方向性が間違っていなければ、30年、50年、100年単位でみれば、必ず、世界は、脱中央集権型から自律分散型に移行できる。つまり、信頼の基準が権威的なものでなくなりさえすれば、富める者がさらに富み、力あるものがさらに力を持つということがなくなり、フラット化する。それだけでも、現在、一部の者に集中している富が、より多くの者に還流する。

 しかし、その前に、この天才が言っているように、我々一人ひとりの意識改革も必要だ。

「実のところ問題の根源は、むしろ人々にあるのかもしれない。ぼくら人間が、より理性的な存在である必要があるんだ。ブロックチェーンがもたらすかもしれない新しい世界は、ドグマに支配されることなく、ぼくたちの合理的、理性的な思考に立脚するべきだろう」

 「より理性的な存在である必要がある」というのは、自分の身体でしっかり感じ、自分の頭でしっかりと冷静に考えられるようになれということだろう。有名人、偉い人、成功者が言っているからとか、世の中そういう風に決まっているから、などという理由付けをしてはいけない。そんなの関係ない、自分の判断に責任と自覚を持てということ。

 この意識改革は簡単ではない。

 しかし、東芝だから大丈夫だろうとか、大手銀行にお金を預けておけば大丈夫、ということが、通用しなくなったり、政治家、学者、メディアというこれまでの権威機関の言うことが信じられないという傾向は少しずつ増大している。それは、彼らが以前より嘘つきになったということではなく、彼らの自己正当化が、これまでは権威の力で押し切れたのに、近頃はそうはいかなくなってきたということ。ブロックチェーンの前に、インターネットの力で、権威構造が揺さぶられているのだ。今後、人口知能やブロックチェーンが浸透していけば、さらにこの傾向は強くなっていく。そして、いつか、本当の意味で、脱中央集権的な社会が誕生するのかもしれない。

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2017-03-20

第995回 人間の尊厳とは 

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 映画「この世界の片隅に」(監督:片渕須直、原作:こうの史代)がとてもよかった。

 ごく普通のことを積み重ねていくことが、こんなに愛しく、そしてそれを失うことが、こんなにも哀しいのだと、胸にしみた。

 http://konosekai.jp/

 嫁入り前のすずが暮らしていた広島は、とても美しいふつうの世界だった。そして、彼女が嫁入り後に暮らし始めた呉という所は、東洋一と言われた軍港のある町で、異様な雰囲気が漂っていた。その異様さは、現代のモンスター都市にも通じるものだ。自分が行っていることに対して自信満々の人間たちが、ひたすら、より大きく、より高く、より強く、より速くを目指していて、その前向きなエネルギーこそが人類の進化であると信じきっている人間集団には、殺気が漲っている。

 戦艦大和も、原子爆弾も、何の疑問を持つこともなく大きさや強さを究極まで追い求めて努力する人間だからこそ、作り上げてしまう。

 原子力発電所だってきっと同じだ。強さや大きさの追求に対して意固地になっている人間は、どんなに状況が悪くなっていても後戻りをしない。

 太平洋戦争においても、アメリカ軍による激しい本土空襲が始まった時、なぜ白旗をあげることができなかったのか。

 アメリカと日本は遠く離れている。にもかかわらず、日本のすぐ近くの島々を完全に制圧しているアメリカ空軍は、毎日のように日本列島に無数の爆弾を落とす。日本軍がアメリカ本土に空襲を行うことなど、どう考えても不可能だ。戦艦大和を作ったところで、都市と同じように空襲を受けるだけだと、冷静に考えればわかること。

 日本列島への激しい空襲が始まった時に、潔く負けを認めて降参すべきだった。でもできなかった。

 そして、福島原発事故は、あの戦争の本土空襲の始まりと同じようなものだと思う。

 あとで振り返ると、なんであの時に止めることができなかったのか、ということになりはしないか。甚大な被害を受けているにもかかわらず、被害の規模を低く見積もって、”アンダーコントロール”などと言い、まだ勝算があるかのように主張して、原発を動かそうとする。そして、そういう政府の方針を支持する人たちの数が、相変わらず多い。

 ごく普通のことだと物足らず、何か立派なことでなければ生きている価値がないかのように錯覚をして威張っている人たちは、大事なことをわかっていない。愛しいものは、より大きく、より高く、より強く、より速くの反対のベクトルにあることを。

この世界の片隅に」という映画は、細かな事実を丁寧に積み重ね、細部を丁寧に描き、人と人の関係や、人の心の機微を丁寧に観察して表している。そうした丁寧な努力の結果、ごく普通の暮らしが、たとえ物や娯楽に不足していても、とても豊かに感じられるものになっている。

