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風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-06-14

第1004回 世界でいちばん美しい村

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(撮影:石川梵)

 石川梵監督の「世界でいちばん美しい村」というドキュメント映画がある。日本全国で上映され、人々の心を捉えているが、6月17日から、大阪の第七藝術劇場でも公開される。

http://www.nanagei.com/

 6月19日には、13時55分からの上映の後、私と石川監督でトークをすることになった。

 映画の内容については、ここで私が述べるよりは、ホームページを見た方が写真付きで詳しい。https://himalaya-laprak.com/

 だから、ここでは、私の印象だけを述べることにする。

 この映画には、本当に驚かされた。

 チラシには、「大地震を乗り越えて強く生きる。貧しくても明るい家族。子供達の輝く眼差し。圧倒的な映像美」などと、ステレオタイプのフレーズが踊っている。ホームページにも、「感動のヒューマンドキュメンタリー映画」とキャッチコピーが付けられているので、被災地を舞台にした、よくあるようなドキュメンタリーと思ってしまう人がいるかもしれない。しかし、この映画は、それらの安っぽい言葉では括れない、深く鮮烈な体験を与えてくれる。

 この映画からは、人間の共同体の原点というべきものが、生々しく、力強く迫ってくる。人間は、この映画の中の人々のように、何百年、何千年と生き続けてきた。その間、なんども自然災害などに遭遇しながら、不死鳥のように人間の共同体を復帰させ、維持して、生きてきた。脆弱なように見えるけど、実際は、とても強固なもので、だから何百年、何千年と続けることができた。それに比べて、私たちが生きている現代社会は、安全性とかセーフティネットとか、自分の暮らしを守るために神経質なほど色々と気にしているが、本質的なことが抜け落ちているのではないか。映画を見ながら、そういうことを痛切に感じさせられた。

 そう感じずにはおられなかったのは、この映画には、村の人々の暮らしや信仰が、通り一遍のものではなく、あまりにも濃密にこめられているからだ。よくぞここまで記録化できたものだと感心せざるを得ない。

 あらかじめシナリオを作って、そのシナリオに適した場面を集めるという発想の取り組みでは、とても不可能だろう。偶然性に満ちた、だからこそリアルな、生々しい姿や声が、全編に溢れている。かといって、偶然性だけに頼ると、表層的なものになりがちだが、そうはなっていない。人々の営みの中への入り込み方や、人々との密着度が素晴らしいのだ。

 この映画を作った石川さんの動機の一つは、大地震の後の窮状を世界に知らせることであったかもしれないが、映画の内容は、そうした政治的、社会的なメッセージ性だけにとどまっていない。人類学という視点で見ても、非常に興味深いものなのではないかと思う。

 20世紀を代表する思想家で人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、近代合理主義の世界に生きる人間が発展途上国とされる地域を訪れる際に、西洋の知で見るなという警告を発していた。つまり、我々の社会の中で身につけてしまった世界観や人生観、道徳や倫理や自己否定も含めて、我々の尺度で対象を分析したり、価値付けたりするなということだが、教育などを通じて思考の方法なども西洋の知で組み立てられてしまっているので、そこから自由になることは簡単ではない。

 そういう軋轢の中で、レヴィ=ストロースが、神話世界を通して発見した思考の組み立て方法は「ブリコラージュ」だった。

 ブリコラージュは、もともとは「寄せ集め」いった意味だが、あらかじめ作り上げた全体の設計図にそって中身を作っていくのではなく、きっと何かの役に立つと思って集めておいた断片を、その後の進行の中で、適時、必要に応じて組みこんでいくことで、自ずから構造が立ち上がっていく。そして、それぞれの断片がしかるべきところに収まっていく。神話というものは、そのようにしてできあがっている。

 だとすれば、”きっと何かの役に立つ”と感じる感じ方が重要になる。その感じ方は、一体何に基づいているのか。お金儲けに興味がある人は、世の中に数多くある情報の中から、きっと後になって役に立つだろうと直感が働くものを集めてプリコラージュしていくだろう。

 石川さんの場合、”きっと何かの役に立つ”という直感は、そうした世俗的なことを超えた大いなる存在とつながっている。神という言葉を使ってしまうと陳腐になってしまうが、人々が意識できないけれど、確かに存在している力で、その力が、私たちを生かしている。そういう経験のある人ならわかるだろうが、不思議で、奇跡的だと感じられこと。縁とか、巡り合わせとか、昔から人々が実際に感じ取り、言葉にしてきたこと。

 石川さんは、この映画を作り始めた後に、その大いなる力を感じとったのではない。彼は、それ以前からずっと一貫して、その大いなる力を具体的な形にするために、仕事を続けてきたと言っていい。

 彼は、伊勢神宮を30年にわたり取材し続けていて、20年に1度だけ行われる式年遷宮を2回に渡り映像と言葉で記録しているという、一千年を超える日本史の中でも極めて限られた貴重な人物だ。おそらく次も記録し、日本の長い歴史の中で唯一の、式年遷宮を3度にわたって記録した人物となるだろう。

 伊勢神宮は、宗教や信仰といった言葉では簡単に括れない。厳粛な宗教的儀礼の背後にあるもの、自然と人間のあいだをつなぐ巨大な有機的システムが、そこにある。木を育て、米を作り、布を織り、様々な道具を用いて自然に働きかけ、自然からいただき、活用し、自然に還していく。それらのすべてが厳粛に執り行われることで、人間共同体と自然とのあいだ調和を維持していく。

 私は、風の旅人という雑誌のなかで、石川さんが長年取り組んできた作品のうち、インドネシアのラマレラ島の鯨漁と、タナトラジャの盛大な葬儀を特集した。

 そして、この二つもまた、伊勢神宮と同じく、自然と人間のあいだをつなぐ巨大な有機的システムであり、石川さんは、そのシステムを映像と言葉の力によって具体的に浮かび上がらせていた。単に物珍しい異国情緒溢れる昔ながらの風習を撮ったドキュメンタリー映像ではなかったのだ。

  鯨漁という危険な漁においては、鯨を必要以上にとりすぎないことや、鯨に対する感謝と敬虔さ、鯨に立ち向かう人間への敬意、そして、捕らえた鯨を村全体で分けること、老人は道具作りで貢献するなど全ての人間が大切な仕事のために協力し合うこと。また、タナトラジャにおいては、財産を残さずにすべて自分の葬儀のために費やすことが美徳とされ、そのことが村人たちを潤わせるという構造の社会。

 人間と人間、人間と自然のあいだの調和とバランスが編み込まれた暮らしが、長年にわたって続けられていて、石川さんは、実に見事に、その構造を浮かび上がらせていた。 

 石川さんは、若い頃、プロの写真家になることを目指し、戦火のアフガニスタンを取材した。荒廃する国土、至るところに地雷が仕掛けられ、いつ空から爆弾が落ちてきたり、至近距離から狙いを定めて射撃する戦闘ヘリの餌食になるかわからない状況の中で、アフガンの戦士達の信仰の力をまざまざと見せつけられ、彼は、信仰について深く考えずにはいられなくなった。いつか死ぬことを宿命付けられている人間が、いったい何を拠り所にするのか。

 そうした問いを積み重ねてきた石川さんは、2011年の東北大震災の時、ただ被災地の現状をニュースとして伝えるだけではなく、「我々は、いかに生きていくのか」という問いを、自分自身に発しながら、写真や文章の表現としてアウトプットしていったが、今回のネパールを舞台にした映画においても同じだった。

 人間として生きているかぎり、誰でも、無慈悲な運命によって、自らの無力を思い知らされることを避けることはできない。それでも、生きるに値する命、何ものかに生かされている命というものを感じる瞬間が私たちにはある。そうした命そのものの謎に深く向き合い続ける仕事、それが石川さんが目指してきた道であり、生き様そのものなのだろう。普遍であり、根元であり、2000年前も、おそらく2000年後も変わらない人間のテーマだ。

 彼の求めるものは、そのように大きくて底知れぬものだから、驚くべき時間と労力をかけなければならな。しかし、彼の仕事が予算に恵まれているわけではない。にもかかわらず、なぜ今回のような映画が作れるのかといえば、一人で全てをやりきってしまっているからだ。そのエネルギーには本当に驚かされる。

 今回の映画を見た多くの人は、大集団の撮影クルーが作ったものだと感じるだろう。しかし、実際には、テレビ番組のドキュメントよりもはるかに少ない人数であり、石川さんと助手一人だけでやりきっているのだ。当然、テレビ局の撮影現場などでよく見かけるマイクとか照明や、スタッフの弁当を手配するアシスタントなどを現場に連れていっていはいない。

 そして、偶然性に頼り、作為的な演出を行っていないドキュメントなのに、あまりにも多くの素晴らしいカットがありすぎて、いったいどういうタイミングでカメラをまわしているのか不思議でならない。写真家として長年培ってきた経験で、次の展開が読めてしまうのだろう。そして、常にいつでもカメラをまわせる態勢でいるのだろう。相手に警戒されたり、意識させたりすることのない絶妙な間合いを保ちながら。そのように蓄積した重要な細部を、レヴィ=ストロースが説くようにプリコラージュ(寄せ集め)していくことで、まさに神話のような世界ができあがった。

