フラクタル

マンデルブロ集合

今日は珍しく画像を多用。

フラクタルの基礎とは何なのでしょうか?教えてください。

簡単にフラクタルを説明してくれということですか?
それとも基礎的なフラクタルの例を示してくれということですか?


ちょっと質問が曖昧すぎるので、フラクタルそのものを説明することにします。
ざっくりといえば、自然界に現れる自己相似性を、同じ式の繰り返しで表現しようとする幾何学のことです。
自己相似性というと難しそうですが、たとえば木を考えましょう。
木の全体をみると、大きな幹に枝が付いて分岐し、だんだん細くなっていき、全体として茂っています。もっと小さく見ると、大きな枝には小さな枝がつき、同じようにだんだん細くなっていきます。
さらに小さく見ると、小さな枝には梢が付いてさらに細くなっていきます。もっと見て行くと、葉っぱの葉脈も太い物から細い物が出て分岐をくり返します。
このように、同じような規則性で出来ている物を「自己相似性がある」というわけです。
海岸線などもそうです。
地図上で見て複雑な地形は、実際に見ても複雑で、岩やその岩のくぼみ、くぼみの中の凸凹など、細かく見ていけばどんどん複雑になります。



この、規則的ではあるけれど、一般的な数学では説明できない物を説明するために生まれたのが、フラクタルの概念です。
よくフラクタルの象徴として紹介される「マンデルブロ集合」「ジュリア集合」は、フラクタルという概念を実際に式にして、その式をくり返すことで出来上がる幾何学図形です。
ちなみに語源はラテン語の「壊れた破片」、命名マンデルブロという数学者です。


ティアラとも王冠とも見える。どこか適当に一部分を切り取って拡大すると、これと同じ物が出てくる。数学的には無限にこれが続いて行く。

こちらは回答の中にあるジュリア集合。

これがその拡大図。

ちなみにトップ画像のリンク Wikipediaより


画面上でわかりにくいかもしれないが、この二つの図形、どちらも小さく見ていけば見て行くほど、同じパターンがひたすら続くことで出来上がっていることに気付かされる。
視覚的に見るのが、フラクタルは一番わかりやすい。
「自己相似? なんね、それは。子供は自分に似るってことかね?」
と思われた方も、たとえば下の絵を見せて、
「ほら、なんか巻貝みたいなのがありますけど、この巻貝を小さく見て行くと、同じ形の小さい巻貝でできてるでしょ」
と説明したら一発で理解できる。つまり、そういうことだ。



数学的な定義を理解しようとすると、当たり前だが高等数学が必要になる。一般的な高校数学では歯が立たない。
なにしろ、次元が整数ではない。
点がゼロ次元。
線が一次元。
面が二次元で、立体になると三次元。
少なくとも一般人はそう習って生きてきているし、SFに多少興味があれば、時間を加えて「四次元時空」などと呼ぶことも知っているだろう。
だが、数学の世界では、次元というものは整数である必要がない。1.4次元などという表現が当たり前に出てくる恐ろしい世界だ。
フラクタルという概念では、この整数でない次元や、有限的な無限という概念がしょっちゅう出てくる。出てくるだけならまだしも、数学なのだから当然数式で表さなければならない。
上掲の画像だって、数学の式を画像処理しているに過ぎない。逆に言えば、数式ひとつであの複雑極まりない画像を描き出せるのだから素晴らしく美しい世界なのだが、数学が未知の世界という人間にとっては、「なんのこっちゃら」である。



だが、これを見て欲しい。



植物のシダ、のように見えるが、これは、直線の途中から何本か斜めに短い直線を延ばす、という至極単純なルールに従って描画されただけの線画である。
これが示すこと、それは、自然界もフラクタルでできている、ということだ。
最もわかりやすい例が雪や塩の結晶だろうか。
今は無き(いや、あるけど地に堕ちた)雪印のマーク、あれの元になっているのはもちろん雪の結晶だが、写真などでいくらでも見ることができるあの美しい結晶は、自然界が見せてくれるフラクタルの見本。
きちんと結晶化して降ってきた雪を顕微鏡でのぞくと、必ず規則正しいかたちをして、しかもどこか一部分を拡大すると、全体と同じような形をしている。形が自己相似系なのだ。
上の画像の「なんちゃってシダ」も、実際のシダが見事にフラクタルで説明できる形をしている証拠であり、人間ごときが数学でごちゃごちゃ理屈をこねなくとも、自然界には美しい論理があふれているという証拠でもある。
数学とは自然を記述する言語でもあるのだが、数学が全くわからない私などでも、こういう物を見せられると、「数学は美しい」といわれる理由がわかる気がする。

