金菱清/大澤史伸『反福祉論』

学校の校長が生徒が自殺をしたら対応するとか、ふざけたことを言ったとかでニュースになっていたが、
http://www.nikkansports.com/m/general/news/f-gn-tp0-20150116-1422309_m.html
まあ、官僚だよな、と思ってしまうわけである。問題が起きたら対応。しかしね。問題が起きたときには、すでに悲劇は完成しているわけでねw そんな後になって、のこのこ出てきて、一体、何を言うんでしょうかねw 頭のいい人たちって、自己保身しか考えてないから、言い訳の一つでも言うんだろうね。いいね、それで生きていける人たちは。
そもそも学校の校長なんて、いっつも、生徒が自殺をしないために、なにができるかを考えているような人がなるのかと思っていたら、「死んだら考える」だってさ。これじゃあ、日本中、自殺者だらけになるね。こういう「やるやる詐欺」って、どうせ、死んだって、考えやしないんだ。普段からやっていないことを、どうして、その時になって、考えられるのさ。ほんと、その生徒が自殺をしないで、かわりに、この校長が自殺をしてくれたら、どんなにいいか、と思うよ。
やる気のない校長は、学校の邪魔だから、追い出そう。そうすることで、始めて、学校の平和が取り戻せる。
最近よく思うのは、なんというか、中世を経て、フランス革命がおきて、現代社会になって、さまざまな「常識」が生まれたわけだけど、その過程で、本当は中世までの人たちには「常識」だったような、

  • 人間だったら当たり前のようにもっていた

「感情」のようなものが、さまざまに現代社会では抑圧されているんじゃないか、と思うわけです。なにか変なんじゃないか。

「当時は、言論の自由に対して"決闘"という名の抑止力がありました。ジャーナリストは、中傷した相手から決闘を申し込まれたら、絶対に受けなければなりません。ピストルかフェンシングで戦い、結果として殺されても仕方がないのです。ですから、19世紀のジャーナリストは、まず射撃かフェンシングを習いにいったようです。道場が街のいたるところにあり、結構儲かっていたみたいですよ」
仏紙銃撃テロ 殺されても自己責任…フランス人にとって風刺画とは? | 日刊SPA!

そうだよなー、と思うわけである。そういえば、言論の自由があるんだから、法律違反にならない限り、なにを言ってもいい。あとで訂正すればいい、とマジで、本に書いていた奴がいたけどw、そんなの絶対におかしいと思いません? だれだって、自分が侮辱されたら、相手にそれをとりけさせようとするんじゃないですか? ウィキを見ると、フランスは20世紀の最初くらいまで、当たり前のように、決闘をやっていたそうだけど、果して、今の言論人で、決闘を受けて立つような人っているんですかねw みんなヘタレでしょう。自分の言いたいことだけ言って、言い返されるとブロックして、陰で、悪口を言っているって。本気で言論の自由を言うんだったら、当然、「決闘の義務」を引き受けなければならないんじゃないですかね。違いますかね。
だって、そうでなかったら、あまりにバランスが悪くないですかね。

「あそこまで過激にイスラム批判を繰り広げていたのは、シャルリー社を除くと僅かです。また多くのフランス国民も、シャルリー社の風刺画を擁護しているわけではありません。多数の人間がデモに参加した理由は、暴力で言論を封殺する時代が再来することへの恐怖ともいえるでしょう」
デモに参加した人たちのすべてが、シャルリー社の代弁というわけではないということだが、そこまでして、強硬に言論の自由を打ち出したシャルリー社にもタブーはあるという。
反ユダヤ主義です。フランスは何でも明文化する社会ですから、ホロコーストを礼賛する言論は法律で禁止されています。1990年に成立したゲソー法です。もしこれ以上、イスラム言論の自由の対立が激化するようであれば、曖昧さを避けるための反イスラム言論に法規制を提案する人が出るかもしれません」
仏紙銃撃テロ 殺されても自己責任…フランス人にとって風刺画とは? | 日刊SPA!