 神話は、世俗的な側面では役に立たないかもしれないが、無慈悲な運命によって自らの無力を思い知らされるような時にこそ力になるものがこめられている。

 神話に地域性も時代性もない。神話は、共同体の中でしか生きられない人間にとって古今東西変わらない普遍的な知恵なのだ。

 近代合理主義思想から生まれた個人主義が、共同体の知恵の歴史的蓄積ともいうべき神話を遠ざけてしまった。しかし、そんな時代においても、今、起こりつつあることをもとに、現代の神話をプリコラージュしていくことはできる。時を超えて語り伝えられていくものは、きっとそういうものだろう。

 「世界でいちばん美しい村」を見る人は、どこか遠くの出来事を記録したものとして見るのではなく、きっと自分に突きつけられる問題として見ることになる。そして、我々よりも遥かに大きな時間の中で生きている人たちの姿を見て、個人の暮らしの快適さばかりを追求する社会の卑小さを、思い知らされることだろう。人間には、まだそうした良心が残っていて、神話は、きっとその良心に働きかける。

2017-06-04

第1003回 過去と未来の橋渡しになる映像を


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 一般社団法人カメラ映像機器工業会(CIPA)が発表している数字を見ると、デジカメ販売の長期衰退は、著しい。 

 コンパクトカメラは、2010年が1億900万台で9,774億円だったが、2016年は、1,200万台で1,630億円。

 レンズ交換式カメラは、2010年が1,300万台で3,950億円、2016年は、1,100万台で3,643億円。

 この6年で、レンズ交換式カメラは15%減、コンパクトカメラは、なんと10分の1近くに減っている。両方を合わせた台数では、この6年のあいだに、年間で1億台も減っているのだ。

 その原因は、誰もが知っているとおり、わざわざカメラを買わなくても、スマホのカメラで十分な撮影ができるからだ。

 フィルム時代においては、友人と一緒に旅行に行くと、写真が下手な人と上手な人とのあいだには、明らかな差があった。しかし今は、誰でも同じように綺麗に写真が撮れる。ピントも露出も全自動で、画像処理アプリも簡単に使えるから、素人とプロとのあいだの差も、見分けがつかなくなっている。

 展覧会などにおいても、評論家が褒めていたり名の通った写真家が撮った写真ということで、これは良い写真なのだろうなという顔で見ているが、そういうラベルを外して素人の写真と混ぜて展示しても、気づかないタイプの写真は多い。

 報道写真も、2011年3月11日の東北大震災の時に明らかになったが、プロの写真よりも現場に近いところにいた素人の写真が、震災のリアリティを伝えていた。

 そして今、映像の発展の方向は、さらに鮮明さを追求する4Kとか8Kという超高精細な画像の実現と、3次元画像とかバーチャルリアリティとなっている。

 20世紀は、映像時代だった。コマーシャルやメディアなどの媒体を通じ、映像が、時代の価値観をリードしてきた。しかし、現在、映像が目指している発展の方向(鮮明な映像の力によってすべてをあからさまにしていくことや、仮想空間と現実空間を錯覚させること)が、時代の価値観をリードするものとなるだろうか。

 こうした映像技術の発展において、私が一番気になっているのは、人間の想像力や、心との関係だ。

 映像は、それを使ったり見ている人が意識している以上に、人間の想像力や心の状態に影響を与えている。

 コマーシャル映像が、消費社会のなかで必要のない物を買わせることに貢献したことは間違いない。そして、最近のSNSに関する調査で、Instagramやsnapchatといった画像中心のSNSが、青少年の心を一番蝕んでいるという結果もあった。その原因は、映像による演出で自分を見栄え良く見せようとする人々が大勢いて、それらの映像を見てコンプレックスを抱いたり、自分の暮らしのつまらなさに落ち込んだりする人が増えているのだという。映像は、自己顕示欲と自己承認欲求を満たすための手段としては、もっとも手軽であり、そうした映像の使われ方が、表現分野から一般まで広くいきわたった結果だ。

 いずれにしろ、映像を作る人間の価値観や意思や思惑によって、映像のあり方は異なり、人間にとって、害になることもあれば、逆も有り得る。

 そのため、映像技術の開発に携わる者や、映像の作り手の責任は大きい。映像を通して、いったい何を目指しているのか、自らに問い続けることは必要だ。

 これまで私は、風の旅人という雑誌を作り続けてきた。雑誌を作る際に、人が撮った写真を使わせていただいて編集を行っていたが、映像の責任についてはかなり自覚的だった。そして、その考え方をブログなどを通して明らかにしてきた。

 最近、その考えに基づき、自分でも写真を撮り始めたのだが、デジタルカメラだと自分の感覚と合わず、ピンホールカメラを用いるという方法になった。

 そして、それらの写真を、ホームページを作って、フォトギャラリーやフォトエッセイという形でまとめていくことにした。

  https://kazesaeki.wixsite.com/nature

 ピンホールカメラは、ファインダーも絞りもシャッターも何もなくて、ただ暗箱と、フィルムがあるだけ。光を通す穴は、わずか0.2mm。露出時間は、光の状態を見て勘に頼るしかない。写る範囲も、だいたいこのあたりと見当をつけるだけ。

 そして対象の前で立ちすくんだまま、何分か、ひたすら待ち続けるのだが、その場では、フィルムに写っているかどうかわからない。だから現像後に、像が写っていると、それだけでホッとする。同時に、こんなシンプルな仕組みで写ることが不思議でならない。

 最新のデジタルカメラで撮影すると、自分の眼で見ている時より細部まで鮮明に写りすぎている。他の人の目にはどう写っているのか私にはわからないが、自分の場合、どうも感覚が違う。

 ピンホールカメラは、レンズを使っていないので、そういう細密さはない。でも、自分が風景の前に立っている時の見え方は、むしろピンホールカメラで映し出されたものの方が近い。風が吹いていれば枝や葉は揺れ動いており、揺れ動いているという感覚で樹木を見ている。

 その動きを、高機能のデジタルカメラは高速シャッターで静止させる。そして薄暗い森の中も、高感度センサーで明るく鮮やかに処理をする。それが、消費者のニーズだからだ。

 しかし、消費者のニーズというのは、人々がある程度意識して要求していることであり、世界は、自分では意識できていないこととの出会いに満ち溢れていて、その事実が、人間を触発し続ける。

 意識によって限定された世界ではなく、無意識が感応する世界が、偶然と必然の組み合わせの中で写し出されることの驚き。何枚も撮って、その中の一枚だけかもしれないけれど、自分で恣意的に切り取った写真ではなく、偶然と必然の組みあわさった恩寵のような写真が受け取れるかもしれないと祈りのような心境で、暗箱に0.2mmの窓を開けて待っている。

 数日前、詩人のさとう三千魚さんから最新詩集「浜辺にて」を送っていただいたが、その中に、「死者から委託されたコトバを語ろう」という一文があった。

 その一文に触れた時、ピンホールカメラで撮っている写真も、死者から委託されたものを写しているようなものだと感得した。

 最近、近畿圏で古くから人間が大切にしてきた場所を訪れている。その地勢、山の形などからも、古代、人々がそこを聖地にした理由を、しみじみと感じる。

 それらの場所を訪れるたびに、現代人よりもはるかに死者から委託されたものを大切にしていた古代人の感覚と、少しでもつながることが、今、とても大切という気がしている。

 死者から託されたものを意識できないことは、未来に託すべきものを意識できないことと同一だと思うからだ。

 そして、そして、その委託の作法は、ピンホールカメラの受容的な方法が適しているという直観がある。あまりにも恣意的で鮮明すぎる映像は、現在のこの一瞬だけを大切にして切り取って満足してしまっていると感じるからだ。

 今、目に見えているものを鮮明に映し出すことよりも、今見えていないものの中に潜む前後の時間に対する想像力を喚起する映像の方が、過去と現在と未来の橋渡しになるような気がする。

2017-05-04

第1002回 天の恵みを授かる作法ー鈴鹿芳康の作品世界ー

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 鈴鹿芳康は、アーティストである前に旅人である。旅人というのは、実際にその環境を訪れて、土地と空気と水などの物質や様々な価値観をもった人々と身体感覚を通して交じり合う感覚をリアルなものと記憶しているから、その感覚を抜きに、物事を判断することができない。

 旅する人間は、合理的精神が重要視されている人間社会では気にも留められない木々のざわめき、雲の形、月の満ち欠け、風の向き、気圧の変化、地中深くで大地が押し合う気配、気流や磁場などに対して、昆虫や野生動物たちのように神経が敏感になる。

 そのように旅を通じて身体感覚を鋭敏にしている鈴鹿氏は、視覚や聴覚だけに頼らず、物質の微妙な物理反応や化学反応をも感じ取って、ピンホールカメラをセッティングして撮影を行う。そんな彼が1988年から撮影を続けている”聖地”というのは、世間によく知られた名所と限らず、身体感覚を刺激する力が、他に比べて強くなっている場所だ。

 旅人である鈴鹿氏の表現における作法は、合理精神からできるだけ離れ、自然の側に立った時間の中で自然と向き合うこと。持ち運びに不便な8×10インチの大型サイズの、レンズをつけないピンホールカメラを抱えて辺境の地を旅し、太陽の昇る方角と位置を正確につきとめ、三脚をセットし、直径0.3mmという小さな孔を通って差し込んでくる光が像を結ぶのを長時間露光で待ち続ける。

