尾道千光寺山からの眺め

千光山城と木梨杉原氏
尾道に来て千光寺に参拝しない観光客はまずいない。
それほど市街地の背後に建つ千光寺の赤いお堂は尾道の象徴だ。
この寺に参拝するには、健脚の方だったら尾道古寺めぐりの案内に従って下から「登る」、そうでない方や時間のない方だったら尾道名物「ロープウェイ」を利用する。
いずれにしても、千光寺に参拝したら、背後の「千光寺山」に登って(ロープウェイ利用の場合は逆になるが…)、尾道水道から瀬戸内海の景色を眺めることになる。
この千光寺山に城が築かれたのは天正十二年(1584)のことと伝わっている。
千光寺山公園の建設で城の遺構はほとんど失われているが、山頂周辺に残る平坦地は城の「曲輪」の跡と見て良いし、山頂から東北に伸びた尾根上は段々に削平され、城郭の遺構をよく残している。
東北の稲荷神社から東に一段下がった曲輪には「八畳岩」と呼ばれる巨石があり、櫓の柱穴と考えられる人工的な窪みが残っている。
この地に築城したのは中世この辺り一帯の領主であった木梨杉原氏である。
繰り返しになるが、杉原氏は宮氏と並ぶ備後の大豪族であった。
始祖を伯耆守平光平(たいらのみつひら)という。
光平は鎌倉幕府に仕え、備後国杉原保地頭職を拝領した。
杉原保は今の福山市丸の内から本庄町一帯の地で、光平はこの地を「苗字の地」として「杉原」を称した。
備後に土着した杉原氏は芦田川河口の杉原保と上流で国府のあった府中に城を構えて備後南部に大きな影響力を持った。
府中の城を「八尾城」といい、杉原保の城を「銀山城」という。
南北朝の内乱では杉原一族も分裂した。惣領家の光房・親光が尊氏と対立した足利直義・直冬に味方したのに対し、庶家の信平・為平兄弟は一貫して尊氏に味方し、建武元年(1334)には備後国木梨庄・本郷庄(尾道市北部一帯)地頭職を、観応二年(1351)には同福田庄高須(尾道市高須町)の地頭職を獲得して惣領家を凌ぐ勢いとなった。
信平は木梨に鷲尾山城を築いて木梨杉原氏の祖となり、弟為平も木梨庄半分地頭職を保有して庄内「家城」に本拠を置いた。後為平の後裔は山手銀山城(ふ福山市山手町)に本拠を移し、更に神辺城主となって備後南部に覇を唱えた。
神辺城主杉原播磨守盛重こそ、為平六代の孫であった。
杉原氏と尾道の関係は古い。
南北朝の内乱で尾道浄土寺に「利生塔」が建立されることになると、惣領家の光房、庶家の信平・為平共に幕命を受けて、境内に乱入した悪党排除のため力を尽くした(浄土寺文書)。
だか、室町時代に入り守護山名氏が大田庄を請地として支配し、尾道に守護所を置くと、杉原氏の勢力は一時尾道から駆逐された。
16世紀に入り山名氏の勢力が衰えると木梨氏の勢力が再び尾道に侵入するようになった。
前回紹介した丹花城はこの木梨氏が尾道に確保した橋頭堡だったと思われ、木梨氏勢力の伸張と共に尾道は木梨氏の勢力下に入ることとなった。
繁栄した港町や市場町支配下に置くことほど大名勢力にとって美味しい「旨み」はない。
港では入港する船に「帆別銭」や「駄別銭」が課税された。
一艘一貫文として年間千艘入港すれば千貫文だ。
町屋も間口一間の「地口銭」を百文として、千間で百貫文となる。
尾道の場合、富裕な商人に「有徳銭」という臨時税を課すことも出来たから、木梨氏は尾道支配下に置くことによって莫大な富を手に入れたことになる。
伝木梨元恒墓(西国寺)

その支配の拠点として築かれたのが千光寺山城であった。
時代は天正十二年というから、城郭が総石垣、白壁瓦葺の時代に突入している。
この城も時代相応の立派な城になるはずだった。
ところが、尾道の支配を狙っていたのは木梨氏の属した毛利氏も同じであった。
毛利氏は強権を発動して、木梨氏を潰し、尾道を自己の直轄地とした。千光山城は完成を見ずに廃城となった。
天正十九年(1591)のことであった。