老道外 その2

最初に道外に入った時は、すでに午後3時を過ぎていたのでじきに夕暮れになってしまい、私は翌日にまた出かけました。ひとつには、とても気になった建物を見つけたので、それが昔いったい何だったのか確認したかったからです。


メインストリートである靖宇街にある建物は、今でも使われているものが多いのですが、内部が改修されていたり、1階だけを店舗に使用して、上階は無住というところもあちこちに見受けられました。所々に取り付けられている説明版を見ると、1920年前後に建てられたもののようですが、かなり老朽化が進み、裏道に入り込むと、確かにボロボロで、危険な建物も多そうでした。かろうじて整備されているのは、このメインストリートと、「老道外」として観光開発された一角だけです。


この繁栄を誇った道外が、なぜ現在のように寂れていったのかというのは、ネットを探しても見つかりませんでしたが、まずは日本による侵略と収奪、そして新中国建国後は共産党政権であったために個人資本は否定され、そしておそらくは文革で息の根を止められたのではないかと、私は想像します。ここを教えてくれたハルビン在住の友人によると、現在の道外は低所得者層が住む町で、近年は出稼ぎ労働者の町となっているそうです。上の写真のおばちゃんも、山東省からの出稼ぎだといっていました。冬は暖房が入らないので部屋で石炭を焚いているそうです(一般の家庭は、地区ごとに全館暖房されるインフラが整っている)。ちなみに看板にある「寿衣」というのは、「葬衣」のことです。


これは「老道外」に掲げられていた案内図ですが、この18番が、かつて日本の憲兵が使っていた建物だと書いてあります。ところがどうもこの地図が正確ではなく、また街行く人に聞いても誰もわからず、けっきょく見つけることができませんでした。昔からこの地に住んでいたという人はほんとうに少ないようです。




この建物は日本人が建てたと、近くにいたおっさんがいうのですが、これも真偽のほどはわかりません。彼は、「違うだろう?他の建物と。これは日本式の建物だよ」と自信ありげに主張したのですが、いわれてみればそんな気がするようなしないような。。。

で、最初に戻るのですが、初日に街をぶらついていた時、無住なのかどうかわからないある古ぼけた建物の中に入ってみました。メインストリートからは少し外れた場所にあって、外壁には他の建物のような装飾はいっさいなく、窓も小さく、なんだか工場みたいな雰囲気でした。門のない小さめの入り口を入ると、広い中庭を囲んで、3階建てになった小さな部屋がぐるりと取り囲むようにあり、今も人が住んでいる雰囲気でした。




突然の侵入者に、おじさんがぬっと顔を出したので、うまく全体の写真が撮れなかったのですが、こういう感じの建物は以前にも2種類見たことがあります。ひとつは「土楼」と呼ばれる客家の建築物で、その流浪と迫害の歴史から、自らの集団を守るために堅固な要塞のような建物を作り、1軒の家に一族郎党、時には数百人が一緒に暮らしたというものです。今も広東省福建省に散在していて、私も2度ほど訪ねたことがあります。やはり3階建てくらいのものが多く、広い中庭を取り囲む形でたくさんの部屋がありました。ただし、土楼は、その背景からいっても、都市部には建築されません。

いまひとつは、いわゆる売春宿です。2日目に行ったとき、ちょうど入り口からのぞき込んでいた青年と出会い、北京からの出張だといっていましたが、彼に、以前は何だったのかを聞いてもらいました。前日に見たそのおじさんは、知らないと答えましたが、おそらくは言いたくなかったのでしょう。洗濯物も干してあり、ここで暮らしているのは間違いありません。あまり歓迎されている風ではなかったので、じきにそこを立ち去りましたが、とにかくこの街では、日本人の家だと言っていた人以外、みな口が重く、気軽に会話ができた人はいませんでした。