 だからこそ、爆撃機が爆音を轟かせながら上空を飛ぶだけで、かけがえのないものが一瞬にして壊されてしまう予感に、胸が押しつぶされそうになる。

 遠くに見える原爆のキノコ雲や、爆風によって遥か彼方まで吹き飛ばされてきた物の破片が、絶望的な気持ちにさせる。

 この映画は、太平洋戦争の時代の物語だが、戦争のシーンは最小限に抑えられていて、その分、観る側が、想像したり考えたりする余地を十分に残している。

 戦争の悲惨さを、これでもかと見せつけられると、人間というのは、もしかしたら、悲惨さに麻痺してしまう生き物かもしれない。たぶん、惨い光景というのは、人の心を育てず、どこかで他人事になってしまうからだろう。

 「この世界の片隅に」という映画にも、惨い場面はある。しかし、映画を見終わった後、心を満たすのは、凄惨さではなく、自分ごととしての愛しさや哀しみだ。

 その愛しさや哀しみは、きっと、多くの人の気づきの端緒となるかもしれない。

 経済という言葉が一人歩きしがちな世の中だが、経済の良し悪しは、人の営みを他人と比較して数字化したものにすぎない。

 それに対して、人の営みの実態は、愛や哀しみの織り込まれ方によって一人ひとり違っていて、他人と比較しようがない。

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2017-03-13

第994回 写真に言葉は必要か否か


 写真も、言葉も、それを作り出した人間も、それ単独では不完全なもの。それが存在するだけで、知らず知らず世界を損なっている。それは、大脳を発達させてしまった人間の宿業。生命の生存に直接に結びついた小脳と違い、大脳は、経験を応用的に処理し、より快適に、より心地よく、より自分に都合よく生を作っていこうとする働きがあるのだから、やむをえない。

 そもそも生命の矛盾の中で生きているのが人間の生。だからといって、大脳の暴走を看過するしかないということではない。大脳の得意とするのは、あくまでも応用であり、100%完全ではないからだ。もしも小脳でなく大脳が心臓や呼吸を司っていたら、1%の応用ミスでも死につながる。

 人間が大脳の働きで新たに作り出すものは、経験の応用であり、真の創造ではない。だから不完全である。その不完全さをどれだけ自覚できているかが、人間の良心を計るバロメータなんだと思う。

 大脳の暴走の一つである自己承認欲や自己顕示欲が肥大化すると、その良心が失われ、自分が使う手段で対象(世界)を損なっていることに無自覚になり、害のあるものを撒き散らすことになる。

 写真単体や言葉単体で、対象(世界)を著しく損なってしまうこともあるし、写真と言葉を組み合わせて、さらにひどく対象(世界)を損なってしまうケースも多い。

 その逆に、写真という人間の一つの応用力で、対象(世界)の真実に、かぎりなく近ついている偉大な人もいるし、自分の手段の不完全さを自覚し、真実に近づくために言葉の力を得ることが必要だと判断する良心的な人もいる。

 ただ一つ言えることは、現代社会のように大脳の働きが肥大化し複雑化した世界において、写真単体で、世界の普遍性や真実にどれだけ近付けるかということだ。

「一枚の写真が世界を変える」などと、おこがましいことが言えるかどうか。

 「世界を変える」と考えること自体がおこがましいこととも言えるが、世界に対する問題意識から発していない表現は、自己承認欲か自己顕示欲の産物でしかない。つまり、「自分のことをもっと知ってください、自分はこれだけすごいんです。自分を支持してください。いいね!をたくさんください」という気持ちの反映。

 可能性としては、おそらく言葉の方が、幾分写真よりも、世界や人生を変えうる可能性がある。人生を変える言葉は、人生を変える写真よりも、多いはずだ。それは、写真の歴史がまだ200年にもならず、言葉は、人類の歴史とも言えるくらい長いからだ。その歴史を無視して、言葉なんかいらないと言い切れる人は、人間のことがまるでわかっておらず、人間のことをわかろうともしない人が、表現を続けていくのは、傍目に辛い。

 しかし、20世紀以降、人間の感受性は、害のある多くの写真によって歪められ、損なわれている。その感受性を修正する力は、言葉ではなく写真だからこそできることだし、現在の写真の使命はそこにあるはず。単なる自己承認欲求の産物で、世界を歪め損なっていくことに加担していくのではなく、写真によって世界が歪め損なわれていることを自覚して、それを修正する写真を作り出そうと努力することは、大脳の得意な経験の応用力でできる。大脳の一番良いところは、きっと、そうした反省力であり、それが大脳の良心なのだ。

