自由ってなんだ?

シールズが叫ぶ「民主主義ってなんだ?」に対抗して、私はここで、「自由」について考えたい。
さて。自由ってなんだろう?
人Aが、人Bを、拘束しているとする。奴隷にしている、でもいい。この場合、人Aにとっては「人Bを拘束する自由(=奴隷にする自由)」を行使している、ということになる。他方において、人Bにとって、この拘束され、奴隷にされている状態は

  • 自由がない

ということを意味する。この場合、国家は、人Aのその「行為」を制限して、人Bの「不自由」を解消することになる。これが、「消極的自由」(なにかからの自由)ということになる。
しかし、ここである疑問がうまれる。人Aは、自分が行った行為を国家によって制限された。これは「不自由」ではないのか?
ここで、自由とはそもそも

  • なんなのか

という命題に意味が生まれる。人Aの行動がここで「制限」されたということは、

  • あらゆる自由を、国民はもっているわけではない

ということを意味しているわけである。国民がもっている自由は

  • なにかの自由

なのである。憲法を見てほしい。必ずこの「自由」という言葉は、こういった形で、制限付きで使われていることに気付くわけである。
私たちが自由という言葉を使うとき、必ず、「何か、ある概念についての自由」という形になっている。例えば、言論の自由と言うとき、この「言論」については、基本的に自由(なにを言ってもいい)ということが認められている、ということになる。
近年、これらの認識に対して「新自由主義」という、一般に経済学の分野で使われるようになった言葉がある。しかし、専門家たちは、一般にこの言葉が「定義なし」に使われていることを嘆いているわけであるが、少し考えてみると、この言葉には少し、おもしろい様相を帯びていると言える。
新自由主義は、グローバリズムの別名として使われる。これはグローバル企業が、まったく税金を払わず、もちろん、相続税も払わず、どこまでも巨大化している様相を示した言葉だと考えられる。
これに対して、例えば、イスラーム法学者の中田考さんは、法人は「偶像崇拝」だと言って、こういったグローバル企業を否定する。よく考えてみるなら、これは昔の日本の「イエ」制度とも同様に、一種の

  • 脱税

の手段になっていると考えられるわけである。こうやって、税金を払わず、どこまでも「巨大化」することは、言ってみれば

  • 国家に対抗する組織

が生成されることになる(というか、そもそも、中田考さんに言わせれば、国家でさえ、偶像崇拝なのだから、法人企業も国家も、信仰に反した、存在してはならない偶像ということになるのだが)。
いくらでも「冨」を蓄積していく存在というのは、なんだろうか? お金があれば、時の政権を

  • 買収

できる。お金さえあれば、あらゆる国家の「政府」を買収できる。国家が「暴力装置」であるなら、こういったグローナル企業が、自らの、あり余るお金で、「暴力装置」を買って、国家に対抗し始めることは、時間の問題であろう。
つまり、

  • グローバル企業は国家を「買収」できる

というわけである。グローバル企業の「暴力装置」が、国家の「暴力装置」を超えれば、そのグローバル企業が国家に代わって「国家」になる。つまり、これはどういうことか?

ということである。先ほど私は、「自由とはなにか」という問いとともに、国家においては、自由は「全体」において認められているわけではない。ある概念に対して、認められているに過ぎない、と言った。ところが、免罪符自由主義においては、あらゆる自由は

  • 買える

ということになる。というか、自由になりたかったら

  • お金を払え

ということになるのである。そもそも国家を維持するにはお金がいる。国家には財産がいる。それを維持するのは、国民の税金である。しかし、この税金を払えない国民をどう扱うのかは、一つの難問である。国民の義務を果たせないのなら、そういった国民が

  • 奴隷

にされることは、「しょうがない」のではないか。これが、新自由主義である。国家はお金がない。国民からお金をかき集めなければならない。つまり、

  • 背に腹は変えられない

わけである。国家はお金がない。国家は自らを維持するためのお金を集められないのだから、国民から奪うしかない。しかし、その奪わなければならない(国家が滅んでしまう)お金を払えない、と言う国民が現れる。新自由主義国家はそれに対して

  • 内蔵を売ってでも払え

と言うわけである。生まれてから死ぬまで、なにも食べないで、お金を節約すれば払える。
これが「新自由主義」である。つまり、新自由主義は、それ以前の「自由」ではない、という意味で「新自由」なのである。
しかし、どう思うだろうか?
ここで言う「新自由主義」は、本当に「自由」なのだろうか? 新自由主義の重要なポイントは

  • 自由になりたかったら「お金を払え」

というところにある。自由は「お金で買うもの」なのである。しかし、お金を払うとは、どういうことだろうか? 私たちが産まれてすぐの赤ん坊において、言うまでもなく、自分の財産なんてない。しかし、本当に財産がないかは別である。つまり、その段階で

  • 相続

している可能性がある。ようするに、最初の話に戻るのである。法人というのは、一種の税金逃れである。相続税の減額も一種の税金逃れである。イスラーム法が均分相続を義務にしているのは、逆に言えば、「イエ」制度の否定であり、

  • 相続の否定

と同じなのだ。大事なポイントはここにある。新自由主義は、

  • 奴隷になりたくなかったら「お金を払え」

というルールである。ところが、産まれたときは、だれでもお金なんてもっていない。ということは、偶像崇拝の「法人」や「イエ」制度的な不平等(長男)相続でも行わない限り、

  • 国民全員が奴隷

と言っているのと変わらないわけである。これが新自由主義の正体である。私たちは、こういった「トレードオフ」を国民に強いてくる鬼畜集団に気をつける必要があるだろう...。