延原時行歌集「命輝く」(第2693回)(紅梅・白梅、ねことすずめ)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2693回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    3月9日

           思索実りの歌十二首

 一 夜更けまで歌添削をなすうちに悔悛の時深まりゆくや
   (備考:昨8日記す)
 二 まだまだや牡丹雪降る今日の日や籠城思索楽しむや我
 三 つぶさにやヨハネ神学取り上げて「世への愛」「独り子」「永生」三面を見る
   (備考:『ヨハネ』3・16、熟読参照:”①For God so loved the world ②that he gave his only Son, ③so that everyone who believes in him may not perish but may have eternal life.”
 四 もしもぞや「受肉論」のみ重視せよ「世への愛」はや無内容化ぞ
   (備考:「世への愛」のぞ実質なんぞ?今までの神学この問ひに解答出せず。「その独り子を与え給ふほど世を愛し給へり」の場合、「愛し給へり」の内実、受肉論強調のための言はば修飾語なり。ここに我、「世への愛」《原受肉》なりとの新説提起なすなり)
 五 ましてぞや「永生」如何なんとする考察不能手掛りもなし
 六 もしもぞや「原受肉」をば「一」とせば「三」や「一」のぞ「二」による回復
 七 かくてぞや新著結構なりしはや今日の思索の実りなりけり
   (備考:新著表題と結構以下の如し:

    御友神学三変貌の考察―−良寛ドストエフスキー
      ホワイトヘッド形而上学、わが短歌神学日記Ⅱ
 
   目次:
   はしがき
   序章  イエスの宗教と「インマヌエルの原受肉」の提言
   第二章 良寛最晩年の大変貌について
   第三章 ドストエフスキー罪と罰』における思想の機能
   第四章 神と自然の変貌――マリティン・ルターからカブ、
       滝沢、西田、ホワイトヘッド形而上学終結まで
   第五章 わが短歌神学日記II
   エピローグ
   あとがき)
 八 なににせよ「原受肉」のや含蓄や優しくもぞや感動的ぞ
 九 それありて御友「野の花空の鳥」見よとの御声出だし給へり
 十 我が栄見よと約束与へしや栄この世に原受肉せる故
 十一 それこそや「太初のロゴス」孕みたる真実なるや如何に尊き
 十二 誠にぞ「インマヌエルの原受肉」御友承けてぞ「友よ」と招く
   (備考:此処に三変貌あり:①インマヌエルの原受肉(『ヨハネ』1・1・第二項「神と共なる(pros ton theon)ロゴス」のこの世の中への冒険)、第一変貌);②原受肉に聴きつつ「友よ」と呼び掛ける御友の神学び、第二変貌;③原受肉底の底より御友共に我らを、一切の思ひ出持参しつつ、御父へと運び給ふ御国入り、第三究極変貌、なり。文学的かつ哲学的にや、三変貌、ドストエフスキーの「根底追尋モチーフ」、ホワイトヘッドの「ルターの悔悛(メタノイア)を神の固定的実在を、冒険によりて、世のリアルなる機縁と共に甦る《ともあれはれ》へと変転なす、形而上学的変貌モチーフ」、良寛の「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」と詠ふ「弥陀の還浄への甦りモチーフ」に具現なすなり。従来のキリスト教が、受肉論(ないしカール・バルトの言ふ「和解論」)にだけ救済を見出すとする狭隘を去り、三変貌の暁、「原受肉」の御友神学による反転回帰「御国入り」なる、大乗キリスト教の提唱に我や生きる者なり)





今年の梅の花はどこも盛りを過ぎていますが、毎年立派な梅の実をつける近所の梅の古木は、いまが盛りです。

昨日夜は、友人御夫妻が文庫本の出版を祝ってくださりお宅で御馳走と美酒をふるまっていただきました。何と夕刻6時から10時過ぎまで時を忘れて延々と話が弾みました。煌々と輝く半月を見上げながら、ぶらり帰宅・・・。

昨日はまた、今年秋に神戸で開催される賀川豊彦学会で「賀川豊彦と神戸―その足跡に学ぶ」というお話の依頼をお受けして、新しい宿題をもらいました。これからゆっくりと準備をさせていただきます。

本日の写真も、いつもの「ねことすずめ」です。

ねこは、今回「四匹の猫」がまるまっていました。なにせ寒い一日でしたから・・・