抱きしめて

戦争の世紀を超えて
「『私には関係がない』と言うことができない。私は私が受けた迫害についてさえ有責です。ただ有責なのは私ひとりです!」レヴィナス 
吉田修一を同世代の旗手だと、思い入れをしている青年からメールが来て、今度は内田樹に嵌っているらしい。それで、唐突にレヴィナスから引用で上記の箴言を追記してくれている。彼の本意はわからぬが、中々痛いメッセージです。
今、森達也×姜尚中の『戦争の世紀を超えて』(講談社)を読んでいるのですが、森達也は加害者、加虐者をモンスターとして思考停止するのでなくて、ヒトラーでも麻原でも<私>と連続した<他者>として考察、分析、対峙しなければならない。多分、上記のレヴィナス箴言はそういうことでしょう。ヒトラーでも麻原でも宅間でも、マスメディアに次々と登場する異常な犯罪者を“モンスター”として見たくないものとして、目を閉じてぽいと、ゴミ箱に捨てないで冷静に分析する、又そうすることが学問の仕事なんでしょう。

モンスターの再生産

姜 パレスチナイスラエルの問題だけど、僕はこの二つの国の間に和解ができない限り、決して世界に平和は訪れないと思う。それはアウシュビッツからイスラエルパレスチナへとつながってくる、二十世紀後半の流れがあって、いろいろな敬意から、結局ヨーロッパの外側にユダヤ人問題を排出してしまったんです。そのときに何が起きたかというと、シオニズムから沸き起こった運動を、ヨーロッパというかイギリスの総意で、ナチスの問題の中に封じ込め、記憶まで全部封じようとした。それが完全に暴露されて、逆におぞましさが世界中に撒き散らかされたんです。ユダヤ人は当然ながら、自分たちの国を作りたいと願う。そういうインセンティブ(動機づけ)を外側に排出することによって、ユダヤ人とパエスチナ人の共存関係を完全にずたずたに引き裂いてしまった。
 ユダヤ人問題の最終的解決はどこにあるのだろう。ナチスドイツは殲滅を選んだけれど、結局ユダヤ人はヨーロッパの外側に排出された。そして、住まうべき国家の建設に帰着した。その結果、悲劇は中東で今も続いている。こういう形でしか選択はなかったのだろうか。ユダヤ人の中にそれを選ばない人もいるでしょう。そういう人たちはアメリカに行ったりヨーロッパにとどまったり、もっと悲劇的な例は、シオニズムを批判して、自殺の道を選んだ人もいたわけね。
収容所で生き残ったサバイバー、受難の民が結局外側に排出されたときから、そういう犠牲者を僕たちは見てきた。おそらく生き残った人は過去の経験、トラウマが消えなかったから自殺したのではなく、どうしようもない現実に絶望したんじゃなかと思んです。もし自分が生き残った人間で、二度とこうした悲劇を作りたくない、作らないというミッションがあると考えたとき、同じ仲間が外側に国家を作り、そこで自分たちが受けた悲劇をパエスチナ人に対して行っているという事態を見たら、僕はやはり非常な絶望感に打ちのめされると思う。
結局、僕は、ヒトラーがなぜ殲滅の道を選んだのか、という問いに戻ってしまうんです。
ヒトラーは、イギリスのように狡猾に二枚舌、三枚舌を使って、問題を外側に排するような権力政治的なことはしなかった。これは明らかに、イギリス、フランスとは違っている。でも、結局ユダヤ人問題は今の解決されずに、全地球的な問題になっている。そこにアメリカが加わった。僕がおもしろいと思うのは、ヨーロッパを自発的に出ていったピュリターン(清教徒)が作った国、ヨーロッパで迫害を受けて、シオニズムという形を作った国、そのアメリカとイスラエルとが、ある意味でよく似ていることです。
 もちろん国の原理はかなり違うけど、結果的に、その二つの国が一卵双生児のようにイスラエル世界と対決している。ぼくは、イスラエルアメリカを扇動している面もあると思う。そして、アメリカはますますイスラエルにある意味、似てきているわけです。地球的規模でアメリカが巨大なイスラエルとなり、パレスチナをはじめ土地を奪われた人が世界に散在する。
