『プリズナーズ』

羊たちの沈黙』を超える云々、『セブン』を超えた云々、日本の映画宣伝はミステリーの傑作を打ち出す際にそんな惹句をよく使う。
もちろんこの二本が映画界に与えた衝撃、影響を軽んじるつもりはない。今見ても全く色褪せることなく不穏な、不謹慎な輝きをはなつ映画なのは間違いない。
しかし、どちらももう20年近く前の作品なのだ。
それからミステリーというジャンルが停滞していたかと言えば全くそんなことはない。

クリント・イーストウッドは老獪な手腕で『チェンジリング』を撮っているし、自身のキャリアの停滞を打破してみせたロマン・ポランスキーの『ゴーストライター』、スウェーデンの新鋭トーマス・アルフレッドソンジョン・ル・カレの原作を見事に映像化した『裏切りのサーカス』。
韓国映画では、本作で世界中の映画ファンにその存在を知らしめたポン・ジュノの『殺人の追憶』があり、韓国血縁社会の淀んだ闇を描いた『黒く濁る村』があり、韓国残酷陰惨映画路線の極北『チェイサー』の記憶も新しい。
低予算映画で言えば、デヴィッド・ボウイの息子ダンカン・ジョーンズのデビュー作『月に囚われた男』もアイデアと工夫に満ちた快作だった。
そして『プリズナーズ』もまた、そうした作品群に勝るとも劣らない傑出した作品である。

プリズナーズ』は神への信仰を巡る物語である、とひとまずはそう言えるかもしれない。
数多のアメリカ映画がそうであるように、本作もキリスト教的な暗喩、象徴に溢れている。
祈祷文の引用で始まるオープニングからしてその気配は濃厚であるし、蛇(悪魔の化身の象徴)が邪悪なものとして描かれ、敬虔なキリスト教信者の主人公の名前がケラー(貯蔵庫、地下室といった意味)であることは、彼が聖書に記されている終末論を信奉し、いつ来るともわからない終末に備えていることを暗示しているのだし ー自宅の地下室にサバイバル用品や大量の食料を買い溜め、息子には「いつなにが起きてもいいように備えよ」と進言するのだから疑いようもない ー、主人公と対峙する刑事の名前はロキ(北欧神話における悪戯好きの神、端的に言えば異教の神)であり、極めつけは、「これは神に対する戦いだ。人の信仰心を失わせ、悪魔にさせるというね。」といった台詞まで出てくるのだから、キリスト教的解読の方向に傾くのも致し方ないのかもしれない。

しかし、そうした宗教的理解の枠に押し込めて本作を解説することは、表面上の物語の裏に隠されたメッセージを理解する上では役立つのかもしれないが、この種のアメリカ映画を語る際には繰り返される理論で食傷であるし、息苦しささえ感じる。
より突っ込んた物言いをするのならば、キリスト教的解釈 ー そしてそれが導き出す一つの正解 ー に埋没するあまり、表面上の物語で提示される問いを矮小化させてしまっているのではないか。
キリスト教世界の解読法を得々と語り、特定の宗教を信仰する人が少ない日本人には理解しえない、秘匿されたテーマが裏側に潜んでいるのだと喝破してみせる態度にはもううんざりなのだ。

主人公のドーヴァー(ヒュー・ジャックマン)は誘拐された娘を救出するためには手段を厭わない、どころか進んで悪事に手を染める。
娘を誘拐したと思しき容疑者を監禁し、拷問によって口を割らせようとするのだ。
「家族を守るため」というそれ自体は批判される余地などないはずの大義名分を掲げることで、自らの言動に自分勝手な根拠を与え、大手を振るって無茶苦茶な捜査を続けるドーヴァーには、そのあまりの剛直さにげんなりさせられもする。
それに対してロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)は、その風貌とは裏腹に、冷徹に事件の全貌を炙り出そうとする。

単純に思えたはずの事件だったのに、一つ一つ薄皮を剥いでいくと、真相に近付くどころか、闇が深まり、拡がり、ドス黒い悪意が姿を見せ始める。
真相を露わにするはずのピースはところどころに散逸し、一つが枠に収まったかと思うと、別のピースは零れ落ちてしまう。
幾重にも敷き詰められた伏線は、トリッキーなどんでん返しのために用意されたものではなく、それ自身が意味を持ち、物語を駆動させる要素として機能する、あるいは画面には映っているはずなのに、見えていないものとして存在している。

ヒュー・ジャックマンジェイク・ギレンホールポール・ダノメリッサ・レオヴィオラ・デイヴィスといった錚々たる演技派を纏めあげ、小説であればおそらくは凡庸ですらあるかもしれないアーロン・グジコウスキの脚本を緻密な演出によって見事に映像化してみせたドゥニ・ヴィルヌーブ監督の手腕には、最大級の賛辞が贈られるべきであろう。

しかし、本作でなにより素晴らしいのは、恐怖、不安、焦慮、不吉、緊張感といったミステリー/ホラー/サスペンス(この三つのジャンルはほとんど区分が不可能なぐらいお互いに滲みあい、どのジャンル一つを構成する上でも、他二つのジャンルの要素が必要であると個人的には思う。そして本作もまた、この三つのジャンルを縦横無尽に横断しているのだ。)を語る上で不可欠な種々の感情を、ほんの僅かな動きやピントの調整によって画面に定着させ、観客に想起させうる撮影監督ロジャー・ディーキンスの類稀な撮影技術とセンスである。

