黄土高原 紅棗がみのる村から




2016-06-19 メコンの畔より帰りました

先回アップして以来、すでに1か月が過ぎてしまいましたが、とにかくず〜〜〜っと忙しくて、おまけに途中で長い風邪をひいてしまい、ここを開く時間すらとれないありさまでした。

一昨日、ようやく松本に戻りましたが、実は中国からではなく、ベトナムサイゴンからです。中越国境を徒歩で越えて、ハノイ→ダナン→サイゴン→カントー→サイゴン→関空、と2週間ほどの旅でした。ちなみに、ホーチミン市のホテルなど、サービス産業系では、サイゴンという名前を使っているところが割合に多いんですね。愛着があるのでしょう、ちょっと驚きました。詳しいことはまた改めて。取り急ぎ。

六文銭六文銭 2016/06/20 11:42  元気で何より。

2016-05-16 えっ?! と驚く“出し物”

しばらくネットが繋がらないところに行っていました。正確にいうと、繋がらないのではなく、繋がなかったのですが。どういうことかというと、新しく出た本を持って、磧口界隈の村を巡っていたのですが、これらの黄河に沿った辺りで無線ネットを繋ぐと、デバイスが陝西側の電波を拾ってしまうのです。私の契約は1か月使い放題で100元という料金ですが、これは山西省省内で使った場合です。省外の電波を使うと、つまり“市外料金”になってしまうので、あっという間に料金切れになってしまうのです。

それで話は白家坂に戻ります。私が行ったのは5月4日でした。ちょうど村で結婚式(嫁取り)があり、尋ねたい人もそれを見に行っているというので、私も人だかりがしている広場に行ってみました。お嫁さんを新郎の村の人たちにお披露目するというのが目的ですが、それはもうとてつもなく賑やかで華やかで、村人にとっては格好の“娯楽”です。

私が暮らす賀家湾は臨県の最南部にあり、中央部やや南寄りの白家坂とは、以前だったら車でも2時間以上の距離があります。5里違えば風俗習慣が違うとまでいわれるこのあたりですから、この結婚式の様子も細部でかなり違っていて興味深いものがありました。

私が広場に行ったときにちょうど新郎新婦の入場で、楽隊を先頭に賑やかに登場しました。その直後には、「傘頭秧歌」があって、この傘を持って歌うのが臨県の特色のようですが、歌はみな即興で、おめでたい歌を歌います。これは日本でいうと、昔私たちの地方にあった、「三河万歳」のような感じではないかと思います。で、なんだか騒がしいので振り向いてみると、こういうおっさんがいたんですね。

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ウチにはテレビはないし、元々テレビは好きじゃないので私は看ませんが、おなじみの抗日ドラマの扮装です。左は新郎のお母さん。こんなものは初めて見ました。多分、“田舎”に行けば行くほど、こういった“出し物”は笑いがとれるはずで、村の演芸会なんかでは今でも定番じゃないかと思うのですが、考えてみると、磧口、招賢辺りはずっとずっと“都会”です。

都会度は何によって測るかというと、ここ呂梁地区では、離石にどれくらい近くて、バスが1日に何本あるかということになると思います。臨県の行政所在地は臨県ですが、ここは都市としては、離石の何十分の一かの規模で、やはり離石でないとダメなのです。離石は北京へ行く列車が通っているし、3年前には飛行場もでき、上海へもひとっ飛びとなりました。招賢からは1日に10本近くのバスが出ます。

ただ、話は飛びますが、なぜ招賢にそんなにバスが多いかというと、それは炭鉱があるからです。3000人近くの炭鉱労働者とその家族が頻繁に出入りするのですが、実は最近状況が変わって来ました。石炭がだぶついて、しばらく前から一か所の炭鉱が閉鎖中なのです。招賢の町のどんづまりにある炭鉱で、それでこれまでは石炭運搬車が町中を占領していたのですが、いくらか空気はきれいになりました。しかし、商店は売り上げがガクンと落ちたことでしょう。バスのお客さんもめっきり減ったのです。

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話を戻しますが、この人は多分、新郎のおじさんくらいに当たる人だと思います。「若い娘、若い娘。。。」といいながら周りの女性を追いかけ、そのたびに歓声と嬌声があがっていました。情けない限りですが、10年もいれば慣れっこになってしまって、もう笑うより仕方ないです。おっさんたちは、まさか私が当の日本人だとは思いもよらず、いろいろポーズをとってくれました。

