差別はいけないことだと思い込むあほな人々 番外2 どれだけ奪われても、騙されても、奪う人間にはなるな 騙す人間にはなるな 〜アルペンローゼ 

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

前回の番外記事、差別はいけないことだと思い込むあほな人々番外:善人ぶる事に必死な人の思考回路 夢の真昼〜騙すな、そして騙されるな「夢の真昼」 で、「夢の真昼」の主人公、鈴子の母親が、父親のろくでなしっぷりに愛想を尽かすセリフと、「差別をしない良い人なワタシ」に酔っ払うお花畑との思考回路の共通点をご紹介しました。

『あんたのお父さんの口癖は

「騙すより騙されろ」

人を騙すような人間になるくらいなら

騙されて損したほうがずっとマシだ

心が汚れずにすむ」

いつもそんなこと言っちゃ人から利用されて バカを見て

そのたびに妻子は不安のどん底

最後には小さな土地も家も騙し取られて

そりゃ

あの人の心は汚れずにすんだかもしれないけど

こっちの心はボロボロよ

「騙すより騙されろ」じゃなく「騙すな」そして「騙されるな」だと思うわよっていったら

人間はそんなに強くも正しくもないんだよっていうのよ

あの人が守っていたのは自分だけ

家族を守るより

強くも正しくもない自分を守っていただけ

この次は、もう乙武騒動に絡めた障碍者差別の話に行こうかと思ったのですが、これを書いていて、どうも引っかかったことがありまして、再度の番外とさせて頂きます。

冒頭に載せた紹介する書籍は赤石路代作「アルペンローゼ
これまたふるーい漫画です。

ワタシが小学生の頃にハマった漫画ですからして。
以前は全巻持っていたのですが(当然!)現在手元にないので、WIKIで内容確認しつつ、なんですが、正直話しの内容自体は大して私の今回の記事とはあまり関係ないので、例によって大したあらすじはありません。
よろしければWIKIでググってくださいませ。

前回の「差別〜」を書いていて、記憶の底から蘇ったセリフ、それがサブタイトルに挙げたセリフなのです。

ざっと話の背景を説明しますと、舞台は第二次大戦前夜。
ナチスドイツが台頭してきた時代。
主人公のジュディは、ナチの反対運動をしている父親、スイスのアンリ・デュナンの子孫であるデュナン家のお嬢様の母親とナチの追手から逃れて飛行機で移動する際、飛行機が墜落、一家離散、ジュディはそれ以前の記憶を失ってしまい、花畑に倒れているところを、もう一人の主人公、後の恋人→夫となるランディに助けられ、当時すでに両親がなくなって、叔父夫妻の世話になっていたランディの叔父夫妻のもとで居候することになります。
この、ランディとジュディというのが、一見、鈴子の父親のようなお人好しなんですが、鈴子の父親に感ずるような、このお花畑が!という嫌悪感がこの二人にはわきません。
紆余曲折あって、ジュディとランディは叔父夫妻の元を逃げ出し、ジュディの両親を探す旅に出ます。
〜途中経過すっとばし〜
両親と再開を果たし、ジュディの母方の祖父母と暮らすようになり、ランディは叔父夫妻の元を訪れてその旨つげ、医師であった父の遺品だけ回収してこようと、ジュディの祖父と、かつての家を訪れるのですが、なんと強欲叔父夫妻は、ランディが受け取るはずだった父の遺産をネコババこいてどこぞに遁走済みでした。

ジュディの祖父は熱血正義感の熱い人で、ひとしきり叔父夫妻を罵倒し、
「悪いがランディ、君の叔父さんは君とは全く別の人種のようだな!ぷんすか!」と憤慨します。
そして、父の身の回りの、金になりそうにない本などはその辺に放り投げていってあり、父の大切なものはあったからいいんです、と笑う、全く憤る様子のないランディに、言うのです。
「ランディ、怒ったって、憤ったっていいんだよ。それで当然だ」
(すみません、セリフうろ覚え)
そこでたしか、この回想がはいるんです。
ランディの父は、アフリカかどっかの無医村でほぼボランティア状態での医者をやっていたのですが(たしか)
小さなランディに、言い聞かせる場面がでてきます。

いいか、ランディ。
たとえ何度騙されようと
たとえ何度奪われようと
お前は、
騙す人間にはなるな
奪う人間にはなるな

この後、もっとなにかいいセリフがあったような気がしたのですが、忘れました。
このセリフも、一言一句正確だとは言えません。
(全巻セット買おうと思ったら、正価以外品切れで。。さすがに、過去全巻持ってたのを再度正価で買うのは主義に反するw)