図書館戦争


久しぶりにまともに一冊本を読みきった気がする。
GW中に「十二国記」を今さら読みしたり、おなじく「模倣犯」を今さら読みしたりしたが、その後はサボり気味だった。
今日も別に本を読む気はなく、遅い昼食を採ろうとして街に出たはいいが暑熱にいたたまれなくなり、涼みに入った書店で偶然、一冊の本を手に取った。


図書館戦争

図書館戦争


これはライトノベルの範疇に入るのだろうか。
私はライトノベルに何度か挑戦し、その度に撃沈して来た経歴を持つ。
もしこの本がライトノベルだというなら、久々に私でも読めるラノベに出会った、ということになる。ラノベで無いなら、相変わらず私とラノベの相性の悪さは維持されているということになる。
カテゴライズにさほどの意味があるとも思ってはいないのだが。


書店で目の端にタイトルが止まった時、私は著者が筒井康隆かと思った。
私は筒井の熱心な読者では全くなく、読了した本は片手の指で足りるほどなのだが、ほとんど偏見にも似た思い込みの中に、彼の作品には「図書館」と「戦争」というように、結びつきにくいものを結びつけて驚倒の物語を提示してみせるものが多いはず、というものがある。
寄ってみると、装丁もきれいだし、どこか不条理感を漂わせたカバー絵が目を引いた。
チラッと読んでみると、発想がいい。図書隊と良化委員会の血の抗争、主人公としてのポテンシャル充分のヒロイン、軽妙な台詞回し。
このところ、軍事ネタが軽く入るエンターテインメントというと、福井晴敏のものばかりだったので、彼のものに比べればずっとライトな読み口の本が気に入ってしまったという面もある。「Op.ローズダスト」も非常に面白かったのだが、ちょっと重かった。
ちなみに。


Op.ローズダスト(上)

Op.ローズダスト(上)


さして大部ではないから一気に読んでしまったが、それほど重々しい物語ではない。考えさせられる部分はもちろんあるし、激しい戦闘シーンもあるのだが、基本的に全ての描写が軽い。悪い意味ではなく、乾いた軽さがある。
重厚な物語と重々しい描写こそが文学である、などと強弁するほどの読書家では無いし、小難しい顔して小難しいものを読んでいられるほど無粋じゃない、と揚言するほど気取れもしない人間としては、たまにこういうのもいいな、と素直に感じた。
基本的に、この作者はライトな作風なのだろう。天下国家を俯瞰するような視座でもなければ、地面を這いずり回るような執念で細部を詰める視座でもない。
ちょうど青年誌でマンガにしてもいいような、気安さも現実感も適度にある語り口。高校生あたりに、夏休みの一日を潰して読んでみても悪くないよ、と勧めたくなるような一冊だ。


物語は、図書館が「良化委員会」という名の検閲機関との紛争状態に入っている世界で、読書の自由を守るために、図書館の武装組織「図書隊」に入隊した主人公が、暴走したりへこんだり妙な恋話に巻き込まれたり鬼教官にしごかれたり、という、ある種の青春ストーリー。
キャラは立っているし、撃ったり撃たれたりというシーンもあるが、それほど陰惨だったり凄絶だったりはしないので、安心して読める。
もちろん戦争礼賛の物語ではないし、願望充足の物語でもない。軍事オタクの喜ぶような描写もない。ホラーやスプラッタ好きが喜ぶような場面もまず無い。
気負わずに、エンターテインメントとして読むのなら、こういうものもいいと思う。
もっと胸を突くようなエンターテインメントを、というのなら、それこそ福井を読めばいい。映画化ラッシュも過ぎて旬から外れたところで、あえて読み始めるのも一興。
個人的には∀(ターンエー)ガンダムのノベライズがとても好きなのだが、これは多少人を選ぶ気がする。ガンダムの予備知識など一切無しで読めるのだが、SFがダメという人にはきついかもしれない。

伝心

好きな人に感情がないと言われてしまいました・・・。
彼女いわくデートを楽しみに来ていても私と
話しをするとテンションが下がるそうです。
私も楽しくないわけではないのですが、感情を態度で
表したり、表情に出したりするのが苦手なのです。
ちなみに私は口下手で話しがうまくありません。
どうすれば楽しい気持ちを伝え、彼女のテンションを
上げる事が出来るのでしょうか?
よろしくお願いします。


話は下手でもいいんです。
不器用でも構いません。
自分が、彼女といてどれほど楽しく思っているか、それをどうにかして伝えましょう。
自分の感情を表現するには訓練が必要なんです。
すぐに上手く伝えられるはずもないですし、失敗だって何度もしなければなりませんが、やらずにいるより何倍も自分を成長させられます。