 その間、自然の息づかいを感じながら、のんびりと待っているだけ。写っているかどうかは現像に出した後でないとわからない。

 もともと写真撮影というのは、自分が向き合っている世界を区切り、その構図の中で何かを表そうとする行為だから、人間を中心に限定された世界しか写らないという特性がある。たとえば空や森にしても、その全体から感じられるものと、カメラでその一角をとらえたものでは、その感動はまったく違うものになる。自然の拡がりに対して弱いところがあり、だから自然本来の姿はなかなかとらえられない。 

 また、近年のカメラは、コンパクトで携帯性に優れ、1/8000杪などという目にも止まらぬシャッター速度を実現し、超高感度のデジタルセンサーで暗闇でも写るという人間の都合に大変役に立つ機械であり、その場で撮った画像をチェックして何度でもやりなおしが効く機能なども、当然ながら合理精神によるものだ。

 その高性能機械で、自分のニーズにそって風景を乱暴に切り取り、その切り取り方が上手だとか下手だとか、目の付け所がいいとか悪いと競い合っている。 

 結果的に、一番大事な、風景の向こうとこちらの入り交じるところ、魂が、行き来する彼岸と現実の境が、切り捨てられる。

 鈴鹿氏が現そうとしているのは、まさにその境の領域である。

 彼は、ピンホールカメラの小さな孔に、自然界を包み込む豊かな時間が一点に凝縮して流れ込んでくる気配に神経を集中している。

 写真を通して世界を切り取るのではなく、世界に呼応する魂を何らかの意味あるものとして外に定着させるための集中作業。そうして結ばれた映像は、優れた山水画と同じだ。山水画は、写実的な自然描写ではない。自然の奥行き、はるか下を流れる時間、人間の尺度を超えた大きな時空が、そこにある。鈴鹿氏の作品を前にすると、写真を観ているというより、遥かなる時空を体験しているという感覚になり、記憶の深いところが揺さぶられる。観るということが、目の前にあるものを観ているだけでなく、記憶と重なり合った体験(自分ひとりの記憶というより、DNAに刻まれた人類普遍の記憶)であると、高名な画家が言っていたような気がするが、鈴鹿氏の写真は、そのことをリアルに感じさせる。

 鈴鹿氏の創造活動は、偶然と直観によるところが大きいが、むろんそれだけではない。一つのことに打ち込み経験を積み重ねていくうちに自然の摂理を肌で感じ、その摂理に近づくために、彼は、暦や天文など人類が古代から蓄積してきた智恵を身につけてきた。

 太陽や星の位置、月の満ち欠けなどが、潮の干満をはじめ、地表の現実と大きな関わりを持ち、自分の行動の指針となるからだ。

 それ以外にも、たとえば、彼の風景作品のなかに、時折、虹のフレアが発生しているが、針穴の素材が銅であるかアルミであるかなどによって特徴が異なる。

 感光材に像が描かれる現象も含めて、化学反応である。長時間露光の産物であるから、その時の太陽光線の状態だけでなく、湿度や温度、もしかしたら聖地に特有の微量な自然放射線の影響も受けて、作品はできる。だから、彼が、カメラを設置する場所と時を選ぶ際にも、視覚だけでなく、自分の全知識と全感覚を総動員することになる。風景に向かい合う瞬間は、どこまでも謙虚に、作為を排除して、天からの恵みに任せることになるが、その準備には、それまでの人生の全てが関わっているのだ。

 そういう意味で、鈴鹿氏の作品は、一期一会の結晶である。一期一会というのは、二度と繰り返されることのない一回かぎりの機会のために心を尽くすことだが、その時になって慌てて取り繕ってもボロがでる。自然な流れのなかで互いに相応し、調和が生まれることが重要視されるが、タイミングの読みがとても大事で、それは、日頃の心がけがあってこそできることなのだ。

 しかし、そういう準備がしっかりとなされていても、結果はあまり大した問題ではないという無欲さがないと、わざわざ巨大なカメラを背負って辺境の地を旅し、場所を決めてセッティングし、露光している長い時間を待ち続けて、きちんと写っているかどうか確信が持てないという活動を続けていられない。

 のんびりと待っていられること。それは風景と対立していないからできること。

 鈴鹿氏は、我欲を持たず、敬意をもって自然と心通わせ、ひたすら待つことで、その場に包摂されている。

  そのように待つ姿勢が、「鈴鹿」という主語を消していく。鈴鹿氏が意図的に切り取った写真ではなく、風景の中に潜在的にある何ものかが、自分の方から語り出すものとなる。

 主体と客体、こちらとあちら、撮影者と被写体という対立が無化された、ありのままを受けとめるという全肯定の大きな世界がそこにある。

 待つことの深さは、信頼と肯定の深さにつながっており、それは、人智を超えたものへの信仰であり、彼の作品は、その信仰がなければ成立しない。その信仰が、全ての対立的になりがちなもののあいだをつなぐ媒介となる。

 所属する国や宗教や諸々の団体、また時代背景や社会状況に関係なく、あらゆる人々が、鈴鹿氏の作品を前にした時、自分の内に在る風景だと感じ、懐かしさや安らぎを覚えることもあれば、時には哀しみや有り難みとともに、自省や憧憬の念が起きることもあるのではないか。そういう力こそが、芸術の普遍性なのだ。

 どこまでも謙虚に自然の摂理に従い、天の恵みを授かる作法を身につけた芸術家だけが、一つの作品を通して、世界全体をつなぐことができる。その真理は、古今東西変わらない。


*京都の五条にあるギャラリー、galleryMain [ギャラリーメイン] で鈴鹿芳康さんの写真展が開催されています。

5月14日まで 13:00ー19:30

*展覧会の最終日、5月14日の午後1時から、鈴鹿さんと私でトークを行います。

 この展覧会は、入場料500円ですが、トークショーの時以外に展覧会を観た人は、トークショーのために再び訪れても無料のようです。あと、KYOTO GRAPHIEのパスポートを持っている人も、無料で展覧会を観ることができるようです。

 http://www.gallerymain.com/exhibition2017/suzuka.html

2017-04-26

第1001回 「室礼展」に見る、緩く心地よいつながり。中央集権的な構造から分散処理的な構造へ。

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 京都ではKyoto Graphieという写真祭りで盛り上がっています。私も、この期間中、「The Terminal Kyoto」というところで、最近、ピンホールカメラで撮り続けている古樹の写真を、和紙に出力して展示させていただいています。

 Kyoto Graphieが写真メインの展示に対して、「The Terminal Kyoto」での展覧会は、「室礼」という切り口で、写真だけでなく、工芸や美術作品なども一緒に京都の伝統的家屋である京町屋の中に配置していることが特徴です。

 写真や工芸が響き合って、面白く、居心地のよい空間になっています。それぞれの部屋と作品は、こういうものです。https://www.facebook.com/kazesaeki/posts/1538936189459125?pnref=story

 美術館のように壁と向き合って見るのではなく、座り込んだり、寝転んだり、時には窓の外の庭に目を向けたり、いろいろな味わい方ができます。

<テーマ>

混迷と分断の時代、外部からの異人を和の心で歓待しながら、異質のせめぎ合いを溶かしこむ調和と融和の文化の創造を希求する。趣向を凝らして配置された写真や工芸は全体を構成する要素として共振しながら一体となり、主客も金剛合掌のように重なり合い一体となる。「室礼」の志は、生活の場所であると同時に精神的、創造的存在として日本のかたちそのものである町家の中に、古今東西で枝分かれする人間文化を根元で和合させること。

 ぜひ、足をお運びください。入場無料です。

 展示は、4月22日(土)から5月19日(金)です。場所は、ここです。京都の四条通り、烏丸の近くです。 https://www.facebook.com/theterminal02/

 Kyoto Graphieが一つの建物に一人の作家の作品を展示しているのに対して、室礼では、様々なアーティストが共同しているのですが、私は、自分の写真を出すだけでなく、一つの部屋のディレクションを行い、皮革工芸作家の河野甲さんと、画家の廣海充南子さんに声をかけて、空間を作りました。昆虫や麒麟など想像上の生き物を皮革で精密につくりあげる河野さんは、私の写真を見て、”虫の死に様”をイメージしたと、参加を引き受けてくれました。廣海さんは、下絵無しのフリーハンドで、驚くべき調和と均衡のとれた様々な曼荼羅図を描くのですが、最初は河野さんと二人でコラボレーションをしようと考えていたところ、偶然、廣海さんの作品を見る機会があり、一目見て、今回のテーマにぴったりだと思って参加してもらいました。

 私がディレクションした部屋のテーマは、こういう内容です。

 天地の眼

 いのちの働きに、初めも終わりもない。

 過去、現在、未来にわたって変わることもなく、

 あらゆるものが、働き合い、補い合いながら連続し、

 その模様は、たえず変わり続ける。

  