こういうわけでしょ。なにが言論の自由だと思うわけですよ。だって、ホロコースト礼賛は禁止なんでしょ。だから、禁止されているから、ルールだから、やらないんでしょ。なんなんですか。言論の自由とか、嘘じゃないですか。法律が恣意的だってことを意味しちゃってるじゃないですか。
これと同じようなことを、掲題の本を読んでいて、日本の福祉に対しても思うわけですね。
つまり、日本という国家の福祉を受けるには、国家が提示する「法律」によって決められている「手続き」にもとづいて、そのプロセスを経て決定されるサービスということになる。つまり、そういった意味でのハードルが、最初から決定されている。このサービスを受けるのは、このサービスに「受かりやすい」属性をもつ人であって、本来的な意味において、福祉を必要としている人と、同一ではない。さまざまな理由から、福祉のサービスが受けにくい、さまざまな事情を抱えた人たちは、最初から、この枠組みに近付いてこないし、そしてそのことに多くの人たちは疑いをもたない。
国家は「特別」な存在として、福祉を提供する「権利」をもっていて、その現場での運用を決めるのは、官僚たちの「裁量」だということになる。当然、官僚たちも「人間」なのだから、嫌いな奴には、サービスを与えたくない。自分たちの内輪の仲間にはサービスを厚くしたい。
私がここで問題にしているのは、そもそも、国家に福祉なんてできるのかな、ということなのだ。国家にそんな「高度」な能力を求めることは妥当なのだろうか。それは、国家が必要かどうかとか、官僚に能力があるのかどうかどか、そういった一般的な話ではなくて、単純に、本当に福祉を必要としている人に、それ相応のサービスを行き渡らせることを目的とするときに、どうしてそれが国家に行えると考えるのか、ということなのである。それは国家が悪いというより、この、さまざまな制約のある「国家」という制度を、なにか「万能の魔法の杖」のように思っている、我々市民の側が、なにかを勘違いしている、ということなのであろう。
しょせん、国家とは「ルール」の産物であり、限界がある。つまり、国家の「拡大」によって、理想社会を目指す、といったような方向性が、大きな限界につきあたらざるをえない、ということなのではないか。
たとえば、今の政府は、言ってしまえば、経団連の言うがまま、なわけであろう。ホワイトカラー・エグゼンプションにしても、経団連は年収400万と言っているわけで、経団連が「狙っている」層がまったく違うことが分かるであろう。しかし、経団連が国家に要求すると、簡単に、「ルール」を庶民の意見も聞かずに、作ろうとし始める。
しかし、よく考えてみれば、これが「国家」なわけであろう。これが国家の本質ではないか。常に国家は、さまざまな特定利益団体の利害が衝突して、進んでいく組織にすぎない。つまり、国家に我々が理想とするような、福祉の「あるべき姿」を見出そうとすることに、限界がある、ということなのではないか。

このことから分かるように、「ひなたぼっこ」を利用する人びとの状況というものは、大きく二つに分けることができる。一つ目は、社会福祉の「対象者であっても利用できない場合」である。つまり、その対象者が社会福祉の制度を利用しようとしても何らかの理由により、その制度を利用するためには時間がかかってしまい、日常生活を送る上で支障が出てきてしまう。たとえば、利用したい福祉施設が十分に設置されておらず、すぐに利用できない。
そして、二つ目が、「対象者でないから利用できない場合」である。つまり、その人が障害者手帳をもっていない、介護保険の適用を受けることはできないが日常生活を送る上では困難が生じるなどの、いわば法制度が定めている福祉サービスを受ける上での資格に該当しない、グレーゾーンにいる人びとの存在である。いわゆる、既存の社会福祉制度を十分に活用することができない、制度の枠の外にいる人びとである。

よく考えてみれば、国家が福祉を提供するのはルールに適合したからにすぎないわけであるが、本来は、

  • この人には福祉が必要だ

という人に与えられなければならない、というわけであろう。しかし、こういった「誰が福祉を必要としているか」なんていうことは、それなりに相手と親しくなって、それなりの間、一緒に生活をしていれば、普通に分かってくることではないだろうか。しかし、国家はそういったことを、あくまで「ルール」によって、篩分けしようとする。表面的な「適合性」にしか、興味がない。もっと言ってしまえば、お前そいつのことを知らないのに、なんでそいつに「福祉が必要ない」とか言ってんの、ということであろう。
たとえば、こういった「活動」を考えるとき、人間社会の中で、宗教が果してきた役割というのは、大きいのではないか、と思うわけである。

この聖書の全体を通してイエスが禁じていることは、「思い患い」、「心配」である。イエスは、無為無策で、無鉄砲な生き方を勧めているわけではない。彼が人びとに教えたいことは、自分の最善を尽くし、あとは神に任せよということである。
エスは、この箇所以前の部分で、「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか」(ルカによる福音書一二章二四節)と言っている。
烏は、旧約聖書モーセの律法では、食べてはならない忌むべき鳥とされている(レビ記一一章一五節、申命記一四章一四節)。しかし、ここでは、そのような忌むべき存在でもある働かない烏でさえも養ってくださることを表現して、私たち人間は当然のごとく神は養ってくださることを強調している。

宗教の場合、多くの人は、その「教義」になにか「意味」を見出そうとする。それが「修行」であったりするわけであるが、果して、イエス・キリストは修行をしたんですかね。そういう意味では、教義自体にとらわれることは、その本来の役割を見逃す。
宗教はまず、多くの人が「関わる」ことになる。さまざまな立場の人たちが、その範囲で関わる。お金のある人は寄付をするし、お金のない人は施しを受ける。しかしそれは、実際のこの運動に関わる人の、実践的な行動なのであって、常にそれは、その

  • 現場

での判断である。この人に施しが必要だと思えば、施しを行うし、この人からの寄付が必要だと思えば、寄付をお願いする。その場合に前提となることとして、さまざまな階層の人たちが、さまざまに「関係」している、ということなのではないか。都会は多くの場合、人びとが孤独に生きている。特に、比較的お金を持っている人たちが、貧しい人たちと、まったく

  • 関係なく

生きている。つまり、彼らが貧しい人たちと関係する場所がない。人と関わらずに生きているのが、都会であるわけで、つまり、「関係」もないのに、ボランティアや寄付の感情も湧いてくるのか、ということなのである、つまりは、そういった実践は常に現場での「判断」であるわけであり、実際に、生きたイエスたちの運動だってそうだったのではないか...。

反福祉論: 新時代のセーフティーネットを求めて (ちくま新書)

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