山川賢一『成熟という檻』

アニメ「まどマギ」は、今、映画館で続編が上映されているが、その内容は、正直、私には少しもおもしろくなかった。
それは、そもそも、なぜ、このアニメが注目されたのかと、そのどこか宗教っぽい内容とが、なんの関係もないように思えてしょうがないからである。つまり、テレビ版のラストから、今回の映画までのパラレルワールド的なモチーフは、このテレビ版アニメの前半の注目点と、

  • なんの関係もない

ように思えるから、なにか、全然別の話をしているように思われるのだ。
このアニメは、ある意味で、視聴者を「挑発」する、

  • ホラー・エンターテイメント

から始まっていた。つまり、そういった「不謹慎アニメ」として、スタートしていながら、なぜか、ラストで、全然別の話に、すりかわってしまったわけである。
第一の問題は、言うまでもなく、第3話で、魔法少女である巴マミ(ともえまみ)が、非常に残虐な形で、殺される場面が描かれたことである。
あのマミの死に方は、どこか、アウシュビッツユダヤ人のナチスによる殺され方を思わせるような、残虐さがある(むしろ、そういった印象操作を狙ったのであろう)。
そもそも、日本のテレビアニメーションにおいて、こういった「魔法少女」ものというのが、次々とシリーズ化されてきていて、この文脈においては、こういった主人公の少女が「変身」して、

  • 力をもった

後は、ほとんど、あらゆる夢をかなえる、無敵の存在として描かれていた。
つまり、大事なことは、この現代日本におけるコンテクストにおいて、「魔法少女」という言葉は、そういったテレビ・シリーズが与える「印象」において理解されることをコンセンサスとなっていたわけである。
しかし、ここで大事なポイントは、そういったテレビ・シリーズにおいて描かれた「魔法少女」は、そもそも「戦争」とか「殺し合い」の

  • 象徴

ではなかったことである。つまり、日常の「トラブル」を、あくまで「平和裏」に、ちょっとした「知恵」で解決する、「ちょっと勇気を出せば、女の子だってこれくらいはできちゃう力(ちから)」といったような、いわば、本当は男の子と同じように力をもっているんだけど、世間の女の子に対するイメージから、しりごみするところを

  • 後押し

するといったような、そんな「ちょっとした勇気」のようなものとして「魔法少女」の行動が示唆されていた、ということである。
つまり、このアニメは、そういう意味で、視聴者に、そういった平和の象徴としての魔法少女のイメージと、「殺し合い」のための「武器」としての魔法を「使う」少女との二つを、「混同」させることで、視聴者の印象操作を行っているわけである。
言うまでもなく、力と力がぶつかり合えば、どちらかの力が相手を勝る。そして、巴マミ(ともえまみ)は、ゴミ屑のように、ボロ雑巾のように、雑に扱われ、死ぬ。つまり、彼女たちは「変身」しても、その力比べに負ければ、なんの力ももたなかった時そうであったのと同じように、死んだわけである(つまり、勇気なんて、なんの意味もなかったわけである)。
ここで、もう一つ重要なポイントが、マミが、この戦いに挑む直前に、これからは後輩ができたのだから、うまくやっていきたい、といったような

  • 将来の希望

を語っていることである。まるで、中学高校生が、突然、不慮の事故で死んだ後、マスコミなどで、その少年少女の「将来の夢」を書いた作文が、衆人監視の下でさらされることに似ている。
悲劇の少女は、「将来の夢を見る」少女である。だから、彼女たちの突然死は、悲劇なのである。これから、きっと、将来は明るいと思った、その瞬間奪われる命は、まさに、ホラー映画の特徴である。
つまり、宗教説話においては、全ての因果は報われるわけですが、この「物語」は、そういった「希望」だとか「友情」だとかといった「メロドラマ」は報われない、という