 いのちは、すべてのものに分け隔てなく行き渡っているが、

 食べるものと食べられるものが存在し、

 前の条件が後のものを限定する。

 しかし、食べられることで別の形で生きることや、

 前の条件が壊れて次の土台となることもある。


 時には、いのちの冒険によって、新たな生の条件が作られる。

 水中から陸上へ、大地から空へ、森からサバンナへ、大陸から別の大陸へ、

 新たな生の条件によって、多様なすみわけが進む。

 そしてまた、互いに関係し合い、調和と安定を目指し、矛盾を生む。


 今回、様々なアーティストや工芸作家と共同して感じたことは、こうした取り組みは、まさに中央集権的な構造から分散処理的な構造へと移行しつつある時代を反映しているのではないかということです。

 どういうことかというと、一般的な展覧会のように、中央に実行委員会のような組織があって、そこがお金を集め、運営方針を決め、全体の計画を立て、それに基づいて個々の内容を取り決めていくという中央集権国家のようなやり方ではありません。

 運営の趣旨に関するコンセンサスをしっかりととり、参加するアーティストや作家が、その趣旨をどう具体化するか考え、それぞれの持ち場でそのアイデアを発揮する。その上で、それぞれの持ち場が、他の持ち場を見ながら、響き合うように修正をくわえる。全体として緩く統合する連邦国家のようなものです。

 中央集権組織の場合、お金を集めるところが大きな権限を持ち、そのお金を各部分に配分することで成立するわけですが、連邦組織の場合、お金を集める中心はなく、それぞれの持ち場を運営するものが、いろいろなネゴシエーションを行ったり、手持ち弁当で仕事をしたり、工夫を凝らします。

 もしも、この多彩な作品の組み合わさった「室礼展」を中央集権的な組織で行うと、相当なお金がかかったはずです。連邦組織だからこそ、それぞれの現場は、自分たちで責任をもって行うという意識が高く、施工のプロに仕事を丸投げするということも当然行わず、自分の手で行いました。

 中央集権的な組織で何かを行おうとすると、その莫大な予算のやりくりのために、権力や商業スポンサーに依存し、へりくだることになります。それこそお金の切れ目が縁の切れ目、スポンサーがつかなくなったり助成金を打ち切られると、実行の終焉となります。

 日本国家も、これまで中央権力がお金を集め、そのお金を配分するイニシアチブによって、中央が権威的な存在となる構造でした。

 何を行う場合も、その権力に頭を下げ、従わざるを得なかったわけです。しかし、その中央権力の財源が枯渇し、大赤字となり、その無駄遣いが非難を浴びています。

 従来の権力構造が限界に達し、そろそろ構造変化が起こる気配が出てきているのです。

 沖縄などがその先駆けとなり、日本全体が、もう少し分権化され、それぞれの地域にそった運営方針とルールが制定され、連邦化され、全体が緩く結合する時代の訪れを夢想します。

 観光が柱になるところもあれば、文化が重要なところもある。過疎が問題のところもあれば、人口集中による弊害の大きなところもある。全国均一の税制やルールで管理することが、もはや不可能なのです。

 たとえば京都などでは、企業や個人の判断で伝統工芸や伝統文化を援助する場合には税制優遇措置がとられるような仕組みになれば、それらの伝統分野に携わっている人たちは、様々な企業に積極的に働きかけることができる。国の助成金に頼るだけだと、国の定める基準にそっているかどうかだけで判断されてしまいますが、交渉相手が様々な企業や個人であれば、たとえ”集客数”が少なくて現時点での公共性がなくても、将来的に大事だと判断する社長や個人が存在すれば、資金の援助を受けることができるのです。

 少し前、山本地方創生相の「学芸員はがん。一掃を」発言が波紋をよびましたが、そもそも、こうした発言や、それに対する非難には、日本の学芸員と、欧米のキュレーターの役割や責任や権限が違っているという前提が抜け落ちています。

 欧米のキュレーターは、美術館などの運営資金に関する責任もあり、その権限もあります。国から配分されるお金を待っているしかない日本のような状況ではない。なかには、資産家をまとめたツアーを組んで、自らが添乗員になって海外の美術品を見るための案内をする美術館長もいます。資産家に作品を買ってもらって美術館に寄付してもらうためです。美術品の研究の前に、自分の責任と行動で、美術館の運営をしなければいけない。そういう意識を持てる環境にあると、おのずから働き方や働き甲斐も異なってくるのでしょう。

 山本地方創世相の失言の時に、学芸員を労働者とみなし、労働時間や仕事量のことで異議を唱える人もいました。ようするに、国家が、学芸員を含めて国民に対して、もっとしっかりと働けと脅し、そうしないと国が強くならない、みんなが豊かにならないぞと、あいかわらず高度経済成長時期の論理をふりかざしているということが問題なのです。

 単なる労働者とみなされているから労働意欲もわかなくなっているという、この時代の事実認識の方が大事です。

 私が参加した今回の「室礼展」の展示の準備が、雇われ労働者のように労働時間ではかられるようなものであれば、参加意欲も低く、よりよくするための主体的な努力もあまり行われなかったでしょう。

 何よりも、参加することに喜びも楽しみもないし、達成感もない。人と人との連帯も弱い。

 中央権力に管理されて結束させられた組織よりも、連邦的なつながりの方が、人間と人間のつながりはより深くなります。そのつながりは、誰に命じられたものでもなく、それぞれに対する敬意と信頼と配慮に基づいているから。


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2017-04-22

第1000回 自分のモラルから言葉や表現物を発するということ

 小栗康平監督のDVDブックのFOUJITA (小栗康平コレクション 別巻) <駒草出版>が発表された。

https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=25VR46+1RPEIA+249K+BWGDT&a8ejpredirect=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2Fdp%2F490544778X%2F%3Ftag%3Da8-affi-145793-22

 装丁もとてもよくて、長く手元に置いておきたくなる味わいがある。

 そして映画のDVDと同梱されている前田英樹さんの批評文と、小栗さんと前田さんによる対談が濃密ですばらしい。表現者や批評家の真摯さ、誠実さとはなんであるか感じるためにも、映画作りに携わる若い人はもちろんのこと、表現や批評を志す人にはぜひ読んでいただきたい。

 実は、この『FUJITA』という映画については、舌鋒鋭い論客とか批評家と言われる大学教授の浅田彰氏が、このリンク先のようにあまりにも虚しくて、悲しくなるような批評を展開している。

http://realkyoto.jp/blog/asada-akira_160107/

 浅田彰という人はいったい何をどうしたくて、こういう虚勢を張っているのか。現代社会における言葉の使われ方というのは、政治家も、ビジネスマンも、そして言葉の専門家とされる批評家も、いかに相手(競合他者)よりも自分の方が優れていて強いのかとアピールする手段でしかないのだろうか。

 浅田氏は、この批評文の中で、自分の知っていることを並べ立てて、相手をなんとか威圧しようとする。時に暴力的とも言える雑な言い回しで。彼は学生に対して、このような言葉で相手を制していく方法を教えてきたのだろうか。未来につながっていく若い人たちに、ここに書かれているような空疎な内容、雑な言語使用のスタイルが伝えられていくのかと思うと、悲しくなる。

 彼は書く。「近年の日本映画の中でも飛び抜けて貧乏くさくて辛気臭い映画が、小栗康平の『FUJITA』である。一貫して鈍重な映画を撮り続けてきた小栗康平が、「軽薄才子」と貶されながら世界を股にかけたトリックスター藤田嗣治を撮るーこの話を聞いた時から「何かの間違いでないか」と思っていたのだが、その危惧は、最悪の形で実現されてしまった。」と。

 浅田氏は、冒頭から勢いよく先制攻撃のように小栗康平藤田嗣治の二人を貶すが、その後、彼は、何がどう貧乏くさいのか、辛気臭いのか、鈍重なのか、トリックスターなのか言葉で掘り下げることなどしない。あとは俳優のフランス語をけなして、延々と自分が持っている藤田嗣治に関する知識をひけらかすばかり。ようするに、それら自分の知っていることが小栗康平監督の「FUJITA」の中に盛り込まれていないから、この映画は最悪なのだと言っているとしか読み取れない。

 この浅田氏の批評文に対して、素朴な読者が、下記のコメントを残している。

「この映画はストーリーとかよりももっと大きなものを撮ってるんじゃないかなってわたしは思いました。難しいことはよくわからないですけど、人間の知覚とは別の、機械の知覚を通して私たちが見落としてる世界、宇宙を流れているものを上手く撮っている映画で、たまたま藤田嗣治がストーリーで使われたんじゃないんですかね。特にロングショットはすごく神秘的でわたしは好きな映画です。」

 自分がバカだと思われたくないという小心さで、浅田氏の文章にポーズだけでもウンウンと頷いてしまう人が多いなか、このコメントを寄せた人は、「難しいことはよくわからないですけど」と素直な子供の心で、批評界隈の権威的存在らしき浅田氏に対して、「あの映画って、そのように見えないですよ、言っていることがおかしくないですか?」、つまり、「王様は裸だよ!」と言っているように私には思える。

 それはともかく、「小栗康平のFUJITAは、伝記として失敗している」と、自分勝手にこの映画を伝記映画と決めつけて、失敗作だと見下す浅田彰氏の言葉など眼中にないとばかりに、前田英樹氏は、次のように書く。 

