デイヴィッド・ハーン

http://en.wikipedia.org/wiki/David_Hahn
よりいい加減翻訳。一時間くらい。

こわー。

デイヴィッド・ハーン(1976年10月生)はデトロイト郊外のミシガン州コマース郡区にある自宅の裏庭で、核増殖炉の製作を1994年に試みた。彼は当時17歳であった。

放射能ボーイスカウト」とその後呼ばれるようになるハーンは、実際イーグルスカウトであり、ボーイスカウト組織から原子力技能章を授与されたこともある。彼はまた地下室で化学実験もどきを行い、小規模ながら爆発を起こすこともしばしばあった。ハーンは実験を進め、こつこつと放射性物質を集積していった。たとえば火災報知機からアメリシウム、ランタンの覆いからトリウム、時計や銃の照準からラジウム、バッテリーからリチウムを集めるなど、微量ずつ、時には盗むことで蓄積していったのだった。かれの反応炉は巨大で、鉛のブロックをくりぬいて造られたものであった。

彼は正式の科学者や教師を装い専門家に手紙を送った。彼の手紙にはスペルミスや明らかな間違いが見られたが、専門家は彼を信頼していったのだった。ハーンは最終的には増殖炉を作成したいと考えていた。低レベルの同位体を用い、トリウムやウランのサンプルを核分裂同位体へと変成させたいと考えていた。

彼の自家製反応炉は結局一回も臨界に到達しなかったが、有毒レベルの放射能を排出するには十分であった。これは通常のおよそ1000倍のレベルに達するものであった。危険を感じ彼は自分の実験を廃棄しようとしたが、偶然警察に遭遇したことから彼のやっていたことが明らかになり、その結果FBIと原子力規制委員会を巻き込み連邦放射能非常事態を引き起こした。環境保護局はハーンの母親の所有地をスーパーファンド法に基づく危険物質処理場に指定し、倉庫および倉庫内物品を解体、低レベル放射性廃棄物としてユタ州に埋設処理した。ハーンは放射能汚染による健康被害の診断を拒否した。

ハーンは地元での屈辱に苦しんだが、イーグルスカウトの地位を持ってもいた。コミュニティカレッジを退学後ハーンは海軍に入隊し、通常の水兵として原子力空母USSエンタープライズ配属された。彼は原子力の専門家としての職を求めたいと考えていたが、反応炉へ近づくことも許されなかった。EPAの科学者はハーンはトリウムの生涯被曝量を超えているかもしれないと考えているが、彼はシカゴ近郊の原子力研究施設であるファーミラボで検査すべきだという勧告を受け入れなかった。その後ハーンは海兵隊に再入隊している。
この事件は当時メディアの関心をほとんど集めなかったが、ケン・シルバースタインが1998年に Harper's Magazine 誌でこの事件に関する記事を発表し、さらに2004年にハーンの伝記を出版したことから広く知られるようになった。

2003年にはイギリス、チャンネル4でテレビドキュメンタリー「The Nuclear Boyscout」が放映された。その中でハーンは彼が行ったことを再現してみせた。この番組はディスカバリーチャンネルアメリカでも放映の予定があったが、現在も実際には放映されていない。