 写真に限らず人間にとって一番危ういことは、対象(世界)の真実からまるで離れ、対象(世界)を歪め損なっているだけなのに、そのことに無反省に、また、自分のやっていることの不完全さに無自覚に、開き直っていることだろう。多くの人間行為の取り返しのきかない深刻な問題は、反省のない開き直りから発している。そして、人間の反省は、自分の内面世界ではあくまでも言葉をベースにしている。言葉をそのまま外に出すか、他の手段を使うかの判断も、自分の内面世界では言葉がベースになっている。すべて、言葉とつながっている。「言葉なんかいらない」という言葉を発するというのは、”クレタ人が、「クレタ人は嘘つきである」と言っている。”と同じく、古代ギリシャから問題になっている自己言及のパラドックスであり、そういう言葉のアウトプットが、その人の内面を透かしているにすぎない。

 いずれにしろ、盲信、実践至上主義、論理至上主義にあぐらをかいていると、そこで停滞。その停滞を脱するには、疑問形から始まる言葉は必須で、最後に、その迷いの言葉を蹴って高く跳躍しなければいけない。古来から日本文化は、そこを目指していた。空海も、禅も、宮本武蔵もそう。そこまでいっている言葉無き写真と、ただの盲信(自己中)で言葉はいらないと言っている写真は、言葉なきことは同じであっても桁違い。

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2017-03-12

第993回 末法の世


 2011年3月11日から6年経った。

 このサイトには1000本を超える動画が、位置情報を特定して記録されている。

http://311movie.irides.tohoku.ac.jp/SearchPage?8

 このうちの1本を見るだけでも、自分の中の何かが崩れていくような気持ちになる。この震災で、被災者の方は当然そうだが、それ以外でも、理由はそれぞれだが、人生が変わってしまった人は、多くいるだろう。私もその1人だ。私は、東京から京都に移り住んだ。放射能が怖かったから移ったのではない。もちろん、放射能は不気味で怖かった。震災直後、何度も宮城県の石巻や南三陸や気仙沼に向かう時、福島のそばを通るだけでも恐ろしかった。

 しかし、東京を離れた理由は、東京が象徴する何かに耐えきれなくなったからだ。震災後から1年くらいは、東京でも自粛の雰囲気があり、街の電気は控えめになっていた。しかし、1年を過ぎたあたりから、震災のことなどまったく忘れてしまったかのように、姦しく、けばけばしい消費生活の活性化の声が大きくなっていった。とどめは、東京オリンピックの新国立競技場のデザイン案が、ザハ・ハディッドのものに決まったことだった。あの巨大で派手な、モンスターのような物を、東京のど真ん中に作ろうとしている。ノアの洪水の後、懲りずに人間が作り出したバビロンの塔のように。聖書が説くように、人間というのはそういうものなのだろうか。けっきょく、聖書に中の人間は、バビロンの塔を建設中に、互いの意思疎通ができなくなり、あっという間に、他者を思いやることなどできないソドムとゴモラの背徳の時代となり、それに怒った神が、空から硫黄を降り注ぎ、滅ぼしてしまう。

 アブラハムは、そんな時代に登場したが、仏陀のように自分の持っているものへの欲心や執着を絶っていった人間として描かれている。

 仏陀は、新しい叡智を創造したわけではなく、紀元前1800年くらいまで遡るとされるバラモンの聖典ヴェーダの本質に立ち返ることで、仏教の教えを説いた。同じように、新約聖書の中のイエスキリストも、宗教を形骸化させてしまっていたユダヤ教徒達に、旧約聖書のアブラハムのことを何度も引き合いに出して、教えを説いている。日本においても、仏陀の死後、1000年以上経った頃から、空海や最澄など末法を意識する人々が出てきて、仏陀の教えが形だけになっていると警鐘を鳴らし、もう一度、原点に戻ったところから新しい仏教を説き始めた。

 人間はずっと、末法思想で説かれた内容のことを繰り返している。

 正しい教えを理解している人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても形だけのものとなる時代(像法)がきて、その次には人も世も最悪となる時代(末法)が来るという。その末法の時代に、もう一度、原点に帰ることを説く人が現れる。仏陀の時代も、キリストの時代も、末法だった。

 3.11の震災の後、原発事故の深刻な被害が残されたままなのに原発の再稼動の動きが出てきて、東京オリンピックという自分たちの足元を直視させない目眩ましに沸く状況で、新国立競技場のデザイン案を見た時、末法の時代だと思わざるを得なかった。東京にいると、その空気に巻き込まれて、流されて、大事なことがわからなくなってしまうと恐ろしくなった。

 東京にいると、今この瞬間のことしか見えなくなっていた。もっと長い時間を見渡さないと、自分が末法のど真ん中にいることがわからなくなる。

 京都に移って、今と過去の両方を見渡せるようにと心がければ、具体的に、それができる。京都では、現在と過去、異なる速度の時間が同時に流れている。それを感じることが何につながっていくのかわからない。

