文藝春秋の新刊 2003・9 「中国みやげ」 ©大高郁子


茶器と人形が並ぶのは01年11月の新刊案内 「中国雑貨」

2つ並べてご覧いただくことで、陶器製のお人形の大きさが分かりますというのか、いやはてさて、描かれているのが同一人形かどうかは不明。
透かし螢の茶器と並んでいる人形のほうは、ネンネコ羽織ったそうとうオバさんっぽい顔なんだが、03年版のチャイナ人形はふっくら頬で童女のように見えますね。ウェアもかわいく感じる。おふくさんとかその他、名前を持つ人形もあるので、このオバさんにも美少女にも見える中国みやげにも、ネーミングや謂れがあるかもしれない。
あと、あれですね、01年版にはくしゃくしゃの影がある。大高イラスト中こんな影を見ると何だかほっとするのですよ。

「03年9月の新刊」を見てみると

矢作俊彦「ららら科學の子」だ、山本夏彦訳のレオポール・ショヴォ「年を歴た鰐の話」だ、吉村萬壱ハリガネムシ」だ、イラストの裏には横山秀夫だ…あらら。

http://hw001.gate01.com/namekujiken/natsu/wani.html

山本夏彦研究サイト「年を歴た鰐の棲處」より「鰐の話」解説エントリですが、復刊について触れてない…いや、著作一覧には記してありますね。
山本夏彦の本にはたいがい、著作一覧の始めにこの書籍が記してあって「さあて、どんなものかしら」と不思議に思うことになる。
中公文庫中の一連の山本コラム中、なんだったか書名は忘れたけれど西部邁が解説を書いていて、その中で「年を歴た…」が紹介されていた。病に倒れた西部の友人から「君向けの本かもしれない」と(桜井書房版をという意味だろうな)渡され、著者を知ったと書き、簡単に梗概を記してあった。
「─真っ赤になった鰐が苦い涙を流す」物語なのだなとその解説で知り、まあそれでけっこうということにし、山本のエッセイの奥深いところの「悲しい希望」みたいな意味がようやく分かったような気がした。
解説文中で西部は「翻訳ではない」みたいに記していたし、山本自身の自伝(「私の岩波物語」だったか)でも、桜井書店主が「翻訳だから印税は8%」といったことを“笑った”みたいに記していたから、山本の著作かと勝手に思っていた。
「ショヴォー氏とルノー君のお話集」というサブタイトルで出口裕弘訳(バタイユの人でしょ)の絵本が新聞に紹介されたのはアマゾンで見ると2002年のようだな。そのときはじめて、山本夏彦作じゃなかったって知った…というだけのお話。

横山秀夫 「深追い」 新潮文庫 平成19年5月1日発行

クライマーズ・ハイ」は未読です。最近文庫になったのかな。
ヴァランダー・シリーズ「目くらましの道」について記した時、“父権が喪失しつつある現代の父(男親)の悲しみ”みたいに括った。時代の要請というべきか、最近わたしの読むミステリ全般、母権的までいかなくとも女性原理・メソッドが物語全体を包んで(支配はしないのが女性的かな)いる作品ばかり。
この作品集、男性原理・秩序に忠実、実直に語られた小説って時代遅れに見える─「又聞き」はちょっと違うが、主人公は『あの日、海で命を助けてもらった少年ですから』で、警察小説と外れてるかな。
まあ、それはともかく警察という機構は社会構造上男性原理で(たぶん奉行所などの大昔から)運営されてきたわけで、その歴史に敷衍して描かれる警察小説は男性原理に貫かれた筆致・モチーフという枠に縛られるのだね。
とはいえ、この短編集が読みにくいとかつまらないとか、そういうネガティブさを持ったわけじゃない(いいとはいえないけどさ)。でもここにある“古臭さ”を、現在活躍している多くの作家は超えて作品を発表しているのだなあ。
著者が自作の“古臭さ”を理解しているのかそうでないのかは不明。ただしその小説作法はあまり有効な手段とは思えない。森村誠一佐野洋の時代には戻れないことははっきりしているのだから。
「引き継ぎ」、岡っ引き小説としては秀逸。警官父子して同じ下品さを共有し、かつそれを泥棒に哄笑とともに突きつけられるラストはインパクト強かったが、でもそこにいたる捜査のプロセスが陳腐に思えた。そのへんに工夫があると父権を笑う小説になれたのじゃないか。
「人ごと」という小説(リア王だ、それこそ父権ドラマの真髄)、せっかくなのだからパンジーでもうひとつのドラマを見せてほしかった。「東南アジア系の初老の男が交通事故で死んで、ポケットの中にはパンジーの種が─」なんて、ミステリ作家ならだれでも一芸をみせたがりそうなプロットで、でもそれをそのまま放ってしまうあたりの杜撰さって、どう解釈すればいいのか。