アーキテクチャと思考の場所」(浅田彰磯崎新宇野常寛濱野智史宮台真司東浩紀)@東京工業大学
http://www.cswc.jp/lecture/lecture.php?id=60


いかにもなブログネタってかんじで恐縮だけど、行ってきました。無料とはいえ、とにかく観客が多い。600人の観客席に立ち見+中継会場まであったので大盛況でしょう。個人的には、東浩紀さんと浅田彰さんが同席して話しているのを見たのははじめて、まあいわばこの十年のふたりのすれ違いを決定づけたともいえる1999年の批評空間企画の問題のシンポジウム「いま批評の場所はどこにあるのか」なんかにも冒頭で東さんが言及されて、二人のやり取りへの期待が高まる。あとはどうでしょう、これまた冒頭に言及されてましたし誰が見ても明らかですが、東、宇野、濱野vs.浅田、磯崎、宮台の世代間対立も強調されていました。といっても、浅田さんはだれよりも的確に濱野さんの意見をまとめて話を広げたりしていたので、単純な対立構造にはなっていませんでした。


以下、気になったところ、覚えている範囲でのメモ書きを。


濱野さんのプレゼンで、これまでのウェブのアーキテクチャの議論に加え、コールハースによるマンハッタンのグリッドが言及されました。あらかじめグリッドで区画が分けられているためビルが高層化していく、そういった不可視のインフラ構造を含めてアーキテクチャと考えてみましょう、と。混沌とした高層ビルの乱立や、フロアごとに分けられた人々の立ち振る舞いがつくりだすシュルレアリスティックな光景の基底にグリッド上のマトリクスがある、というコールハースの議論との接続には妥当性があるように思えました(思想地図の論文でのフーコーの議論への接続など、濱野さんのこの辺りの手際には感心します)。


濱野さん、宇野さんプレゼンを受けたあと、浅田さんは、「メディアは(が)メッセージだ」といったマクルーハンによるグローバル・ヴィレッジのヴィジョンが実際にはローカル・ヴィレッジズとなったことに重要性を認めつつも、75年くらいから大きな議論のパラダイムは変わってないんじゃないか,と指摘。これをうけて磯崎新さんは(濱野さんが参照例としてあげた)、アレグザンダーのパタンランゲージは理論的にはともかく、都市設計の現場では役に立たなかったとする。むしろ建築家に必要なのは生成していく状況なりプランなりをその都度切断して、具体物として立ち上げることこそがその仕事なのだ、と。この切断の契機とアーキテクチャとの関係を議論してほしい,とします。


対して、東さんは、ネット上でのアーキテクチャには物理的な制約が必要とされない場合が多い、と。デリダの議論では、コミュニケーションはどこまででも可能だが、切断されるのはインクや紙がきれたりといった物理的条件によるのに対して、ネット上のコミュニケーションにはこういった制約がないのだ、と。さらに東さんの論点で面白かったのは、決定不能な中での切断ということでなく、徹底してすべての操作ログ(決定が先送りにされたプロセス?)を残しておく、あるいはアーキテクチャの中に折り畳んでおくことで(ウェブではそうなっている)、つねに過去のある地点を参照し、時には立ち戻って、アーキテクチャのよりよいかたちを目指すような創造が可能か、というところ。分岐可能性を内包した設計思想、という感じでしょうか。


とはいえ、このあたりはぼくからすれば、切断か、あるいは非決定による自動生成か、といった対立が強すぎるようにも思えます。というのはこないだの近代美術館でのシンポジウムでも言ったのですが(参考この辺り)、たとえばバンクシーというアーティストが示しているようなかたちで都市の中に「フラグを立てる」ことは可能なわけです。これはいわば「半切断」といった感じでもあって、半ばアーキテクチャの論理に取り込まれつつ、そこに起こりうる潜在的な分岐可能性を指し示していくかたちでの介入というのは起こりうるし、まあ「アーキテクト」とはいえなくても、ある種の作家性は見てとってもいいんじゃないかとも思っています。ある必然性がある(と感じられる)場所と時間とを指し示し、潜在的なコミュニケーションの可能性をあぶり出すかたちでの作家性。作家性というか福嶋亮大さんの議論なんかでいうところの、神話素を効率よく駆動させていく演算子(operator)なんかとも近いような違うような(ところでベンヤミンの「複製技術時代」で画家に対置されていたのは撮影技師(operator)でした、こういう作家性)。


それからあとは、ずいぶん「ひろゆきすげえ」みたいな議論にも見えかねなかったのですが、どうなんでしょう。facebookなんかで支持を集めたオバマのように政治に利用されるよりも、日本のオタク的なダメさの中でアーキテクチャが成立してるのは、まあいいんじゃないか、という浅田さんの発言はかなりアイロニカル。「ま、そんなところで、、」という感じでスタスタ降壇していきました。やはりメタ-フィジックスからフィジックスへの変換が重要で、そういった物理的な次元への変換性において建築家の使命を捉える磯崎さんに対して、濱野さんは、これからリアル空間へと情報アーキテクチャが広がっていく過程でそういった問題がより明らかになっていくだろう、と。まあ、もうすこしこの辺りの論点を早めに出していれば、磯崎さんや宮台さんの議論もかみ合ってきたのではないかとも思えるのですが、時間切れでした。


というわけで、3時間の長丁場でしたが、なかなか楽しめました。たまにレクチャーなんかを企画したりする者としては、批評のシンポジウムであれだけたくさんの聴衆を集められるということに驚かされます。「ジェネレーション」層もかなり幅広かったような。しばらく更新できていなかったこともあり、シンポジウムレポなんてすごいブログっぽいことをしてしまいました。二月には、また大変そうなシンポジウムに参加予定でいます、情報は近いうちに。