 しかし、少なくとも、意識や、物の見方は変わるだろう。

 私たちは、自分が立っているところから世界を見ているから、自分が世界の中心にいるという感覚があり、目を開いていれば、世界の動きが見え、その世界はわりと安定しているかのような錯覚に陥る。

 しかし、この津波の映像を見てもわかるように、私たちの世界を俯瞰すると、人間も自動車も建物も、なんと小さく、なんと軽く、なんと脆いものか。

 2001年9.11の時、飛行機がぶつかって崩れ落ちる超高層ビルの映像を見ている時もそうだったが、起こっていることが夢を見ているような感覚になるのは、自分の意識が作り上げている現実が、そういう事実を排除しているからだろう。

 自分が就職した大企業が、事業に失敗したり不正を働いたり、倒産の危機に直面している時も、きっと夢を見ているような感覚になると思う。

 起こっている事実を見てみぬふりをしたり、本当のことを知らない方が、気持ちは楽になれる。でも、その皺寄せは、いつか必ず来る。

2017-03-10

第992回 1000年前よりも遥か以前と現代の紐帯になる源氏物語

 私は源氏物語の研究者でもなんでもないが、なぜかその私が、同志社大学で源氏物語関係のイベントを企画しているので、最近、これまでよりも源氏物語を身近に引きつけて考える癖がついている。

 1,000年前に書かれた源氏物語は、欧米世界では近代小説の傑作として高く評価されている。

「文学において時として起こる奇跡のひとつによって、紫式部は、近代小説と呼べるものを創り出している。」タイムズ文芸付録

「登場人物の性格が繊細な筆致で描き出されているばかりでなく、様々の、もっとも洗練されたかたちの愛の情熱が、深い理解をもって表現されていた。ヨーロッパの小説がその誕生から300年にわたって徐々に得てきた特性のすべてが、すでにそこにあった。「戦争と平和」、「カラマーゾフの兄弟」、「パルムの僧院」、そして「失われた時を求めて」などと並んで、人類の天才が生み出した世界の12の名作のひとつに数えられることになるだろう。」 レイモンド・モーティマー

源氏物語」は、実に多彩な人物が登場し、実に多様な個人的な悩みが綴られている。一面では華麗で美しい物語かもしれないが、70%は、個人の悩みの描写で占められている。それぞれの 登場人物が、それぞれの体験の中で固有の悩みを持ち、深く考えている。そして、何も考えなければ悩む必要がないのに、考えることで悩みは深まる。それはまさに不安と虚無と孤独の実存的な悩みであり、我々と同じ近代の悩みだ。

 そして、源氏物語の主人公たちは、ただ悩むだけでなく、それぞれの方法で、自分の悩みと折り合いをつけていく。最終的には 出家という形をとるものが多いが、現実とどう向き合い、どう乗り越えていくのかという自問自答に、多くのページが割かれている。

 その中に、もののあはれ、侘び寂び、粋といった、鎌倉時代から江戸時代にかけて日本人が洗練させてきた精神文化の萌芽が感じられる。

 すなわち日本人は源氏物語以降、個人の実存的悩みを乗り越えるための方法を、近代ヨーロッパよりも長い1000もの年月をかけて洗練させてきた。そう捉えると、西欧的近代合理主義の問題を深く感じる欧米人が、日本文化に関心を寄せ、そこから何かを学び取ろ うとしている理由も腑に落ちる。

 源氏物語や、その後に続く日本文化は、過去の遺物ではなく、まさに現代、我々が直面している近代合理主義の問題を乗り越えるための豊かな知恵として、我々の傍に存在している。

 そして同時に、源氏物語は、1000年よりも遥か以前の古代日本人ともつながっている。

 村のそばにある美しい形をした山に登ると、磐座がある。明らかに男性器と女性器の形だと思われる巨大な岩があったりする。私たちはそれを原始宗教と片付けてしまう。しかし、そうした小高い山のてっぺんは、古代、歌垣の舞台だった。各地に残る風土記には、花の咲く頃や紅葉の季節に、郷里の男女が食事をもって山に登り、そこで宴を開き、楽しく歌舞いをすると書かれている。

 この歌垣は、男女の性的解放をともなった配偶者選びの場であり、それぞれの土地の神事、祭礼と結びついていた。

 祭の進行とともにその場が昂揚していくと、自然と舞いをともなう男女の恋の歌が交わされていった。そうした歌の掛け合いが盛り上がり、新しいカップルができるほど、その年は豊作になるという考えがあったと言われる。こうした歌垣で歌われた歌が、古事記や日本書記の中に「わざうた」として収められている。

