白鳥庫吉(しらとりくらきち)。1865-1942。千葉県生まれ。本名は倉吉。 東洋史学者。 東京大学文科大学史学校を卒業。東京帝国大学文科大学史学科教授。 朝鮮はもとより、アジアの広大な領域を対象にし、歴史学、民俗学、神話学、言語学、宗教学、考古学にまたがる業績を遺した。 東洋文庫の設立にも尽力し、東洋学の発展に多大なる寄与をなした。 全集は全10巻、岩波書店より刊行された。
文京区本駒込。 この付近一帯がまだ「本郷區」と呼ばれていた 明治から昭和にかけ、私の曾祖父一家は この街に暮らしていた。 旧本多岡崎藩士であれば暮らすことができた 本郷區森川壱番地(現;東京都文京区本郷)の 本多岡崎藩旧江戸藩邸を経て、古い時代の家族 が暮らしたのは、本郷区駒込神明町にある 静かな一軒家だった。 幕末、江戸幕府解体により失業、路頭に迷う幕臣 たちを救済しようと、徳川幕府への忠義を胸に立 ち上がった、旧幕臣や佐幕派の脱藩志士たち。 彼ら「旧幕府軍」の先頭に立ち、箱館・五稜郭までを 戦い抜いた、総裁・榎本武揚とその妻 多津が静かに眠る 「吉祥寺」のすぐ隣にその家はあった。 ▶︎ 曹…
前記事の内藤湖南氏と論争を繰り広げた「白鳥庫吉」氏の見解についても、改めて見てみました。見解が記載されている論文の抜粋を後方に添付します。 抜粋でも長く、突っ込みどころと思える箇所が複数あります(苦笑) その中で一番気になった記述を更に抽出。 <『魏志』に「次有奴國、此女王境界所盡」とある文面は、必しも之を女王國の極南にありと云ふ意に取るべからざるを、『後漢書』は實に之をかく思惟したるのみならず、この奴國はまた倭國即ち九州全島の極南界にありと誤解せり。其徴は同書倭國傳に 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。 ・・・故に范曄は『魏志』載する二ヶ處の奴國を一國と誤り、而も之…
佐賀県神埼市、吉野ヶ里町にまたがる吉野ヶ里遺跡(国指定特別史跡)で、弥生時代後期の有力者の墓の可能性がある石棺墓せっかんぼが見つかり、覆っていた4枚の石蓋を外して内部の調査が行われた。 残念ながら遺骨や埋葬品は出土しなかったが、佐賀県の山口祥義よしのり知事は「調査の結果、石棺墓は邪馬台国やまたいこくの時代の有力者の墓と裏付けられた」と発表した。調査の意義などについて、「朱しゅ」をキーワードに考察した。 読売新聞オンラインのコラム全文 読売新聞オンラインに読者登録すると全文読めます 「有力者の墓」決め手になった赤色顔料 『魏志』倭人伝が記す「朱」の記録 伊都国は朱の輸出拠点か 九州には50を超え…
人形シリーズ 南林間編 昨夜からトイレに起きるたび(三回くらい起きました)雨がしっかり降ってるのを確認して、はたして今朝は雨でした。ラジオ体操は動画、ストレッチして、朝食を摂って、雨が止むまでパソウコンをやってましたが、ホワウェイ百面相も大涼山も感想書けずじまい。写真の整理も三日くらい手付かずのまま。 午後は雨が上がったので、トマトの支柱をとりかえたり蔦をとったり雑草を抜いたりした後、振り込みなどに出かけました。先日あるお店で、貼紙の内容を聞くともなしに聞いたら、重い病気で入院したそのお店に関わりのある外国人の入院費用等がアレなのでカンパ募っているとのことで、その時は思考停止してましたが、日本…
「内藤湖南」氏と「白鳥庫吉」氏に関する解説例。 <邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、内藤湖南は畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた。「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称された> →この両大家について、内藤氏は前回と前々回の記事で、疑問点を挙げて検証しました。 白鳥氏の論考についても色々疑問点が有ります。 今回記事では、その中から一つを取り上げてみます。 ◆白鳥氏は「范曄が魏志倭人伝の離れた場所に有る二つの文章(以下のAとB)を一つにして、後漢書の文章(C)を作成した」という主張 →俗に言う「ニコイチ」を范曄がやったという主張です。 以下に…
前回記事に引き続き、「卑弥呼考」の検討です。 ✖⑥湖南氏の范曄に対する評価が後段になるほど酷い →「卑弥呼考」より引用 ”後漢書には、 建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。 安帝永初元年。倭國王帥升獻生口百六十人。願請見。 桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。に作れるが、隋書、通典は全く後漢書に據り、北史は桓靈間を靈帝光和中に作り、餘は後漢書に同じ、梁書は漢靈帝光和中に作ることは北史と同じく、歴年の下に無主二字なきことは三國志に同じ、宋本御覽は三國志を引きて住七八十年を靈帝光和中に作れり。因て思ふに魏略の原文は建武中元より願請見に至る…