袁渙は陳郡扶樂県の人である。郡の功曹を経て公府から召され、侍御史に移った。譙県令に任命されたが着任せず、豫州刺史の劉備には茂才に推挙された。後に江淮間に避難して袁術に仕えることになったが、いつも正論を吐いた。呂布が袁術を阜陵で破ると袁渙は呂布に捕らえられ、仕えることになった。呂布が劉備を誹謗する檄文を書かせようとしたときは拒絶した。呂布敗北後、曹操に仕えて沛南部都尉となり、屯田制について献言した。梁相に移り、病で官を去ったあと、諫議大夫に任命され、丞相軍祭酒となった。魏公国が建てられると郎中令,行御史大夫事となり死去した。子孫は東晋以降、南朝で栄えた。 袁渙は「袁煥」が正しいのではないかという…