藤野豊「旧『南洋群島』のハンセン病政策ー隔離と虐殺の論理と構造ー」(思想、2008年8月号)

一部科哲界隈で大人気の表題論文を読んでみました。


話の始まりは1920年、第一次世界大戦に参戦した日本は、パリ平和会議の決定に基づき旧ドイツ領であった赤道以北の「南洋群島」(マリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島)を委任統治することになります。


当時の国際連盟規約では

今次の戦争の結果として、従前、植民地及び領土として、支配した国の統治を離れた地域であって、現代世界の厳しい生存競争状態の下に、まだ自立する事のできない人民の居住する地域に対しては、その人民の福祉及び発達を図ることは、文明の神聖な信託

であるとされ、主権国家システムの構成主体は「文明国」であらねばならないという当時の国際社会の趨勢が色濃く反映されたものとなっています。果たして日本の「南洋群島」統治は「文明の神聖な信託」に応えたものだったのか?筆者は委任統治領下におけるハンセン病に関連した医療・福祉政策の実態を分析する事を通じて、その問いに答えていきます。


南洋群島」における医療・福祉政策について、筆者は文明国の「義務」としての医療・福祉の向上は対外的な文明国アピールの為にも必要不可欠なものであったとします。「成果として公表された政策」と「実際になされた政策」を峻別する必要性が提起された上で、ハンセン病患者への隔離政策の分析を通して、「自立できない『無知』で『怠惰』な住民」に対して成立したのは「強制による医療・福祉」であり最終的には虐殺さえ行ったと結論づけます。統治開始直前の外務省・海軍(外務省は重光葵、海軍は末次信正が調査報告を担当)による認識では、統治にあたって医療の果たす役割が重要視されていたことを踏まえ、今泉(2001)*1の「現地住民に日本の統治を受け入れさせる手段として、医療・衛生への取り組みがあった」という指摘を筆者も踏襲しています。


本論のメインテーマであるハンセン病については、1920年代以降の日本人移民の急増を背景として南洋庁による隔離政策が着手・推進されるようになります。これら移民への感染防止に加えて南洋庁にとって喫緊の課題であったのが、国際連盟常設委任統治委員会(以下、委員会)による「南洋群島」における現地住民の人口減少の指摘でした。日本人移民の急増が現地住民を圧迫しているのではないかとの疑念が生じたのです。統治する側としての責任を回避するために南洋庁が持ち出したのが「現地住民の劣悪な健康状態」*2でした。ハンセン病により「二次的ニ生殖器発育不全ヲ来シ姙孕率逓減スルコト」と考えられたため、ハンセン病患者の隔離を必要とする論理が成立したのです。また、ハンセン病療養所を整備する事で、委員会に対し「善政」を布いている事をアピールする必要にもかられていました。しかしそのようにして設置された療養所の実態は無惨なものであり、医師の常駐も行われず、医薬品を支給し患者自らに治療させるという「放置」にほかなりませんでした。


1941年、米英との開戦を転機として状況はさらに悪化します。戦場と化した「南洋群島」においては医療もまた軍の管理下に置かれました。各種証言や聞き取り調査によれば、パラオやヤップで散発的に発生していた脱走患者の中には憲兵により射殺された者も出ていたのに加えて、米軍来襲とそれに呼応した利敵行為を恐れて組織的に被収容者の虐殺を行ったケースもありました。このような虐殺は、米軍への利敵行為を恐れた日本軍による(ハンセン病患者にとどまらない)現地住民の虐殺の一環であったと筆者は指摘します。さらに、1943年のナウル島におけるハンセン病患者約40名の虐殺は必ずしも患者の逃走や米軍への利敵行為の恐れを踏まえて行われたものではありませんでした。筆者はそこから、「日本が国の内外で進めたハンセン病患者への絶対隔離政策の目的が、病気の治療ではなく患者の撲滅であった事を考えれば、虐殺は究極の隔離の帰結であった」とし、「パラオやヤップにおける患者虐殺も一連の住民虐殺の一環としてだけではなく、究極の隔離の帰結としても理解しなければならない」と結んでいます。


戦争とハンセン病 (歴史文化ライブラリー)

戦争とハンセン病 (歴史文化ライブラリー)

*1:今泉裕美子「南洋群島委任統治における「島民ノ福祉」(『日本植民地研究』一三号、2001年6月、三九頁)

*2:植民地政策学者であり後の東大総長、そして戦後は東大駒場の国際関係学の先駆けともなった矢内原忠雄もまた「(ヤップ島の)人口衰退阻止の為めに必要なるは悪習の改善、貧困の救済、悪疫の除去にある」と結論づけています