『輸入学問の功罪:この翻訳わかりますか?』

鈴木直

(2007年1月10日刊行,筑摩書房ちくま新書637], ISBN: 978-4-480-06342-7|ISBN:4480063420

【書評】

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本書は,日本の思想書哲学書の「翻訳文体」を手がかりにして,現在にいたるまで続く“直訳調翻訳”を支えてきた背景を探ろうとする.序章「思想・哲学書の翻訳はなぜ読みにくいのか」では,読者を一顧だにしない直訳調の文体は日本ならではの「文化制度」のひとつであるという著者の基本認識が提示される.続く第1章「『資本論』の翻訳」でのマルクス資本論』翻訳文体をめぐる攻防戦はなかなかおもしろい.一般読者が読んでも理解できない“逐語訳的直訳文体”を河上肇三木清が執拗に擁護したエピソードが綴られている.やや中だるみな第2章「ドイツの近代化と教養理念」と第3章「日本の近代化の基本構図」では,明治以降の日本が文化的手本としたドイツにおける教養教育と,それを輸入した日本側の事情について.そして,再び本題に戻った第4章「ジャーナリズムとアカデミズムの乖離」は,20世紀初頭に堺利彦が創った「売文社」をひとつの軸として,翻訳における文体のありようについて述べ,さらには当時のアカデミズムに身を置いた者たちの深く屈折した心象風景を描く.

 

三木清,叩かれます:


三木[清]の翻訳観に見られるのは原文への強迫観念的な自己同化であり,欠落しているのは読者の視点からの解釈学的反省だ.そうなればいきおい,わかりにくい翻訳を苦労して解読する責任は読者に転嫁される.原文の構造を忠実に再現することこそ訳者の任務であり,それを解読するのは読者の責任だ,となる.ここに権威主義が発生する根拠がある.…[中略]… ここで主張しておきたいことがある.真理は細部に宿るがごとく,権威主義は文体に宿る場合があるということを.(p. 58)

 

そのあとに続く世代も同罪だ:


私が問題にしたいのは,個々の訳者の力量とは別の次元で,この国の思想・哲学書の翻訳と受容を拘束してきた,いわば暗黙の共通理解の方だ.(p. 14)

 

第5章「輸入学問の一断面:カントとヘーゲルの翻訳」では,カントとヘーゲルの著作の翻訳例を挙げながら,直訳と超訳のはざまの細道を進まねばならない翻訳道のきわどさと難しさに触れる.かの「長谷川宏ヘーゲル」も著者にかかれば噴飯ものになるのか.最後の第6章「翻訳とはなにか」は,全体を総括し,著者なりの翻訳のあり方を論じる.

 

しかし —— 本書で挙げられているような翻訳の問題点は,少なくともぼくの関心からは遠いところにある.著者のもともとの問題設定は:


訳文をわかりにくくしているのはひとえに,原文と同じ構文で訳文を構成しようとする訳者の基本方針であり,その基本方針を貫く一徹さにほかならない.私などがよくしでかすような「うっかり誤訳」とは根本的に違う,いわば確信犯なのだ.この自信と一徹さはいったいどこからきているのか.(p. 23)

 

という点にあった.外国語に関する十分な知識があり,やろうと思えば流麗なこなれた訳文を紡ぎ出せたはずの訳者たちがなぜそうしなかったのか(という高尚な動機)を著者は問題とした.一方,ベック先生が一貫して糾弾し続けたのは,外国語のてにをは(基本的な語彙や文法)すら満足に知らない者ができの悪い翻訳書を量産し続けるもうひとつの現状(訳者の能力自体が足りないことが脱力的原因)だったはずだ.ぼくにはむしろベック先生の指摘の方が今でも身に染みる.

 

本書はドイツ語翻訳を通じた「学問文化論」に重きが置かれている.その意味で,メインタイトルとサブタイトルの配置はこの通りでよかったのだ.最初,新刊広告で見たときは,メインとサブは逆ではないかと思ったが,通読してぼくの勘違いに気がついた.

 

三中信宏(13 January 2007)