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賀茂真淵

読書

賀茂真淵

かものまぶち

1697〜1769年(元禄10〜明和6)

江戸時代国学者遠江国伊場村で、賀茂神社禰宜岡部長右衛門の子として生まれる。号は県居。

太宰春台門の渡辺蒙庵に漢学を学んだ後、杉浦国頭の下で歌学を学ぶ。1733年(享保18)頃に江戸に上京し、荷田春満に入門。

真淵が学者としての名声を獲得する契機となったのは、『国歌八論』論争と呼ばれる、春満の甥荷田在満と、八代将軍徳川吉宗の次男である田安宗武との間で取り交わされた議論に、宗武の要求に呼応する形で参画したことである。この論争をきっかけにして、1746年(延享3)に田安家の和学御用として召し抱えられた。

宗武の援助を受け、真淵の研究は進展するようになり、『冠辞考』・『伊勢物語古意』・『源氏物語新釈』などの著書を著した。とりわけ『冠辞考』は、『万葉集』の枕詞=冠辞の音韻・名義などを考察したもので、本居宣長に深く影響を与えた書物として知られる。またこの書は、古代日本の言語を知ることにより、「古人の心ばへ」を深く考察する研究姿勢を真淵自身が体系付けたという意味でも、主著となるものである。

隠居前後する時期にかけて、『万葉考』などを著し、ますますその傾向を深めることになり、晩年には『文意』・『書意』・『語意』・『歌意』・『国意』などのいわゆる「五意考」が成立し、また初学者のために、「古学び」の研究姿勢を説いた『にひまなび』などが著された。これらの書物には、もう江戸期においては、喪失したはずの万葉時代の言語・風俗を「復原」しようとする意図が読み取れる。

そのためには、圧倒的な文化的影響力を有していた「中国」を排除する必要があったのであり、そこに儒学の対抗言説としての「万葉」という言説を立ち上げたことは、やはり強調すべきであろう。

また数多くの門人を育成したことでも有名である。門人には本居宣長の他に、加藤千蔭・村田春海・建部綾足・荒木田久老・加藤宇万伎・塙保己一などがいる。俗に彼らは真淵の号を取って「県居派」、あるいは「江戸派」と呼ばれる勢力を形成した。

「近代」に入ると、斎藤茂吉を代表としたアララギ派によって、賀茂真淵の思想は再評価されたことも付け加えておくべきだろう。