Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『心と体と』『馬の骨』試写



西川美和監督と樋口毅宏さんのコメントが並んでいた。

 朝一で新宿のシネカリテで『心と体と』を観賞。

長編デビュー作「私の20世紀」でカンヌ国際映画祭カメラドール(最優秀新人監督賞)を受賞したハンガリーの鬼才イルディコー・エニェディが18年ぶりに長編映画のメガホンをとり、「鹿の夢」によって結びつけられた孤独な男女の恋を描いたラブストーリー。ブダペスト郊外の食肉処理場で代理職員として働く若い女性マーリアは、コミュニケーションが苦手で職場になじめずにいた。片手が不自由な上司の中年男性エンドレはマーリアのことを何かと気にかけていたが、うまく噛み合わない。そんな不器用な2人が、偶然にも同じ夢を見たことから急接近していく。2017年・第67回ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞をはじめ4部門に輝いた。(映画.comより)

 鹿と大自然、食肉処理場での解体されていく牛、働く人間たちの物語だが、すごくうまいバランスで成り立っている作品だと思う。片手が不自由な中年のエンドレとおそらくアスペルガーな要素を持つマーリアがひょんなことから同じ「鹿の夢」を見ている事がわかり、ふたりの距離が近づいていく。その微妙で絶妙な距離と心もよう、相手を求めていく行動、不器用なふたりを見ていると応援したくもなる。同時に自分にも当てはめてしまう。どうやって誰かと親密になれるかということをしばらく忘れてしまっていることに気づく。夢で会うことが楽しみになっていく、同時に相手をどう求めたらいいのかわからないふたり。スマホSNSではなく夢の中で鹿同士で会うというのはロマンティックだし、繋がりすぎる時代に忘れているものが提示されているようにも思える。
 ああ、いい映画観たなと終わって心から思えた。


 終わってから渋谷に戻って映画美学校で『馬の骨』試写を。宣伝プロデューサーをメルマ旬報でもご一緒させてもらっている松崎さんから試写状をいただいていたので。


まもなく平成が終わる。
平成元年、ボクは『イカ天』に出会い、運よく「審査員特別賞」を手にした。
これで時代の流れにノッた! ボクはそう思ったが、時代にノレないまま30年の月日が経ってしまった。
平成が終わる前に、ボクはこの映画を作らなければならない。そんな気がした。
さようなら平成
                     ーー桐生コウジ(映画「馬の骨」原作者)

かつて音楽オーディション番組に出演した過去の栄光を忘れられない中年男性と平成生まれのアイドル歌手との奇妙な交流を描いた音楽コメディ。熊田はかつて放送された人気番組「三宅裕司いかすバンド天国」に出場したバンド「馬の骨」のリーダーだったが、今は工事作業員として働く中年男になっていた。作業現場でとトラブルを起こし解雇され、社員寮から追い出された熊田は、家賃1万5000円のシェアハウスに転がり込む。そこでシンガーソングライターを志しながらアイドル活動をするユカと出会った熊田にかつての輝いていた若き日々が去来し……。ユカ役にNHK連続テレビ小説ひよっこ」などに出演し、本作が映画初主演となる小島藤子。本作の監督で熊田役を演じるのは、バンド「馬の骨」のリーダーとして実際に「イカ天」出演経験の過去を持つ桐生コウジ。(映画.comより)


 『馬の骨』試写を観る。イカ天バンドと地下アイドルを結ぶというアイデアで作られている今作は、平成とはアマチュアの時代だったと映画で描いている部分が感じられる。これから平成を様々なジャンルで総括していく流れになっていくのは間違いない。その先頭を走るかのような作品だという見方もできると思った。過去の掴みかけた栄光を忘れられない中年とシンガーソングライターになりたいがアイドルをやっていた女の子という組み合わせ。午前中に観た作品は60過ぎと30過ぎの男女の組み合わせだったので、やはり日本という国における大人になるとか様々なことは浮かんでしまう。と書いている僕も熊田のことは言えない夢追いフリーター(ライター)なのだが。
 物語自体は出会うことのない熊田とユカが出会うきっかけが起こるところから始まる。熊田とユカの関係性も徐々に変わっていく。熊田が「馬の骨」でもう一度ライブをしようと行動し始めていくなどは、挫折した主人公を軸に展開する作品としては常套句だし、人生をリスタートするために誰になんと言われようがやらないといけない時が誰にもあるはずだ。物語は熊田とユカそれぞれが一気に何かが大きく変わったということではなく、もう一度前を向いていくという終わり方をしていく。このほうがもちろんリアルだし、違和感がない。終わってから松崎さんともお話をしたが、観客のターゲットがどうしてもイカ天を見ていた世代やその頃に音楽を聴いていた人たちになっていくと思う。

 この映画を観て平成ってどういうものだったかを考えた。失われた二十年とかつて言われたことがあったが、実際には失われたのが三十年、平成まるごとだった。真ん中過ぎぐらいにインターネットが普及していったことが与えた影響、グローバリズムの波、経済に余裕がなくなり本質的に失われたのは教養や民主主義の根幹だけではなく安定しない世界で揺らぐ「私」だったように思える。
 一番政治が手を差しのべる場所を切り捨てていく、逆にある程度は満たされている上の世代も世界のシステムの根幹が変わり、変革されそうになると時代に合わない自分たちだけが生き残れそうなものを選ぶ。が、「私」は満たされないし安定した足場がないと空中でブランコに乗り続けているような恐怖が訪れる。そんな時に足場を、「私」を国家や民族なんてものに託すから現実を歪めていく。偽史を正史にしようとする。
 信じたいものを信じるというシンプルさはもはや考えたくないを通り越して考えないことを調教された結果なんだろう。恥ずかしいあの安倍政権は残念ながら僕らの鏡像だ。ありがたいことに平成は終わる日が前もってわかっている。失われた時間は取り戻せないし、個人の権利や民主主義について当たり前に考えて意識するようになるにはどんだけ時間がかかるんだろう。
 うちの親父ぐらいの戦後すぐに生まれた世代は逃げ切るだろう。下へ下へ負担は増していく。上の世代の遺産を引き継ぎながらいろんなジャンルや場所で時代に合わせたアップデートがどこまでできるか。気がついたらロスジェネ(笑)って呼ばれてたから、これ以上失われてたまるかって思う。同時にこの世代はネット以前とネット以降の狭間だからその親子世代を繋げていく役割があるんじゃないかという話をよくする。さて、これからだ。