  • <逆>教訓説話

となっているところが特徴だ(つまり、夢なんて、なんの意味もなかったわけである)。
そして、最後に、重要なのが、第七話の冒頭の場面である。

さやか:だましてたのね、あたしたちを。
キュゥべえ:僕は魔法少女になってくれって、きちんとお願いしたはずだよ? 実際の姿がどういうものか、説明を省略したけれど。
さやか:なんで教えてくれなかったのよ?
キュゥべえ:聞かれなかったからさ。知らんければ知らないままで、なんの不都合もないからね。事実、あのマミでさえ最後まで気付かなかった。そもそも君たち人間は魂の存在なんて最初から自覚できてないんだろ? そこは神経細胞の集まりでしかないし、そこは、循環器系の中枢があるだけだ。そのくせ、生命が維持できなくなると、人間は精神まで消滅してしまう。そうならないよう、僕は君たちの魂を実体化し、手に取って、きちんと守れる形にしてあげた。すこしでも安全に魔女と戦えるようにね。
さやか:大きなお世話よ。そんな余計なこと。
キュゥべえ:君は戦いというものを甘く考えすぎだよ。例えば、お腹に槍が刺さった場合、肉体の痛覚がどれだけの刺激を受けるかっていうとね。
さやか:うっ(苦痛にお腹を抑えて)。
キュゥべえ:これが本来の槍が刺さったときの痛みだよ。ただの一発でも動けやしないだろ。君が杏子との戦いで最後まで立っていられたのは、強すぎる苦痛がセーブされていたからさ。君の意識が肉体と直結していないからこそ、可能なことだ。おかげで君はあの戦闘を生き延びることができた。慣れてくれば、完全に痛みを遮断することもできるよ。もっとも、それはそれで動きがにぶるから、あまりお勧めはしないけど。
さやか:なんでよ。どうして、あたしたちをこんなめに。
キュゥべえ:戦いの運命を受け入れてまで、君には叶えたい臨みがあったんだろ? それは間違いなく実現したじゃないか。

この場面は、さやかが、自分が「魔法少女」となったときに、実際は、

  • ゾンビ

つまり、人間ではない存在に変えられていたことを知る場面である。つまり、キュゥべえは、さやかが魔法少女になるとき、同時に、人間ではないゾンビにさせられることを教えられなかったことを責めているわけである。
それに対する、キュゥべえの答えは、「聞かれなかったから」教えなかった、というだけである。それ以外の、ここでのキュゥべえの「饒舌」は、まったく、答えになっていない。
キュゥべえが言っていることは、一種のパターナリズムである。つまり、それは「さやか」の事情とは、なんの関係もない。さやかは、上条恭介(かみじょうきょうすけ)の腕の怪我を直して、彼がバイオリンをもう一度ひけるようになることを願っていた。しかし、そのことが、同時に

  • 彼女が恭介と、もう一度、前のように仲が良くなれる

ことを含意していることは、人間なら、だれでも気付くわけであろう。

インキュベーターは故郷の惑星で、ちがう価値観思考をもつ他人というものを知らないまま進化してきた。このような生物に、契約という概念が生まれるはずもな。九話でのキュゥべえの言葉によると、宇宙には他にもさまざまな文明が存在するらしいので、それらとの接触により他人の存在を知ってはいるだろうが、その理解はぼくらの考えるものとはかけはなれているはずだ。たぶん、彼らの価値基準では正当であるような、ある関係を、とりあえず「契約」と呼んでいるだけなのだ。こうした特徴を考えると、彼らが、

騙すという行為自体、ぼくらには理解できない。認識の相違から生じた判断ミスを後悔するとき、なぜか人間は、他者を憎悪するんだよね。

という意味もわかる。
誰かを騙すとは、相手の内面を推測して、誤った方向に誘導することだ。しかしインキュベーターには、他人の思考を推測するというスキルが存在しない。たとえ誰かにだまされたとしても、彼らにとってそれは、台風が突然予想外に進路を変えたとかいった出来事と変わらなく感じられるのだろう。彼らが少女たちを騙しているようにみえるのも、たんに自分たちに都合のいい反応を引き出せるような言葉の使い方を人類との交渉経験から学んで、それをくりかえしているだけなのだと思われる。

私は、上記の引用に非常に違和感をもつ。というのは「契約」という概念を、どうして、他の生物が理解できる、と考えているのか。いや。そもそも「契約」とは何を意味しているのかを、この掲題の著者の主張が理解できないからである。
掲題の著者は、契約という概念を理解しない宇宙人と、理解する宇宙人がいる、という二つの分類が成立する、ということを前提に話している。しかし、私には、そもそも、その話の前提が理解できない。
というのは、往々にして、契約は、同じ人間の間であろうが、同じ日本人の間であろうが、うまくいかないし、大事なポイントは、

  • そうである場合でも、その「トラブル」を終息させる「手続き」がセットになっている

ということである。つまり、そもそも契約とは「契約の失敗」の場合の「事務手続き」を含意していない限り、そう呼ばれない、ということである。
例えば、国内法であれば、民法であり、国際法であれば、国連のなにかの条約といったものと照し合わせて、なんらかの、どちらかに対しての、

  • 判決

が行われるわけであろう。つまり、掲題の著者は、そもそも、これは「契約ではない」と言わなければいけないんじゃないか。つまり、こういった性質のものを契約と呼ぶことは、ミス・リーディングなわけである。
契約とは、お互いが「合意」していることである。つまり、その「内容」に対する共通理解が前提である。ところが、人間の側は、ほとんど必ず、