 「FUJITAという映画は、映画が史劇たりうる最高の方法を示していると言っていいだろう。主人公の画家「フジタ」は、単にかつて実在した人物だったというだけではない、過去のなかに厳とした役割を与えられて、歴史の真髄を生きさせられている。」と。

 前田氏は、これはフジタ個人の伝記映画なんぞではなく、史劇であると書き、その後の文章で、その根拠とするところを丁寧に書き重ねていくのである。だから、浅田氏の文章と違って、どんどんと歴史の深いところ、藤田嗣治の内面、そして、それらを描き出す映画の時空に引き込まれていくような感覚になる。

 さらに前田氏は、浅田氏が、「近年の日本映画の中でも飛び抜けて貧乏くさくて辛気臭い」とか、「動きがない、鈍重である」と蔑むところに関しては、こう書いている。

「FUJITAの終盤、疎開先の寒村でフジタが観る美しいさまざまな幻想は、ただの幻想ではあるまい。画家の記憶の、奥の奥で生きられている古い日本の現存であろう。映画は、それを次々に、はっきりと映し出し、私たちの心を遂には痛いほどに掴む。村の夜道を跳んで横切る金色の狐、あれは私の魂だと、感じさせるのである。」と。

 浅田氏は、映画そのものについて前田氏のように丁寧に書かず、自分が持っている藤田嗣治に関する一般知識(本で読んだか誰かから聞いただけで、自分の目で事実を確認したわけでも、想像力を働かせているわけでもない)の羅列のあいだに、「運動が鈍重」とか、「怠惰な反復」と書くので、その意味するところがさっぱり伝わってこない。

 ただ、「編集が乱暴になってもいいから、ゴダールのように確信犯的なつなぎ間違いを連発してもいいから、上映時間をとりあえず5〜10%ほど削ってみてはどうか」とか、「藤田は戦争画でチャンバラに挑戦すると言っているのだから、藤田の伝記映画もチャンバラのように撮るべきなのだ。」とか、「フリーダ・カーロが出てきても面白いだろうし、そこで岡本太郎と再開するのでもいいかもしれないし」などと書いているので、浅田氏の考える鈍重でないもの、怠惰な反復でないもの、面白いものというのは、その程度のことなのだと納得するしかないのである。

 このように文章を照らし合わせていくと、前田氏と浅田氏は、同じ映画を観ていても、見えているものの奥行きがまるで違っているということはわかる。

 けっきょく浅田氏は、好きか嫌いかでものを言っているだけのような気がする。

 どちらの意見が正しいかではない。どちらの批評文が心構えとして美しいかが重要だ。

 美しいという言葉がわかりにくければ、どちらの文章が、何度でも読み返したくなるか、時間を置いてもう一度読みたくなるか。それほどの深みを感じられるか。

 批評家は、映画や絵画などを一方的に裁定する優位な立場にあると錯覚している人がいて、読者も、知らず知らず、そういものだと思わされているかもしれないが、そうではなく、我々はまず、その批評家の文章を評価しなければならない。正しいか間違っているかではなく、対象に対する心構えに誠実さを感じるかどうか。言葉の使い方や論の展開のさせ方などに欺瞞がないかどうか。どこか”あざとい”と感じるものはないか。知識のひけらかしや、すでに権威となっている人物の引用で論理武装するばかりで、上手に自らを権威付けていないか。

 浅田氏が、映画に求める手前勝手な”面白さ”と対照的に、前田氏は、対談の中で次のような言葉を発している。

 「藤田嗣治という人は、このような問題を(注:日本の伝統の蓄積と、西洋から強圧的に入り込んできた異質の文明を拒絶することの不可能さと、同時にそれに惹きつけられるということのあいだの激しい葛藤、心中の闘いの問題ー要約:佐伯)、明治末期から太平洋戦争のまっただ中に至るまで、全身で引き受けたのでしょうね。その痛ましさを、小栗さんの映画はほんとに親身に描いている。事件を追う歴史ものとしてじゃなく、魂から魂へ、共感を刻みつけるように。藤田が観たら、どんなに救われるだろうかと思いました。」

 これを読んで一目瞭然なことは、何かについて表明する言葉や表現物は、けっきょく、その人のモラルから発せられるべきものであるということ。

 その人のモラルが伝わってくるものは、正しいとか間違っているという分別を超えて、自分の魂の中に潜んでいるモラルに食い込んできて響きあう。

 魂の中のモラルと関係ないところで、面白いかどうか、売れたかどうか、新しいか古いか、正しいかそうでないかと競い合う光景は、なんとも虚しい。そこから望むべく未来が拓かれていくとは、私にはとうてい思えない。そういう虚しい闘いが優劣を競い合うことだと、これからの時代を作っていく若い人達に思ってもらいたくない。

 私は、批評家ではない。傲慢な批評家は、映画や絵画などを自分勝手の方法で分析して評価付けするだけだし、誠実な批評家は、表現に潜在する力を引き出そうと奮闘する。私は、「風の旅人」という雑誌の媒体運営者で編集者でしかないけれど、批評家であれ誰であれ、その人たちがアウトプットしたものを自分の媒体に載せるかどうか判断する立場にある。

 私ならば、FUJITAについて浅田氏が書いているような文章を、自分の媒体に載せるという判断はしない。その判断の根拠が何からきているのか、生理的な感覚だけでなく言葉として認識しておくべきだと思った。

 2004年11月から、くだらない長文のブログを書き始めて、今回が1000回目。

 1000回目の節目としてどういうことを書くのかなあと思って、ここ数日、空けておいたのだが、自分のモラルと表現の関係について書くことになったのは、きっと必然だったのだと思う。

 そして、自分がなぜ風の旅人を50冊も出し続けてきたのか、1000回にわたってブログを書き続けてきたのか、より明瞭にもなった。

2017-04-02

第999回 畏れという人間の良心

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アルビノの木:監督 金子雅和」

 京都みなみ会館で、4月15日から21日まで上映される『アルビノの木』という映画がありますが、4月15日の14時15分からの上映後、監督の金子雅和さんと私のあいだで、30分ほどトークを行います。

 8ヶ月ほど前、「アルビノの木」という映画を見た時、途中までは、あまり上手でないなあという印象をもった。構成も演出も役者の演技も。

 そして、見続けながら、上手でないことが、なにかとても大事なことのようにしみじみと感じられてきた。

アルビノの木」という映画の作り手は、とても難しい課題に向きあっている。自然と人間の現実とのあいだの葛藤。人間の中にある基準では、どうにも手に負えず、自然と人間の両方を俯瞰する神様の目で見なければ、正しいことはわからないという課題。しかし、当然ながら、自分には神様の目は持ち得ない。だから、演出も演技も、おぼつかなくなる。

 「わかったつもり」になって、正しさを主張することなんか、とてもできない。

 表現に限らず、どんな活動も、自らの正しさの正当化のために傲慢になっていると感じられるものは信用できない。また、正しさの為に動いている自分に酔いしれているようなものは、行動も、表現も、薄気味悪い。

 だからといって、表現することが無意味であるということではない。

 正しいか正しくないかというのは、答えが正しいかそうでないかではなく、伝え方として正しいかどうかの方が、遙かに大事なのだ。

 ならば伝え方の正しさというのは、どういうことだろうか。

 色々あるだろうが、一つ大事なことは、伝えるための方法に対して、どれだけ心が尽くされているかではないだろうか。 

 その人が信じられるかどうかは、伝え方がうまいかどうかではなく、何かを伝えようとする方法において、十分に心が尽くされているかどうかだ。言葉で伝えているのに言葉の限界や矛盾を感じることもなく、映像で伝えているのに映像の作為性や誘導性が持つ問題を意識することなく、それらを使っている人は、あまりにも真実に対して傲慢だ。にもかかわらず、そういう人に限って、正しさを主張するために言葉や映像を用いている。

 何かを伝えようとする時、人の誠実さは、伝えようとする内容や主題よりも、そのスタイルに現れる。日本文化は、能であれ、茶道であれ、そのスタイルに、まことの心が凝縮している。ともすれば形式主義に陥りやすい欠点があるが、それは、伝えるべきものを持たず(まことの心を持たず)、前例をコピーしているにすぎないからだ。

 だから、形式主義者ほど、内容や主題を説明したがる。そのスタイルを通して、内側にある誠実さが十分に伝わってくるものは、説明などいらない。

 とはいえ、”説明などいらない”と大見得をきっている人のものが、そこまでのレベルに達していることも、あまりない。

 隅々まで心を行き渡らせていながら、伝える相手に、そのことを負担にさせないこと。日本人が昔から大切にしてきた真の意味での”おもてなしの心”は、表現にも通じる。表現もまた一期一会だからだ。その誠意は、どんな主張よりも、相手の心に深く残るし、そういうものが残るあいだは、人間性への信頼を諦めずにいられる。