口下手でごめんな、とか謝るのもいいんですが、自分が楽しいと相手に伝えられれば、相手だってもっと楽しめます。
彼女を少しでも幸せな気分にさせて上げられれば、あなただって気分がいいでしょう?
彼女を楽しませてあげるための努力だったら、厭う理由も面倒に思う理由も無いはずです。
しかも自分が成長できるチャンスなんですから、こんなに美味しいことはありません。
笑われても同情されても構いません。
楽しいよ、本当だよ、好きな人といられるだけで幸せだよ、このくらいのことは言って上げてください。


ポータルサイトの「知恵袋」というコーナーでは、質問への回答の中で最も役に立ったと質問者が判断した回答には、ベストアンサーというものが与えられる。
これが与えられると貢献度というポイントが上がったりするのだが、別に金になるわけでもなく、ただの自己満足である。
このブログで取り上げている質問と回答は、全て私が回答者に回ったものであり、ごく一部を除いてベストアンサーに選ばれたもののみを紹介している。
雷様の項だけは、質問が楽しかったものだからつい載せてしまったが、ベストアンサーに選ばれてはいない。



で、偉そうに恋愛相談に乗ったりもしているわけだが、上記の回答は「じゃあ、あんたは言えてるのかよ」という突っ込みを受けそうだ。
大昔、恋愛というものに全く縁も無ければ免疫も無かった頃ならともかく、20代になって以降は、自分の感情を相手に伝える事の大切さを様々な経験から学んだから(恋愛に限らない)、極力素直に表現できるように心がけている。
人の話を聞くと、私は素で相手が驚くくらいに平気で「好きだ」といえる人間なのだそうで、畳み掛けるように言うから聞いているほうが恥ずかしくなるという。行き過ぎも問題だろうか。
仕事場ではまったく別の論理(お世辞、社交辞令など)が働くわけだが。



表現力や語彙が無いから、あるいは照れくさいから、という理由で、自分の感情を相手に伝えることを怠る人間が多い。
これは大いなる間違いで、「察しろよ」「感じてくれたっていいだろ」というセリフがどう考えたって甘えでしかないことくらい、たいていの人間は気付いている。
手をつないだり、唇を重ねたり、スキンシップで相手と心をつなぐのも大事なことだが、これを怠る者も男の中には多い。スキンシップとセックスが同義語になってしまっていて、セックスの時以外は相手に触れようともしない、という精神構造を持つにいたっている大バカ者も多い。


上記のように話が下手だろうと、たとえば手をつなぐのがぎこちなかろうとも、相手に自分の気持ちを伝えるためにアクションを起こすことは非常に大事。
また、リアクションを求めてもいけない。
まず自分が伝えたい気持ち、伝えるべき気持ちを伝えるために、なすべきことをなす。それに相手がどうリアクションしてくるかは、相手の領分である。
リアクションが来る前に勝手に予測して勝手に対策を立てるのは、下手な駆け引きを挑むのと同義で、いい選択ではない。底意があるアクションと思われては、伝わるものも伝わらない。


恋の駆け引きもできないようでは一人前ではない、といわれそうだが、できる奴は誰かに相談しなくとも勝手にやっている。できないから悩むのだし、駆け引きができるような人間なら、そもそも相手に気持ちが伝わらないといって嘆く暇があれば、相手がこちらの気持ちに気付いてくれるよう仕組んでしまう。
駆け引きができないという自覚があるなら、しなければいい。
恋愛関係も、その他の人間関係も一緒である。
友達とも、顔見知りとも、上司や同僚、取引先とも腹芸などできない性格だ、という自覚がある人間の方が、世間には多いはずだ。そういう人間は、恋愛の場面でも気取って駆け引きなど挑んでもろくなことにならない。
人間関係の基本は、親子関係と恋愛関係。この二つを上手くやっていける人間に、人生の落伍者はまずいない。
この二つの関係を一般的に見たとき、最も大切なのは正直さと思いやりであることに気がつく。親子関係を考えれば、無駄に隠しごとをせず、親しき仲にも礼儀をもって接する。気心が知れているから気配りも気負わずにできるし、気配りに貸し借りの感覚もない。
逆にそれができていないと、親子だろうがきょうだいだろうが、いずれ無理が生じて感情のぶつけ合いに陥ってしまう。
恋愛も同様だろう。



また、伝えることも大事だが、逆に、相手が伝えようとしている気持ちを受け止めることも大事。
こちらがおろそかになると、気持ちが一方通行のまますれ違ってしまい、突然の破局に呆然とする羽目になる。
このパターンは私も何度も経験しているから、ここが私の最大の弱点なのだろう。私が本気で相手を好きになるとなぜか破綻する、というジンクスは、多分私自身に原因がある。
受身になっていればいいというものでは無いが、伝えたことに安心し、安住していてもいけないということなのだろう。