一見、前回の「夢の真昼」の父親の言っていることと同じに聞こえますね。

「騙すより、ダマされる方がマシだ。心が汚れずにすむ」

けれど、鈴子の母がいみじくも喝破したように、彼が守っていたのは、ちっぽけな、人から「意地悪な人と思われたくない」という虚栄心と、揉め事になるくらいなら自分が損をすれば面倒がない、という、ものぐさの奴隷根性の、「強くも、正しくもない」自己保身だけです。

ランディの場合はどうか。
ランディの父親も、お人好しで、人に騙されること、裏切られることが多く、貧乏だったそうですが、ランディも、その母親も父親を尊敬し、大好きだった、という設定になっています。

この差はどこからくるのか。
というのが、引っかかったところなのです。

私にしても、鈴子の父親に対する評価は、彼の元妻の評価と同じです。
けれど、ランディの父親への評価は、やはり、ランディの評価と同じなのです。

で、つれづれ考えて見るに、その差はさっくり判明しました。

同じ行動をとったとしても、その動機がちがう。
鈴子の父親が「騙すよりダマされる方がまし」なのは、己の虚栄心を守るため、面倒事を避けるため
ランディの父親が「騙されても、奪われても、騙すな、奪うな」と言っているのは、なにも「騙されたり、奪われたりするのがマシ」だと言っているのではない。
騙したり、奪いに来たりする自分より強い人間に唯々諾々と、揉め事を避けるために従ったりはしない。
ランディとジュディにしても、自分も顧みず困っている人を助けてしまって、自分たちがさらなる窮乏へ、と言うことは多々あったにせよ、自らに振りかかる、不当な事柄にははじめからきちんと「NO」を突きつけ、実力行使で戦っています。
人と衝突するのが嫌で、ホントは嫌なのにへらへら良い人ぶって言いなりになったりする、奴隷根性からではないのです。

ランディの父親が、ランディが、騙されても、奪われても、奪う側に、騙す側にならない、と言っているのは、鈴子の父親と違って、「虚栄心」ではなく、「自尊心」を守るためです。

よく、韓国人をして「自尊心が高すぎて〜」なる妄言を吐く人がいますが、あいつらに「自尊心」なぞ持ちようがありません。
あの連中にあるのは、というか、「持つことができるのは」「虚栄心」のみ。
「自尊心」を持つには、資格がいるのです。
守るだけの価値のある、「人格」、自らを尊ぶことができると、認識するに足る「事実」がなければ、それを自分自身の努力で、「事実」として積み上げなければ、自尊等持ちようがありません。
連中には自らを尊ぶ理由となる「事実」が全くないのですから、「自尊」しようがない。
もちろん、誇るべきどころか、恥ずべき歴史しか持たない、半万年属国で、誇るべき文化は何一つなく、それどころか強姦だの嘘吐きだの、事大主義だの、女性蔑視だの、児童強姦だの、抵抗できない力の弱い老婆のほうが強姦するのに楽だからと80すぎの老婆を強姦するのがごく普通だの、精神障害者は近隣住民に必ず性処理要因として満足に話せないのを良い事に強姦されているのが100%だとか、離婚した後子供を押し付けあって引き取らず、自国の養護施設で育てるには社会保障費が足りないので金をとって外国に自国の孤児を売り飛ばして先進国だとほざくとか、満足に字も読めないのが国民の殆どなので、建設工事も満足に進められず、ケンチャナヨ精神で作ったありとあらゆる建造物が、なにもしないのにいきなり崩壊して大量の死者をだすとか、海外にまでケンチャナヨ精神とを持ち込んで日本の受注をありえない安値で横取りした挙句、作ったものは半年で崩壊するとかとかとか etcetc・・・・

過去にさかのぼって、自尊心の元になるような守る価値のある「事実」が一個もないとしても、そういう、辛い事実から目をそらさず、これから自分は誇りうる韓国を建設するのだ、という自覚とそのための努力をしている、という「事実」があるのであれば、それを守るべき元として「自尊心」を持つことができるんですけどね。

あの精神病患者なデフォルトな国民じゃ、まあ無理だろうなあ。
現実を知っている韓国人が、このインターネット社会で、いないとは言わないけど、現実社会で、ウリナラファンタジーはファンタジーだといえる人間は、今のところほぼ皆無だからなあ。
今の段階で、ウリナラファンタジーは嘘だと、どこまでも自説を曲げずに主張した日には、100%の確率で、日本国旗の上でバラバラに解体された記事と同じ運命を公道の上でだどる事になるだろうしなあ。