 結局、ユダヤ人問題というのはヨーロッパ問題の世界的な拡大であって、依然としてヨーロッパというのは過去の歴史から世界的規模の問題を作り出しているんです。イスラエルアメリカ、これをどう見るのか。つまりドイツから解放したのがアメリカで、そのアメリカがイスラエル国家建設に積極的に加担したわけではないが、イギリスの後ろ盾をしている。しかも、イスラエルがやっている反テロ戦争と言われているものは、アメリカもブーメランのように受け継いでいる。
森 アウシュビッツ解放後、全世界はその凄惨な実態に激しく驚愕して、同時にユダヤに対して、特にヨーロッパは強烈に萎縮しました。なぜならナチスのように実践こそしなかったけれど、反ユダヤ主義ユダヤの人々を疎外し続けてきたこことは、ヨーロッパ全域で普遍的にあったことだからです。ある意味でナチスと共同正犯だったわけですから。そういった後ろめたさやトラウマがあったからこそ、イギリスの稚拙な二枚舌をヨーロッパに意思として容認してしまった。そのときイスラエルを選アメリカに移ったユダヤの民も、ホロコーストの被害者であり、その末裔という、強力な印籠を手にしていたわけです。今に至ってはショア産業などとシニカルに指摘されたりもしていますが、そんな素地と屈折したアドバンテージ(優位)を与えられたからこそ、ユダヤは戦後も世界中の経済や金融などのジャンルで成功し、莫大な資本を獲得します。
 被害者であるユダヤを批判するつもりは、もちろんありません。周囲の受けとめ方に問題があったのです。土地を持てず、歴史的に離散を余儀なくされてきたユダヤが、ホロコーストを契機に国家を建設し、先に住んでいたパレスチナを迫害し弾圧する構造を考えれば、アウシュビッツはほとんど形を変えないまま、今も再生産されていることは明瞭です。
姜 おそらく、アウシュビッツイスラエルアメリカからもユダヤ系の若い子たちが来ていると思うんです。彼らはそれを見てどう感じるのだろうか。ヨーロッパでは今も反ユダヤ意識が根強くて、イスラエルに移る人の数が増えているらしいんです。
 そういう反復性というか、そういうことが記憶を通じて確認される。それが結局敵対関係をより強める面もあって、歴史の記憶というのは常に二律背反的なのね。記憶することで自分のアイデンティティを強化し、敵対関係をより先鋭化させていく。ある意味で人間って記憶病じゃない。記憶の山にとらわれている。そこで問題が起きる。
森 確かに二律背反的なところは気になります。被虐の歴史や記憶だけが語り継がれ、加虐した側への思いがどんどん薄くなってしまう。これは、よく使われる「日本の加害責任」という語彙とは少し違います。当事者ではなく、第三者が加害者に対して抱く思いです。代を重ねれば、加害した人々への思いなど消えてしまい、エイリアンみたいに純粋なモンスターになってしまっている。被害と同時に語り継がないから、モンスターは何度も登場する。当たり前です。何がどうなったら、人はモンスターになってしまうかという記憶が途切れているのだから。
 ちょいと極論の対症療法かもしれないけれど、被虐の記憶だけを残すのなら、ぼくは両方とも忘れたほうがまだマシだと思う。なぜなら被虐の記憶は、憎悪となって際限なく輪廻するから。
姜 そのときに、否応なく他者によって押しつけられたり、押しつけることで、自らのアイデンティティが分離不可能な形で他者から影響を受けていることから目を逸らしてはいけないと思うんです。その関係性を見つめ直し、自分の国民や歴史の中に他者の痕跡を認めるべきだろうと思います。これはエドワード・サイード的ですが、『在日』の中にも書いたけど、そういうものをやっぱり自分の中に抱きしめていかなきゃいけない。(123頁〜)