世界が逆に回転する

AA略です。ごめんなさいDTB一期のOPネタです。未だにあのAA見ると吹く。覚醒ヒロイズムかっこいい。以下、それとは全く関係ないいつもの民主主義のお話。


Opinion & Reviews - Wall Street Journal

 「ファシズムの暗い夜は常に米国に忍び寄るが、それが実際に訪れるのは欧州だけだ」。作家トム・ウルフの1965年の言葉は現在にも当てはまる。

 世界貿易センター跡地(グラウンド・ゼロ)から2ブロックの場所でのイスラム・センター建設計画に少なからぬ米国人が反対していることについて、根の深い宗教的偏狭とパラノイアの表れだと各方面のコメンテーターが論評している。しかし、偏狭が増幅している場所があるとすれば、それは米国ではなく欧州、つまり米リベラル派がその福祉国家や平和主義を絶賛してきた大陸の方だ。

Opinion & Reviews - Wall Street Journal

なんというか、こいつらまたやってるよ、という感じです。アメリカとヨーロッパのリベラル自慢合戦。伝統の一戦です。


移民問題はともかくとして、宗教摩擦についてはこの日記もうこれまで何度も書いてきたように、結局の所どちらも方法論の問題でしかないと思うんですよね。だから少なくともその点においてはどちらが正解かは、未だ結論を出す事はできない。
アメリカがまさに9.11以後イスラムとの宗教戦争について真面目に考え始めたように、しかしヨーロッパはもう宗教戦争について数百年以上考え続けてきたんだから。カトリックプロテスタントの宗教摩擦はそれこそ500年近く(それより以前に分派したものも合わせればもっと)、もうずっとヨーロッパ諸国ではクリティカルな問題だったわけで。よく批判されるフランスなんて、ユグノー戦争とか、もうずっとドロドロだった。しかも未だに現在進行形な所さえある。
そうしたヨーロッパのやり方・厳格な政教分離を一言で、不寛容である、なんて片付ける事できないです。

寛容との限界というよりは、合理的であることの限界がやってきた世界

さて置き、勿論かと言って世界規模で巻き起こっている移民問題等も同じ説明ができるわけではない。
結局の所、それが突きつけているのは民族主義な人の言う所の「国家の一体性」*1であり、より穏当な言い方をすれば「共通の文化的価値観」への挑戦であると思うんです。
以前ラインホルド・ニーバーの「人間の善なる部分が民主主義を可能にし、悪なる部分が民主主義を必要とする」という言葉を引用したけれど、その善の意味する所はぶっちゃければ「合理性」ということなんですよね。


私たちはふつう、民主主義においてお互いが合理的に振る舞うだろうとお互いに確信に近い予測を抱いている。
しかし最低限のそうした「共通の文化的価値観」が無いとしたら、一体何がそうした合理性を担保するというのだろうか? そしてその前段階として起きているのが「あいつらは民主主義という政治システムの元で、本当に、合理的に振る舞うのか?」という懸念であると。
それは相手側の合理性への信頼性の不安であると同時に、自分自身らの側の不安でもあるんです。それは「私たちは彼らを受け入れた後でも、私たち自身もこの先、合理的に振る舞う事ができるだろうか」とも不安に思っている。
それは単純に相手側への問題であるし、しばしば、自分たちの問題でもある両面的な話である。異邦人も心配であるけれど、しかし不合理な過激な反発をしてしまいそうな自分たちの側も恐ろしいと。


つまるところ、現在起きているような出来事の多くはそんな自信の無い国民たちの、より温和な自己防衛反応だと思うんですよね。単純に排斥しようとする末期的な動きというよりは、今後はその流入を制限していこうという予防的行動。まぁそれさえもぶっちゃければ「不寛容」の一言で切り捨てられてしまう話ではあるんですけど。
後になって本気の暴動*2が起きてから後悔するよりは、「まだ」マシな選択なのかなぁと個人的には思いますけど皆さんいかがお考えでしょうか?

*1:キルギス議会でつい先日第一党となった民族主義なアブディルダエフ代表の言葉「外国移民から国家の一体性を守る」

*2:フランスのパリ暴動とか、この前のキルギスの騒乱とか