神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)

皆さまと主日のミサをささげるのも最後となりました。今週は「神のいつくしみの主日」と名付けられた主日です。長崎教区で転勤の絡む教会は、ほとんど、今週がお別れの説教となっていることでしょう。

福音朗読は復活のイエスが弟子たちに現れる場面、特にトマスにあらためて現れる場面が選ばれます。今日の説教、わたしたちすべてが神のいつくしみを感じるための助けになればと思います。

エスがお亡くなりになった後、弟子たちは心を閉ざし、家の戸にも鍵を掛けて隠れるようにしていました。誰に従って生きていけばよいのか、何を頼りに生きていけばよいのか、全く分からなかったからです。

そこへ、復活したイエスが現れてくださいました。戸に鍵が掛けてあるのにおいでになったのですから、心理的・物理的、あらゆる形で自分を閉ざしていても、復活した主はおいで下さり、わたしたちを解放してくださることが分かります。

復活したイエスはすべてを閉ざしていた弟子たちに現れて、何を仰ったのでしょうか。いちばん印象的な言葉は、「あなたがたに平和があるように」(20・19)というものでした。この点に絞って、わたしの考えをまとめたいと思います。

復活した主がおいでになる前、弟子たちの心は不安でいっぱいだったでしょう。「不安」は「平安」がない状態です。どんな平安が奪い去られていたのでしょうか。まずは従っていく相手を失ったのです。エマオに向かう弟子たちは、次のようにイエスを言い表しました。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」(ルカ24・19)誇りを持って、胸を張って従っていく相手を失ったのです。

さらに、従っていく相手を失ったことで、何を頼りに生きていけばよいのか、全く分からなくなりました。かつて2人ずつ組になって町々に出かけ、宣教しましたが、今はそのことも思い付きません。「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)と願って教えていただいた「主の祈り」を唱えてみることも思い付きませんでした。何かの抜け殻のようになっていたのです。

そこへイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と仰いました。何もかも奪い取られ呆然としていた弟子たちに、復活したイエスが現れ、すべてを取り戻してくださったのです。弟子たちはこれまで通り従っていく相手を取り戻し、頼りにすべき道標を取り戻したのです。

エスは「あなたがたに平和があるように」と言いました。すなわち、不安のどん底に突き落とされていた弟子たちを、まずは引き上げてくださったのでした。細かいことを言う前に、根本的な部分に救いの手を差し伸べてくださったのです。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20・20)とあります。喜びが満ち始めれば、あとは問題ありません。必要な指示を与えさえすれば、弟子たちは本来の姿に立ち帰っていきます。

弟子たちの心が喜びに満たされたところで、イエスは指示を出します。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20・21)「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)弟子たちはもはや以前の抜け殻ではなく、よく準備された状態に変わっていたので、イエスの指示に耳を傾けることができたのです。

トマスは、イエスの最初の出現に立ち会うことができませんでした。それでも、トマスもその後のイエスの出現で「信じない者ではなく、信じる者に」(20・27)変わります。トマスの中にも喜びが満ちて、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答える人に変わっていたのです。

喜びが満ちあふれれば、人は、イエスの証し人として十分働けるようになります。イエスの復活後の弟子たちがそうでした。同じことは、わたしたちにも当てはまります。わたしたちの心が平安であり、喜びが満ちあふれているなら、イエスの証し人として働くことができるのです。

問題は、どのようにしてわたしたちが平安を得て、喜びに満ちた人に変わるかということです。答えは身近にあります。ふだんの生活で、当たり前のように実行していることです。「どこに、何があるかを知っていること。」これは信仰生活にも当てはまります。

わたしたちが信仰者として必要なものが、どこにあるかを知っているなら、当然そこへ行くことで平安を得て、喜びが満ちあふれるはずです。信仰者に必要なものは、どこへ行けば手に入るのでしょうか。疑いもなく、教会へ行くということです。