ただし、私がえっ?!と驚いたのは、こんなことではないのです。

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これはぜひ動画でお見せしたいのですが、えっ!?どころか、え〜〜〜〜っ!!!!と驚く、仰天モノの“儀式”でした。賀家湾界隈ではこういうのはありません。輿(簡素化されていますが、紅いコーリャンに出てくるアレ)の中で“日本兵”の膝の上に新婦がまたがっていますが、もうそのものズバリのポーズですね。左に写っているのが新郎で、右側、写っていませんが、紅い帯を引っ張るのは、新郎のお母さんです。向こう側にもう一台輿がありますが、これにどういう人がのっているのかは聞き損ねました。(紅い帯をお母さんが曳いていますが、この家はもしかしたらお父さんがいないのではないかと思います。それらしき人を見かけませんでした。本来は新郎の父親が曳くと思います。)

そしてこれを、周りが囃し立て、“日本兵”と新婦が抱き合って、ユラユラどころか、激しく上下に揺らすのです。日本の“良家のお嬢様”なら赤面して目のやり場に困ることでしょうが、こっちではおおっぴらで、わいわいきゃーきゃーものすごく盛り上がるのです。私もびっくりしました。もちろん赤面などしなくて、最前列でポケカメ動画を撮ってきましたが。

この時に思い出したのですが、10年ほど前に、磧口で当時90歳だったおばあちゃんを取材したことがあります。西湾といって、日本軍が駐屯していた村なので、被害は甚大だったはずですが、そういうことはほとんど口にせず、「人が生きているのは子どものため。子どもを産んで育てて、歳をとって子や孫に面倒を見てもらう。こうして人の一生がまた人の一生になって続いてゆく」といっていたのが印象に残っています。

中国でも、大都市では結婚しない人、子どもを望まない人が増えていると、話題にはなりますが、農村部ではまだまだ従来の価値観は微動だにせず、適齢期が来たら、早く嫁に出すこと、早く嫁をもらうことが至上命令です。(男性が)結婚することを、中国語では「成家」といいます。「ウチの息子は30にもなるのにまだ成家していない」といった感じです。

成家して子を産み、家族のために一生懸命働いて、老いては子に従い、孫が成長して葬儀を取り仕切れるくらいになるまで生き、そして紅い帽子を被ったひ孫たちに送られて、静かに土に還ってゆく。その間には、自然災害も病気も戦争もあるけれど、とにかく自分の家族を守り抜いて一生を終える。これこそが“人の道”なのです。

白家坂で見た光景は、新郎新婦が、いわばこの“人の道”のスタート地点に立ったということを確認する儀式ともいえ、それを村人たちすべてが共有して喜び祝うというところに、私は“中華民族”の凄さを思ったのです。

六文銭六文銭 2016/05/20 01:03 むかし、民俗学かなんかの本で、婚姻に関しては両親ではなく叔父叔母が重要な役割を果たすというのを読んだ覚えがありますが、それにしても擬似セックスとは・・・。人間の場合には、「文化的な」装飾が加わりますからいろいろ多様ですが、雌雄が結合して子孫を残すという生物学的「使命」がやはり根底にはあるのでしょうね。
もっともそうした生物学的「使命」から逸脱するところに人間の文化はあるわけですから、それらは、儀式でのしぐさなどに残されているのでしょう。
その辺を理解できない議員どもが、「子どもを産まない女は女でない」とか、「草食系男子は非国民」だといったりするのですが、では彼らが生物学的「使命」に忠実であるのかというと、その実は、「年金制度の破綻」とか「国民総生産の減退」とかいったきわめて卑近な「文化」的事象からの発言であることは明らかなのです。

2016-05-06 張烈文老人の話

一昨日、白家坂(bai jia ban)という村に行ってきました。実に6年ぶりです。ここは臨県の中央部の山の中にあって、最南部の招賢鎮からだときわめて不便なところで、なかなか再訪ができませんでした。6年前に行ったときも民家に1泊泊まりです。今回ようやく都合がついて、村人のバイクで送ってもらいました。

ところが、おどろいたことに、ものすごく立派な舗装道路が開通していて、しかもおそらくはできたばかり。路面もまっさらで、1時間ちょっとで到着してしまいました。ここでは5人の老人から話を聞いています。