 男が誘い歌で、女に、共寝を呼びかける。男の誘い歌に対して、女は、すぐに応じず、謎かけ歌を返して、いったんはねつける。そのように、相手の機知や器量を計るやりとりが続いたらしい。そうした歌の掛け合いは、出会いのためだけでなく、既存のカップルも、あえて皆の前で、行っていたようだ。センスを問われる娯楽でもあったのだろう。

 同時に、そばで聞いている老人たちも、その掛け合いにくわわり、「人生は短い、青春を無為にすごさず、積極的な恋愛をするように」とすすめたり、若者たちの教訓ともなるよう自らの失敗談を面白おかしく盛り込んで、笑いを誘っていた。年寄りの器量はユーモアのセンスに現れるのだ。

 小野小町が、「はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」と詠んだのは、「源氏物語」よりも200年前で、さらにそれ以前から、時の無常を思う日本人の心は、ずっと続いていたのだ。

 古代においては、人間の寿命は今よりはずっと短く、病などによる死亡率も高かった。だから、共同体にとって人口減少の問題は深刻だった。時の尊さを説き、性愛を肯定的にとらえ、人間としての機知や器量が試されたのは、共同体が生き延びていくうえで、そうした思想が大事だったからだ。

 明治維新になるまで日本人は性愛に対して開放的だったし、病的な執着心よりも健全な無常観を尊んでいたし、自己顕示欲、自己承認欲のために蓄積される知識の量よりも、機知や器量で、人間の質がはかられていた。

 「源氏物語」の中でも、そういうものを兼ね備えた人が、洗練された人物として描かれて讃えられ、それと対比的な人物が、滑稽であったり、浅ましかったり、読んでいてやりきれなくなったり切なくなったりするように描かれている。

 そうした源氏物語の描写は、まさに、古代の歌垣の場で、人生経験豊富な老人が若者たちに説く内容と、若い男女が、お互いに相手の機知や器量を測りながら、お互いの距離を詰めていったり、見切ったりする内容と近しく、紫式部は、長大な小説の中に、その全てを多面的に、総合的に、微細に盛り込もうとしている。凄まじいまでの精神的エネルギーと洞察力と観察力と叡智をもって。欧米のインテリが、人類が作り出した傑作小説の一つに数え、川端康成や本居宣長が、これを超えるものは日本に出ていないと語るのは当然だ。

 紫式部が描こうとしていた”洗練された人間像”、というのは、まさに、古代の歌垣から続いている価値観にそっている。そういう目で源氏物語を読む時、源氏物語を基点として前後の1000年間を貫く普遍的な人間的価値が、ゆらゆらと浮かびあがってくるように思う。

 紫式部が描き出した一人一人の個性、その異なる内面世界、微妙な心の駆け引き、社会的な面子や体面、社会の塵芥などにまみれて生きることの辛さからの脱出の願いなどは、明らかに、近代的自我を備えた人間が育て上げたものだ。そして紫式部は、そうした近代的自我の芽生え始めた人間世界の中に、古代から続く普遍的な人間的価値を織り込んでいる。

 時代を超える普遍的な芸術作品というのは、源氏物語に限らず、その時々の人間的様相と、過去から連綿と続いている普遍的価値が、見事なまでに縦横に織り成され、壮大で美しい布を作っている。

2017-03-07

第991回 根源と全体を受容すること


 小栗さんと京都の清水あたりを歩いている時、小栗さんがデビュー映画「泥の河」を作ってまもなく、若狭と東大寺のお水送りとお水取りのリポーターをやった時の話をされた。

 この時のことは、1987年に発行された「哀切と痛切」という本の中に書かれている。

古代史に門外漢の私がリポーターという何も価せぬままわずかに発言出来たことは、そのように歴史の中で推理しうることを、若狭の風土で感じとってみようとしたことだったか。それはひと言でいえば、感情である。しかし、テレビではそれがいっさい欠落していたのである。理屈や理論は見事に通っている。が、映像に感情をためるだけの力がない。カットのつなぎにも音声にもそれを気づかう細心さが見られない。

 歴史の裏側に隠された者や殺された者を見ようとする意志は、そのようにがさつなものであったいいのか、私はそう思った。ふだん見えないものがかすかに見えてくるときの、そのうねりのようなものは、もっと密やかなものだ。」

 この本のなかに、「大事なセリフがあったらそれを引きで撮れるようになれ、死んだ師匠の浦山桐郎はよくそういった。引きというのは、クローズアップの反対で全部が写っているものだ。ここが大切なんですとばかり、寄っていっては駄目なのだ。本当に大事なことは相互の位置関係が見えるところで語れという思想だ。」