  • こんなはずじゃなかった

という、契約内容に対する「不満」で終わっている。しかし、その不満を訴える裁判所が存在しない関係なのだから、この関係を契約と呼ぶことは正しくない。
つまり、ここで大事なことは、「魔法少女」は、「騙された」少女たち、だということである。彼女たちは、まだ、この社会の仕組みを理解していない。契約とは、どういうことなのかもしらない。そういった未教育な子供たちを、大人が口先で、「騙した」結果が、「魔法少女」だということである。
今の日本においても、俺俺詐欺にひっかかる老人が後を絶たない。世間を知らない少女は、簡単に、大人たちに騙されて、「魔法少女」にさせられてしまう。つまり、このアニメは、そういった簡単に騙されて、大人の餌食になる、「優しい」少女たちの「純真無垢」な部分を

  • それゆえに簡単に悪に利用される

愚かな存在として、つまり、騙されて「魔法少女」なんかにさせられてしまう「詐欺のかっこうの餌食」として、風刺しているわけである。
このアニメは、一連の、

  • ダーク・ヒーロー物

だと私は思っている。その典型は、貴志祐介の小説「悪の教典」の主人公の高校教師「ハスミン」である。では、このアニメにおける「ハスミン」は誰か。言うまでもない。キュゥべえだ。
ハスミンは物語の最後で、学校に閉じ込められた自分が担任をしているクラスの高校生全員を、一人一人、猟銃で打ち殺していく。そして、ハスミンはそれを

  • 楽しむ

わけである(やっていることに、「充実感」をもっているという意味で、キュゥべえが少女たちを次々と「魔法少女」という「ゾンビ」に、俺俺詐欺的手法でだまくらかしていくことに「充実感」をもってやっている姿に重なるであろう)。
ところが、である。あの文庫版の後書きで、映画監督は、このハスミンを、「ヒーロー」なんだと強弁する。クラスの子供たち全員を打ち殺す人間を「(時代の閉塞した空気を打ち破る)ヒーロー」だと言ってはばからない。
こういった、「楽しんで」人を殺すサイコ・パスを

  • ヒーロー

として描くSFが、「哲学に善悪はない」という哲学主義者たちによって、礼賛化されていく orz。
東さんが言っているダーク・ツーリズムが、そもそもなぜ「軽薄」論に始まり軽薄論で終わるのかは、早い話がここにあるわけでしょう(そもそも、井出明という大学教授は、ダーク・ツーリズムの定義を「悼む」としか言っていない)。つまり、東さんの最初のアイデアにおいては、ダーク・ツーリズムは、SFにおいて主題となっていた、ダーク・ヒーローの「アナロジー」のイメージから始まっているわけで、だから、絶対に「軽薄」を正当化する議論を抜きに語ることはできないわけだ。彼は、そもそも、筒井康隆の文学聖域論の延長で、悪の非哲学化を主張するわけで、むしろ、彼の「哲学」からは、「フクシマ」を不謹慎の場所にすることと切っても切れない関係にあるのでしょう。
東さんが福島第一のダーク・ツーリズムにこだわる理由は、池田信夫原発にこだわる理由に似ている。つまり、国民が「嫌悪」しているから、反発が強いから、ますます燃える、というわけである。
一般にダーク・ツーリズムと呼ばれている対象は、ほとんど「歴史の審判」が終わっているものばかりの印象を受ける。つまり、その「責任」が多くは明確になっている。ところが、福島第一は今だに、被害者への賠償も終わっていないし、事故原因も、責任論も、まったく決着していない。今後の福島県民の健康被害の見積りさえ、時間が経ってみないと分からない、とさえ言われている。つまり、福島第一ダーク・ツーリズムは、一種の、

にしか見えない側面がある。つまり、こういった責任の明確化のプロセスを省略したまま、東京電力

  • 社会的役割

の拡大を「期待」することは、一種の「免罪」運動の色彩を強くしているんじゃないのか、という印象を受ける。しかし、おそらく、この二つは切っても切れない関係なのだろう。東京電力の「協力」なしに、福島第一ダーク・ツーリズムを行うことはできない。つまり、あらゆる争点において、必然的に、

で発言しないわけにはいかない(そうでなかったら、敵扱いされて、入口で東京電力側の協力を期待できない)。しかし、それは逆に言えば、東京電力利益相反で行動する覚悟だということであり、彼らの発言に、そういった「バイアス」があることが避けられないことと同義となる(しかしそれは、池田信夫原発推進発言も同じであろう)。つまり、これが彼なりの、

  • ダーク・ヒーロー

なのだろう...。

成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論

成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論