アルビノの木」は、人間性への信頼や自分自身の良心を、自分の心にそっと問うことを、どこまでも控えめなスタイルで促している。

 この映画は、上手な映画ではないが、文明の利器が発達して誰もが上手に振る舞える時代、この映画の作り手は、上手さが空々しさにつながることを一番畏れているのだろう。

 その畏れこそが、人間の良心なのだ。

アルビノの木」は、上手に作られた映画ではなくて、畏れという人間にとって最も大事な良心の扉を、おぼつかない手で恐る恐るノックする誠実な映画だと思う。

 このおぼつかなさ、心許なさこそが、現代の誠実だろう。わかっているつもりになって自信満々に声高に正しさを主張するよりも、本当のところはわからないということを自覚したうえで、それでもやはりおかしいのではないかと考え続ける姿勢からしか、自分自身も、その延長線上にある世界も、変わっていかないと思う。

京都みなみ会館HP

http://kyoto-minamikaikan.jp/show

アルビノの木 公式ページ

http://www.albinonoki.com/


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2017-03-31

第998回 もののあはれと幽玄

第7回 風天塾開催

もののあはれと幽玄〜近代合理主義を超えて〜「源氏物語と日本文化の秘めた力」

お申し込みはこちら➡︎https://www.kazetabi.jp/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/

(和蝋燭の灯りに照らされた空間で)

日時 2017年4月28日(金) 開場18:30 開演19:00〜

第1部 源氏物語 女房語り「夕顔」 山下智子 解説30分 女房語り 30分

第2部 鼎談「もののあはれと幽玄」 1時間30分 

 河村晴久(能楽師)、山口源兵衛(誉田屋源兵衛10代目当主)、山下智子(女優)

 コーディネーター 佐伯剛(風の旅人 編集長)

◉入場料:無料  ◉定員 30名程度

<同志社大学創造経済研究センター 伝統文化の現代的創造研究所主催>

◉場所 誉田屋源兵衛 本店  京都府京都市中京区烏帽子屋町489

 地図⇨http://www.kondayagenbei.jp/about.html

*誉田屋源兵衛は京都室町で創業280年を迎える「帯の製造販売」の老舗。現在は十代目である山口源兵衛さんが、代々受け継がれてきた技術とともに、「革新」の精神をもって、着物業界に次々と作品を発表しています。公式ページ⇨

 日本人は、よく無宗教と言われます。しかし、仏教や神道という形式には抵抗を感じても、”もののあはれ”や、”幽玄”は、多くの日本人が、素直に受け入れることができます。

 特定の宗派が説く教義だけが宗教なのではなく、この世の苦しみからの救済を願い、この世への執着を鎮めることが宗教であるならば、”もののあはれ”や、”幽玄”もまた、宗教と等しい精神活動であると言えるでしょう。

 源氏物語をはじめ、日本が独自に生み出した文化は、その精神活動に基づいた創造活動です。

 そして、その精神性の高さは、近代合理主義の行き詰まりを感じている欧米人も、注目し続けています。

「登場人物の性格が繊細な筆致で描き出されているばかりでなく、様々の、もっとも洗練されたかたちの愛の情熱が、深い理解をもって表現されていた。ヨーロッパの小説がその誕生から三百年にわたって徐々に得てきた特性のすべてが、すでにそこにあった。「戦争と平和」、「カラマーゾフの兄弟」、「パルムの僧院」、そして「失われた時を求めて」などと並んで、人類の天才が生み出した世界の12の名作のひとつに数えられることになるだろう。」レイモンド・モーティマー

                             

 日本文化で、とくに顕著なのは、観念を超えていく力です。能の場合も、風姿花伝など極めて明確な言語世界がありますが、論理を踏まえながら論理を超えていこうとする精神的運動は、禅や武道、俳句などにも流れています。

 人間の尊厳や生死の問題において、私たち現代人は観念的に整理しようとして堂々巡りに陥りますが、源氏物語は、1000年も前に、そうした観念の苦しみを究極まで描き出しながら、その苦しみを超える道として、”もののあはれ”という物の宿命に寄り添っていく精神を描きました。そして、その後の日本文化のなかで、”もののあはれ”は、幽玄や侘び寂びなど、状況に応じて、深められ、磨かれていきました。

 残念ながら、明治維新の後、その精神は後退してしまいましたが、今再び、その精神を見直す時期にきています。情報があふれ返る世の中で、人は、周りの情報の影響を受けすぎてしまい、自分の生を生きているのかどうかわからなくなっています。そして、情報に踊らされて際限なく消費生活を繰り返し、その莫大な集積が、地球環境を大きく損なうところまできています。

 自分の生を取り戻すためには、情報を削ぎ落として命の本質に立ち返る必要があります。

 命の本質とは、生者必滅会者定離。形あるものは必ず消え、命あるものは必ず死に、必ず別れはあること。ただし、それを観念で主張されても心には届きません。この身が滅ぶことは承知で、身命を賭して命の本質を伝えようとする命懸けの仕事だけが人の心を動かします。

 源氏物語や能もそうですが、織物や染物も、命懸けの仕事でした。

 「草木は人間と同じく自然により創り出された生き物である。染料になる草木は自分の生命を人間のために捧げ、色彩となって人間を悪霊より守ってくれるのであるから、愛(なさけ)をもって取扱うのは勿論のこと、感謝と木霊(こだま)への祈りをもって、染の業に専心すること。仕事を与えられた喜び、その喜びに祈りの心を添えて、与えられた仕事に自己の力の凡てを、捧げること。」(前田雨城)

 長い歴史を通して、日本人は、この国の自然風土に育まれた精神で、命の本質にそったものを創造してきました。それは、「神の国」とか「美しい国、日本」といった広告や政治的に用いられる仰々しいスローガンやキャッチコピーとはかけ離れていていて、謙虚に、敬虔に、地道ながら黙々と継続する行為とともに深められたものです。

 このたびは、直接的に、物を見たり触れたり声を聞いたりするリアルな場を通して、あらためて日本文化の本質を五感で感じる時空を作っていきたいと思います。

2017-03-29

第997回 格安旅行の旅行会社の倒産の裏側


 東芝の1兆円近い負債のことで大騒ぎになったので、てるみくらぶという旅行会社の倒産で発生した150億円の負債は、一般の人にはとても小さくみえるだろう。

 そして、このことについて、「資本主義経済をとる以上、企業の倒産は避けられない。自由競争、規制緩和の号令の下で、企業はより厳しい競争にさらされている。競争する以上、結果的には、勝者と敗者は必然的に現れざるをえない。」などと擁護する人もいる。

 また、新聞などで、この旅行会社の倒産理由を、「格安旅行会社の過当競争などから収益は低調に推移。ハワイなどに設立した現地法人や国内の事業拠点の拡充などが資金負担になった」などと説明したり、「仕入れ環境の変化や、新聞広告のコスト負担」などと社長が説明しているが、本当のことは、たぶんそういうことではない。

 企業の倒産は珍しいことではないから、それほど大騒ぎする必要はないと思う人がいるかもしれないが、150億円の負債のうち100億円は、一般の旅行客からのお金なのだ。

 もしも、新聞広告などで詐欺的な広告を行って90,000人から100億円のお金を集め、ある日、その募集元が姿を消してしまったら、大騒ぎになるだろう。

 3月27日に破産の申請をしているが、その直前、3月21日付や23日付の全国紙朝刊の東京都内版に「現金一括入金キャンペーン」などとうたった新聞広告を掲載。複数のツアーを紹介し、現金で一括払いなどすれば代金が1%安くなると説明していた。

 お金を振り込んですぐに会社が無くなってしまった人もいるし、お金を振り込む直前に倒産の知らせを聞いた人もいる。一人平均10万円だから大金である。

 せっかくの休日、旅行を楽しみにしていたのに、旅行に行けなくなっただけでなく、10万円も奪われてしまったら、ショックは大きい。しかも、格安ツアーの旅行だから、お金に余裕がある人ではなく、コツコツとバイトをしてお金を貯めた若い人も大勢いただろう。なんともやりきれない気持ちになる。

 2016年9月の終了時点で、この会社が、旅行者から前受金として預かっているお金は70億円で、銀行からの借金は23億円、預金は14億だった。

 そこから半年後の2017年度3月末、銀行からの借入金は23億円から32億円に増加。一方で、旅行者からの前受け金は70億円から100億円に増加。にもかかわらず預金は2億円。

 https://www.travelvoice.jp/20170328-85867

 現金収入が39億円も増えた筈なのに、預金残高は12億円も減っている。年間売り上げが200億円ほどの会社なのに、この半年で、50億円もお金が消えているのだ。

 この会社の倒産を伝えるニュースで、このカラクリがきちんと説明されていない。新聞などが書くように、収益が低調に推移とか、国内の事業拠点の拡充で、半年で50億円も消えるのか!? 

