昭和天皇の記者会見時の「涙」と、「いやな思い出」という語の裏にあるものについて

 これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060724/kaiken
 
 一応「昭和天皇の記者会見」に関してですが、今日はあんまり「富田メモ」の検証とか、A級戦犯昭和天皇がどう思っていたか、という話とは関係ないことを話します。
 ということで、ぼくもid:rnaさんと同じく、調べもので1000円あるいはそれ以上使っているような気がしますが、せっかくなので小出しにしていきます(ていうか、テキスト化するための時間不足なもので)。今日は図書館で調べた新聞の縮刷版から、1988年4月25日におこなわれた(4月28日朝刊に掲載された)「天皇陛下記者会見」に関しての、各社の報道をテキスト化してみます。
 質疑応答部分は、昨日掲載したこれとほぼ同じなので省略して、解説・コメント部分を中心に。
 一応ひとつだけ、『吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇』(中村賢二郎・文芸春秋)と気になる違いを。どちらが誤記だとか勘違いだとか、断定する要因に欠けるんですが、この部分。

健康のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。

 これは、読売新聞では

天候のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。

 と報道していて、なんかこちらのほうがいいような気がするんですが、どうなんだろうなぁ。
 例によって、朝日・毎日・読売の順(50音順)でやってみます。本文中の太字はぼく(愛・蔵太)によるものです。産経新聞の当時の記事は手に入りませんでした。
 朝日新聞

陛下手術後初会見 お声に張り よどみなく 「よく回復だいぶ余裕も」
 
 天皇陛下が「会見」という形で記者に会われるのは、毎年一回、誕生日の前だけだ。八十七歳になられた今年は、それが、図らずも手術後初の記者会見となった。陛下は、皇居・吹上御苑の林鳥亭で十五分間にわたり答えられたが、昨年のようにメモを見ることもなく、よどみないお話しぶり。側近の思い出や先の戦争に触れたところでは、一筋の涙も。皇后さまは、誕生日のお祝いに月の満ち欠けがわかる腕時計を贈られる。記者会見の一問一答は次の通り。
 
(一問一答部分省略)
 
驚かされるご回復ぶり 大戦に触れ、涙もお見せに 会見を聞いて
 
 宮内庁に常駐する記者たちが天皇陛下にお会いするのは、昨年九月に那須御用邸へ伺って以来だが、当時はもうご病気が始まっていたころで、顔色がさえず声にも力がなかった。
 しかし、今回の会見でお見受けした陛下は、表情もゆったりと穏やかで、声や話しぶりに張りがあり、余裕さえ感じられた。着実な回復ぶりには、率直に言って驚嘆させられた。
 陛下は、高齢にもかかわらず、歴代天皇に前例のない開腹手術を受けられたのだが、「医者を信用して、何も感じなかった」と述べられている。こうした医師たちへの絶対の信頼感と、難局に処しての強靭な意志力が、今日までの着実な回復をもたらしたのだろう。激動の昭和時代を乗り切ってこられた陛下の一側面を垣間見た思いがする。
 会見で、陛下は「たとえば」と声を張り上げて、エピソードを紹介された。質問が次に移っても「なおつけ加えたい」と話を続けられる場面もあった。これまでの会見に比べると、珍しいことである。それだけ、国民に聞いてほしい、伝えておきたい、という強い意欲をお持ちのようにみえた。中でも「国民が相協力して平和を守ってくれることを期待します」と、声を強められたのが印象的だった。
 徳川前侍従長の思い出に続いて、陛下が「一番いやな思い出」とされている先の大戦に触れたころ、陛下の左目に光るものがみえ、やがて一条の流れがほおを伝った。終戦の御前会議の陛下の涙は広く知られているが、記者会見の席上で涙を見せられたのは初めてのことだ。
 最後に、陛下は沖縄訪問について「健康が回復したら、なるべく早い機会に訪問したい精神に変わりはない」と、改めて述べられた。陛下は、先の大戦で全国でただ一つ、市民まで巻き込んだ地上戦が展開された沖縄を戦後一度も訪問されていない。「念願の沖縄訪問が実現するならば、戦没者の霊を慰め、長年の県民の苦労をねぎらいたい」(六十二年春の会見で)と切望され、ご病気のあと、「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさむつとめありしを」という歌も詠まれている。
 ご自身が、体調に「だいぶ余裕がある」と言われている今、宮内庁をはじめ関係者は、その実現に努力すべきではなかろうか。沖縄訪問なくして、陛下の「健康回復宣言」もあり得ないと思われる。(岸田英夫編集委員

