隅田川花火大会

◆今日30日(土)開催された隅田川花火大会のルーツは江戸時代の両国川開き。江戸東京博物館の常設展示室には川開きで賑わう両国橋西詰の迫力あるジオラマ模型があり、その当時の両国を再現している。当時の花火は一日ではなかった。
 東京の下町の夏の風物詩、「隅田川花火大会」が30日夜開かれ、合わせて2万発の色とりどりの花火が夏の夜空を彩った。「隅田川花火大会」は、江戸時代から続く全国でも最大規模の花火大会として知られている。隅田川にかかる橋や、川沿いの道路には家族連れや浴衣姿の若者など大勢の見物客が訪れ、花火が次々と打ち上げられるたびに歓声を上げたり、写真を撮ったりしていた。

桂昌院(お玉の方)

◆東京足立区の法受寺にある、5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院墓所。敷地内には桂昌院の弟で、姉の引きにより笠間藩5万石の藩主となった本庄宗資の墓も。ちなみに、正室は将軍とともに増上寺寛永寺に葬られる決まりだが、側室はその限りではない。
お玉の方は桂昌院として非常に有名で、徳川将軍家の妻妾の中でも有名度はトップクラスである。それは5代将軍綱吉の生母です。名はお玉と言いました。幕府祚胤伝によると、父は二条関白光平公家司本庄太郎兵衛宗利(初めの名宗正)とされている。しかし、お玉は俗に八百屋の娘と言われるように、実際は身分の低い者の娘だったと言われている。本庄宗利は前妻がなくなったため後妻をもらい、この後妻が八百屋仁左衛門の妻でした。仁左衛門の妻が本庄家に奉公に出たところ宗利の手がつき仁左衛門の妻となった。この仁左衛門の妻の連れ子の一人がお玉でした。成長したお玉は13歳の時にお万の方の侍女となるため江戸に下った。なお、幕府祚胤伝では、中の丸殿のお供として江戸に下向したと書いてありますが、この記述は間違いだそうです。初めはお万の方の部屋子となりましたが、その美貌が春日局の目にとまり家光のお側近く仕えた18歳のお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになりました。正保2年(1645)2月29日に亀松を、正保3年(1646)1月8日に徳松を生みます。亀松は、家光41歳の子、徳松は42歳の子になります。亀松は早世しますが、徳松は無事成長し、後に五代将軍綱吉となった。
 慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して桂昌院と名乗った。徳松は慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに15万石を拝領した。承応2年(1653年)8月に元服し将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改めた。寛文元年(1661年)上野国館林藩25万石を拝領し、参議に叙任され「館林宰相」と呼ばれるようになりました。そして、延宝8年(1680年)には将軍家綱が40歳で死去したため5代将軍となった。綱吉が将軍になると、桂昌院は綱吉の治世にも影響を及ぼし始めた。桂昌院は、神仏を信仰し、盛んに神社仏閣を建立していく。3代将軍家光の時代に創建された寛永寺の本堂(根本中堂)が建立されたのも、綱吉の時代である。また、新たに創建された神社仏閣の代表が神田にあった「護寺院」と大塚の「護国寺」です。護国寺は、綱吉が、桂昌院の願いにより亮賢僧正を招き開山とし、幕府薬草園の高田薬園の跡地に建立した。護国寺のご本尊は、桂昌院念持仏の天然石の琥珀如意輪観世音菩薩像です。
 また、湯島にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称した。護持院は、綱吉と母桂昌院の参詣は前後数十度にもおよび,大変栄えましたが、享保2年に焼失した後は再建されず、幕府の命令ににより護持院は護国に合併され、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねるようになった。しかし、明治になって、護持院は廃寺となり、現在は護国寺が残ることとなった。桂昌院は、元禄15年(1702)には女性最高位の従一位の官位に上り、宝永2年(1705年)6月に79歳で亡くなった。