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徽宗

アート

徽宗

きそう

北宋の第八代皇帝。姓諱は趙佶(チョウキツ)。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝。金国に攻め滅ぼされ帝位を剥奪された時期には、天水郡王と称された。

元豊5年10月10日(西暦1082年11月2日)、第六代神宗皇帝の第十一子として平民出身の欽慈皇后陳氏との間に生まれる。陳氏の神宗に対する愛情は尋常でなく、1085年に神宗が崩御してまもなく、追いかけるように病死している。このとき、趙佶3歳であった。以後向皇太后を母として敬愛、向皇太后趙佶に並々ならぬ愛情を注いだ。1083年1歳で遂寧郡王に就き、王セン(言先)、趙令穣、呉元瑜、高俅らと親交、彼らから書画詞琴や蹴鞠、騎馬、狩猟を習い、特に書画では幼いうちから頭角を現す反面、彼らの影響で好色で放蕩な性格となる。趙佶の放蕩ぶりは即位時には宮中に広く知れ渡っていたようだ。1096年哲宗の命で端王に就任、1100年兄哲宗が若くして崩御した際哲宗に世継ぎが居なかったため、章惇ら旧法派の大反対を受けながらも向皇太后の強い推薦で趙佶即位、1125年金国に攻め入られた際に慌てて「己を罪する詔」を出して長男趙桓(欽宗)に譲位するまで、25年にわたり在位する。1126年、金は開封を陥落させ、徽宗は欽宗とともに金に連行され(靖康の変)、1135年、五国城(現在の黒龍江省依蘭県)で捕虜の身のまま54歳で病死。死後7年経って彼の遺体が南宋の都、臨安府(現在の浙江省杭州市)に帰ることを許され、同所に埋葬される。元号は以下の通り。

  • 建中靖国:1101年
  • 崇寧:1102年 ― 1106年
  • 大観:1107年 ― 1110年
  • 政和:1111年 ― 1118年
  • 重和:1118年 ― 1119年
  • 宣和:1119年 ― 1125年

治世当初は穏健な新法派で皇太后の信任が厚かった曾布が新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収めて漸進的な改革を進めた。だが、これに飽き足らない新法派の蔡京らの策動によって曾布は失脚して蔡京が政権を掌握するに至った。その後は主に蔡京ら新法派の高官に任せきりで、自らは書、画、詞、琴などの芸術的道楽に没頭、自らの創作活動のために民衆に重税をかけ、庭園造営のための大岩(花石綱)や植物、珍獣を遠く南方より運ばせたものを描き「宣和督覧冊」として纏めたり、道教を深く信仰するあまり、政和七年(1118年)に自らを道教上の最高天である神霄を統治していた神霄玉清王の生まれ変わりであると宣言し、神霄の教えは道教の中で無上の道であるとした。その翌年宣和元年には天寧万寿観という道観を神霄玉清万寿宮という名に改め碑を建てている。

反面、文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、「風流天子」と称された。特に画壇では工筆花鳥画に長じ、宋代最高の一人と賞される。尤も、工筆花鳥画は宋画を最高峰とする傾向にあるため、実質上、中国画史上最高の一人と賞されている。代表作には『桃鳩図』(日本国国宝 私人蔵/1107年 25歳)『瑞鶴図』(中国遼寧省博物館/1112年 30歳)『芙蓉錦鶏図』(中国北京故宮博物院/制作年不詳)『蝋梅山禽図』(台湾台北故宮博物院/制作年不詳)『五色鸚鵡図』(米ボストン美術館/制作年不詳)などがあるが、唯一『桃鳩図』を除いては真筆が確定していない。徽宗は蘇軾以降文人気質を重視し画中の詩性を求めた宮廷画の伝統に加え、初宋以来の正統であった徹底した写実性(ここでいう写実とは生活中の観察による描き手のモチーフに対する知識及び印象と、自然の摂理に基づいて主客観を融合させ表現した生動感のことで、西洋絵画解剖学物理学数学に基づき写真のように一瞬を捉え客観的に再現した躍動感とは異なる)を強く提唱、遠くで見ればその気勢は生動とし、近くで見れば匂いまで香ってくるような質感、長時間見ていても飽きさせない繊細さを持ちながら、高い文人性を兼ね備えた画風を完成させて宮廷画家に自ら指導、時に彼らを自分の代筆者として描かせた。中には徽宗そっくりに描ける画家もいたようだ。また、この画風は後世『宣和体』と称され、中国、日本を問わず大流行し数多くの模写、模倣作が描かれた。数多く作品が伝世しているにも関わらず『桃鳩図』しか真筆と確定されていない理由はここにある。

書方面でははじめ薛稷を学び、褚遂良や顔真卿の風格を吸収、米芾、黄庭堅などの大書家とも交友した。彼は絵画における審美感覚と描線技術を応用し、その線はダイヤモンドの様に硬く美しく、密な部分はより密に疎の部分はより疎にした、痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出する。その特徴を最も具えているのが『正書(真書/楷書)千字文』(上海博物館蔵/1104年 22歳)や『大観聖作之碑』(西安碑林第三室蔵/1108年 26歳)の初期のものであり、清楚で高貴な雰囲気を非常に強く持っている。『瑞鶴図』、『五色鸚鵡図』、『牡丹詩』(台北故宮博物院/制作年不詳)、『神霄玉清万寿宮碑』(海南ケイ(王京)山府 碑・中国海口市博物館 清拓本/1119年 37歳)などの中後期のものでは次第に竹の枝や蘭の葉のような、硬さの中にしなやかさを持った清雅な文人気質の書風に変わってゆく。そんな彼の作品の中で書として最も精彩を放つのが『草書千字文』(遼寧省博物館蔵/1122年 40歳)である。

また、収蔵家としても熱心で、全国の芸術品を収集し、その膨大なコレクションの数々は、宣和三年(1120)に中国最初の宮廷収蔵書画目録『宣和画譜』と『宣和書譜』として編集され、『宣和画譜』全20巻には、231名の画家の作品6,396点、『宣和書譜』全20巻には152名の書家の作品1252点を収録。青銅器その他の品は宣和五年(1123)に編まれた『宣和博古図』全30巻に記されている。


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