という言葉もある。

 これらの小栗さんの言葉と、日野啓三さんが、1968年に出された『虚点の思想』という著書の中の、

「無限定のものこそ根源的であり、明確そうなものの方が限定されたものであってむしろ部分なのだ。ちょうど明確なニュートン力学が、極大から極小にわたる無限の世界のごく限られた一領域でのみ成り立つように。根源的なリアリティを正確に感じ取り表現するためには、あえて不明確であることが必要であるにちがいない。少なくてもこれまで明確とされてきた表現の形式への反抗が。もしわれわれの文明が、再び根源的なものを見いださねばならぬ時にあるならば。」

は、言い方は違うけれど、同じことを言っている。

 日野さんが「虚点の思想」を書いてから50年経って、小栗さんの「哀切と痛切」からは30年。大事なことは、あまり変わっていない。

 でも、世の中は、これらの言葉と逆の方向の表現が、あまりにも多くなっている。

 小栗さんの言葉でいうと、”がさつ”だ。日野さんの言葉でいうと、”限定的で部分的”に。

 私は、数ヶ月ほど前から、ピンホールカメラで撮影を始めた。そのきっかけは、歴史や風土、とりわけ、カギ括弧でくくられる「自然」や「宗教」の根源的な何かを、もっとも原始的なカメラで受容したいと思っているからで、小栗さんや日野さんの言葉と同じ問題意識が自分の中にある。

 写真は、100年ほど前に、35mmフィルムを装填できる小型で機動力のあるカメラが作られた時から、人間が自由自在に世界を限定的に切り取るようになったが、その時から、対象に対して、”がさつ”になったと思う。さらにズームレンズの開発で、相互の位置関係がわからない限定的な情報が増えた。そこから、加速度的に、わかりやすさ、明確さが求められる消費社会が作られていった。写真は、広告表現をはじめとして、消費社会に発展に貢献した。さらに近年のデジタル化で、自分の都合の良いように画像処理ができるようになった。

 自分の意図とは関係なく写ってしまった写真からは、多くの気づきが得られるかもしれないが、自分の意図にそって世界を切り取り、処理するようになって、果たして、世界からの気づきは得られるのだろうか。自分という限定された世界が、ますます狭くなっていくだけではないだろうか。

 今日の社会では、自分はこうしたいという明確な意思を持つことが大事だとされるが、世界の解釈も人生のあり方も限定的であった方が、そうしやすい。

 でもその種のわかりやすさは、好きか嫌いか、良いか悪いかという単純な二項対立に陥っているからにすぎず、言うに言われぬ根源的なリアリティからは、遠くなっている。

 大事な物事の判断は、そう簡単に割り切れるものではない。世界は、人間の整理能力を超えて、あまりにも複雑精妙につながっているのだから。

 

2017-03-06

第990回  根源と全体を受容すること

  20歳の頃、2年間の諸国放浪の前後、計り知れない影響を受けた人物が二人いた。一人は小説家、もう一人は映画監督。

 世界に対する視点、世界への向き合い方、掘り下げ方は、この二人の作品世界に触れたことで、かなり方向付けられた。それまで試行錯誤しながら色々な表現にアンテナを張って自分ごととして引き受けようと努力したが、どうにもしっくりこなかったが、この二人の作品は、自分の中でバラバラになっていた感覚と思考のパズルを統一した世界にする力があった。同時に、その表現の広がりと深さの前に、自分の浅さ、至らなさを痛感させられるものであった。この二人を、自分の精神世界の師匠と決めた。

 その時から二人の作品は欠かさず追いかけていた。そして10年の月日が流れた頃、小説家に手紙を書いた。

 「きみの考えていることは私の考えていることは同じだ」と電話をいただき、その時から、その小説家が亡くなるまで約10年間、月に一度くらいご自宅を訪れ、深夜遅くまで、宇宙や芸術や宗教や歴史のことなど、色々な話をさせていただいた。それは、自分の世界観を大きく広げ深めるうえで計り知れない修練になったと思う。

 そして、その小説家が、2001年のアメリカ合衆国内テロの後のことを憂いながら亡くなった後、ごく短い間に、色々と不思議な縁が重なり、雑誌の編集経験のない状態で、「風の旅人」の創刊した。思えば、創刊時において執筆を依頼したのは、白川静さんをはじめ、その小説家の影響で知った人が大半だった。

 そして、20歳の頃、強い影響を受けたもう一人の人物である映画監督の新作映画の完成を待って、手紙を書いた。その時、どういう内容の返事をいただいたかは忘れたが、その後、月に一度くらいの頻度で、風の旅人関係の作家や写真家や思想家など色々な人を監督に紹介し、飲みながら語り続けた。雪深い温泉で合宿も行った。監督の次回の作品のことがテーマだったが、それは、具体的な事物と精神の結び付け方の話だった。映画は、事物に即して精神を表現しなければならない。言葉のように、在るか無いかわからない抽象的な表現を積み重ねながら人々の精神に働きかけることなどできない。世界の事物に寄り添いながら、自分も含めて世界の事物が個々バラバラに存在しているわけではないことを示さなければならないのだ。