 もちろん、この会社は、数年前から不正会計を行っていた。発生したコストをごまかし、実際には赤字なのに黒字に見せて銀行から借金がしやすいようにしていた。しかし、急激に負債が増えた理由は、それだけではない。

 急激に負債が増えた理由は、急激に負債が増える前の負債額も会社の規模の割に大きすぎて、まともな方法では資金繰りが追いつかなかったこと。まともでない方法で資金繰りを乗り切ろうとして、そのことがさらに膨大な負債を生み出した。

 まともでない方法は後で説明するとして、なぜこの会社が、会社の規模の割に大きすぎる負債を抱え込んでいたのか。

 その理由は、薄利多売なのに、直販ではなく、販売代理店を通しても旅行商品を売っていたこと。販売代理店に販売手数料を払わなければいけないので、最悪の場合、持ち出しになる。

 そして、毎年、累積赤字が増え続ける中で、一般航空会社の座席を確保して旅行商品を販売するだけでは借金の返済が難しいので、リスクのあるチャーター便を多数行っていた。

 http://www.travelvision.jp/news/detail.php?id=66689

 チャーター便というのは、利益の出る価格設定で空席がでないように集客できれば利益が多く出る。が、空席が多くても赤字になるし、集客のために低価格にしたり販売代理店に委託すると、利益も出なくなる。しっかりと運営しなければうまくいかないが、80人の社員で50人の新卒を採用するという、とても入れ替わりの激しい(短期間で辞めていく)会社で、それができていたとは思えない。チャーター便でも、大きな赤字を出していたことだろう。

 いずれにしろ、何万人もの旅行客をチャーター便だけで運営するのは不可能だから、当然、一般の航空会社の座席に頼らざるを得ない。

 そして、この会社の負債が、最終局面で急激に膨れ上がっていった最大の原因は、おそらく、その航空券代および旅行代金の設定である。

 てるみクラブは、倒産直近の2016年9月末で、195億円という過去最高の売上高をあげている。2017年に入ってからも、格安旅行の乱売で売上高は増大していただろう。現時点で90,000人のお客が申し込んでいたということだから、半年の取り扱いが、仮に300,000人とすれば、一人当たり、10,000円の赤字で、あっという間に30億円の赤字である。

 つまり航空会社からの仕入れ値が10万円なのに9万円で売ると、そういう結果になる。1万円の赤字が出るのがわかっているのに目先の9万円が欲しいために、そういうことをしたとしか思えない。

 なぜ目先の9万円が必要かというと、それがないと、数日後、出発する航空券をを発券できない。数日間、生き延びるために、数週間、数ヶ月先のお客を犠牲にするという延命を繰り返していたのだ。しかし、その数日間の延命行為は赤字で行っているのだから、繰り返せば繰り返すほど負債は増える。愚の骨頂である。

 はっきり言って、この会社の経営はメチャクチャである。

 まず、社員が80人に対して、今年の4月の新卒内定者が50人もいたそうだ。倒産直前、36、000件もの旅行予約数があり、それを80人で対応するのは、気違いじみている。ありえない。おそらく、数年前から資金繰りが苦しくなり、目先のお金が欲しいために損を覚悟で旅行商品を格安で売って莫大な前受金を集めていた。そうすると、旅行客の人数も増えるから社員は猛烈に忙しくなる。しかも、目先の現金欲しさに、社員は、ほぼ毎日、旅行客に入金を促す電話をさせられていたのではないか。だから、大勢の社員が次々と辞めているはずだ。その穴埋めに、50人の新卒に内定を出した。

 旅行業というのは低収益産業の代表であり、年間の経常利益が3億円もあれば、優良企業なのだ。旅行会社の経常利益率は、異様に低い。JTBですら1%に行くか行かないかだ。

 なので、売上高とさほど変わらない負債を返済するには、毎年JTBなりの利益率でも100年かかるわけで、100%不可能である。

 それにしても、社員が100人ほどの会社で、工場などの設備投資をする必要もない旅行業で、売上高とさほど変わらない150億円もの負債を抱えるのは異様だ。

 社員100人ほどで、しかも若い社員が多いから、社長が何億もの給与をとってないかぎり、人件費は年間、5億はいかないだろう。

 100人の社員が働くスペースの家賃も、年間5億はいかない。仮に新聞広告を派手にやったところで、毎週全面広告を打っても、5億円はいかない。固定費は、年間15億円くらいじゃないか。

 とすると、ずっとこの規模の会社だったとしても、10万円で仕入れた航空券を10万円で売るという利益がでないやり方で、10年間続けて、借金が150億円になる。

 この会社は、格安旅行を売るために、ほとんど原価で販売を続けていたのだろう。そして、借金が次第に増えていった。借金が増えても、旅行代金は旅行の出発前に受け取れるので、そのお金で何とか会社をまわしていた。しかし、借金の額が増えすぎて、運転資金に事欠くようなり、そこからは、上に述べたように赤字を覚悟で旅行商品を乱売して、目先のお金を得ようとした。すると負債はさらに急激に増える。後半になればなるほど負債が異様に膨れ上がったのは、そのためだ。

 そして、その膨れ上がった負債は、銀行からの借金ではなく、旅行を楽しみにしていた人たちからむしり取ったものである。

 もしも、2016年9月の時点で倒産していれば、旅行者からの預かり金は70億円で、この会社の銀行預金は14億円だったから、10万円払った人は2万円くらいは戻ってきた。(企業倒産では、銀行や法人よりも一般人への返済が優先される)。

 もちろん、それでも十分ではないが、それから半年が経って、旅行者からの預かり金は100億円に膨れ上がったのに、この会社の預金は2億円。

 被害を受ける人のトータルの損害額は半年で1.5倍になり、そして返金は一銭もないという最悪の状態になった。

 航空券やホテルの仕入れ値は、旅行会社のあいだでそんなに大きな差はない。座席数や部屋数は限られているから、航空会社やホテル側は、旅行会社によってそんなに大きな差はつけない。旅行業というのは、製造業や製造物を売るサービス業と違って、スケールメリットのない産業なのだ。

 だから、旅行会社で格安商品を販売しているところは、どこかで、かなり無理をしている。

 とりわけ、ネット検索で最安値の会社が表示されるようになっているので、価格勝負の旅行会社は、採算度外視の料金をつけなければ、集客ができない状況だ。

 今この時点でも、赤字覚悟の料金設定で、旅行者からの前受金を借金の返済にあてながら、かろうじて生き延びている旅行会社があるはずだ。

 航空会社やホテルからの仕入れ値がさほど変わらないのであれば、他社よりも代金が高いにもかかわらず販売できて利益をあげることができるのは、”質に対して信頼されている旅行会社”だけだ。実績とか、口コミとか、旅行業では数少ない上場企業とか、有名企業というだけで安心して申し込む人もいるだろう。

 そして、利益の出ない商品を売り続けるために、異様に安い賃金で働かせたり、長時間労働をさせている旅行会社もある。賃金を安く抑えるために、社員が数年で退職していく方がいいと考えている旅行会社もある。格安旅行を売るだけなら経験は関係ないからだ。てるみくらぶが、50人も新卒を採用していたのは、そういう理由だろう。80人の社員の会社なのに50人の新卒社員。しかも、その80人の社員は、薄利多売で猛烈に忙しいし、旅行者への入金の催促も大変だ。いったいどうやって人材教育ができるのだ。悲しいことに、企業の経営状態を調べようともせず、好きな旅行に関われるという理由だけで旅行会社への就職を希望する人たちが多いから、旅行会社は、あまり採用に苦労しない。だから、平気で社員の使い捨てができる。

 てるみくらぶを退職した人たちの声を拾っていけば、今、新聞で書かれているような単純な理由ではない本当の理由が、いろいろとわかってくるだろう。でも旅行会社で働いている人は、経営のことなど興味がないという人が多いので、経理に携わっていた人でないと、本当のことはわからないかもしれないが。

 いずれにしろ、重要なポイントは、この会社の最悪のところは、旅行者から預かっているだけのお金を、会社のお金のように錯覚して使いきってしまったことだ。

 会社の自己資本と銀行からの借り入れ金が底をついたところで、ギブアップすべきなのだ。それがいつの時点だったかは知らない。その時点で、旅行者に返金手続きをしたうえで破産を申請していれば、負債は銀行とか関連会社だけですんだ。旅行者からの預かり金を会社の運営費にしてしまったことが、一般の企業の倒産とは違う、より深刻な事態を引き起こしてしまったのだ。

 「企業の倒産はよくあるものです。」などと分け知った顔で語る人は、その違いがわかっていない。

2017-03-28

第996回 脱中央集権的な社会という夢

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PHOTOGRAPH BY ROBERTA RIDOLFI  出典『WIRED』

ルイス・アイヴァン・クエンデ|LUIS IVÁN CUENDE

1995年、スペイン・アストゥリアス州オヴィエド生まれのシリアルアントレプレナー、エンジニア、ハッカー、クリプトアナキスト。


 この21歳の天才青年の考えていることが、とても興味深い。

 http://wired.jp/2017/03/26/portrait-of-a-crypto-anarchist/

 もしも、彼のように考える若者が増えてくるならば、人類の世界は、きっと新しいステージに入るだろう。

 ここ数十年、技術の発展は目覚ましいが、人類は、以前として古いステージにとどまっている。

 古いステージというのは、中央集権的な価値観に縛られたままだということ。

 中央集権的であるのは何も政治体制とは限らない。中心に信頼のお墨付きを置いて、そのお墨付きが物事を決定する判断基準となり、従って、人生もまたそのお墨付きに左右されてしまうということ。その結果、お墨付きは権威となり、権力やお金が集まる。