 次に、毎日新聞

「大戦は一番いやな思い出」 天皇陛下がご心境 記者会見 「平和を忘れずに」 国民へメッセージ
 
 「戦後、国民が平和のために努めてくれたことをうれしく思っています」----天皇陛下は、時に目を閉じながら、独特の抑揚で心境を話された。八十七歳の誕生日を前に行われた宮内記者会との会見。質問が第二次大戦に大府とやや高い声で「一番いやな思い出」と語り、「忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」と国民へのメッセージを述べられた。戦争の原因については「人物批判」になるのを理由に考えを明らかにされなかった。勇退した徳川義寛侍従長の思い出を語られる時には左目に涙が浮かんだようにも見えた。
 陛下は四月から国、公賓をはじめ各界の人々と会うなど、ご公務も大幅に増加。五日には皇居清掃のため全国から集まる勤労奉仕団へのねぎらいを再開、週二回、皇居内の生物学御研究所にも通われている。五月にはヒドロゾアの研究書も出版される。皇后さまの誕生日プレゼントは月齢がわかる腕時計という。
 
(一問一答部分省略)
 
 天皇陛下の記者会見を前に、宮内庁と宮内記者会の間で「綱引き」があった。
 日本人記者が初めて陛下と会い、言葉を交わしたのは敗戦後間もない二十年末。その後、宮内記者会と陛下の会見は数回あり、三十六年からほぼ年一回が定例化、六十年からは誕生日前に約三十分間行われてきた。
 今回は宮内庁側から、会見は十分間程度で、質問も五項目ぐらいに、と要望があり、関連質問も遠慮して欲しいと非公式に意向が記者会に伝えられた。記者会では質問事項を取りまとめ、総意で六問を選んだ。手術、沖縄のほか、天皇陛下が米軍の沖縄占領継続を望んだのではないか、と国会でも取り上げられたいわゆる「天皇メッセージ」問題、戦争責任や広島への原爆投下についてもお考えをお尋ねしようという内容。二・二六事件についてなど五項目は文書で回答を頂きたい、と申し入れた。
 しかし、宮内庁は「これでは会見は実現できない」と、変更を求めた。記者会は論議を重ね、結局、会見を実現するため質問を作り直すことを決めた。会員の一部には「会見実現のために譲歩した方がよい」との意見もあったが、表現を変え戦争についても質問することになった。
 最終的に同庁もこれを受け入れ、会見が実現したが、手術の際のお気持ち、皇后様のご体調、戦争の最大の原因についての質問は文書提出していない関連質問だった。
 会見で陛下は「先の大戦」について「いやな思い出」と述べられた。内部の事前打ち合わせでは「つらい思い出」とお答えになる予定だったという。会見は十七分間だった。

 最後に、読売新聞。

「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下 ほお伝う涙 沖縄ご訪問に意欲 誕生日の記者会見
 
 「体調はよく回復したし、疲れることもなく、だいぶ余裕があると思います」----陛下は、八十七歳の誕生日を前にした記者会見で、太平洋戦争についてや、病気のため中止となった沖縄訪問への意欲を、一つひとつ言葉を選ぶように語られた。「大戦のことが一番いやな思い出」と語りつつ、ほおに一筋、涙も見せられた。昨秋の手術から七か月。「健康時の八、九分まで体調が戻られた」と側近も驚くほどのめざましい回復ぶりを示されている陛下は、暖かくなった今月から、ほぼ連日、宮殿や生物学御研究所に通われている。お住まいの吹上御所では、出版を予定している「皇居の植物」の執筆にお忙しい毎日。ご進講も多方面のテーマを希望され、公務にも強い意欲を燃やされている。
 