 その対話の期間も、およそ10年だった。それは、事物のリアリティを濁りなく感受し、誠実にアウトプットするうえでの真摯さを学ぶうえで計り知れない修練になったと思う。

 そして、昨日、監督が京都に出てこられたので久しぶりに会い、うちに泊まってもらい、2日間にわたり、たっぷりと話ができた。

 しかし、これまで長い期間にわたり、二人の師匠の計り知れない叡智に触れ、インプットさせていただいたという実感があるものの、そのことを何に対して、どのようにアウトプットしていくのか、まだまだ中途半端な自分を改めて認識することになった。

 それでも、このたびの二日間の対話の中で、これからの鍵となる貴重な言葉をすくい取ることができた。 

 それは、「受容」という言葉。

 「ありのまま受け止めること」。

 言葉自体は、難しい意味ではないが、とてもとても奥が深いもの。

 人間の意識は、自分と他者(世界)を区分し、他者(世界)を自分に都合よく解釈(インプット)し、その解釈にもとずいて、自分に都合よく行動(アウトプット)しがちだ。そのことが積み重なっていくと、知らず知らず、自分と他者(世界)は、分断されていき、意識として全体の統合が失われる。その結果、全体の中のごく一部に執着(妄執)し、全体との調和を欠いた不安定な存在となり、過剰な自己防衛意識、自己承認欲求の虜となる。

 

 インプットやアウトプットで、世界を分離しない。

 インプットとアウトプットのあいだも分離がない。

 そして、自分と事物と世界が分離されていない。

 そんな自分と、インプットとアウトプットを両立させることが、残りの人生の大きな課題であり、二人の師匠への恩返しなのだろう。

 

2017-02-26

第989回 主権の自己制限について

 GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)は、昨年3月末で7%超の東芝株を間接保有し、東芝の「隠れた大株主」だ。昨夏の段階で、年金マネーは、東芝の不正会計問題によって株価が下がったため、計130億円の含み損を抱えた。東芝は、その後、さらに原発事業の大損失が発覚し、再び株価は急落しているが、倒産という事態になれば、株券は紙切れになる。

 こうしたことを知ると、原発の再稼動や廃炉問題とともに、年金のためにも、日本国は東芝を潰さないように必死の策を出してくることが予測される。

 現在、GPIFと日本銀行が、東証1部に上場する企業の約半数の約980社で事実上の大株主になっている。GRIFだけで30兆、さらに日銀が10兆。あわせて40兆円で日本の主に大企業の株を支えている。まさに国家と企業は一心同体。

 そして、国家政策として、日本の経済を守るために、それが当然ということになっており、経済が上昇すれば株価があがり年金資産も増えるという好循環をねらう。もちろん悪循環になると最悪なことになる。

 悪循環も恐ろしいが、もっと重要なことは、日本が、ますます国民主権でなく、かといってもちろん天皇主権でなく、「国家法人」(利益共同体)に主権が置かれた国であるという様相が、より強くなっていること。大企業の株を国家が大量に保有することで、国家法人の利益と大企業の利益が、ますます同一化するということ。この状況のなかでは、政治家というのは総理大臣ですら雇われ社長でしかない。

 そして、もう一つの問題。

 憲法第98条

『憲法の最高法規性、条約・国際法の遵守』

 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

2.日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 誠実に遵守という何とも微妙な言い回しだが、他国と締結した条約などが、憲法とともに最高法規としての取り扱いを受けている。

 そして、これは決してアメリカから押し付けられたのではなく、戦前、日本が、満州事変以来、不戦条約や国際連盟約等の諸条約に違反し続け、国際的に孤立していったことへの反省を踏まえて、日本が付け加えたのだ。

 この条文によって、日米安全保障や日米原子力協定に違反はできない。T PPが締結されてもそう。この条文のため、アメリカ軍の領土内駐留も認めるし、プルトニウムを平和的に使うことを示すために、伊方や玄海などプルサーマル原子力発電所を稼働させることが必要になる。場合によっては、そのために少数の国民(社員)が犠牲になることはある程度やむをえないという判断を、国家法人は行うのである。

 この原理は、一般企業にあてはめた方がわかりやすい。企業は、その時々の企業の成長性やリスク管理などを様々な角度から検討し、社長の一存ではなく取締役会議などで決定し、他の企業と契約を結ぶ。その契約を誠実に遵守することが最高法規になっていれば、その最高法規の前に、社員一人ひとりの人権が無視されてしまうこともある。