彼のカメラがジリジリと木の幹ににじり寄るだけで、画面には禍々しさが横溢するのだ。
彼のカメラがカラカラと動くおもちゃの車にピントを合わせるだけで、画面に不吉な匂いが充満するのだ。
彼のカメラがスーッと家をズームインするだけで、その後画面に起こりうる不穏な出来事を予期させるのだ。
なにを酔狂なことを、と思うかもしれないが、ロジャー・ディーキンスの画面は観客の感情を容易に操作してみせる。

少しだけロジャー・ディーキンスの話を。
彼は、『ノーカントリー』、『トゥルー・グリット』といった一連のコーエン兄弟の作品や、『レボリューショナリー・ロード』、『007/スカイフォール』といったサム・メンデス作品、フランク・ダラボンの『ショーシャンクの空に』、さらには、3DCGアニメの映像クオリティをワンランク上のものにした『ヒックとドラゴン』にも撮影アドバイザーとして関わっている。

現存する撮影監督として、既に評価を確実なものにしているロジャー・ディーキンスだが、アカデミー賞の受賞は一度もない。
本作『プリズナーズ』でも11度目のアカデミー賞撮影賞にノミネートされているが、今年は『ゼロ・グラビティ』のエマニュエル・ルベツキが受賞。『ゼロ・グラビティ』の圧倒的な超絶技巧に後塵を拝した。さすがに相手が悪過ぎて、同情もへったくれもない。

ロジャー・ディーキンスの撮影の凄みを知るには『007/スカイフォール』が最適だ。
スカイフォール』自体、007シリーズの一つの到達点ですらある ー それはたった一回限り許されるアクロバティックなものであるにせよ ー 優れた映画なのは間違いない。
元々舞台演出家で狂信的なまでにシンメトリックな画面構成に拘るサム・メンデス監督の意向ももちろん無視できない。
それでもなお、撮影がロジャー・ディーキンスでなければ、『スカイフォール』は作品自体が抱える危ういバランスを渡り切ることはできなかったのではないか。

スカイフォール』は物語が停滞に陥るまさにその瞬間に映像が輝きを放ち出し、映像が力を失うまさにその瞬間に物語が躍動感を持って駆動し始める。
物語と映像がお互いの限界をぶつけ合い、犇き合い、徐々に鋭さを増してゆく。
上海のシークエンスでは、透明度の高い青を基調として画面を据え、光を自在にに操ることでグラフィカルな格闘シーンを写し出す。二つの黒い影が織り成す活劇の荒唐無稽なカリカチュアぶりに心を鷲掴みにされる。
マカオのシークエンスでは、闇の中で妖しげに異彩を放つイルミネーションを捉え、007的なエロティシズムと暴力の世界を提示してみせる。
007の故郷スカイフォールのシークエンスでは、それまでの人工的な画面構成から一転、山に囲まれ荒涼とした湿地帯とそれを覆う曇天を静謐な移動撮影で捉え、際限の無い広さとそれゆえの逼迫感を感じさせる。
そして、これらの撮影に象徴されるもの全てが物語のラストに向けて収斂されてゆく。
ロジャー・ディーキンスが創り上げ、切り取った007の世界は、何度でもその世界に埋没し、陶酔してしまいたい気分にさせる、極上のドラッグ映像なのだ。

プリズナーズ』に戻ろう。
それまでいかなる要請にも動じず、絶えず緊張感を孕みながら静謐なタッチでこの世界に蠢く恐怖、狂気、禍々しさを捉え続けてきたロジャー・ディーキンスの撮影が、ゆくりなく躍動し出すのがラストのカーアクションである。
テールランプが揺れ、掠れ、霞み、煌き、蠢き、点が線になり、不意に線が途切れ、幻惑的な美しさに彩られた画面に、大粒の雨がーそれはほとんど雨弾とでも呼びたいほどのーが暴力的に叩きつけられ、この途方もなく無謀な救出劇を阻む。
ヒーローの誕生にはいつだって障害はつきものであり、それゆえこの場面は本作で最も象徴的な、寓話的な意味を帯びている。
そう、ここで観客は、今まで徹底してリアリスティックに積み上げられてきた物語が急に幻想世界へ、神話世界へと転化してゆく経路を辿っていくかのような感覚に陥るのだ。

同じような経験をつい最近したことがある。それはコーエン兄弟の『トゥルー・グリット』のラスト、主人公コグバーンが死に瀕する少女を救うために荒涼とした大地を駆け抜けるシーンだ。
このシーンも思わず溜息が零れ落ちるほど観客を魅了し、その神秘的な美しさに当惑すら誘う。
もちろんこのシーンも、ロジャー・ディーキンスによる仕事である、と並べ立てるのは蛇足以外のなにものでもないだろう。

プリズナーズ』の物語としての面白さはご覧になっていただければわかるので、内容に踏み込み過ぎることはしない。
ロジャー・ディーキンスという傑出した才能が創り出す「夜と雨」の世界を眺める、それだけでも至福の映画体験になることは断言しておきたい。