山口正介「山口瞳の行きつけの店」(ランダムハウス講談社 asin:4270002026)

図書館本、読了。
奥さんの治子さんの「瞳さんと」(http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20070628#p3)と、ほぼ同時に発売された、「ヒトミ先生本」。息子さんの正介さんが、山口瞳の「行きつけの店」について、書いた本だ。


元は、「日刊ゲンダイ」の連載で、1回1000文字。だから、連載では、その店の紹介程度の内容だったという。
それを本にするにあたって、分量を10倍以上に膨れ上がらせたという。そのため、山口瞳や、山口家に関する、一族ならではの知られざるエピソードが、たくさん盛り込まれた。


というか、私は、「山口瞳の行きつけの店」自身にはあまり興味がない・・。MIXIの「山口瞳コミュ」など覗いてみると、「行きつけの店」に行っただ、どうだと、皆さん、浮かれてらっしゃるが。
ヒトミ先生の本をちゃんと読めば、「自分自身の行きつけの店は、自分の目で自分で探しなさい」という気持ちになる筈なのだ・・。
まあ、私はこの2年の(自分と妻の)病気で、食べ物屋などにコダワルなんて、贅沢だね〜と、思っている。
それなりに美味しく、おなかが満たせれば、食べ物屋なんて、それでいいんです。


あえて贅沢をいえば、空いていて静かな店がいい。
でも、「美味しくて、空いている店」なんてものは滅多にないものだ。あっても、そりゃ、すぐに潰れます。
そうすると、結局、「うちで食べるのが、一番静かで、落ち着くね」という心境になる。美味しい物を食べたければ、出前を取ればいい。


なので、この本で興味深かったのは、お店のことよりも、単行本化により付け加えられた「山口家のDNAの秘密」の方なのだった。山口正介によると、「山口瞳を含む、山口家の教養は、落語と歌舞伎で出来ている」ということらしい。


驚かされたエピソードをあげてみると・・。

  • 山口瞳の母・静子は北大路魯山人と親交があった。それは、静子が突然、魯山人の鎌倉の窯を訪ねて言って、気に入られたらしい。
  • (これは、知っている人は知っている話らしいが)魯山人の陶器は低温で焼いており、そのため「味」が出ている。そのかわり非常に割れやすい。実用品としては失格で、当時、魯山人は業界では鼻つまみ者となった。
  • 山口家に大量にあった魯山人の陶器は、治子がほとんど割ってしまった。
  • 山口正介が若き演劇人時代、六本木の「自由劇場」で1週間、自分のセレクションで色々な公演をした。その中には、「ムーンライダーズ」が観客の前で初めて演奏したデビュー・コンサートも含まれていた。
  • 山口瞳の妹二人は、花柳流の家元に日舞を習っていた。妹のほうの、山口栄は、戦後すぐの「吾妻歌舞伎」という欧米向け文化使節団の一員であった。その中には、俳優になる前の、若き若山富三郎勝新太郎も、含まれていた。
  • その縁で、二人の父・杵屋勝東治と、若山、勝兄弟も、山口家にしきりに出入りしていた。
  • ジェリー伊藤も、上記「吾妻歌舞伎」のメンバーで、のちに山口栄と結婚した。
  • 山口家が鎌倉に持っていた別荘の隣に住んでいたのは、川端康成であった。
  • 山口瞳は、一度思い込んだら、変えることができない不器用な面があった。伊丹十三は、川喜多和子と離婚したあと、宮本信子と結婚したが。ヒトミ先生は、宮本信子に向かって「和子さん」と呼びかけていた。大変、失礼だ。
  • 映画評論家として、山口正介が007シリーズをこう評したことがある。「最高の贅沢を知っている趣味のいい男が、それゆえに巨万の富が必要となり犯罪を犯す。それを女癖が悪く、気障で洋服のセンスも飲み物のセンスも大したことがない小役人である、ジェームズ・ボンドに邪魔される話だ」と。山口瞳は、この評はいい、と賛同した。
  • 1994年、山口親子と古今亭志ん朝師匠が一緒に、湯布院の「山口瞳の行きつけの宿」を訪ねるTV番組が制作された。夕食中の会話で、志ん朝師匠は盛んに正介に話を振ってくれた。だが、放送された番組では正介との会話はすべてカットされていた。
  • 居酒屋兆次」のモデルであった店、国立の「文蔵」は平成18年、閉店となった。


ところで、「店には興味ない」と書いたが、一軒だけ、面白い店があった。
それは金沢の「倫敦屋」(http://www.londonya-bar.com/)という、山口瞳ファンが作ったバー。東京の山口瞳の行きつけのバー3軒を組み合わせたような内装になっている。おまけに、書架には、山口瞳本がパーフェクトで並んでいたという。
山口瞳はこの店に入って、さすがに、気持ちが悪くなったという。