旅を続けるおばちゃん

バルセロナで出会ったおばちゃんのことを書きたい。
おばちゃんは僕と同い年の同級生である。
鹿児島の出身で鹿児島に大きな家があり、
そして息子が大学へ行くために買ったマンションが京都三条にある。
今は鹿児島で一人暮らしだ。

旦那さんはいたが7年前に亡くなったというから、彼女が56歳の時である。
旦那さんが癌で病床にあって、何かしたいことはないかと聞くと、
ニュージーランドへ行ってみたいという。
それで、医者を同伴させ、彼女と息子と一緒に5人でニュージーランドへ旅行した。
旦那さんは、もう歩けずベッドのまま飛行機に乗せて旅行したという。
また、そのことを鹿児島のテレビ局へ連絡し、
ドキュメンタリー番組にしてもらった。
だから実際はそれに映像スタッフも同行していることになる。
そして本放送をする前に15分ほどの圧縮版ができ、
旦那さんはそれを見て三日後に他界されたという。
このような旅行をしようとするなら相当の費用がかかるし、
放送番組になるくらいだから、
旦那さんは鹿児島では著名人かもしれない。

彼女は、ここ3年ほとんど日本にいることなく世界を一人で旅行している。
しかし、その間、鹿児島の家はどうしているのかと尋ねると、
大きい家なので庭の手入れのこともあり、
業者にお金を払って管理してもらっているという。
旦那さんとは、よく海外旅行に出かけたそうで、
思い出の場所がいくつもある。
昨年はロンドンに半年暮らし、そこからヨーロッパの各都市へでかけた。
今回は、スイスやイタリアなどを巡り、
ローマから船でバルセロナにやってきた。
もう旅を始めて3ヶ月になるという。
この後は世界遺産であるイビサ島へ船で行き、
その後、再びバルセロナに戻り、またヨーロッパの街を巡るという。
出会ったその日、彼女とそんな会話をして、
彼女はどこにも出かけることなく終わった。
翌日は、宿から、イビサ島のホテル等の予約に費やし買い物をして終わり。
バルセロナの観光はしないのか、と聞くともう大抵見たからという。
それじゃバルセロナに来る意味がないのではないか。
だが、彼女はイビサ島へ船で行くための拠点としてこの街に来たという。
ここで大きな荷物を置き、小さな荷物でイビサ島に行くという。
イビサ島で2〜3日過ごし、
再びバルセロナにに戻り次の目的地へ進むということだそうだ。
彼女は都会が大好きで田舎は嫌いと言う。
都会は明るくにぎやかで寂しくないからで、
田舎は寂しいから嫌いということらしい。
勿論観光もしているのだろうが、もう主だったところは全て見て回っている。
だからバルセロナに来たからと言って、特に言ってみたい所がある訳ではない。
効率的に観光するなら、それなりの方向性みたいなものがあるが、
彼女のはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりで、効率的とは言い難い。
時間とお金が無駄な気がするが、
多分彼女には十分な時間とお金があるのだろう。
むしろ時間とお金を使う為に旅行をしているのかもしれない。

彼女の行動を見ていると、何かに突き動かされるように、
街から街へ移動している。
一体彼女は何を想い旅行をしているのだろうか。
旅は非日常で、日常とは違う出会いや発見があり、
そこに面白みや喜びがあるが、旅が日常になると、
普段の暮らしとは一体彼女にとって何になるのだろう。
寂しさを紛らわすための旅なのか、日常生活の単調さを嫌っての旅なのか、
それとも日本で居場所が見つけられないからなのか。
そして彼女は旅をしていて幸せなのだろうか。
果たして彼女の旅はいつまで続くのだろうか。

セビリアのタパス


いろいろ珍しい食べ物があるものだ。
セビリアで宿泊していたホテルは旧市街の最も端にあり、
イスラム色の強いところである。
そのホテルの横に名もなきバルがある。

このバルが開店するのは、20時くらい。
店の前が公園なので、そこへテーブルと椅子を並べる。
もう客は待っていて、
飲み物と小皿を抱えて嬉々としてテーブルに向かう。
普通、屋外のテーブル席は、ウエイターが聞きに来て、
オーダー品を運ぶのだが、この店では、そんなことをしていたら、
何時になるか分からない。
客が皆、料理を運ぶのである。
テーブル席がなくなると、
客が店の奥からテーブルを運び出してくることもある。
そこまでして客が食べるのが、この写真のものである。