まっさきに、張烈文老人を訪ねました。理由があるのです。

以前にも何度か書いていますが、私が話を聞いている、ここ臨県の言葉は、晋語の中の「臨県語」と分類される言葉です。これがとにかく特別に方言がきつく、一般中国人でも、最初は8割が聞き取れないといいます。ですから、私が直接取材している最中は、もとより高齢の人ばかりですし、実はほとんど聞き取れていないのです、正直いって。それを当地出身の大学生などに“翻訳”してもらい、それを見て、なるほど、あの時はこんなこと言ってたのか、と理解できる次第なのです。

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この烈文じいちゃんの場合も、後になってわかったことがあって、どうしてもそれを確かめたい。もう一度会いたい。亡くなっている可能性もあるわけだから、それでまっさきに訪問したのです。じいちゃんは目と耳がかなり悪くなっているとはいえ健在で、私のこともよく覚えていました。以下、6年前に聞いた張烈文老人の話の一部です。( )内は私の注釈。

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日本人が来たとき、私たちの家の土ヤオトンの門と窓を焼いた。門を焼き、窓を焼いた(注;ヤオトンの場合、門と窓枠だけが木部で、必ずそこを焼き、またそれで煮炊きをした)。大きな鍋を運んできて、マキを積み上げ、飯を炊いて食べていた。1頭のオス牛のモモ肉を切り取って食べてから、庭のムロ(注;深さ3mほどの穴を掘って、野菜を保存する)に放り込んだ。私たちが帰ってみると牛の姿が見えず、あとでムロから引き出した。

この村では殺人はなかったが、日本人に追いかけられて逃げる時に崖の上から転がり落ちてひとり死んだ。この人はたぶん三順(注;人名)だろう。日本人がいなくなってから見ると、彼の腕の下に拾った紅い枕(注;亡くなってから埋葬までの間、棺の上に置かれる枕)がはさまれていた。

私が覚えているのは、とにかく洞窟に隠れたことだ。あの頃は、追いかけられて洞窟に隠れるだけの暮らしだった。大人たちについて山の畑に行って隠れた。私の家の老人が織った絹布が谷の方に隠してあったが、gen pi 隊(注;日本人に協力した中国人。当地のいわば“ごろつき”)が連れてきた日本人がみな持って行った。銀器(注;財産として、特に女性はみな銀の腕輪をしている)も。これらのことはみな覚えている。私の叔母のも持って行った。打ち壊された甕は今でも上のヤオトンの中にある。みな針金で縛ってくっつけた。甕の蓋もみなたたき壊された。穀物と土とをごちゃまぜにし(注;村人が食べられないように)、食べ残した飯も、土の中に放り込んだ。

日本人は牛肉を食べていた。使った小さな空き缶は、今でも粟をすくうのに使っている。小さな丸い容器だ。

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昨日のクイズの答えは、最後の1行です。日本人が牛肉の缶詰を食べていたという話は、何人かから聞いていて、それをもらって食べたという話も3人ほどから聞きました。当地では、ましてあの時代では、肉を食べる習慣はなく、牛は大切な耕作牛で、この牛と鶏を略奪された、庭で殺して食べていたという話はもう、100人くらいから聞いています。食糧を“現地調達”していたわけですね。

ここでは缶詰を食べていたわけではなく、じいちゃんの家の牛を食べていたわけです。この空き缶には缶切りで開けた痕がないので、缶詰ではなく、蓋付の容器で、食器代わりに使って捨てて行ったのでしょう。私が、くれない?と聞いたら、いいよいいよ、ウチでは何の価値もないものだから。といって、おまけに家にあったお菓子の袋まで持たせようとするので、もちろんこれは断りましたが、この歴史の波風をかいくぐって生きながらえた小さな空き缶を、この先どう使おうか考えているところです。            