むりやり自分を誰かに向かって粉飾して偉そうに見せようとする場合、それは自尊心ではなく、偽り、虚ろな虚構を自らの人格に貼り付ける、虚栄心を高める結果にしかなりません。

またぞろちょっと脱線しました。元に戻してっと。

騙されようと思って騙されるのではない、奪われるのを唯々諾々と承知するわけではない。
不当な扱いには自らの尊厳をかけて戦う。
たしかに自分はお人好しで、だましにかかってくる人間を見ぬくことができず、結果騙され奪われ、ということが多いかもしれない。
けれど、自らは、そのような情けない人間と同じようなものにはならない。
自分は、騙されようと、奪われようと、それで心くじけ、他人にそんな目に合わされたのだからと、自分だって同じ事をする権利があると、騙し、奪うことを正当化する、情けない人間にはならない。

ランディの父親なら、妻に、「騙すな、そして騙されるな、だと思うわよ」
といわれて、「人間はそんなに強くも正しくもない」などと、自分の腰抜けや、あっさり騙されたあほな自分を正当化するようなことは言わないでしょう。
「そうだね、迷惑かけてごめんね。もうすこし、賢くならないとね。」
きっとこう言って、「しょうがないわね、あなたは。」とかやさしく言う妻と子どもと一緒に笑い合うことでしょう。


ああ、ランディの父親と似たタイプをもう一人、思い出した。
摩利と新吾」の主人公、「新語」

彼は、ランディの父親とは性格がちょっと違いますが、ジュディの祖父のような熱血正義感に、ランディの父親のようなお人好しが加わった感じです。

彼の父親もそういえば医師で、自らも医師になるのですが、父親が、知り合いの男が事業資金に行き詰まって苦しんでいるのを、保証人になってしまい、挙句その保証人になっていた男はトンズラ。
で、事故で両親がなくなった後、借金取りがやってきて、自宅を差し押さえてしまう。
それまでも、さんざんお人好しであることを揶揄されつつも、それが故に皆から愛されてきた新吾ですが、売りに出された自宅を購入した先輩に、蒸発してしまった男の行方を突き止めようとはしないのか、と問われて、言います。
「いいんです。追い詰めたら、恥に思って一家で無理心中するかもしれない」
きっぱりと言い切る、お人好し新吾を愛しつつ、ついからかいたくなる、先輩。
「わからんぞ。してやったりと舌を出しているかもしれない」
新吾答えて曰く
「そうだったら、その時どうするか考えます(少なくとも、どちらかわからないなら、その男を追い詰める真似はしない)」
結果として、蒸発トンズラ男は、敬愛する新吾の父親に申し訳なさのあまり、恥じて遁走していたことが後にわかり(というか察せられる)、夢殿先輩は、
「新吾に教えてやらなければ。お人好しのお前のカンがあたったらしいとな」
と、嬉しそうにする場面が出てくるのですが。
新吾は、医者のお坊ちゃまから無一文の貧乏学生になって、しばらく放浪の旅に出て、下層の庶民の中で生活し、そのスレた、世知辛い、扱いの洗礼をどっぷり受けます。
その中をくぐり抜けてなお、彼はお人好しである自分を肯定し、迷いなく、自分の父親の財産を結果として騙し取ることになった男を、許してやる言葉さえ言える「人物」となっています。

彼は確かにお人好しなのですが、彼を、お人好しなのだから、口先三寸でだまくらかしてやろう、と思う人間はあまりいないでしょう。
彼の「人物」に感じ入って、自らの卑小さが自分に突き刺さり、コソコソ逃げ出すのが落ちだと思います。
仮に、ろくでなしが、新吾やランディの父親のような「上等の人格」オーラに負けず、頑張ってだまくらかしてやったとしても、彼らはそういう、人を騙し、奪う、下等な人間」を憐れみこそすれ、そのような卑小な存在相手に「復讐」心を向けるという「関心」を持ってはくれません。
すなおに、「助けてくれ」と言えば、あらん限り力になるのに、なぜそんなことをするのか。
サンバガエルのメスはなぜオスの背中に卵を生んだ後どっか行っちゃうのか、人間には分からないのと同じように、現象として認識することはできても、その思考回路は理解できないのでしょう。
以前もどっかに書きましたが、トイレットペーパーを公共の場所からこそこそ盗っていく人間や、他人の携帯を盗み見ることをためらわない人間の思考回路が、そんなことをするなんて思いもつかない人間には理解不能であるのと同じです。

