水野直樹『創氏改名 日本の朝鮮支配の中で』(岩波書店、2008年)

創氏改名―日本の朝鮮支配の中で (岩波新書 新赤版 1118)

創氏改名―日本の朝鮮支配の中で (岩波新書 新赤版 1118)

 「創氏改名」は日本帝国の朝鮮に対する植民地支配の象徴的政策にもかかわらず、研究蓄積が貧弱だったためか、なかなかまとまった良書がなかったが、ようやくその全体像をある程度見通せる本が出たのは僥倖。水野によれば、「創氏改名」に関する教科書記述は日本も韓国も正確ではないようで、歴史学界でさえも誤解や曲解が克服されていないのだろう。
 朝鮮総督府文書や関屋文書など1次資料を多数用いている。
 要点をまとめると、
1 「韓国併合」後、1940年の「創氏改名」実施まで、朝鮮人の戸籍上の名前に対する植民地政策は、日本人との「差異化」を重視し、伝来の慣習(幼名など)の抑制やハングル文字による名前登録の禁止などを伴いつつ、専ら日本人(「内地人」)風の名前を禁圧した。これは名前の区別による差別を可視化するための施策で、この思想的系譜は後に有力な「創氏改名」消極論(特に警察当局)につながる。
2 「創氏」は新たに「家」の称号としての「氏」を創設させるもので「改姓」ではない。そのねらいは「姓」をともにする宗族集団を弱体化させ、日本的な「家」制度を導入することで、天皇制の家父長制支配を強化することであった。
3 改定朝鮮民事令などは「創氏」を義務付け、期限内に届け出がない場合は戸主の姓をそのまま氏とするよう定めたように、「創氏」は法的強制だった。「内地人」風の「氏」と定めてはいなかったが、総督府は行政機構や学校を通して「指導」「督励」したり、朝鮮人有力者に圧力をかけるなどして、「創氏」届け出数の底上げを図り、結局1940年8月の届け出締め切り時点で80%に達した。「改名」は法的には強制ではなく、総督府が「名」による差異化を望んだため、あまり進まなかった。
4 朝鮮総督府OBらの中央朝鮮協会は「創氏」強制の実態をつかみ、植民地支配の安定を阻害するものとして、南次郎総督の「創氏」政策に対する強い反対が起きた。また、警察当局からは「内地人」と朝鮮人を区別できない取締上の不都合から消極論が潜在し、在朝日本人や「内地」のナショナリストからも民族優越意識から朝鮮人が「日本人風」の名前を名乗ることに抵抗があった。「創氏」強制問題は帝国議会でも問題となり、総督府は「強制」を認めざるをえなかった。
5 「創氏改名」は多くの朝鮮人の反感を呼び、「創氏」拒否という積極的抵抗から何らかの形で宗族性を残した氏にするなどの消極的抵抗まで、さまざまな抵抗が試みられた。当初「内鮮一体」の建前から「日本人風」の氏を奨励した総督府は方向転換し、本貫や地名につながる「氏」を容認するようになったが、これは宗族を弱める当初の政策目的と矛盾した。結果として「創氏改名」政策は朝鮮人民族意識を強めることになった。
6 朝鮮に徴兵制を施行するために「創氏改名」が行われたという史料的根拠はない。
 本書からは日本の朝鮮支配を貫く「日本人優越意識」と「朝鮮人皇民化」の矛盾があからさまな形で表出していたことがわかる。つまり、朝鮮人を完全な帝国臣民とするために、日本式の「家」制度を持ち込み、「日本人風」の名前を本名とするよう強制したが、それが結果として「朝鮮人の『日本人』化」に対する日本人からの反発を引き起こし、朝鮮人への侮蔑意識と日本人としての優越意識を維持するために、朝鮮人と日本人の「差異」を残すことになったのである。要は「朝鮮人を完全に日本人に吸収してしまおう」としたら、日本人の方から「朝鮮人なんかを日本人として扱うな」と不満が出たわけである。どちらもベクトルも朝鮮人の民族としての尊厳や政治主体を認めないという点では共通しているが、植民地支配は常にこうした矛盾が孕んでいたのである。
 本書は他にも「創氏改名」に関する論点が提示されているが、研究はいまだ十分に進んでいないために未解明の課題も多い。今後の研究の進展を期待したい。