中島中島 2016/05/08 20:57 大野様
 先日、富士見市日中友好協会のHPアドレスを送りましたが、届きましたか。
日程表を7日に郵便で賀家湾村に送りましたが、臨県には19日の午後に行きます。連絡先は、共青団0358ー442820。4426019です。私の自宅の電話は変わっていません。

maotouyingmaotouying 2016/05/08 22:09 すみません、何も受け取ってないです。メールが1か月くらい遅れて届くこともときどきあります。郵便物は、配達されるわけではなく、離石の郵便局まで届いて、そこまで取りに行かなければならないのですが、郵便局から私への連絡方法がないので、受け取れないと思います。この10年間、一度も受け取ったことがないです。
国際電話は、私の携帯を国際電話用に契約しなおさなければならないのでそれも難しいです。
それと、この頃私は上海に行く用事があって、今相手からの連絡待ちです。もし19日以降、臨県にいるようでしたら、共青団の方に電話させていただきます。これは中国の電話番号ですよね。
とにかく、日本の常識とはかけ離れた不便なところに住んでおりますので、どうかご了承ください。
HPの方は、検索できますので、拝見させていただきます。そちらの方にもスケジュールが書いてあるのでしょうか。

maemae 2016/05/29 11:24 のりさん、お久しぶりです。
これはすごいですね。
こんな歴史の荒波をくぐった「ただの缶」を
日本人であるのりさんが「くれない?」と言ってもらってきてしまうところがすごいです。

2016-05-05 これは何でしょう?

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みなさん、これが何だかわかりますか?

大きさは、直径が10センチほどで、素材は鉄(何か少し混ざっているかも?)。

写真では開口部が広がって見えますが、円筒形です。

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きのう、このじいちゃんからもらいました。70数年の年代モノです。

といわれても見当がつかないですよね。答はまたあした。

中島中島 2016/05/09 21:50 大野様。日程表は共青団に送付してあります。問い合わせてください。なお当協会のHPには掲載していません。

maotouyingmaotouying 2016/05/17 12:43 中島様
今月いっぱいものすごく忙しくて都合がつけられませんので、失礼させていただきます。申し訳ありません。

2016-05-02 久々の太原。。。つづき

また全部消えないように、少しづつアップしながら。。。。下書きをテキストに書いてからアップすればいいとおっしゃるでしょうが、それが私にはできないのです。小さいころからずーーーーっと。“ぶっつけ本番”でないと何もできない性格なんです。死ぬまで変わりません。ぶっつけ本番で死ぬつもりです。

これまで太原には、帰国時の行き帰りに寄るので何かと気ぜわしく、いつも駅と宿の往復だけでしたが、今回ようやく手ぶらな時間が取れたので行ってみたいところがありました。「牛駝寨烈士陵園」というところです。牛駝寨要塞というのは、太原市の北東部にあって、第二次国共内戦の最後の山場であった太原戦役の中でも、もっとも激烈な戦闘が繰り広げられたことで有名です。日本軍が建設し、撤退後に閻錫山が補強したもので、太原一の堅固さを誇る要塞だったようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9

1948年10月に始まった太原戦役は、半年後の翌4月24日に終結するわけですが、その間の国民党の戦力は10万人、共産党の戦力は30万人といわれています。そして国民党の死傷者は10万人。その10万人の中に、少なからぬ日本人兵士が含まれているのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E6%AE%8B%E7%95%99%E5%95%8F%E9%A1%8C

この、日本軍残留兵士のことについては、いまは、みなさんもよくご存じだと思いますが、『蟻の兵隊』という映画が公開されるまではほとんど知られていませんでした。しかし、これまでに私が取材した元八路軍兵士たちの中でも、直接戦闘に参加したか否かにかかわらず、“牛駝寨要塞は日本人が守っていた”という話はたびたび出てくるのです。最初は中国人と闘っていても、そのうちに主力の日本兵が出てくると、自分たちは逃げたというのです。日本兵は武器も違うし、布陣の組み方も違うのですぐにわかるそうで、ものすごく強かった、射撃の腕もぜんぜん違う、というのです。これはもちろん、あくまで私が取材した農民兵士たちの言葉で、一般に公開されている戦史には出てきません。

烈士陵園の中の資料には当然何も書いてないと思うのですが、すぐ近くに「太原解放記念館」というのがあって、そこの展示物には何か書かれているのではないかと思い、そこに行ってみたかったのです。本屋の店頭に並んでいる、“戦記シリーズ”の中には、ここで俘虜となった日本兵の写真が載っていました。

