9月歌舞伎座・昼の部

kenboutei2006-09-02

初代吉右衛門生誕120年の秀山祭。当代吉右衛門幸四郎の兄弟が久しぶりに舞台で本格共演するとあって、かなりの期待をこめて、初日に馳せ参じる。したがって、もちろん『寺子屋』目当てだったのだが、終わってみると、『引窓』の良さに圧倒される結果となった。
『車引』松緑の梅王は、隈取りの顔が祖父に似てきたと感じたが、背中を見せた時の形が棒立ち。格子柄の厚綿もまだ「着せられている」といった印象。口跡は、あまり気にならなくなった。亀治郎の桜丸、染五郎の松王。
新鮮な組合せだが、それほど面白味はなかった。
『引窓』吉右衛門の南与兵衛、富十郎の濡髪、芝雀のお早、吉之丞のお幸。
今日の「引窓」を観て、これまで自分は、この芝居の何を観ていたのかと、深く反省した。
「引窓」が、お幸を中心とした家庭劇であることは、渡辺保の劇評などで理解はしていたが、実際自分が気にしていたのは、与兵衛や濡髪の形や台詞廻しであり、特に越路大夫の義太夫で聴く雰囲気にいかに近いかという観点でしか観ておらず、その背景にあるドラマのことなど、ほとんど気にもしていなかった。
ところが、今日の「引窓」を観ているうちに、ああ、渡辺保の言っていたことは、こういうことだったのかと、ハタと気がついた次第。
特に、与兵衛が出世して、お早とお幸と三人で、神棚に向かってお礼を言う場など、これまでは、そんな場があったことすら忘れていたのだが、ここに至るまでの三人の会話の暖かさが実感されていくにつれ、こういう場面が、強く印象に残るのであった。
更に、お幸が、継子・与兵衛に向かって、実子・濡髪の似顔絵を売ってくれと頼んだ時、吉右衛門の与兵衛は、しばらく思い込み、母と濡髪の関係に気がつく。そして、母に向かい、「何でいつもものを隠すのだ」と、訴えかける。「俺はあんたの子じゃないか」と。
与兵衛が先妻の子である故に、実子がいることを遠慮して言わない母親に対し(多分、濡髪の件だけでなく、普段からこの親子の関係は、そういう遠慮気味のところがあったのだろう。)、与兵衛は、悲しみと苛立ちと、そして、この継母への愛が綯い交ぜになって、「母者人、あなた何故に」となり、「私はあなたの子でござりまするぞ」となったのである。
その後の「鳥の粟を拾うように」からの台詞も含めて、これまでもさんざん聞いてきた台詞が、実感として自分の胸に突き刺さってきたのは、今日が初めてであり、ぐっと込み上げるものがあった。
続く、「両腰なれば・・・、丸腰なれば・・・」と武士から町人に変わる仕どころの面白さや、二階にいる濡髪に向かって「狐川を左へとり」という台詞の調子の良さについても、歌舞伎独特の味わいで楽しめていたものが、今日は、一つのドラマの流れとして、ごく自然に受け入れられたことに、我ながら驚きを感じている。
昨年の菊五郎の「引窓」が、極めて世話っぽく、つまらないと感じたのだが、多分、自分の見方がまだ浅かったのだろう。今見返すと違った感想になるだろうが、生の舞台はそういうわけにはいかないのが残念。(そこがまた舞台の面白さだが。)
それにしても、そこまでこのドラマに目を届かせた、吉右衛門をはじめとした役者のアンサンブルが、何より見事であった。
富十郎の濡髪は、まず花道で筵から顔を出した時の、その若々しさに驚嘆する。そして、小柄な体躯でありながら、力士として大きく見えるのが立派。(前幕の「車引」の松緑同様、厚綿を着ているが、こちらは、決して「着せられている」とは感じさせない。) 力士独特の台詞廻しを抑え気味にしていたのも、ドラマとしてのリアリティに繋がっていたように思う。
水鏡での吉右衛門富十郎の絵面の美しさも見事の一言。
芝雀のお早も雰囲気が合って良い。
そして何より、吉之丞のお幸。一番の当たり役。
富十郎に子供から「天王寺屋!」と声が掛かったのには驚いたが、可愛い声で、微笑ましかった。
自分が観た「引窓」の中でも、配役を含めて文句なくベストな芝居であった。
帰ってから、昭和59年歌舞伎座のビデオを観る。吉右衛門の与兵衛、富十郎の濡髪は今回と一緒だが、やはり、今日の舞台の方が一回りも二回りも芸の味わいがある。お早の宗十郎(!)、お幸の菊蔵。
BSの特集番組だったので、山川静夫と鷲見房子の対談もあったが、上で書いたような「引窓」のドラマについては、当然のように語られていた。
やっぱり自分は、何も観ていなかったのだなあ。
六歌仙雀右衛門の小町、歩くのも覚束ない。足下に纏いつく衣裳の裾を、自力で振り払うこともできなくなっていたのが、悲しい。
雀右衛門の場の後は、ほぼ熟睡。
寺子屋昼夜通じて、今月の最も注目される舞台。幸四郎の松王、吉右衛門の源蔵と聞いて、観たいと思わない歌舞伎ファンはいないだろう。
二人の「火花飛び散る」ような舞台を期待していたのだが、そこまで凄いものではなかった。どちらかというと、淡々と事が運んでいった。
松王が源蔵屋敷に入り、幸四郎吉右衛門が初めて目を合わせるところでは、期せずして拍手がきたが、観客席の熱さに比べて、舞台はそれほど熱くはなっていなかった様子。
といって、決して悪いものではなく、吉右衛門幸四郎それぞれ自分の持ち役をうまく演じていたと思う。
しかし、二人の共演によって何か化学反応が起こったわけでもなく、芝翫の千代を加えての大顔合わせであるにもかかわらず、まあ、いつもの「寺子屋」であった。
吉右衛門の源蔵は、思案しながら花道から出、思いついて足を早めるが、帰宅して寺子を見ると「いずれを見ても山家育ち」と嘆息。この嘆息がうまかった。
幸四郎の松王は、最初から病気を強調していたが、見た目も何だか弱々しかった。首実検の後、玄蕃をまだ前にして、すでに泣いているように見えるのはどうかと思う。
さすがに兄弟だけあって、舞台で一緒にいると、顔つきなどが似ているのがよくわかった。
段四郎の玄蕃、猿之助一座の頃と比べると、すっかり痩せてしまったが、逆に赤っ面に古風な感じが出ていて、これはこれで良いと思った。
誰もが手に入った役であり、全く破綻はないのだが、わくわくするような面白さがなかったのは、こちらの期待が強過ぎたためだけなのだろうか。
単に普段見られない配役を実現するだけでは、「引窓」における吉右衛門富十郎の関係のようには行かないということか。相性、というのもあるのだろうなあ。
まだ初日なので、日を重ねるうちに、更に良くなるような気もするが。(それを期待できる座組ではある。)
帰りのロビーで、松たか子を見かける。少し日焼けしていたが、青い着物姿が美しい。