2ペンスの希望

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まっちゃん

何十年ぶりかに見直して、失望する映画もあれば、あらためて舌を巻く映画もある。
木下惠介監督『二十四の瞳』(1954)は後者だ。世評名高い名作ゆえ「何を今更」と言われそうだが、若い頃はその真っ当なヒューマニズムが面映くて敬遠していた。昨秋見直して隅々まで行き届いた達成に心底脱帽した。畏るべしチーム木下。「なんにもしていないように見せてじつはたいへんうまい。」(長部日出雄
今日はその証左のような映像を挙げてみる。

このシーンについて、長部日出雄さんが書いた文章がある。【『天才監督木下惠介』2005年10月新潮社刊】長いが「映画の表現がどんな奥行きで作られているのか」が良く語られていると思うので引いてみる。【第九章 P321〜P323】映像を見た上で読んでみて欲しい。
川本松江の特徴は、目の大きさのほかに、しっぽの長いお下げ髪で、額にかけた前髪を、きれいに切り揃えていることだ。
もともと貧しかったうえに、母親と生まれたばかりの赤ん坊が、相次いで世を去ったため、小学校を卒業するまえに(おそらく父親に売り飛ばされたかたちで口入れ屋に)大阪に連れて行かれた‥‥と聞かされていた松江と、大石先生は修学旅行先の高松で、偶然に遭遇する。
気分が悪くなったので、同僚のおなご先生と、熱いうどんでも食べたら回復するのではないかと、適当な店を探すうち、聞き覚えのある声に惹かれて入った大衆食堂にいたのが松江であった。
その姿を一目見た瞬間、大石先生が感じたであろうショックを、観客はわがことのように感ずることができる。
松江は、桃割れの前髪を額に垂らして切り揃え、派手な髪飾りをし、矢絣(やがすり)の大きな柄の着物に(白黒=モノクロだから何色かはわからないが、たぶん)派手な色の襷(たすき)をかけ、派手な前掛けをして立っている。
少女なのにいかにも水商売風の恰好で、どこか印刷がずれた絵でもみるような、居心地の悪さを感じさせる印象だ。    ‥‥中略‥‥
ここで松江と大石先生のあいだに割って入る店の女主人に扮して、浪花千栄子が例によって絶妙の演技を見せる。わずか二言、三言の台詞を口にする間に、したたかで油断できないやり手の印象を観る者に鮮明にあたえて、松江がおかれている境遇が、どのようなものであるかを、雄弁に示唆するのだ。
このシーンには、『七つの子』のメロディーが低くゆっくりと流れて、小学校の頃と現在の松江の違いを、対位法的に浮かび上がらせる効果を挙げている。
大石先生が、内心に押し隠していた悲しみと怒りは、松江に別れを告げたあと、こちらに背を向けて店を出て行くときの‥‥縄のれんの弾(はじ)き方に現われる。高峰秀子はこういう細かなところでも、本当にうまい。
松江はたまらず後を追いかけるが、大石先生がかつての級友と一緒になっている姿を見て、あわてて物陰に身を隠す。(ここからバックに流れていた『七つの子』のメロディーは。「からす なぜ啼くの からすは山に‥‥」と少女の合唱に変わる)
前髪の下の大きな目から、涙をこぼす松江のアップ――。
そのあとに、惠介の伝家の宝刀が抜かれて、移動撮影の至芸を示すシーンがある。
最初は、海岸の道に立ち、大石先生と級友たちを乗せた船を見送ろうとしている松江の後ろ姿の全身を、キャメラはフィックスで写す。(松江が静止しているから、観客の視線は、自然に画面の左側から出てきて右へ進む船の動きに向けられる)
ほんの少しの間をおいて、松江は右に歩きだし、それにつれてキャメラも移動をはじめ、松江が泣きながら歩く目の前の姿と、遠くの海に浮かぶ船の動きが、しばしの間ぴたりとシンクロして進む。
松江が立ち止まると、キャメラも移動をやめ、ふたたびフィックスになるので、観客は画面の右へ消えて行く船影と、崩れ落ちんばかりに嗚咽(おえつ)する松江を、交互に見ることになる。
ここで松江と一緒に泣かずにいられる観客は、よほど強靭(きょうじん)な神経の持主といわなければならないであろう。
タイミングを取るのが、さぞ難しかったに違いないこのシーンの撮影は、楠田浩之
(引用者註:撮影技師。そのキャリアのほとんどが木下惠介作品)の話によれば、本番一発OKで済んだという。
むろん簡単にはやり直しがきかない撮影でもあるわけだが、船の時刻表に合わせて時間が設定され、波止場にも助監督がいて、現場の助監督と電話で連絡を取り合い、出帆が確認されたところで、本番が開始され、一発でOKになったのだそうだ。
惠介の演出も見事だが、木下組のスタッフが、いかに監督の意図をよく理解して、一糸乱れぬ行動を取ったかを物語る挿話ともいえよう。

文章にすればこれだけの量になる。それを5分足らずで見せるのが映画だ。