最初、ビールを飲みながら見ていたら、
やたらうまそうに皆んなが食べている。
客の9割はこれを注文している。
最初は巻貝の一種かなと思った。
大きさは1センチか、それ以下である。とても小さい。

店に入り、貝が欲しいと言うと、かたつむりだと言う。
料金は1.8ユーロ、260円くらいだ。
とても小さい。
どうやって食べるかといういうと、
かたつむりの身を噛んで吸い出すのである。
イスラム系の人も、欧米系の人も、皆んなチューチューと吸っている。
このかたつむりは、炊き込んであって、
味はカレーじゃないけれどカレーっぽい味である。
どんな味付け方法か皆目分からない。
この味が絶品である。
食べても、お腹がふくれることはない。
身と言ったてたかがしれている。
味、歯ごたえ、吸い出して食べる感覚…。
これが、なんとも言えない。

エスカルゴのようなかたつむり料理は経験があるが、
こんな小さなかたつむりは初めてだ。
たしか、パンプローナの街を出てしばらくの間は、
道はかたつむりだらけだった。
それも大きい。
うじゃうじゃいるので、踏み潰して歩くしかないような状況だった。
大きいのがいるということは、小さいのもいることになるが、
しかし、客は毎晩100人を超える。
これが皆が皆、この小さなかたつむりを食べるのである。
どこでこれだけのかたつむりを捕まえるのか不思議でならない。

しかし、世界は広い。
いろんな料理があるものである。
ちなみに宿泊していた間、毎晩ここに通いかたつむりを食べていた。
多分、200匹ぐらいは食べたのではなかろうか。

今はバルセロナいる。
バルセロナと言えばサグラダファミリア

ちょっとイメージが違ったなぁ。
行く前は、何かゴテゴテしてるイメージがあって、
好みによっては駄作と言う人もいるかもしれない、と思っていた。
世界遺産と言うから随分昔のものと思い込んでいたが、
結構新しい建築物で今も建築が続いている。
新しい建築物だからコンクリートも使われている。
それと大きさである。
とても巨大な建築物と思っていたが、レオンやセビリア
サンティアゴの大聖堂と比べると小さい。
ただ高さがある。
そして塔のようなものが林立する姿がより高度感をだしている。
教会の中は思っていたほどゴテゴテしていなく、すっきり。
今は建築方法では、石を積み上げて作るのでなく、
コンクリートで曲線を描いて構築している。
それと歴史が浅いので、過去の遺物がない。
この二つのことですっきりさせているのだろう。
一番驚いたのは光と影の使い方のうまさである。
まるで虹のシャワーを浴びているような圧倒的な光が舞い降りてくる。

法顕のこと


「この歳でサンティアゴ巡礼?」とも思っていたが、
たくさんの同年輩の方と出会った。
ただ、アメリカのおばあさんで70歳が最高齢で、ほとんどは60歳代だった。

もっともツアー等でバスが伴走するようなケースでは、
もっと高齢者がいるのかも知れない。
日本の朝日ツアーさんのご一行に出会ったが至れり尽くせりの待遇であった。
一方、荷物を担ぎ、ただ歩いて巡礼するような60代の人達は、
いたって元気で早い足取りで僕を抜いていく。
バルセロナ在住のご夫婦は、65歳の旦那様と63歳の奥様。
年金生活者で慎ましやかにアルベルゲに泊まりながら巡礼をしていた。
そして手際よく旅を続けていた。
今は旅行環境が良くなっているので、昔ほど過酷ではないのだろう。