 華道や茶道の家元制度もそうだし、ポストモダニズムという反体制的な芸術運動も、結果的に同じ道を辿った。ビジネス界においてもそうだ。旧い体制やシステムに問題意識を持って闘いを挑んでいるうちに、評論家に認められたり、作品や商品やサービスがヒットしてしまうと、メディアなどで成功例として持ち上げられ、あちこちで引っ張りだこになり、体制の中でお金を稼げるようになり、自らが権威となる。かつて自分が問題意識を持っていた世界は何も変わらないし、成功した自分は、その問題のある世界を上手に利用するだけで、口先で、世を憂うポーズをとる。

 表現分野ですらそうだったので、最初から利益を目標とするようなビジネスの分野では、言わずもがなだった。

 IT技術を利用して稼ぎ、世の中を変えたなどと言われ成功者としてチヤホヤされる人の分野は、そのほとんどが、ゲームや、ファッションや、ショッピングや、情報まとめサイトのようなものばかりだった。大量生産、大量消費の世の中は、何も変わっていない。

 この21歳の天才は明確に言っている。

「テクノロジーの力で社会に自由をもたらそう、そして、人間を高めようという純粋な大望がドライヴとなって生まれたコミュニティは、とても残念な状況にさらされることになった。もはや、この業界をドライヴしているのは理想でも大義でもなく、金でしかないんだ。」

 若くして成功した彼は、「自分が開発したテクノロジーをマネタイズすることに、罪悪感を覚えるようになったんだ。それで、お金と自分の活動を切り離して考える癖がついてしまった」とまで言う。

 そして、「ブロックチェーンブームのなかで、自己中なヤツらがクイックマネーをがっぽり稼いで立ち去るのを横目に、ぼくたちハッカーは、静かに社会の脱中央集権化に励むだけだ」と覚悟を決めて、未来に向けた仕事に取り組んでいる。

 彼は、ブロックチェーンの可能性に夢を持っている。

 「権力というものから世界を自由にする発明」として。

 権力というのは、政治家や官僚のことだけではない。政府や官僚や大企業やメディアやアカデミズムも一体化したマーケティングであり意識や価値の操作だ。その操作は、中央集権的な特徴を持っている。情報を流している者は、自らを正当としたいから、自らを基軸にした情報を選んで流すことになる。そして、規模が大きかったり、人を集める力があったり、権威的な賞を受賞していると、その情報力、すなわち自己正当化のマーケティング力も強くなる。強い者がより強く、富める者がより富む理由は、ここにある。

 トマ・ピケティは、「21世紀の資本」という本で、膨大なページを割いて、”格差が広がっている事実と構造「資本収益率(r)>経済成長率(g)」を説明し、その解決策として、儲けている者から税金を多く取りなさい”ということしか書いてないのだが、そんな本をヨイショする中央集権的なメディアの力(そこに寄生する評論家も含む)によってベストセラーになり、ピケティも稼ぐことができた。彼は、稼いだ印税をどこかに寄付したのだろうか?

 この20歳の天才は、そういうことにも辟易していて、「誰かの受け入り」ではない「新しい信頼」を築き、脱中央集権的な社会を構築し、真実を取り戻すこと。つまり、世界を救うということに夢を賭けている。

 プログラミングの技術を身につけて、いいアイデアを見つけて起業して、ベンチャーとして注目されてお金儲けして有名になりたい、などというチンケな夢ではないのだ。

 果たして、ブロックチェーンのその先に、社会改革の夢は存在するのだろうか。

 ヒネくれた大人は、あれこれとネガティブな粗探しをする。

 もちろん、時間はかかるだろう。しかし、方向性が間違っていなければ、30年、50年、100年単位でみれば、必ず、世界は、脱中央集権型から自律分散型に移行できる。つまり、信頼の基準が権威的なものでなくなりさえすれば、富める者がさらに富み、力あるものがさらに力を持つということがなくなり、フラット化する。それだけでも、現在、一部の者に集中している富が、より多くの者に還流する。

 しかし、その前に、この天才が言っているように、我々一人ひとりの意識改革も必要だ。

「実のところ問題の根源は、むしろ人々にあるのかもしれない。ぼくら人間が、より理性的な存在である必要があるんだ。ブロックチェーンがもたらすかもしれない新しい世界は、ドグマに支配されることなく、ぼくたちの合理的、理性的な思考に立脚するべきだろう」

 「より理性的な存在である必要がある」というのは、自分の身体でしっかり感じ、自分の頭でしっかりと冷静に考えられるようになれということだろう。有名人、偉い人、成功者が言っているからとか、世の中そういう風に決まっているから、などという理由付けをしてはいけない。そんなの関係ない、自分の判断に責任と自覚を持てということ。

 この意識改革は簡単ではない。

 しかし、東芝だから大丈夫だろうとか、大手銀行にお金を預けておけば大丈夫、ということが、通用しなくなったり、政治家、学者、メディアというこれまでの権威機関の言うことが信じられないという傾向は少しずつ増大している。それは、彼らが以前より嘘つきになったということではなく、彼らの自己正当化が、これまでは権威の力で押し切れたのに、近頃はそうはいかなくなってきたということ。ブロックチェーンの前に、インターネットの力で、権威構造が揺さぶられているのだ。今後、人口知能やブロックチェーンが浸透していけば、さらにこの傾向は強くなっていく。そして、いつか、本当の意味で、脱中央集権的な社会が誕生するのかもしれない。

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2017-03-20

第995回 人間の尊厳とは 

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 映画「この世界の片隅に」(監督:片渕須直、原作:こうの史代)がとてもよかった。

 ごく普通のことを積み重ねていくことが、こんなに愛しく、そしてそれを失うことが、こんなにも哀しいのだと、胸にしみた。

 http://konosekai.jp/

 嫁入り前のすずが暮らしていた広島は、とても美しいふつうの世界だった。そして、彼女が嫁入り後に暮らし始めた呉という所は、東洋一と言われた軍港のある町で、異様な雰囲気が漂っていた。その異様さは、現代のモンスター都市にも通じるものだ。自分が行っていることに対して自信満々の人間たちが、ひたすら、より大きく、より高く、より強く、より速くを目指していて、その前向きなエネルギーこそが人類の進化であると信じきっている人間集団には、殺気が漲っている。

 戦艦大和も、原子爆弾も、何の疑問を持つこともなく大きさや強さを究極まで追い求めて努力する人間だからこそ、作り上げてしまう。

 原子力発電所だってきっと同じだ。強さや大きさの追求に対して意固地になっている人間は、どんなに状況が悪くなっていても後戻りをしない。

 太平洋戦争においても、アメリカ軍による激しい本土空襲が始まった時、なぜ白旗をあげることができなかったのか。

 アメリカと日本は遠く離れている。にもかかわらず、日本のすぐ近くの島々を完全に制圧しているアメリカ空軍は、毎日のように日本列島に無数の爆弾を落とす。日本軍がアメリカ本土に空襲を行うことなど、どう考えても不可能だ。戦艦大和を作ったところで、都市と同じように空襲を受けるだけだと、冷静に考えればわかること。

 日本列島への激しい空襲が始まった時に、潔く負けを認めて降参すべきだった。でもできなかった。

 そして、福島原発事故は、あの戦争の本土空襲の始まりと同じようなものだと思う。

 あとで振り返ると、なんであの時に止めることができなかったのか、ということになりはしないか。甚大な被害を受けているにもかかわらず、被害の規模を低く見積もって、”アンダーコントロール”などと言い、まだ勝算があるかのように主張して、原発を動かそうとする。そして、そういう政府の方針を支持する人たちの数が、相変わらず多い。

 ごく普通のことだと物足らず、何か立派なことでなければ生きている価値がないかのように錯覚をして威張っている人たちは、大事なことをわかっていない。愛しいものは、より大きく、より高く、より強く、より速くの反対のベクトルにあることを。

この世界の片隅に」という映画は、細かな事実を丁寧に積み重ね、細部を丁寧に描き、人と人の関係や、人の心の機微を丁寧に観察して表している。そうした丁寧な努力の結果、ごく普通の暮らしが、たとえ物や娯楽に不足していても、とても豊かに感じられるものになっている。

 だからこそ、爆撃機が爆音を轟かせながら上空を飛ぶだけで、かけがえのないものが一瞬にして壊されてしまう予感に、胸が押しつぶされそうになる。

 遠くに見える原爆のキノコ雲や、爆風によって遥か彼方まで吹き飛ばされてきた物の破片が、絶望的な気持ちにさせる。

 この映画は、太平洋戦争の時代の物語だが、戦争のシーンは最小限に抑えられていて、その分、観る側が、想像したり考えたりする余地を十分に残している。

 戦争の悲惨さを、これでもかと見せつけられると、人間というのは、もしかしたら、悲惨さに麻痺してしまう生き物かもしれない。たぶん、惨い光景というのは、人の心を育てず、どこかで他人事になってしまうからだろう。

 「この世界の片隅に」という映画にも、惨い場面はある。しかし、映画を見終わった後、心を満たすのは、凄惨さではなく、自分ごととしての愛しさや哀しみだ。

 その愛しさや哀しみは、きっと、多くの人の気づきの端緒となるかもしれない。

 経済という言葉が一人歩きしがちな世の中だが、経済の良し悪しは、人の営みを他人と比較して数字化したものにすぎない。

 それに対して、人の営みの実態は、愛や哀しみの織り込まれ方によって一人ひとり違っていて、他人と比較しようがない。

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