と、もったいぶった前書きが長々と続きまして、今さら何ですが、実は行けなかったのです。村に帰る前日に設定して、列車の切符も購入済みでした。その日は雨が降ると予報に出ていたのですが、大雨でもない限り、降ってくれた方がほこりがたたないのでありがたい。くらいに考えてホテルを出たのですが、大通りに出ると、もう“濁流渦巻く”状態で、バス停まで行くだけでジャブジャブ川を渡らなければならず、ほんとうにどおってことない小雨でしたが、前日の夜から降っているので、すでに排水許容量を超えていて、至るところで冠水していたのです。

意を決して川を渡り、乗り換えの太原駅まで行ったのですが、ここがまたすさまじく、その上、濁流は白い泡にまみれて洗濯汚水のようで、あの泡の実体は何だろう?と考えると、さすがに二の足が出ず、翌日の切符だけ受け取りに行って(ネットで購入したチケットを駅で受け取る)、また同じバスでホテルに戻りました。

つまり、2つの主目的は2つとも果たせず、「久々の太原でしたが。。。。」というタイトルが付いているのです。いずれ記念館には行って、また報告させていただきます。

ところで、下の六文銭さんのコメントを受けてですが、まったく、ほんと〜〜に、開いた口がふさがらない彼らの無責任さ、もしかしたら“恥”という言葉を知らないのかと思うほど、澄田某と閻錫山の汚い取引。残留兵士たちも、否応なく侵略者に列するとはいえ、ほとんど何も知らされないままに敵と闘って、からくも生き残ったというのに、自己保身のために売り飛ばされ、あげくに国家補償からもはずされ、どんなにか無念の思いを抱いて、今はもうほとんどの人が鬼籍に入ってしまわれたんでしょうね。

閻錫山にしても、形勢が不利だと判断するや、あとのことは頼んだと、身内の青年たちや長く闘いを共にした同志たちに、青酸カリを渡して、自分だけさっさと逃げ出す。500人分の青酸カリを用意していたようで、あきれたことに台湾に行ってから、「最後の500人」みたいな本を出しているんですよね。実際に服毒したのは50人くらいだったようですが、度重なる降伏勧告に最後まで肯うことなく、閻なきあとの政府中枢の人たちは、壮絶な最後を迎えたようです。

澄田某も、帰国しても罪に問われることなく、家庭を持ち、立派に子供を育て上げ、そりゃ子供に責任はありませんが、なにしろ日銀総裁にまで出世したんだから、よっぽど親の教育が良かったんでしょうね。

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1枚目は牛駝寨要塞。2枚目は、閻錫山がアメリカジャーナリストに青酸カリのカプセルを見せているところ、のようです。我々はこれだけ覚悟を決めているんだ、というアピール。蛇足ですが、まったく同時期に撮られた写真だというのに、この解像度の違い!

六文銭六文銭 2016/05/03 14:14  澄田という現地の司令官が、自分の戦犯としての追訴を免れるため、兵士たちを日本軍の命令と偽って国民党軍に売り渡し、自分はさっさと逃げ帰った結果ですね。その後、生き延び、中共軍お捕虜となり抑留生活を送った奥村和一氏などが「逃亡兵」扱いを改め、軍人恩給などの対象とするよう提訴したのが「蟻の兵隊」事件ですが、その奥村和一氏、私どもが太原を訪れた2011年に亡くなられています。
 映画の後半、当時の参戦地、山西省を訪れた奥村氏ら一行が、自分たちが被害者である反面、というかそれ以前に、加害者であったことを知るくだりが印象的でしたが、これは同時に、日本の「反戦平和」が被害者意識に裏打ちされたものにすぎないことを告発するものでもありました。
 訓練された日本人部隊はやはり組織的で強かったでしょうね。

maotouyingmaotouying 2016/05/04 15:10 私はこの映画を観ていませんが、『ゆきゆきて神軍』とはまた違うのでしょうね。やはりポツダム宣言の武装解除の問題がネックになっているのではないかと思います。満蒙開拓民が絶望の逃避行を開始する前に、すでに日本に逃げていたという石井部隊とか、BC級戦犯の問題とか、下の者、弱い者たちを食い潰して日本の戦後の繁栄が始まったのかと思うと、暗然たる思いがします。そういう過去を絶対に忘れてはいけないです。

naienaie 2016/05/06 17:49  ・・・なんとも・・・知らないコトが多い・・・「ヘイワなクニ・ニッポン」だけれど・・・