(一問一答部分省略)
 
大きなお声 メモも見ず 今後も無理なさらずに
 
 昨年九月の手術後初めて行われた天皇陛下の記者会見は、順調なご回復ぶりをうかがわせるに十分なものだった。ご負担を軽くするため、例年、三十分の会見時間が、今回は約半分に短縮されたが、誠実に、感慨を込めて語られた。
 質問項目を事前にお知らせしているので、昨年四月の会見では、陛下は回答のメモを用意して、読み上げられた。しかし、今年は何も見られなかった。生物の研究についての質問には、植物研究の仲間だった故佐藤達夫・元人事院総裁のエピソードをまじえて、数分間、語り続けられ、予定外の関連質問にも、大きな声で間髪を入れず答えられた。
 大戦に関する質問に入ると、陛下は座り直された。「大戦のことが一番いやな思い出であります」と両目をつぶって語られる陛下が、「いやな」と感情を込めたその時、左ほおに一筋の光るものが墜ちた。「どうか今後とも、国民が平和を守ってくれることを期待しています」口調こそ乱れなかったが、ただ静かに涙がほおを伝わった。
 昨年九月、記者は那須御用邸で、手術直前の陛下にお目にかかったが、その時に比べ、ほおの肉が少し落ち、やせられた感じがした。しかし、体調を崩して強く緊張されていた当時を思い起こしてみると、今回は、陛下ご自身が語られたように、心身に余裕が感じられた。昨年十月のご退院時や、今年一月の新年一般参賀の時、やや白く感じられた顔色も、ずっと良くなられていた。
 陛下は先月の須崎御用邸へのお出掛け以降、戸外での散策を続けられている。体調に自信を持たれているご様子は、今月十五日、誕生日用の写真撮影の際、皇居東御苑で拝見したお散歩の足取りや、側近らとの大きな声での会話などからもうかがえた。宮内庁侍医団も、「陛下の健康状態は昨年七月に那須御用邸に出掛けられた時より、今の方がよい」としている。
 こうした健康回復を背景に、陛下は「生涯の課題」ともなった沖縄ご訪問について、再び強い意欲を示された。実現の可能性も出てきたが、ご高齢で、開腹手術から七か月しかたっていない。今後も無理をされず、「沖縄」を目指して、病前の状態にまで復帰されることを祈りたい。(斎藤勝久記者)

 まとめると、
1・会見の際に、陛下は左目から涙を流した。(ただし毎日新聞は「涙が浮かんだようにも見えた」という記述)
2・それは記者会見の席上でははじめてのことである。
3・ただしそれは「大戦」の思い出なのか「徳川元侍従長」の思い出によるものなのかは不明。(新聞的には前者の解釈をしたがっているようである)
4・「いやな思い出」というのは、当初は「つらい思い出」という言い方になる予定だった。毎日新聞情報)
 なお、「4」については、富田メモの非公開になっている部分に書かれている、

”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長
靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである

 と符合するようにも、ぼくには思えました。
 
 しかし昭和天皇、結局沖縄へは行けなかったんだよな…。
おじいちゃん泣かす人は許せない!」と、『かみちゅ!』の一橋ゆりえ様なら言うだろう(ゆりえ様のおじいちゃんって生きてたっけ。まぁ昭和天皇はご存命な時代設定のアニメですけど)。沖縄まで戦艦大和、おじいちゃんと行っちゃうよ!
 
 ついでなので、終戦記念日までには、ぼくと靖国神社について(靖国神社についてどう思うか)でも書いてみます。
 
 最後にこの本を紹介しておきますが、これ、今でも手に入るんだろうか。一応どのくらいの人が興味を持つか知りたいので、アフィリエイトつきリンクにしておきますが(「個別リンク」というので、クリックした人の数が分かるのです)、気にさわるようでしたらすみません。
『皇居の植物』(生物学御研究所・保育社
 
これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060727/memo