 この憲法は、もちろん悪意で作られたのではない。国家の暴走を防ぐという、主権の自己制限という措置だ。

 だから非常にややこしい。戦後の国家による人権無視を、戦前の国家の暴走と同じようにとらえる人が多いが、そうではなく、戦争への反省によって生まれた主権の自己制限が、結果的に、人権無視につながる事態が生じていて、これが、安全保障や原子力協定だけでなく、近年、経済面も含めて、かなりその性質が強まってきている。

 そして、段階的に国家法人が困難な状況に陥っていく時、かつてのように、国家の暴走で最悪の事態に向けて突っ走るという単純さではなく、国家の暴走を防ぐための措置として作った主権の自己制限という複雑な、目に見えにくいプロセスが積み重ねられ、最悪の事態の引き金を引かざるを得ない状態に導いていかれることも警戒して未来を展望しておかなければならない。

 たとえばその一つが、集団的自衛権やP KOなどの国際協力から、本意ではない戦争に巻き込まれていくということだ。南スーダンで自衛隊が陥ったのは、戦闘なのか大規模な武力衝突なのかという、主権の自己制限があるゆえややこしくなる法的な解釈をめぐる苦しい答弁を繰り返しながら。

2017-02-24

第988回 生死を越えてつながる命の時間


 昨年の林忠彦賞を受賞した船尾修さんが、15年以上前、アフリカのピグミーの人々と一緒に暮らしながら撮影した写真の写真展が、大分市のギャラリーおおみちで、2月28日まで開かれています。

 風の旅人でも10年くらい前(たしか25号くらい)、シリーズで連載しました

 私は、この作品のことをよく知っている一人でもあるので、写真評論家でもないのに大分合同新聞社に文章を寄稿することになりました。2月18日に掲載されたそうです。

 船尾さんのように、森の中で5ヶ月にもわたって暮らしながら取材を続けるという姿勢に、私は、非常に敬意と憧憬を感じます。マラリアにうなされながらですからね。1週間とか10日、まあ1ヶ月くらいなら、わりとできる人はいるんです。でも、5ヶ月というのは、別次元の忍耐力というのか、順応力というのか、鈍感力というのか、超人めいたものが必要です。身体的にも、生理的にもそうだし、世間の価値観、風潮、社会の中での自分のポジショニングなど意識してしまうような精神ではダメですね。

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<以下、新聞寄稿文>

                                    

 船尾修は、二〇世紀末、クールビズなどのお手軽な環境ブームに違和感を覚え、自分なりに環境について深く考えるために、五ヶ月にわたって森の中でピグミーの人たちと生活を供にした。そして大事なことを教わった。

 私たちは、自分が食べたもので身体を作っており、だから私たちは植物であり動物であり、同時に水や太陽でもあること。そのことを理屈で理解している人は多い。しかし、身体で深く感じていないから、必要以上に物を得て、安易に捨てるという行為は止まらない。

 生活に必要な食物や道具を森からいただくピグミーの人たちと暮らしながら、船尾は、マラリアを患って高温でうなされていた時でさえ恐怖を感じず、ここで死んでも自分の身体を構成している物質が森の中を循環していくだろうと安らかな気持ちになったと言う。

 死を意識せざるを得ない状況でさえ、自分は孤立しておらず、世界とつながっていると感じられる境地。そこまで環境と一つになっているから、環境が損なわれることが自分の手足をもがれることと同じになる。

 現代の条件において、その感覚を保つことは困難かもしれないが、船尾は、ピグミーの森の中で学んだものを生かすために、その後、東京から国東半島に移住し、自然農を実践し続けてきた。

 彼は、常にそうだが、写真を撮る以前に対象との関係づくりを重視している。息遣いが感じられるくらい距離を近づけないと見えてこないものがある。そして、一衣帯水の関係になると、言葉や写真で彼らの尊厳を損えないという気持ちが強くなる。 

 自分のアイデアを誇示するために人や物を材料にし、自らの迂闊さによってその本質を歪めても罪悪感を感じていない撮影者は、プロにもアマチュアにも多いが、対象への心遣いのない情報の洪水に飲まれ、私たちは、人や物に対する感謝や敬意を失っていく。そして、自分を取り巻く世界とのつながりがわからなくなり、自分を孤立させていく。だから、不安、不満、恐れ、妬みといった負の感情の呪縛から逃れられない。

 船尾は、誠実に対象と向き合い続けることで、生死を超えてつながる命の時間を、写真に「うつす」ことができた。その命を少しでも感じられれば、彼がピグミーの森の中で感得した死の安らぎも、少しは理解できるかもしれない。