撫順(抚顺Fushun)に行ってきました

先学期から、何度か行こうと思って果たせなかった「撫順行き」ですが、回先生が一緒に行くという形で実現しました。しかも、高職院の学生2人も同行しました。行きたかったのは、「平頂山惨案遺址記念館」と「撫順戦犯管理所」。そして、平頂山近くから見えるという「西露天鉱」。「一人で行かない方がいいですよ。」「一人は無理ですよ」と、さんざん言われて、結局そう言った本人がつきあってくれました。写真は快晴の撫順西露天鉱で・・・暑かった。

抚顺战犯管理所旧址Fushun zhanfan guanlisuo jiuzhi(撫順戦犯管理所旧跡)

鞍山から撫順までバスで3時間。瀋陽手前で高速を降りて一般道を走るので、近い割に時間がかかる。バスターミナルからはタクシーですぐ。僕が払うと言っても遠慮して、入らないで待ってるという学生を説得して中へ。入館料50元は学生にとっては信じられない高額、学食で1食5元で食べてるんですから。もともと、日本が抗日中国人を収監するために作った監獄です。新中国成立後、日本人捕虜を「戦犯」として「改造教育」する施設として使われ、溥儀も収監されていたことで有名。解説は、中国語・英語・日本語で次のように書かれています。「中華人民共和国成立後、中ソ両政府はソ連極東地区に抑留された日本人戦犯の一部を、中国へ引き渡すことを決定した。このために、周恩来総理が直接指導し、関係部門は迅速に接収の件について、計画準備した。1950年7月、中ソ双方の引き渡しを経て、日本人戦犯は東北戦犯管理所に収監され、戦犯たちは中国において改造教育を受け、再生の道を歩み始めた。」・・・網走の監獄博物館みたいに、人形が置いてあったり、当時の様子が再現されてます。網走と違うのは、建物を始め当時のものが保存されているということですね。そして、新しく展示室が作られていて、この施設の内容を詳しく知ることが出来ます。後半は、「中帰連」の方たちや「撫順の奇跡を語りつぐ会」についても展示されています。「中帰連」の方が寄贈した絵は、写真のようにたくさん展示されています。最後に溥儀についての展示室もあって、全体として、とても広く、監獄をちゃんと保存しながら、展示室をうまく組み合わせて整備したな、という感じです。年配の日本人がいたので話しかけたら、彼らは露天掘りを見ようと思って来たという旅行客で、ガイドにここに連れて来られたらしく、ここの歴史的な意味はあまりわかってないようでした。

平顶山惨案遗址纪念馆Pingdingshan can'anyizhi jinianguan(平頂山惨案遺址記念館)

平頂山は、撫順南駅から6番のバスに乗る、と調べておいてくれたのですが、駅までタクシーに乗るなら直接行ったらいいということに。11元でしたから、鞍山駅から師範学院までより近い。子どもの頃一度来たことがあるという回先生も、もっと遠いと思っていたらしい。(僕はそんなに遠くない思ってたんですが、確かにネットで検索すると、かなり遠いところに似た名前の施設があるようにも見える)。ここは無料施設ですが、さすがに入り口で公安が身分証明証の提示を求める。この国では、身分証明証は常時携帯ですよ。2007年にリニューアルしたという施設は、入るとすぐこのオブジェ。しばらく歩いて、美術館風の素敵な建物が資料展示室。その背後を上っていくと、発掘現場を保存するために建てた建物が谷あいにありました。頂上には祈念塔。きれいに整備された歩道には墓誌が立ち並び・・・。施設全体は、拍子抜けするくらい、公園のように美しく整備されてました。沖縄の平和祈念館(そのミニ版)をイメージしてもらえばいいかもしれません。もちろん、保存された発掘現場は、やはり迫ってくるものがあります。回先生が昔来た時はなかった、というガラスで覆われてはいますが・・・下の解説文そのままの姿で保存されてるんですから。日本語の解説文には、このように書かれています。「日本帝国主義の犯罪行為を明らかにして、後世の人々を戒めるために、1970年7月、撫順市は平頂山虐殺事件の遺跡を発掘し始めるようになった。長さ80メートル、幅5メートルの範囲から、遭難者の遺骨800以上およびその遺物を発掘しだした。これらの遺骨は縦横に重ねて、形態がそれぞれ異なっていた。そのうち老人、婦女、母に抱かれて乳児さえ、今に至って依然としてはっきり見える。それぞれの白骨の姿から人々は当時彼らが殺された無残さが想像出来る。遺跡の中に鉱夫が用いた通行許可証、食券、婦女が用いた夾み、指ぬきなどの日用品、それから焼けた月餅および首切り人が虐殺用の銃弾、薬莢、死体焼却用のドラム缶と木材を見つけた。たくさんの白骨、無数の遺物、これはみんな日本侵略軍が無辜な平民を虐殺した実証である。」・・・日本語が少しおかしいのは、ネイティブチェックしなかったからでしょうね。ちなみに、事件があったのは満州事変(柳条湖事件)から1年たった1932年9月16日。前日の15日は农历(旧暦)8月15日の中秋節。だから月餅があるんですね・・・。資料館の方も、例によって、ジオラマなどを駆使して、ホントによくできています。本多勝一朝日新聞連載記事の話も、写真入りで大きく展示されてました。本多勝一がここを訪れたのは、発掘間もない頃だったんですね。

西露天矿Xilutiankuang(西露天鉱)

地球の歩き方の06年版によると(今の版には記載がない)、近くから見えるはずなので、人に訊くと、少し歩けば見えるところがあるそうなので歩くことに。つまり、平頂山は、西露天鉱の畔にあるということ。暑い中15分くらい歩いて・・・見えました。スゴイです。さっきタクシーで通った道のすぐ脇が露天鉱だったんですね。もう、ほとんど枯渇しているという話ですが、底の方ではまだなにやら動いてました。写真の後方のビル群は瀋陽ですね。