結果、たまさかろくでなしと係ることがあったとしても、新吾のような人間は、回りにいる人間が新吾の人格と同じ階層にいる人間ばかりになり、騙されるようなこともなくなる、という結果におちつくのでしょう。

ボウフラが湧くのはよどんだ場所であり、あゆが住むのは清水の川であるように、棲息する場所が違う生き物は、何かの間違い、偶発事故でもない限り邂逅することはないからです。
新吾のように、父親の不慮の死、夜逃げした保証人などの「事故」によって、うっかりドブ川にハマる事になっても、ドブ川に染まらないだけの力が本人にあれば、自然と清水の川にもどっています。
そして、清水の川にはドブ川でしか生きられない魚はやってこれない。

鈴子の父親のような人間は、繰り返し何度も何度も、ロクでもない悪人の餌になります。
なぜなら、彼が住むところは、そういう連中がアクセスできる階層だからです。
好き好んで、彼がそういう場所に居続けているから、そういう目に合うのです。

「私はそんなこと思っていない、私だって、もっとマシな人と付き合いたいと思ってこんなに努力している」

といったたぐいのことを言う人間が多いのですが、この手の人間は、自分がやっている努力というのが、例えるなら穴の空いた柄杓で水をすくって、ちっともバケツに水はたまらないのに、自分はこんなに努力していると主張していることがほとんどです。
やれば成果が上がる行動を積み重ねることが「努力」であり、その行動をもっと効率よくできないかと考えたり、うまくいかないなら他の手はないのかと改良したりすることが努力で、やっても全く効果がないことを、自分は努力していると主張したいがために全く改善することもなくただ繰り返して報われないと喚くことは努力ではありません。

私は差別はしない、などとことさらに大声で主張する人たちは、「不当な」差別に憤っているというより、「差別をしない、良い人な私」をみて、褒めて、人格者だと讃えて!

と、周りの人間の「評価」を求める、「強くもなく、正しくもない」鈴子の父親のような人間がほとんどです。
それは、「不当な」差別をされている人間への「思い遣り」から人間として「不当」な差別を受けている人間に共感し、同情し、自らのみにもその「不当」な差別による不利益が降りかかったとしても共に戦う、という覚悟をすののではなく、自分の虚栄心を満たす「餌」として他人の不幸な状況を悪く言えば「利用」・・というより、虫が腐肉にたかるように、「たかって」いるのです。

だから、かつての薬害エイズ運動での、厚生省への抗議行動運動の連中のように、「不正を正すために戦うワタシ」に酔ってしまい、もはや戦うべき問題が解決しても、故意にそれを長引かせようとしたりする。
「不当な」差別とは言えない差別を「不当な」差別だと喚いて、「差別と戦う高尚なワタシ」という、美味しい餌を得ようとする。

これもいわゆる「共依存」の一種ですね。

私は自分自身が、ものすごく性格の悪い、悪知恵のまわる、「良い人」とはかけ離れた人格であるため、正直言って、ランディやジュディ、新吾のような人間にものすごく弱いのです。
私のような性質の人間は「摩利と新吾」にも書かれていたように、新吾のような、自分からかけ離れた人格を持った人間を、心の底で熱烈に愛し求めながら、それを認めると自分を全否定されたような気持ちになることを恐れて、排斥するか、ひたすら愛するか、どちらかになりがちです。

そして、悪知恵が周り、性格が悪いが故に、周りから「良い人」呼ばわりされていたとしても、鈴子の父親タイプの人間は、それこそ一言二言会話しただけで「良い人」とは別のシロモノだと見ぬいてしまいます。

そして、そういう人に、手を差し伸べようとは思わないんですな。
器が小さいのです。
はあ。わかってるさ。
自分の器でできることをとりあえずは精一杯やるしかありません。器以上のことをしようとすると、破綻しますからね。
それこそ、鈴子の父親のように。

番外で、さっくり終わらせるつもりだったのですが、例によって長文になってしまいました。
けれど、自分の中で思いがけず浮かんできた、過去の読書の文言が、現在の新しく感銘を受けた文言と関連付けて浮き上がり、漠然と形作っていた「差別」をしないワタシ、に酔っ払う花畑への嫌悪の理由を明確にできて、スッキリ致しました。

読書って、ほんとーに、ほんとーに、たのしいですね♡


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