同年輩で旅をした法顕(ほっけん)のことを思えば、僕の旅など問題にならない。
法顕は399年に中国から天竺に旅だった。
西遊記で有名な玄奘三蔵は629年だから、それより200年前のことになる。
法顕は64歳で出発した。(玄奘は27歳での出発)
この当時の歳の数え方は「数え歳」と思われるので、
僕とは同じ歳ということになる。

砂漠を渡り、パミールの雪に覆われた峰を超え天竺に行こうというのである。
西域の過酷な環境と、治安や費用の問題を抱えながらの旅である。
「行路中、居民無し。砂行(砂漠旅行)の艱難、経る所の苦しみは人理に比(たぐい)なし。」
と彼は書き記してる。
彼には同志が10人いたが、病没したり残留したりして彼一人だけが
13年後に帰国した。
帰国した時の年齢は、もう77歳である。
彼は多くの経典を持ち帰り、仏教を広め、そして86歳で亡くなった。
なんとも壮絶な旅である。
彼にそれをさせたのは揺るぎない信念であったとろうと思われる。
そして、彼以外にも多くの僧がインドへ向かい、
なんの記録もないまま消え去ったことにちがいない。

法顕のことを思うと、彼には時間などというものは存在せず、
ただ自分の心のままに突き進んだような気がする。
彼には生きることも、死ぬことも、
同じことと思っていたのではなかろうか。
彼が出発する時、生きて帰れると思っただろうか。
そういう生き死にを超えた発想で旅たったに違いない。

それに比べて僕のCamino de Santiago は、
1600年前の法顕の時代とは違い、道は整備され、
適度に宿も食事もあるという恵まれた旅だった。
同じだったのは、ただ西へ向かって進むということだったろう。

Santiago到着


サンティアゴへ無事到着した。
たいした怪我も病気もなくたどりつけて良かった。
それも思いもよらぬ早い到着だ。
ガイドブックでは、33〜5日位のスケジュールが多いが、
42日目での到着である。
どうみても、膝・腰の悪さ、体力のなさから、
5月末か6月初めと思っていたのに5月21日に到着とは…。

泊まりたい場所に宿がなかったり、
時間的な関係で歩かざるを得なかったり、
同じペルグリーノ(巡礼者)仲間からの後押しとかもあって、
思いの外早い到着となった。

明日からは、しばらくサラマンカの友人宅に厄介になることになった。
ここで、しばらく休養である。

せっかくのサンティアゴなのに大聖堂は工事中。
で、やむなくシルエット写真で。

のこり2日

のこり20kmとなった。
どこかで出会った懐かしい顔の韓国の若い女性から声をかけられたり、
親しげな顔で近づいてくるご夫婦が、
「日本の方、名前はなんと言うの?彼はトニーで、私はアウラよ。」。
当方には記憶がないが、どこかで出会って言葉を交わしているのだろう。
もう、大勢の巡礼者がいて誰が誰か分からないと思っていたけれど、
長く歩いている巡礼者は、それなりに何かの絆が生まれているのかもしれない。

今日この村を出発し、
15km地点にある4〜500人が宿泊できる巨大アルベルゲに1泊し、
翌日5km歩いてサンティアゴに到着予定だ。

ゴール、終着点が間近に迫り、寂しいような嬉しいような複雑な心境だ。
ま、うかれることなく残り少しを怪我のないよう行こう。

写真は、とても気に入っている朝食。

トーストしたフランスパンにトマトとオリーブオイルをかけたもの。
塩で多少、味をコントロールしているかも。
トマトは好きじゃなかった筈だけど、最近は美味しいと思えるようになった。

とあるアルベルゲ


このアルベルゲ。なんだか全般に不潔なんである。
清潔好きの日本人だけかと思い切りや、ドイツ人の方も「ちょっとねぇ…。」
外観はきれいので、そんなこととはつい思わず、受付してしまった。
外はきれいだけど、中は不潔というやつでして…。

ま、それでも気にしない人もいる。
確か8ユーロで宿泊と夕食代が込みだった。

夜8時から全員で食事。
ここの食事は結構うまい。
食事中いろんな言葉が飛び交うが、やはり英語中心。

英語をもっと勉強しておきゃ良かったなぁ。