教会は司祭の手を通して皆さんを招き、集会祭儀を開き、秘跡を授け、恵みを与えます。その最初の合図は教会の鐘だと思います。高井旅教会は教会の鐘を鳴らしませんが、心の中では教会の鐘の音が聞こえると思います。教会の鐘は始まりを知らせ、信仰者を集めるのです。

そこで、皆さんへの置きみやげに、歌を歌って最後の説教としたいと思います。「あの鐘を鳴らすのはあなた和田アキ子さんの代表曲です。作詞した阿久悠さんが教会の鐘を思いながら作詞したかは分かりませんが、信仰者を呼び集め、秘跡を執行して恵みを授ける、そのしるしとなる教会の鐘を鳴らす人が必要で、鳴らすのはあなたということです。

実際に鐘を鳴らしているのはシスターや信徒ですが、心の中で鐘を鳴らすのは皆さんお一人お一人です。主任司祭を通してイエスさまがあなたを教会に呼んでいますよ、あの鐘に応えるのはあなたですよ。そういう気持ちを込めて歌いたいと思います。

あの鐘を鳴らすのはあなた
作詞 阿久 悠
作曲 森田公一

まもなく、新しい主任司祭がやってきます。次の主任司祭も、皆さんを祭儀に招き、秘跡を執行し、恵みを届けます。わたしも、新しい教会の鐘を鳴らすために、旅立ちます。

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ちょっとひとやすみ
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▼ようやくこの文章を書く時が来た。今回の転勤で、陸続きのところに異動となった。これまで「大島→伊王島五島列島」だったので、「瀬戸の花嫁」を歌ってお別れしていた。「島から島へと 渡って行くのよ」という歌詞が、うまくはまるからだ。今回はそうはいかない。何か、適当な歌が見つかるだろうか。
▼こだわりがあるわけではないが、歌うとやはり雰囲気を作ってくれる。いい歌があればいいが、なければ卒業の「蛍の光」ということになるのだろうか。今回もフェリーでのお別れになる。フェリーの別れは辛いものだ。長く姿が見えているし、それだけ別れもひとしおだから。
▼たった一つ気がかりと言えば、インターネットプロバイダーのこと。これまでは新上五島町が委託して民間のインターネットプロバイダーが利用できないへき地対策で立ち上げられた「つばきネット」を利用していたが、どうやら新しい土地には「フレッツ光」に当たるサービスは届いていないらしい。わたしは高速通信を利用したいが、これから数年のうちに環境が改善されるのだろうか。
▼あまり気分が乗らない中で原稿をまとめている。この原稿は3月いっぱいで準備されたものだ。本来ならば、4月に入ってからの気分で書きたいところだ。これが五島での最後の「ちょっとひとやすみ」だというのに、
▼木は、その成長に応じて植え替えたりする。わたしはもうすぐ神の手によって植え替えられ、新しい土地に根を下ろす。新しい土地の養分をいただいて、新しい芽を出し、皆に利用してもらうことになる。木の周りに集まる人々にとって、わたしの存在はそんなにたいしたことではない。大切なのは「キリストという木に繋がている枝かどうか」ということだ。
▼こだわりがあるとすればこうだ。「日曜日のミサ説教が、キリストという木に繋がった枝としてキリストの養分を人々に届けているかどうか。」ただ一つのこだわり。ここがわたしの存在意義であり、新しい土地でもそのことを決して忘れずに精進しよう。

【希望の聖母に今日を託す祈り】
(浜串教会の岬に立つ)希望の聖母よ、
わたしたちの一日の始まりに
そばにいて、見守ってください。
天候に左右され、危険と向き合う漁に出ます。
厳しい競争が待っている学校や職場に出ます。
肩を落としそうになるとき、励ましてください。
わたしたちの願いを、いつも取り次いでください。
あなたがわたしたちの願いをイエスに取り次ぎ、
エスが必ず願いに応えてくださいます。
いつも、わたしたちの希望でいてください。
道に迷うとき、確かな道イエスを指し示してください。
そしてすべての務めを終え、眠りに就くとき、
明日も見守ってくださる母でいてください。アーメン。

† 神に感謝 †