第4回 宮村武夫聖書神学教育―見えるものと見えないものー、本日は、その3回目

第4回 宮村武夫聖書神学教室―見えるものと見えないものー、本日は、その3回目

 現在、お茶の水のクリスチャンセンター内の東京プレヤーセンターで、4回目の聖書神学教室(4回シリーズ)を担当しています。今回の主題は、「見えるものと見えないもの」。本日は、その3回目です
 この視点は、聖書を読む上で非常に重要だと判断しています。見えない神が、見える天と地を創造なさった事実をどう受け止めるか、聖書全体を貫く課題です。
 見えないものは存在しないとする、極端な見方が一方にあります。同時に、見えるものに対し、否定的な考えもあります。その一つが、初代教会が直面したグノーシスグノーシスは、物質は悪との大前提があり、「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリント15:50)に基づくとして、からだは天国と無縁、創造信仰に根差す旧約と新約を切り離す、キリストの受肉も否定など、聖書の信仰の根底を否定します。
 このグノーシスの影響は、現代においても想像以上にあると理解します。そうした中で、聖書を読む際、「見えるものと見えないもの」の関係を大切にする必要があると受け止めます。
 例えば、出エジプト記前半では、前半20章の十戒では、見えざる神を見えるもので作ってはいけないことが定められている(偶像の禁止)。一方、後半では、礼拝の場所として、目に見える幕屋についての啓示が詳細に書かれている。目に見えない方を像としてはいけないという命令がある一方、綿密に目に見える幕屋の作り方が示されているのです。
 
 続くレビ記では、幕屋だけではなく、あらゆる目に見えるものについての記述が続き、23章以下では時についての重要な記述です。
まず6日働いて1日休む安息日についての記述。しかし1週間単位だけでは、時間の経過とともに循環的受け止められる可能性があります。そこで1年単位も。
 しかし1年単位も、最初は直線的に受け取られても、数年繰り返すうち「またイースターか」と循環的になる可能性。そこで7年周期。ついには(7×7)49年に1回のヨベルの年(レビ25:8以下)!

 時は見えるものか、見えないものか。時は見えない面を持っているが、カレンダーで見える形で表現できます。私が活用するカレンダー手帳は、週単位、月単位で確認できます。また1月〜12月まで一度に見ることのできる大型の一枚カレンダーを愛用しています。1年を見通すことができます、毎年まず初めに12月31日に焦点絞り、1年の最後の日にこの1年をどう見るかを想定しながら、日々を考え生きる習慣を持つようになりました。これは、聖書の終末論に基づくもので、最後から今を見るのです。最も確かな主イエスの再臨から、今を見るのです。
 さらに日めくりカレンダーや5年日記も、恵の道具です。こうしたカレンダを活用して、目に見えないものを、目に見えるもののごとく受けとめるこ都ができます。

 そうです、時だけではなく、音楽など芸術一般についても、見えるものなのか、見えないものなのか、簡単にどちらとは言えない面があります。何よりも言葉もそうです目に見える要素と、目に見えない側面があります。

★本日は、使徒の働き1:6−11に見る、「見えるイエスと見えないイエス」を切口に、主イエスご自身をより豊かに知り」、恵に応答したいのです、感謝。