逃げてゆく日々

川勝正幸さんが亡くなったと報道があった日に小沢健二のオペラシティのチケットも外して、これはやばいなと思っていたら案の定次の日に体調崩して39.5℃の熱が出た。人生で初めて39℃を超える熱を出した。季節柄インフルエンザだと思い込んで病院にいったらインフルエンザ検査で陰性で、結局ただの心労が引き起こした風邪なだけみたいでした。

たくさんの人が川勝さんを悼んでいて、テレビでもラジオでも雑誌でもUSTREAMなんかでも追悼特集のようなものがあったみたいだけれども、そのどれもを見られないまま今日まできてしまった。都合がつかなかったのではなく自分から避けている。まだ追悼する気が起こらない。私は川勝正幸という、学生時代に憧れに憧れた人を失ったことを、頭ではわかっていても実感として認めることができないのだ。

知らない人を2万人失うよりいくつかのイベントでちょっとした話題を二言三言交わした1人を失う方が格段に堪えるという身も蓋もない薄情な自分を恥じることも責めることもなく、人が生きてゆく上での現状認識ってそういうものだよな、と受け入れているようなポーズは取っているけれども、本当のところは今はまだよくわかっていない。だって川勝さんの死を受け入れていないのだから。

私は川勝さんになりたかった。
毎日『東京ガールズブラボー』を涙ぐみながら読み続け、岡崎京子の担当編集になりたいという夢を持って大学受験を乗り越えたので、映画『うたかたの日々』のパンフレットのようなハイクオリティなものを作った川勝さんのような人になりたくてサカエちゃんと同じ心境で上京してきた。
そして大学2年の5月に私は一つの夢を失った。似たような趣味を持った学生が集まる大学は騒がしくて、でも、雑然とした中から伺える反応を感じていると、他の学生にとっての岡崎京子の事故の衝撃はどうやら私ほどは強くはないようだった。出版社に入って岡崎京子の担当編集になることを目標としていた私と創作者として世に出ることを夢見ていた彼ら彼女らでは立ち位置が違って当然だと今ならわかるけど、当時はとても寂しかった。
事故後の岡崎京子の仕事をまとめるのにも川勝さんが活躍していたのはよく知っていた。本人がほぼ作業ができない中で発行された彼女関連の出版物で飛び抜けてクオリティが高かったものはCUTIEで漫画化連載していた『うたかたの日々』をまとめた単行本だと思うのだけど、装幀箱にかかっていた帯に書かれていたコメントが川勝さんのもので、「この作品の痛さと美しさは21世紀に入っても錆びついていない。」という言葉だけで泣きそうになったのもよく覚えています。

POPなんかに書かれていた川勝さんコメントの全文は多分これだと思う。

94/95年、コレクターとDJとフリーターの時代に岡崎京子は「現代における最も悲痛な恋愛小説」を漫画化して、新たな命を吹き込んだ。「私の夢はオカザキ版『うたかたの日々』を読んでパリジェンヌが涙を流すことよ」とは、当時の京子先生の弁。作品の痛さと美しさは21世紀に入っても錆び付ついていない。日本のみなさん、ハンカチをご用意ください。

http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101967190/

岡崎京子がCUTIEに『うたかたの日々』の前に連載していたのが『リバーズ・エッジ』だったのだけど、そこで描かれている東京の高校生の話は、私と同い年の子達なのに私とかけ離れた生活をしていて、私と岡崎京子の間に距離を初めて感じて連載を追う度に悲しくなった。都立の共学の(一部を除いてだいたい)普通の生徒達の話、そこに流れる空気感は田舎の私立の女子校の中に閉じ込められていた私には全く共感できないものであって、あの時の孤立感を思い出すだけで今でも泣き出しそうだ、というかこれを書いている今も涙ぐんでいる。私、あの時、岡崎京子に見放されたと思ってとても悲しかった。悲しくてしょうがなくなるからCUTIEを立ち読みした日は家に帰ると『東京ガールズブラボー』の中をいつもより激しく飛び回っていた。サカエちゃんは私だから、そうすることでしか自分を慰められなかった。そうやって『リバーズ・エッジ』を最後まで距離を感じながら読み終わって次の連載を怯えながらも待っていると、そこに広がる『うたかたの日々』の世界は私を受け入れてくれて、フランス系カトリック修道会が経営する学校の中でボーヴォワールを読むような女子高生にきちんと語りかけてくれて、私は岡崎京子に見放されていなかった!とやっぱり泣きそうになったこともあった。岡崎京子は当時の私が現実を生き抜くためにすがる大きな柱だったから、彼女に見放されたら生き延びていけるか不安でしょうがなかった。私の戦場は全く平坦ではないもっと古臭い従来型の戦場に近かったので、都会の最先端の戦場を描かれてもそこにコミットする術を持っていなかった。東京は果てしなく遠い場所だった。東京での生き延び方も想像できなかった。原作ボリス・ヴィアン程度まで時間を巻き戻してもらってちょうど私にフィットするくらい古臭くなおかつ普遍的な戦場で戦っていたからだ。
当時は「渋谷系」という呼称が出回り始めた頃だったけれども、私の渋谷系は結局川勝正幸HMV時代の太田浩が薦めたもので成り立っていたように思います。
http://d.hatena.ne.jp/dothemonkey/20120213
渡辺祐さんによる「川勝正幸さんお別れの会」の報告を読んでいると、川勝さんというより渋谷系とか呼ばれた「あの頃へのお別れの会」のように見えて、もう自分にはあの場もあの頃の熱量もないことを痛感させられる。
そしてこんなことを書かれてしまうと、上京してすぐに東京タワーに行きHMV渋谷に行きCISCOに行き下北沢で理髪店を探してゲンスブール・ナイトがクラブデビューみたいなものだった私は泣きじゃくるしかないのだった。

かつて川勝さんは「はっぴいえんど少年」として、上京してすぐに「ムルギー詣」をしたのである。松本隆さんと親しいおつきあいが始まるきっかけとなった取材でも、松本さんと共にムルギーを訪れている。
 今日もおいしかったけれど、これからはもっとおいしく思えるような気がする。

小西康陽プロデュースの頃の夏木マリライヴにいったら目の前にいた川勝さんと一緒に『カーネーション夏木マリ登場を見届けたかったけど、でも、もう仕方ないよね。

私は岡崎京子の喪失を抱えて生きながらえるうちに自分が岡崎京子にならなきゃと思うようになった。きっとあのまま岡崎京子が漫画を描き続けていたら、誰も踏み入っていない領域を踏破して私達にもその場所の風景を見せてくれていたと思うのだけど、そこはもう自力で目指すしかないと腹を括った。最近やっとその場所がどこにあってどうやったら行けるのかルートが見えてきて踏み出し始めたんだけど、私のやっていることがなかなか外に伝わらなくて、結局川勝さんの元に届かなかったことだけは悔やまれる。私、川勝さんに私の書いたものを読んでもらいたかった。なんとか作品を生み出しても、それを流通させる難しさが生み出す苦しさとまた違う苦しさと共に立ちはだかってその前でもがいていたけど、誰に認められなくてもきっとあの後の岡崎京子はその道を描き続けていたと思うので、やっぱり挫けずに頑張ろうと思います。そして、読んでもらいたいな、と思う人に読んでもらえる形にするという山もなんとかして越えたいと思っています。せっかくたどり着いた道なのだから焦らず迷わずきちんと生んで育てて進み続けようと思います。