鷲田清一「まなざしの記憶」、植田正治写真集

写真に詳しくなかったので、先日の「美の巨人たち」で初めて植田正治を知った。これはすごいということで、早速、図書館から借りてきた。
「まなざしの記憶」は鷲田清一による植田正治の写真論だと思っていたのだが、植田正治に直接触れているところは少ない。むしろ鷲田清一の思想に植田正治の写真を重ね合わせるというコラボレーションになっている。

鷲田清一植田正治の共通点は、その軽さにある。軽さ、と書くとマイナスイメージになりそうだが、ここでの軽さとは、カルヴィーノが新たな千年期の文学のために提唱した「軽さ」である。軽妙さと言った方がしっくりくるだろうか。つまり重力の霊に囚われない、身軽さがそこにあるのである。
植田正治の写真を歴史順に見ても、そこに時代性はほとんど表れておらず、ましてや戦争の影など微塵も感じさせない。いつの写真を見ても時代を超越した普遍性を湛えている。
砂丘シリーズ」などは山高帽の男が登場するし、また全体的に浮遊するイメージもマグリッドを連想することは難しくない。しかし極めて思弁的なタイトルや構造を持つマグリッドの絵画に比べると、植田正治の写真はもっと悠々として底抜けに明るい。そのあっけらかんとしたメッセージのなさが、翻ってメッセージとなって訴えかけてくる。
その魅力は丁度、積み木遊びに古いも新しいもないようなものだ。見事に積まれた積み木は、いつの世紀でも美しい。

植田正治の写真を眺めながら鷲田清一の文章に目を落としてゆくと、その詩歌めいた散文がすっと心に入ってくる。
本書で問題になっている主題のひとつが歓待とサービスだ。人と人とが共に手を取り合って生きてゆくとき、そこにはどうしても齟齬が生まれる。どうしても嫌な思いをする。すべての諍いはそこから生じるわけだが、同時に癒しも与えてくれるのではないかと考察している。同じく歓待を問題にしていたデリダとは見つめる角度が違うのが面白いところだ。

余談

今週(11/11)の「美の巨人たち」はついに玲さまキタよ。