lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

メディアは大震災・原発事故をどう語ったか 報道・ネット・ドキュメンタリーを検証する

書架で手に取ったときはあまり期待してなかったのですが,いい意味でその期待を裏切った本でした。
サブタイトル通り,テレビ・新聞の報道,ネットの動きを記録+考察している上に,震災後のドキュメンタリーをいくつか取り扱っているのが本書の特異的な点と拝見しました。
震災後ドキュメンタリーの分析が読み応えあった他に,印象に残ったもの2点です。
「間メディア性」という概念:

p.84 しかし,東日本大震災で明らかになったソーシャルメディアの最も大きな特性は,ソーシャルメディア単独の機能というより,ソーシャルメディアが,他の多様なメディアの媒介となるという点である。第2節に述べたように,東日本大震災では,マスメディアとソーシャルメディアが相互補完しつつ緊急情報の報道に努力した。これは素晴らしい動きである。また,第9節で述べているように,ソーシャルメディアは,リアルなボランティア活動や復興支援活動を編成するためにも大きな力を発揮した。このように,異なるメディアの間を情報が行き来することを,筆者は「間メディア性」と呼んでいる。また,間メディア性が一般化した社会を「間メディア社会」と呼ぶが,まさに今後,社会の間メディア化が進行していくことになるだろう。

「なぜ福島中央テレビだけが爆発瞬間映像を流したのか」

p.144 先にも見たように,福島中央テレビだけは福島第一原発1号機の爆発の瞬間を撮影していた。いいかえれば,この爆発の瞬間の映像は,福島中央テレビのビデオカメラで映されたものしか存在が知られていない。NHKを含む他局が,それぞれ,ヘリコプターなどでも撮影隊を出していたにもかかわらず爆発映像が撮れなかったのかという点については,この爆発の直前に発生したかなり大きな地震によって機材が損傷し,撮影機能が失われたためであると説明されている。

p.145 福島中央テレビは,躊躇を超えて,爆発映像を放送した。9月11日の検証番組でも語っているように,「原子力緊急事態宣言が出されている中で,地元のテレビ局としては,あの原発構内で起こったことは,些細なことでも異常があれば,すぐさま報じるべきと考えました。たとえば,あれが火災の小さな炎であったとしても,です。ただ,情報はあれしか,あの映像しかなかった」。それでも,彼らは報道したのだった。

pp.145-146 一方,系列キー局である日本テレビの決断はそれより1時間以上遅れ,他のテレビ系列の報道はさらに遅れた。
福島中央テレビ日本テレビに全国放送するよう何度も要請していた。これに対して,日本テレビの広報担当部長は,「福島中央テレビは速報性を重視した。日テレにもすぐに映像は届いていた。だが,何が起こっているのか,その分析がない中で映像を流すと,パニックが起こるのではないかと危惧した。映像を専門家に見てもらい,解説を付けて放送した」という。
この点について,筆者もいくつかの他の局の方に質問した。「マスメディアは正確な情報を報道しなければならないと教育されてきた。あの時点で,爆発のように見える映像はあっても,それが本当に爆発なのか,どの程度の被害をもたらすものなのか,わからなかった。裏付けのとれない情報を安易に流すのは望ましくないと考えた」という主旨の回答をほぼ一致していただいた。

福島中央テレビが爆発瞬間映像を流してから,1時間以上も遅れてしまったことについては,いわゆる陰謀論のようなものの存在も考えられるかもしれませんが,案外,実情はシンプルで,テレビ局の中の人たちもびびってしまった,ということなのかもしれません。

3・11とメディア―徹底検証 新聞・テレビ,WEBは何をどう伝えたか―

ジャーナリズム(ジャーナリスト)かくあるべし,という立場から,それぞれのメディアが3・11をいかに伝えたか,ということについて批判的に検証しています。
したがって,WEBについては手薄かな〜と思ったのですが,要所はきちっと押さえている印象でなるほど,なるほど〜という感じでした。
例えば,「ダダ漏れ」について:

p.113 今回の震災時における東電・保安院の合同会見でもあったように,インターネットメディアが会見をカットなしで生中継する時代が始まっている。それは,従来の会見が特別な地位の人に限定され,一部のマスメディアにその情報の所有が限定された時代との大きな違いである。
いまや,記者会見を広く一般市民が共有する時代がやってきたのである。同時に,その会見内容をいかに理解するか,という新しい課題を突きつけられることになる。たとえば,前出の東電会見は夜遅く延々と三時間以上続くことも珍しくなかった。私たちは,そうした臨場感溢れるオンタイムで見られる幸せとともに,見続けなければならない苦痛を味わうことにもなる。しかもその情報は,誰が解説してくれるわけもなく,いわば「ダダ漏れ」会見と称されるような情報発信の結果を生んでいる。
このような,検証なしのダダ漏れ報道の拡大が指摘される中で,SNSは,プラットフォームとしての場の提供にとどまらない,責任ある立場に変わってきているのであろう。もちろんこれに対しては,一切の論評を加えない,無色透明の「伝達」を行うプラットフォーム・メディアとしての価値を重視する考え方もある。しかし一方,こうした生の言葉が飛び交う状況で,論理より感情に訴えたり,本質以外の偶然目についた事柄で,議論が左右される事態が生じるという面も否定できない。

p.114 生中継あるいは恣意性をさしはさまない報道,さらには市民参加の記者会見など,ネットメディアの新しい取材・報道手法は,現時点ではネットの世界のみならず,従来のマスメディア報道に飽き足らなかった層にも,好意的に受け入れられている。しかし,ネット情報をベースに新聞・テレビ報道がなされることが増えて,既存メディア(とりわけテレビ)とネットメディア間で情報の「使い回し」が生じ始めていることは,いわばゲートキーパーなしでの無責任な情報の拡大再生産を生みかねない。